EP 5
市場の悪魔、ヨシマサの報復
月陽市の中心にそびえ立つ、最高級オフィスタワーの最上階。
下界の喧騒が一切届かないその無音の空間で、月陽市の非公式市場を取り仕切る若きフィクサー・赤山天人は、常温のミネラルウォーターを静かに喉に流し込んでいた。
「——美しい夜景ですね。欲望と絶望が、均等に明滅している」
完璧に計算されたUIのような微笑みを浮かべる赤山の背後で、シュボッ、と紙の燃えるチープな音が鳴った。
米海軍SEALsのブレーン、リキタケ・ヨシマサが、ブックマッチで『ラッキーストライク』に火をつけた音だ。
「ポエムを詠みに来たわけじゃない。商談だ、赤山」
「ええ、存じております。先ほど、貴軍の口座から『1,500万円の損害賠償』が引き落とされるのを、このオフィスの端末で確認したところですから」
赤山は振り返りもしない。ただ、胸ポケットから漆黒の特注万年筆を取り出し、大理石のテーブルの上に『コトリ』と音を立てて置いた。
それが、彼が提供する非公式市場へのアクセスを許可する合図だった。
「月額100万円のシステム利用料は、すでに貴軍の口座から頂戴しています。それで、今日はどのような『現象』をご購入で?」
「自衛隊(JSDF)の連中が、ルールの穴を突いてきやがった。腹立たしいが、見事なスキームだ。……だから、同じようにルールの穴で殺し返す」
ヨシマサは煙を細く吐き出し、商社マン時代の冷酷な目を赤山に向けた。
「あのロシア商人が扱う『食料』の流通経路と、中国人バイト(張慶雲)の『配達網』。この二つに、市場介入してインフレ(物価高騰)を起こせ。陸自の拠点がある東区画への物流を、経済的に完全に遮断する」
赤山は微かに目を細めた。
「……買い占め、ですか。ヴィクトルの抱える弁当の在庫を全て買い上げるとなると、莫大な資金が必要ですが」
「買い占める必要はない」
ヨシマサは冷笑する。
「先物取引と情報操作だ。『明日、東区画で大規模な検問がある』というデマを市場に流せ。同時に、俺の口座からヴィクトルへ『陸自に売る弁当の価格を5倍に釣り上げれば、売れ残った分は後日SEALsが倍額で買い取る』と裏契約を持ちかける。中国人バイトの配達員には『東区画への配達は危険手当を上乗せしろ』と扇動しろ」
つまり、ヨシマサは自軍の在庫を増やすのではなく、**「市場のシステムそのものを操作して、陸自に飯を買えなくする」**という悪魔の算盤を弾いたのだ。
「……なるほど。物理的な封鎖ではなく、価格による経済封鎖(兵糧攻め)。彼らは一発の銃弾も浴びることなく、餓死することになりますね」
赤山のUIの笑顔が、ほんの少しだけ深くなる。
「承知しました。手配しましょう。明日の朝、彼らの胃袋は空っぽのままになります」
「頼むぜ。……舐めた猿どもに、資本主義の本当の地獄を教えてやる」
ヨシマサの口の中で、新しい飴玉が転がる音がした。
翌朝。月陽市の廃ビル(陸自陣営)。
「……おい、嘘だろ」
スマートフォン(物資発注アプリ)の画面を見ていた赤城鷹人が、素っ頓狂な声を上げた。
夜勤の工場バイトと、昨夜のドローン襲撃の防衛を終え、泥のように疲弊していたレンジャー隊員100名。彼らの最大の楽しみは、バイト代で買う朝飯の「ボッタクリ特製弁当(1食8,000円)」だった。
高額とはいえ、背に腹は代えられない。昨日の稼ぎが150万円あるため、全員分の朝飯を買うことはできるはずだった。
だが、信長が赤城のスマホを覗き込むと、そこには絶望的な数字が並んでいた。
本日の特製ロシアン弁当:1食 50,000円
中国人バイトの東区画・配達手数料:1回 100万円
「ご、ごまんえん……!? 弁当一個が、5万円!?」
隊員の一人が、空腹でふらつきながら絶叫する。
「配達料の100万ってなんだよ!? 昨日までは1回1万円だったじゃねぇか!」
「アホか! 弁当100個買ったら500万。それに配達料入れたら、一食で600万飛ぶぞ! 払えるわけねぇ!」
パニックに陥る部下たちを前に、信長はギリッと奥歯を噛み締めた。
画面には、ロシア商人ヴィクトルからのふざけたポップアップメッセージが表示されている。
『すまないねぇ日本の兵隊サン! 東区画は治安が悪いって噂で、配達の張クンたちがストライキ寸前なんだ! 嫌なら無理に買わなくていいヨ!』
「……ヨシマサの野郎、やりやがったな」
信長は、敵の姿なき報復の正体を正確に理解していた。
「中隊長、どういうことですか!?」
「昨日の意趣返しだ。あのアメ公の算盤野郎、自分の豊富な資金力と街の『裏市場』を使って、俺たちの兵站ラインにだけピンポイントで物価高騰を起こしやがったんだ」
信長の言葉に、隊員たちは血の気を引いた。
兵士にとって、弾がないこと以上に恐ろしいのは「食料がない」ことだ。
腹が減っては戦はできない。それどころか、今日の午後から予定されている『工場バイト』のライン作業すら、体力が持たずに倒れる者が出るだろう。
働けなくなれば、金が稼げない。金が稼げなければ、二度と飯が食えない。
「完璧な経済封鎖だ……。あいつら、俺たちをこのビルの中で餓死させる気だぞ」
赤城が忌々しそうに壁を殴りつける。
金はある。昨日のバイト代が手元にある。
だが、**「買える物がない(価格が釣り合わない)」**という現実が、レンジャー部隊の屈強な肉体と精神を静かに、だが確実に蝕み始めていた。
「……中隊長。俺たち、どうなっちまうんですか」
極限の空腹と疲労で、若い隊員が膝をつく。
このデスゲームにおいて「金が尽きる」ことは「死」を意味する。
だがヨシマサは、さらにその斜め上、「金があっても買わせない」という盤面を作り上げた。
沈黙が支配する廃ビル。
しかし、その絶望の底で、一人だけ白衣を着た男が、静かに立ち上がった。
「中隊長。少し、俺に時間をくれませんか」
進み出たのは、1等海尉にしてハイブリッド・メディック(軍医)——中村優太だった。
彼の背中のバックパックには、手術用具一式と、折りたたみ式の薙刀が隠されている。
「優太? お前、腹の足しになるもんでも持ってんのか?」
信長が問うと、優太はポケットから『高カカオチョコレート』を取り出し、パキッと割って口に放り込んだ。
「飯はありません。ですが……『金』を限界まで絞り取る方法なら、一つだけ心当たりがあります」
優太の瞳の奥に、冷たいマッド・サイエンティストのような光が宿っていた。
物流が止まり、飢餓戦線に追い込まれた自衛隊。
その窮地を救うため、「命を救うための刃」を持つ男が、最悪の錬金術に手を染めようとしていた。




