第14話:圧倒的エビデンスと、VIPとの同伴出勤
金曜・午後4時:最上階の審問と、絶対的なエビデンス
第3ミーティングルームでの密室面談から約一時間後。
私のデスクの電話が、控えめな音で鳴った。
「はい、営業部・佐々木です」
『……社長室の秘書です。佐々木奈緒さんですね。至急、最上階の特別応接室までいらしてください』
冷たく事務的な声。
私は「かしこまりました」と答え、受話器を置いた。そして、引き出しの奥底に用意しておいた「分厚いファイル」を胸に抱え、立ち上がる。
私はおどおどとした足取りでエレベーターに乗り、最上階へと向かった。
特別応接室の重厚なドアを開けると、そこには二人の人物が待ち構えていた。
一人は、初老の厳しい顔つきをした男性。我が社の専務取締役。
もう一人は、ブランド物のスーツを毅然と着こなす、三十代半ばの美しい女性。社長室長であり、黒田涼平の婚約者である、専務の娘だった。
「……失礼いたします。営業部の、佐々木と申します」
私は怯えきった小動物のように肩を縮め、深くお辞儀をした。
「かけなさい」
専務の低い声に促され、私はソファの端にちょこんと座る。
「佐々木さん。あなたが先ほど送ってきた実名でのメールと……私たちが第3ミーティングルームに仕掛けたマイクの音声は、確認したわ」
室長が、氷のように冷たい声で切り出した。
「黒田課長が、あなたに『退職』を仄めかし、今夜ホテルに来るよう脅迫した件について。……あれは、事実ね?」
「は、はい……」
私は両手で顔を覆い、震える声を絞り出した。
「私、どうしていいか分からなくて……! ずっと、黒田課長から嫌がらせを受けていて……」
「嫌がらせ?」
専務が眉をひそめた。
「黒田は『佐々木は協調性がなく、仕事も遅く、ミスばかりする無能だ。このままでは部署の空気を悪くする』と、人事にも非公式に報告を上げていたが。君の仕事ぶりが原因ではないのかね?」
――来た。
私は顔を上げ、涙ぐんだ瞳のまま、持参した分厚いファイルをテーブルの上に置いた。
「専務、室長。……どうか、こちらをご覧ください」
私が開いたファイル。それは、私がこの数ヶ月間で処理してきた「圧倒的な業務ログ」の完全な記録だった。
「私は現在、営業部の実務の約八割を一人で処理しております。佐藤の過去の稟議の修正、田中の新規開拓リストのデータ化、美香の広報デザインの最終チェック……これらすべて、彼らが放棄したものを私が巻き取った記録と、タイムスタンプです」
専務の目が、その緻密で膨大な処理データに釘付けになった。
私はさらに数枚のページをめくった。
「これだけの業務を回している私に対し、彼は密室で『無能だ』『退職を勧告する』と脅迫しました。……これら客観的な数字と証拠を見て、私が本当に会社にとって『無益な人間』かどうか、ご判断いただきたいのです」
専務はファイルをめくりながら、絶句していた。
経営陣である彼なら、一目見れば分かるはずだ。この膨大な実務処理能力を持つ事務員がいなくなれば、営業部が物理的に崩壊するという事実が。
「これほどの業務を、一人で……? それを、黒田は自分の権限で退職させようとしたというのか?」
「はい。そして、退職させられたくなければ……自分の『特別な存在』として、今夜ホテルに来いと……っ!」
私は再び顔を覆い、すすり泣くふりをした。
静まり返った応接室に、室長のギリッと奥歯を噛み締める音が響いた。
「……信じられない。私という婚約者がいながら、会社にこれほど貢献している優秀な社員を私欲のために潰そうとし、職権濫用で手を出そうとするなんて」
室長の顔は、怒りで怒髪天を衝く勢いだった。プライドの高い彼女にとって、これほどの屈辱はないだろう。
「佐々木さん。辛い思いをさせて、本当にごめんなさいね」
室長はスッと立ち上がり、冷酷な笑みを浮かべた。
「今夜20時。品川のホテル・グランテラスね。……安心して。私たちも、ご一緒させていただくわ」
完璧だ。 圧倒的な業務量の「客観的証明」と、「不当な退職勧告」、そして「業務外のホテル呼び出し」。 これだけの事実があれば、経営層のトップが直々に動く最高のロジックが完成するのだ。
金曜・午後8時:VIPとの同伴出勤
午後八時。品川の高級ホテル「ホテル・グランテラス」。
最上階のラウンジにある、重厚な扉で仕切られたVIP用の個室。
私は一人でその扉の前に立ち、小さく深呼吸をしてから、ノックをした。
「入りなさい」
中から、黒田の余裕たっぷりの声が聞こえる。
ドアを開けると、薄暗い間接照明に照らされた部屋の中央で、黒田が高級そうな赤ワインのグラスを傾けていた。
「来たね、佐々木さん。逃げずに来てくれて、嬉しいよ」
黒田は私の顔を見るなり、爬虫類のようにねっとりとした笑みを浮かべた。
「さあ、座って。まずはワインでも飲みながら、君のこれからの『処遇』について、じっくり話し合おうじゃないか。僕に尽くしてくれるなら、悪いようにはしないからさ」
「……黒田課長」
私は、部屋の入り口に立ったまま、震える声で言った。
「本日は……私一人では、どうしても不安でしたので。心強い方々に、ご同行いただきました」
「は? ご同行?」
黒田が怪訝な顔をした、その瞬間。
私の背後から、二つの影が静かに部屋の中へと足を踏み入れた。
「ずいぶんと『熱心な個別面談』ね、涼平さん。業務時間外に、こんな密室のホテルで」
「……っ!?」
黒田の手から、ワイングラスが滑り落ちた。
ガチャン! と鈍い音を立ててガラスが砕け散り、真っ赤な液体が高級な絨毯に染みを作っていく。
部屋に入ってきたのは、氷のような視線を放つ室長と、その後ろで般若のような怒りの形相を浮かべる専務だった。
「し、室長……!? 専務!? な、なぜここに……!」
「なぜ、だと?」
専務が低い声で怒鳴りつけた。
「有能な社員に退職を突きつけて脅迫し、自分の愛人にしようとするとは。君の言う『誠意』とはこういうことか、黒田!!」
「ち、違います!! これは誤解です!!」
黒田は完全にパニックに陥り、顔面を蒼白にして首を横に振った。
「彼女が……佐々木が僕を誘惑してきたんです!! 僕はただ、指導の一環として話を聞いてやろうと……!!」
見苦しい。あまりにも見苦しい。
私は、室長の背中に隠れるようにして身をすくませた。
「そんな……! 私、課長に逆らったらクビにするって密室で脅されて……! 無理やりここに呼び出されたんです……っ!」
「言い逃れは見苦しいわよ、涼平さん」
室長が、黒田をゴミでも見るような目で見下ろした。
「第3ミーティングルームでのあなたの発言、全部録音してあるのよ。それに、佐々木さんの素晴らしい業務処理のデータも、すべて確認済みよ。彼女を無能呼ばわりしてクビにしようだなんて、会社への重大な背任行為だわ」
「ろ、録音……!? なぜ、そんなものが……!」
「婚約破棄よ。それと、来週からの出社はしなくていいわ。懲戒解雇に向けて、監査部と法務部が徹底的にあなたの余罪を調べることになるから」
「そ、そんな……! 待ってくれ、室長! 専務!!」
黒田が床に這いつくばり、専務たちの足元にすがりつこうとする。
しかし、彼らは黒田を一瞥もせず、私を気遣うように振り返った。
「佐々木さん、こんな男の顔はもう見なくていいわ。帰りましょう。来週からは、あなたが正当に評価される環境を私が約束するから」
「は、はい……ありがとうございます、室長、専務……」
私は何度も深く頭を下げ、専務たちにエスコートされるようにして、その豪華な個室を後にした。
後ろからは、すべてを失った黒田の、情けない泣き声と絶叫が響いていた。
金曜・午後9時:完璧な微笑みと、至高の聖域
ホテルを出て、専務の用意したハイヤーを見送った後。
品川駅へと向かう風に吹かれながら、私はバッグからメイク落としシートを取り出した。
ゴシゴシと、乱暴に目の下のクマのメイクを拭き取る。
そして、怯えきった被害者の仮面を剥ぎ取り、夜空に向かって思い切り背伸びをした。
「あーっ!! スッキリした!!」
私の口角は、今夜一番の、冷酷で完璧な弧を描いていた。
証拠を残さない幽霊には、絶対に抗えない圧倒的な「権力」と「客観的データ」という光を当てて、焼き殺せばいいのだ。
しかも今回は、専務と室長に「恩を売る」という最高のおまけ付きである。来週からの私のオフィスの居心地は、さらに快適なものになるだろう。
さて、来週には美香と田中が、私が仕掛けたトラップによって「自分の責任で」自爆する予定だが……それはまあ、月曜日のお楽しみだ。
私はスマホを取り出し、時計を見た。
時刻はまだ午後八時を回ったところ。
「よし。今夜の白ホッピーは、過去最高に美味いはずよ」
私は軽快な足取りで電車に乗り込み、愛する私の「聖域」――新橋の煙たい赤提灯へと向かった。
完璧なOLの、完璧な一週間が、今夜も最高の形で締めくくられようとしていた。




