第15話:無能たちの時限爆弾と、完璧なオフィスの完成
月曜・午前9時:王の不在と、増長する無能たち
嵐のような金曜日から週末が明け、月曜日の朝。
営業部のフロアは、一種の異様なざわめきに包まれていた。
「えー、皆さんに報告があります。黒田課長ですが、一身上の都合により、本日付けで急遽退職することになりました。当面の間、課長職は私が兼務します」
朝礼で営業部長から発表されたその言葉に、社員たちは顔を見合わせた。 『一身上の都合』。それは表向きの理由に過ぎない。実際には、金曜日の夜から監査部と法務部による徹夜の取り調べが行われ、懲戒解雇に向けた手続きが水面下で進められているはずだ。
「えっ!? 黒田課長いなくなっちゃうの!? 嘘でしょ、ぴえん……」
美香が、大げさに目を潤ませてスマホの画面を見つめている。
「マジかよ……せっかく俺のやり方を評価してくれてたのに。またあの口うるさい佐々木の天下に戻るのかよ」
田中が、舌打ちをしながら私のほうを忌々しそうに睨みつけた。
彼らはまだ、自分がすでに地雷原のど真ん中に立たされていることに気づいていない。黒田という「絶対的な庇護者」が消えた今、彼らが私に押し付けてきた業務の数々は、彼ら自身の首を絞めるだけの『時限爆弾』へと変わっているのだ。
「おはようございます、田中くん、美香ちゃん。今週も頑張りましょうね」
私は、この世で最も優しく、そして冷酷な微笑みを浮かべて二人に挨拶をした。
月曜・午前11時:田中の大クレームと、エビデンスの刃
最初の爆発は、午前十一時に起きた。
営業部のフロアに、田中宛ての電話がけたたましく鳴り響いた。電話を取った若手社員が、顔面蒼白になって田中に受話器を差し出す。
「た、田中さん……! 大手クライアントの〇〇商事様から、ものすごい剣幕でお電話です! 先週金曜日に送った見積もりのケタが一つ違っていて、さらに他社の機密情報が入ったファイルが誤添付されていると……!」
「はあ!? なんだそれ!」
田中が慌てて電話に出る。しかし、先方の怒りのボルテージは最高潮に達しており、フロア中に響き渡るほどの怒声が漏れ聞こえてきた。
数分後、電話を切った田中は、額に大量の脂汗を浮かべ、血走った目で私のデスクへと突進してきた。
「佐々木ぃっ!! お前、金曜日に俺が頼んだ見積もりと顧客リスト、どういうことだ!! ケタが違ってるし、別の会社のデータが添付されてただろ!! お前のせいで大クレームだぞ!!」
田中はフロアの全員に聞こえる大声で私を怒鳴りつけた。
周囲の社員たちが、何事かとこちらに注目する。
私はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと立ち上がった。そして、怯えるどころか、完璧に澄み切った声で答えた。
「田中くん。私は金曜日の午後三時に、あなた宛てに『内容確認のお願い』というメールを送信しています。……こちらの画面をご覧ください」
私は手元のモニターを田中に向けた。
そこには、金曜日に私が送信したメールの文面が、はっきりと表示されていた。
『田中様。ドラフトを作成いたしました。私は現在、月次の決算処理や△△のデータ化など(※膨大な業務ログを添付)の業務に追われており、これ以上のディテールを詰める時間が取れません。最終的な内容確認と、添付ファイルのチェック、先方への送信は、担当者である田中くんの責任でお願いいたします』
「なっ……」
田中の顔が引きつった。
「私は膨大な業務を抱えていたため、『私にはディテールを詰める時間がないので、必ず担当者であるあなたが確認して送信してほしい』と明確にお伝えしました。あなたはそれを碌に確認もせず、丸投げされたものをそのまま先方へ転送したのですね?」
「そ、それは……っ! お前が最初から完璧に作っておかないのが悪いんだろ!! いつもはちゃんとやってるくせに!!」
見苦しい。あまりにも見苦しい自己保身だ。
私は、胸ポケットからペン型ボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
『佐々木さんは暇してるし、職場の空気ばかり乱すから、せめて雑用くらいはやらせておけ。あいつはミスばかりするから』
静かなフロアに、金曜日に田中が嬉々として私に放った、黒田の陰湿な悪口(モラハラ発言)の録音が響き渡った。
「っ……!!」
「『暇をしている』『ミスばかりする』と私を信用していなかったのは、田中くん自身です。それなのに、不十分な引き継ぎで自分の業務を丸投げし、最終確認という担当者としての最低限の義務すら怠った。……違いますか?」
エビデンス(メールのログと録音音声)という鋭い刃を喉元に突きつけられ、田中は完全に言葉を失った。周囲の社員たちも、冷ややかな目で田中を見ている。
「な、なんだよそれ……っ! 俺をハメたのか!!」
田中が逆上し、デスクを蹴り上げようとしたその瞬間。
彼の足元に置いてあった営業バッグが倒れ、中から数枚の書類がバサリと床にこぼれ落ちた。
「……あら?」
私はその書類を拾い上げ、わざとらしく目を丸くした。
それは、私が金曜日にこっそりと忍ばせておいた、赤いスタンプがデカデカと押された『社外秘・持ち出し厳禁』の極秘顧客リストのコピーだった。
「田中くん。この書類……社外秘ですよね? なぜ、営業バッグの中に入っているんですか? 許可なく機密情報を社外に持ち出すのは、重大な就業規則違反ですよ」
「えっ……? ち、違う! 俺はそんなもの知らない!! なんで俺のバッグに……!!」
そこへ、騒ぎを聞きつけた部長が飛んできた。
部長は田中の足元に散らばった機密書類と、先ほどのクレームの報告を聞き、顔を真っ赤にして怒鳴り上げた。
「田中!! お前、顧客対応を怠った挙げ句、機密情報の不正持ち出しまでやっていたのか!! 今すぐコンプライアンス部と監査部に行け!! 重処分は免れんぞ!!」
「ち、違います部長!! 俺はハメられたんです!! 佐々木が……佐々木が全部仕組んだんです!!」
泣き叫ぶ田中を、私はこの上なく冷たく、ゴミを見るような目で見下ろした。
証拠はすべて「田中がやった」と指し示している。私には何の落ち度もない。これが、客観的エビデンスの持つ絶対的な暴力だ。
月曜・午後2時:美香の炎上と、トリプル・トラップ
田中が監査部へと連行され、オフィスに不穏な静けさが戻った午後二時。
今度は、窓際の席でスマホをいじっていた美香から、悲鳴のような声が上がった。
「うそっ……! な、なんで!? ぴえん!!」
美香は顔面を蒼白にし、震える手でスマホの画面をスクロールしている。
私は、心の中で「三、二、一……」とカウントダウンをした。
「橘(美香)!! ちょっと来なさい!!」
フロアの奥から、法務部の担当者が血相を変えて駆け込んできた。
「君が先週の金曜日、期限ギリギリに法務部のチェックシステムへ提出してきた新製品のパンフレットデータ! あれに使われている画像、透かしが入ったままの著作権保護サンプルじゃないか!!」
「えっ!?」
「法務部でストップをかけたせいで、クライアントへの納品期限に間に合わず、発注がキャンセルになったんだぞ! 会社として違約金を支払う騒ぎだ! それに、もし我々が気づかずにそのまま世に出ていたら、著作権侵害で数千万の訴訟問題に発展していたところだぞ!!」
「そ、そんな……! わ、私知りません! デザインの仕上げは、佐々木さんに丸投げ……お願いしたんです!! 私は悪くありません!!」
美香は一瞬で私を指差し、責任をなすりつけようとした。
私は静かに立ち上がり、法務部の担当者に自分のチャット履歴の画面を見せた。
「法務部様。私は橘さんに、はっきりと透かしが入った『著作権あり』のダミー画像を送信し、チャットにも『※共有した画像はあくまでイメージ用の著作権保護サンプルです。絶対に商用や外部向けには使用しないでください』と注意書きを添えております。……橘さんは、私の注意を無視して見栄えの良い画像をそのまま使い、ご自身で最終確認もせずに提出されたようですね」
チャットのログという動かぬ証拠を見せられ、法務部の担当者は美香をギロリと睨みつけた。
「そ、そんな……! 私、注意書きなんて読んでなくて……っ!」
「注意書きを読まないのは、橘さんの責任ですよね?」
私が冷たく言い放つと、美香はワナワナと震え出した。
「それだけじゃない!さらに問題がある!!」
法務部の担当者が、もう一枚のプリントアウトを突きつけた。
それは、美香が金曜日に「お疲れ様自撮り」としてSNSに投稿した写真だった。
「この自撮りの背景のホワイトボード! 来期未発表の製品のスペック表がバッチリ写り込んでいるじゃないか! 今、ネットのまとめサイトで『情報漏洩企業』として大炎上しているぞ!!」
「えっ……!? 嘘っ!!」
美香は自分のスマホでSNSを確認し、パニックで過呼吸気味になり始めた。
私が金曜日にホワイトボードにこっそりと貼っておいたスペック表が見事に機能したのだ。
「もう言い逃れはできんぞ! すぐに広報部とコンプライアンス部へ来い!!」
法務部の担当者が美香の腕を掴んだ。
その反動で、美香が肩にかけていたブランドバッグが床に落ち、中身が散乱した。
リップやファンデーションに混じって……赤字で『持ち出し厳禁』と書かれた、未発表の製品図面が数枚、ハラリとこぼれ落ちた。
「……なんだこれは。機密文書じゃないか!! 君、産業スパイでもやっているのか!!」
「ち、違うんです!! なんで私のバッグにこんなものが……!! 助けて、奈緒さぁん!!」
美香は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、私にすがりつこうとした。
私は、サッと一歩後退し、完璧な営業スマイルを浮かべて美香に一礼をした。
「自分の行動には、自分で責任を持つ。それが社会人のルールですよ、橘さん。……あ、それと。橘さんのその限定色のリップ、今の土気色の顔には少し浮いて見えますよ」
「……っ!!」
美香は絶望の表情を浮かべたまま、法務部に引きずられるようにしてオフィスから消えていった。
エピローグ:完璧な微笑みと、変わらない日常
午後五時半。
嵐が過ぎ去った営業部のフロアは、嘘のように静まり返っていた。
黒田、田中、美香。
私に牙を剥き、私を利用しようとした毒虫たちは、たった一日で、全員が自らの手で自爆し、完全にオフィスから排除された。
残ったのは、すっかり怯えきって小さくなっている佐藤(元課長)や、無害になった市川などのベテラン社員たちだけだ。
「さて、と」
私はパソコンの電源を落とし、デスクの上を綺麗に片付けた。
バッグを手に取り、エレベーターホールへと向かう。
「お疲れ様でした!」
フロアに残った社員たちに、私はこの世で最も美しく、そして完璧な「微笑みの仮面」を向けて一礼した。
――完璧だ。
私が作り上げた、私にとって最も快適で、コントロール可能な「無能たちの楽園」が完成した瞬間だった。
ビルの外に出ると、夕暮れの生ぬるい風が頬を撫でた。
スマホを取り出し、時計を見る。
「……うん、いい時間ね」
私は軽快な足取りで、品川の駅ビルを背にし、新橋方面へと向かう電車に乗り込んだ。
向かう先は当然、煙と油の匂いが染み付いた、愛する「聖域」――赤提灯だ。
「大将! 白ホッピーセット、中多めで!」
ガラリと引き戸を開けると、いつもの暖かな光が私を包み込んだ。
隣の席では、ゲンさんが競馬新聞から顔を上げ、ニヤリと笑う。
「おう、ねーちゃん。今週もいい顔してんな」
「ええ、まあ。ちょっとだけ、オフィスの大掃除が終わったので」
ドン、と置かれた冷えたジョッキを手に取る。
私の「微笑みの仮面」は、明日からも絶対に剥がれない。
どんな理不尽が襲ってこようと、私はこの冷酷な笑顔と客観的なデータで、すべての敵を合法的に処刑し続けるのだ。
「……乾杯!」
冷たい液体を喉の奥へと流し込む。
最高に美味い白ホッピーの味が、私の完璧な日常を祝福していた。




