第16話:張りぼての楽園と、新たな影
カタカタカタカタ……。
静まり返ったオフィスに、小気味良いタイピングの音だけが響いている。
『黒田課長が「懲戒解雇」という名の社会的な死を迎えてから、早いもので一ヶ月が経った』
佐々木奈緒は、手元のデュアルモニターから視線を外すことなく、心の中で静かに現状を反芻していた。
かつてこの部署を支配していたモラハラ上司、黒田。
彼は専務の娘との婚約を破棄された上、数々のハラスメントと不正の証拠を突きつけられ、会社から完全に姿を消した。
そして今、奈緒の目の前に広がるのは、息を呑むほどに平穏な光景である。
「あ、あの……佐々木さん。こちらのデータ入力、終わりました……。次、何かやることはありますでしょうか……?」
おずおずと、まるで怯えた小動物のような声で話しかけてきたのは、後輩の美香だ。
かつてはSNSに熱中し、奈緒に仕事を押し付けては定時で帰っていた彼女だが、今は見る影もない。
奈緒はキーボードを叩く手を止め、完璧な営業スマイルを浮かべて振り返った。
「ありがとうございます、美香さん。とても助かります。では、次はこちらのファイリングをお願いできますか?」
「は、はいっ! すぐにやります! 完璧にやります!」
美香はひったくるようにファイルを受け取ると、逃げるように自分のデスクへ戻っていった。
その隣では、同期の田中が、血走った目でひたすら単純作業の伝票整理をこなしている。
『ふふっ。素晴らしいわ。見事なまでの従順な駒たち』
彼らは、黒田の誘導で奈緒を追い詰める事に加担してしまった結果、奈緒の反撃によって会社に処分される結果となった。
会社には残れたものの「減給処分」となり、さらに黒田の懲戒解雇に奈緒が関与していると確信した彼らは、今や奈緒の機嫌を損ねないよう、与えられた雑務を必死にこなすだけの存在に成り下がっていた。
「いやぁ、今日も我が部署はスムーズに回っているな! 佐々木くん、これも僕の的確なマネジメントの賜物だね!」
呑気な声を上げて近づいてきたのは、元課長であり、現在はヒラ社員に降格している佐藤だ。
『ええ、そうですね。あなたが“的確”に私の作成したマニュアル通りに動いてくれているおかげです』
内心で冷たく毒づきながらも、奈緒の顔に浮かぶのは、柔らかく従順な笑みだ。
「はい、佐藤さんのおかげです。いつも的確なご指示、ありがとうございます」
「ははは! まぁ、何か困ったことがあったら、いつでもこの僕に言うんだよ!」
降格している事を忘れてしまったのか、佐藤は「自分が優秀なリーダーとして部下を回している」と勘違いしている。
面倒な責任は負わず、プライドだけは満たされる。彼にとってもここは居心地が良いのだろう。
お局の市川も、すっかり大人しくなり、今はただ黙々と定時まで息を潜めているだけだ。
『誰も私に逆らわない。誰も私に理不尽な仕事を押し付けない。私が完全にコントロールできる、無能たちの楽園』
完璧だった。
この張りぼての楽園は、奈緒にとって極めて快適な職場環境となっていた。
——今日、あの男が現れるまでは。
***
「本日付けで、こちらの部署に配属となりました、影山です。中途採用ですが、一日も早く皆様のお役に立てるよう頑張ります。よろしくお願いいたします」
朝礼の場に響いたのは、爽やかでよく通る声だった。
新しく配属された影山(28歳)は、清潔感のあるスーツを身に纏い、人当たりの良さそうな好青年の笑みを浮かべていた。
「おお! 影山くん、よろしく頼むよ! 期待の即戦力と聞いているからね!」
佐藤が嬉々として握手を求める。
影山は嫌な顔一つせず、深くお辞儀をして佐藤の手を握り返した。
「ありがとうございます、佐藤さん。先輩方から色々と学ばせていただきたいと思っております」
その完璧な受け答えに、オフィス全体が歓迎の空気に包まれる。
田中も美香も、新しい風に少しだけホッとしたような表情を見せていた。
しかし、奈緒だけは違った。
『……何かがおかしい』
奈緒の観察眼は、影山の些細な違和感を見逃さなかった。
笑顔の奥にある、笑っていない目。
佐藤と握手をした直後、スーツでこっそりと手を拭うような微細な動作。
そして何より、挨拶を終えた彼が、こちらに向かって歩いてきた時のことだ。
「佐々木さんですね。お噂はかねがね。部署の要として大活躍されているとか。これからよろしくお願いします」
影山は奈緒の前に立ち、真っ直ぐに目を見てそう言った。
『……お噂?』
奈緒は微笑みを崩さずに会釈した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。影山さん。わからないことがあれば、何でも聞いてくださいね」
口ではそう言いながら、奈緒の脳内では微かな警鐘が鳴っていた。
彼は「部署の要」と言った。 入社したばかりで何も知らない影山からすれば、この部署のリーダー格は佐藤だと思うのが自然であり、何らかの噂を聞いたとしても、奈緒は「優秀な事務職」と認識するのが妥当である。 影山は、なぜ奈緒が実質的にこの部署を回していることを知っているような口ぶりをしたのか……。
午後。
奈緒は自分のデスクで作業をしながら、斜め後ろの席に座る影山の様子を、モニターの反射を利用して観察していた。
影山の仕事は確かに早い。
ブラインドタッチの速度、エクセルのショートカットを駆使する手つき、どれをとっても一流だ。
奈緒は念のため、以前の騒動の際に自作して密かに稼働させている、社内ネットワークの簡易監視ツールを立ち上げた。
影山のPCからのアクセス履歴が、リアルタイムで流れていく。
『……完璧ね。与えられた業務に必要なフォルダ以外、一切開いていない』
過去の稟議書や、黒田の懲戒解雇に関する人事通達など、野次馬根性で覗き見したくなるようなファイルには目もくれない。
彼のアクセスログは、あまりにも綺麗すぎた。
『もし彼が、私を陥れるために本社の上層部あたりが送り込んできたスパイなのだとしたら……。いや、もし彼を裏で操る黒幕にそれなりの権限があるなら、一般権限で閲覧できる共有フォルダの情報なんて、彼が入社する前にとっくに引き出して分析し終わっているはずよね』
彼が何者だとしても、わざわざ入社初日に、自分のPCから堂々と怪しい動きをするはずがないのだが、この完璧すぎるほどの業務態度こそが、彼がただの「優秀で真面目な中途社員」であることを証明しているようにも思えた。
『私の考えすぎかしら。新しい環境に警戒しすぎているだけ……?』
結局、影山に対する「誰かの差し金かもしれない」という疑念は、奈緒の中で消えることはなかった。
時折、モニター越しに映る影山の視線が、奈緒の背中に向けられているのを感じていたからだ。 それは、単なる好奇心で先輩を見つめる視線ではなく、獲物のわずかな隙を探り出そうとするような、どこか冷徹で値踏みするような視線に思えた。
『……警戒するに越したことはないわね』
奈緒はマウスを操作し、念のため影山のアクセスログを静かに自分の隠しフォルダへと保存した。
***
金曜日の夜。
新橋の路地裏にある、古びた赤提灯。
ガラガラ、と引き戸を開けると、香ばしい焼き鳥の匂いと、大将の威勢の良い声が奈緒を迎えてくれた。
「おう、奈緒ちゃん! いらっしゃい! 今日も一週間お疲れさん!」
「こんばんは、大将。今日も疲れました……」
奈緒は完璧な「微笑みの仮面」を外し、ふぅ、と長い息を吐きながらいつものカウンター席に腰を下ろした。
「大将、いつものお願い」
「あいよ! 白ホッピーとモツ煮込み一丁!」
すぐに運ばれてきたジョッキ。
焼酎とホッピーの黄金比率で割られたそれを、奈緒は躊躇うことなく喉に流し込む。
「……っかぁー! 沁みる……」
「へへっ、相変わらずいい飲みっぷりだねぇ、お嬢ちゃん」
隣の席から、新聞から顔を上げた初老の男――ゲンさんが、目を細めて笑いかけてきた。
競馬新聞と赤ペンを握りしめたただの酔っ払いのオッサンにしか見えないが、彼こそが奈緒の強力な裏の協力者、凄腕のフィクサーである。
「ゲンさん、こんばんは。今週の調子はどうですか?」
「さっぱりだ。どうも最近は、大穴が来なくていけねぇ」
ゲンさんはそうボヤきながら、奈緒の顔をジッと見た。
「で? 今日はどんな厄介事が起きたんだい? いい感じに回ってたお前の『無能たちの楽園』に、ヒビでも入ったか?」
さすがはゲンさんだ。
奈緒は苦笑しながら、バッグから一枚のメモを取り出し、カウンターの上を滑らせた。
「……中途採用の新人です。名前は影山。28歳。仕事は完璧、愛想も完璧。……完璧すぎるんです」
ゲンさんはメモを手に取り、そこに書かれた影山のフルネームと生年月日、そして奈緒がこっそり抜き出した社内IDの情報を一瞥した。
「ほう。完璧すぎる、ねぇ」
「ええ。念のため社内ネットワークのアクセス履歴も監視してみたんですが、本当に与えられた仕事のファイルしか開いていない。過去のトラブルや人事情報なんかには一切アクセスしていないんです」
奈緒はホッピーのグラスを指でなぞりながら、少しだけ首を傾げた。
「もし彼が、私を陥れるために上層部の誰かが送り込んだスパイなら、一般権限で読めるようなファイルは入社前に黒幕が引き出して共有しているはずですから。わざわざ社内で怪しい動きをする必要がない」
奈緒はそこで言葉を区切り、ゲンさんを見つめた。
「だから、彼がただの『仕事熱心で優秀な新人』ってだけの可能性も高いんですけど……。でも、どうも彼が私を見る目が引っかかるんです。念のため、彼のことを少し洗ってみてくれませんか?」
「なるほどな。お嬢ちゃんの勘はよく当たるからな」
ゲンさんはメモを小さく折りたたみ、胸ポケットにしまった。
「了解した。ただの真面目な新人クンか、それとも裏に『デカい蜘蛛』が潜んでるのか……。経歴、交友関係、金の流れ、少し深めに探ってみるか。ボロが出るようなら、すぐにお知らせするぜ」
「助かります、ゲンさん」
奈緒はパッと表情を明るくし、残りのホッピーを飲み干した。
「さて、向こうがただの新人なのか、それとも私に牙を剥くつもりなのかはわかりませんが……」
『もし、私の築き上げた完璧な楽園を壊そうとするなら――その時は容赦しない』
「――私は来週も、完璧な事務職OLとして、笑顔でお迎えするだけです」
空になったジョッキをカウンターに置き、奈緒はふんわりと、しかし底知れぬ凄みを含んだ笑みを浮かべた。
赤提灯の喧騒の中、新たな戦いの火種が、静かに燻り始めていた。




