EP 10
灰色の幽霊
「オーライ、オーライ! ストップ! ご苦労さん!」
月陽市の廃ビル(陸自陣営)。
赤城鷹人の誘導で、張慶雲が手配した中国人配達員たちのトラックが、拠点の裏口へと滑り込んだ。
荷台から次々と降ろされるのは、ロシア商人ヴィクトルから購入したM4の弾薬箱、溶接用ガスシリンダー、そして特製ロシアン弁当の山だ。
『彼岸花』での交渉により、張のストライキは解除された。
陸自陣営の「血管」とも呼べる物流ラインが、再び息を吹き返したのだ。
「中隊長! 弾薬とガスの検品終わりました! これでようやく、まともに戦えますよ!」
部下の一人が、通信機を片手に、弾薬箱の前で敬礼する。
「ああ。イノシシの肉も最高だったが、やっぱり弾がねぇと落ち着かねぇからな」
信長は安堵の息を吐き、腰に帯びた打刀の柄を軽く叩いた。
これで、夜のGPS公開タイムに敵が攻めてきても、正面から撃ち合うことができる。
兵士たちの顔に、数日ぶりの余裕の笑みが浮かんだ。
だが——その油断こそが、死神の最高の標的だった。
廃ビルから直線距離で約1.2キロ。
月陽市の高台に位置する、建設中のマンションの屋上。
吹き抜ける夜風の中、コンクリートの床に同化するように這いつくばる一つの影があった。
米海軍SEALs隊長、エリアス・ソーン。
彼は特注の狙撃銃『McMillan TAC-338 “Wraith” Custom』のバイポッド(二脚)を立て、スコープ越しに1.2キロ先の陸自拠点を監視していた。
ポリッ……。
エリアスは無表情のまま、口に放り込んだラムネを噛み砕く。
脳にブドウ糖が急速に補給され、視覚、聴覚、風を読む皮膚感覚が研ぎ澄まされていく。
(距離1250。風速3メートル、南南西。……問題ない)
エリアスは深く息を吐き出した。
その瞬間、彼の強靭な肉体から「生気」が完全に消失する。
ドクン、ドクンと打っていた心拍数が、急速に低下していく。
60、40、20——そして、ほぼ「ゼロ」へ。
狙撃手にとって最大のノイズは、己自身の心臓の鼓動である。トリガーを引く指先に伝わる微細な振動すら、1キロ先では数メートルのズレを生む。
だからこそ彼は、狙撃の瞬間、己を「死体」と同じ状態に作り変える。
これこそが彼が『灰色の幽霊』と呼ばれる所以だった。
スコープの十字線が、弾薬箱の横で笑っている陸自の通信兵を捉えた。
(……一人目)
音もなく、エリアスの指がトリガーを絞る。
——ズパァァァァァンッ!!!
空気を切り裂くような破裂音が、月陽市の夜空に木霊した。
「うおああっ!?」
廃ビルの裏口で、通信兵がすっ転んだ。
彼が手に持っていた軍用通信機が、目に見えない何かに弾き飛ばされ、一瞬にして粉々のプラスチック片と電子基板のゴミに変わったのだ。
「狙撃だ!! 全員、身を隠せ!!」
信長の怒号が響く。
レンジャー隊員たちが反射的に物陰に飛び込む。
「被害状況を報告しろ!」
「通信兵の……も、持っていた無線機が撃ち抜かれました! 本人は無傷です!」
「無傷だと?」
信長が瓦礫の陰から、粉々になった無線機の残骸を見る。
手元を持っていた通信兵の指には、カスり傷一つない。無線機の「本体の中央」だけが、数千メートル先から正確に抉り取られていたのだ。
「……あり得ません」
這いつくばりながら、メディックの優太が戦慄した声を上げる。
「この強風の中、1キロ以上離れた場所から、指先を数ミリも傷つけずに無線機『だけ』を撃ち抜くなんて……。人間の離れ業じゃありません。間違いなく、あのエリアス・ソーンです」
「くそっ! アメ公の幽霊め、腕自慢の曲芸射撃か! だが、外したな!」
血気盛んな隊員が、遮蔽物の裏から反撃のために顔を出そうとした。
「待て! 動くな!!」
信長が叫ぶが、遅かった。
——ズパァァァンッ!!
第二射。
隊員の頭を撃ち抜く——のではなく、彼の頭部を保護していたロシア商人製の『防弾ヘルメット(高額品)』のバイザー部分だけを、綺麗に弾き飛ばした。
「ひぃっ!?」
隊員が腰を抜かして座り込む。命はある。だが、ヘルメットは完全に使い物にならなくなった。
——ズドンッ! ズドンッ!
さらに第三射、第四射が立て続けに拠点を襲う。
それは、隊員たちの命を狙うものではなかった。
赤城が整備していた『軍用オフロードバイク』の前輪タイヤ。
そして、拠点の監視用に設置していた『暗視赤外線センサー(高額品)』。
それらが次々と、魔法のような精密狙撃で「スクラップ」へと変えられていく。
「……おい、まさか」
信長の背筋に、悪寒が走った。
彼は慌てて、己のタブレットの『システム収支・購入履歴』の画面を開いた。
軍用通信機:1台 50万円(大破)
防弾ヘルメット:1個 30万円(大破)
軍用バイクのタイヤ(専用規格):1本 20万円(大破)
暗視赤外線センサー:1台 80万円(大破)
「……合計、180万円……!!」
信長の声が震えた。
「中隊長、どうしたんです!?」
「エリアスの野郎……俺たちの命を狙ってんじゃねぇ……! 俺たちの『財布』を狙撃してやがるんだ!!」
その言葉に、全員の顔から血の気が引いた。
兵士を一人殺せば、戦力は100分の1減るだけだ。
だが、高額な機材や通信網をピンポイントで破壊し続ければどうなるか?
軍隊としての機能が麻痺し、直すために再びロシア商人から『ボッタクリ価格』で再購入しなければならなくなる。
稼いでも稼いでも、修理費と再購入費で金が溶けていく。
エリアスとヨシマサは、狙撃技術と経済戦を組み合わせた最悪の『ウォレット・スナイピング(財布狙撃)』を仕掛けてきたのだ。
「外に出るな! 装備を隠せ!!」
信長が怒鳴る。
レンジャー隊員たちは、自分の命ではなく「手持ちの装備品」を抱え込んで、ビルの奥深くへと逃げ込んだ。
一歩でも外に出て装備を晒せば、数キロ先から「数十万円の損害」が飛んでくる。完全な物理的・経済的抑止力だ。
「……クソが。このままじゃ、ジリ貧どころか一歩も動けねぇぞ」
信長は薄暗いビルの中で、ギリッと奥歯を噛み締めた。
エリアスの狙撃ポイントを特定し、反撃しなければならない。
だが、相手は1キロ以上先の暗闇に潜む『幽霊』だ。居場所を特定する情報が、陸自側には全くない。
「……中隊長。どうしますか」
優太が薙刀の柄を握りしめながら問う。
「……背に腹は代えられねぇ」
信長はタブレットを操作し、ある一つの連絡先をタップした。
「月額100万円払ってでも、非公式市場を使う。……赤山天人の野郎に、エリアスの潜伏先の『情報』を売らせるんだ」
弾丸と金が飛び交う月陽市の空の下。
陸自陣営は生き残るため、ついに「市場の悪魔」赤山天人のシステムへと足を踏み入れようとしていた。




