EP 9
第1回 週次交渉(料亭・彼岸花)
月陽市の中心部にひっそりと佇む、完全紹介制の高級料亭『彼岸花』。
美しい日本庭園を望む静寂の個室に、場違いな硝煙と血の匂いが漂っていた。
「……遅いぞ、自衛隊(JSDF)。待ちくたびれて、前菜を平らげてしまったところだ」
上座で足を組んでいたリキタケ・ヨシマサが、意地悪く口角を上げた。
彼の手元には、料亭の懐石料理ではなく、ロシア商人から10万円で仕入れたフランス軍規格レーション『RCIR』の空き箱がある。備え付けの高級皿の上には、優雅に温められた「鴨肉のコンフィ」の残骸が乗っていた。
飢餓状態にあるはずの敵国指揮官に対し、世界で最も高価で美味い軍用レーションを見せびらかす。ヨシマサらしい、極めて悪趣味な盤外戦術だ。
「悪いな。夕日町の工場で、残業(ライン作業)を頼まれてたもんでな」
下座にドカッと腰を下ろしたのは、陸上自衛隊レンジャー中隊長・坂上信長。
泥と油にまみれた迷彩服のままだが、その腰にはロシア商人から大金で買い取った真剣、北辰無双我流を振るうための『打刀』が帯びられている。
そして、ヨシマサの隣。
美しい床の間の前で、彫像のように微動だにしない男がいた。
米海軍SEALs隊長、エリアス・ソーン。
ポリッ……ポリッ……。
静寂の個室に、乾いた音が響く。
エリアスは無表情のまま、タブレット型の『ラムネ』を噛み砕いていた。極限の狙撃任務で消費する脳のブドウ糖を補給するための、彼の特異なルーティン。
その無機質な咀嚼音の合間に、彼は手元の布で一丁の拳銃を磨いている。
ノルマンディー、ベトナム、そして現代。ソーン一族の血脈と歴史を受け継いできた、漆黒の『コルト M1911 ガバメント』だ。
信長の刀と、エリアスのガバメント。
互いの「魂」とも呼べる武器が、テーブル越しに静かな殺気を放ち合っている。
「……で? 鴨肉の味はどうだったよ、算盤野郎」
信長が鼻で笑う。
「昨日の夜、俺たちは山で100キロのイノシシを丸焼きにして食った。あんな缶詰の肉より、何百倍も血肉になったぜ」
「……」
ヨシマサの眉間が微かにピクッと動いた。完璧な経済封鎖を、物理的な狩猟でぶち破られた屈辱。彼は口の中の飴玉をガリッと噛み砕く。
「野蛮な猿どもめ。……まあいい、本題に入ろうか。今日は週に一度、システムで義務付けられた『公式交渉』の日だ」
ヨシマサはタブレットを滑らせ、一枚の電子書類をテーブルの中央に提示した。
昨日、軍医の中村優太が送信した『1,500万円の過剰医療請求書』だ。
「単刀直入に言う。このふざけた請求を取り下げろ。捻挫一つに1,500万など、法外にも程がある。支払いは拒否する」
「拒否だと? アホ抜かせ。システムを通した正当な医療費じゃ」
信長が広島弁で凄む。
「払わんと言うなら、国際法違反でシステム側に提訴するだけだ。お前らの口座から強制執行でぶっこ抜いてやる」
「やれるものならやってみろ。……だが、俺が張慶雲の『中国人配達員ストライキ』にいくら裏金を積んでいるか知っているか?」
ヨシマサが冷たく笑う。
「お前たちがイノシシを狩れることはわかった。だが、弾薬やガス、今後の装備はどうする? 物流ラインが死んだままでは、お前たちは一生、ロシア商人のプレハブまで往復何十キロも歩いて買い出しに行くハメになるぞ」
料亭の空気が凍りつく。
1,500万の現金(血液)を奪うか、それとも物流網(血管)を回復させるか。
信長は数秒の沈黙の後、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「……よし。商談成立だ」
「ほう?」
「うちの悪徳軍医からの1,500万の請求は、この場で『ゼロ』にしてやる。その代わり、今すぐ張慶雲に手を回して物流のストライキを解除しろ。俺たちがヴィクトルから買ったもんを、1時間以内に拠点へ届けさせろ」
ヨシマサは目を細めた。
互いに首を絞め合うデッドロック状態を解除し、純粋な戦場へと盤面をリセットする。それが、両陣営にとって最も合理的な判断だった。
テーブルの上に、月陽市の非公式市場を取り仕切る赤山天人が用意した『血の署名(法的拘束力のある契約書)』が置かれる。
信長とヨシマサは、それぞれ漆黒の万年筆でサインを刻み込んだ。
「これで交渉は終わりだ。……次はお互い、口座残高じゃなく、命の取り合いになりそうだな」
信長が立ち上がり、腰の打刀に手を添える。
その瞬間。
ずっとラムネを噛んでいたエリアスが、スッと立ち上がった。
心拍数を「死体」と同じまで落とす男。その眼差しは、文字通り幽霊のように一切の感情を欠いていた。
「……サカガミ。お前の部下たちは、よく動く」
エリアスは磨き終えたガバメントをホルスターに収め、低く囁いた。
「だが、心臓が動いている限り、必ず止まる。……今夜から、俺が一人ずつ脈拍を止めてやる」
「……やってみぃや、アメ公の幽霊」
信長は一歩も引かず、エリアスの冷たい瞳を真っ向から睨み返した。
「俺の我流がテメェの頭カチ割るか、テメェの骨董品が俺を撃ち抜くか。……どっちが残るか、賭けようや」
日米の25歳、その頂点に立つ二人の視線が交錯し、見えない火花が散る。
「行くぞ、エリアス。……これ以上ここにいると、猿の匂いがうつる」
ヨシマサがマントのようにジャケットを羽織り、背を向けた。
料亭『彼岸花』での第1回交渉は、痛み分けで幕を閉じた。
口座の金は減らず、物流は再開した。
だが、それは同時に「撃ち合いの準備が整った」ことを意味していた。
夜の帳が下りる月陽市。
次に陸自陣営を襲うのは、経済の悪魔ではなく、文字通りの『死神』による極限の狙撃だった。




