第三話 生命線
—2031年6月第一週 台湾の状況
封鎖が六週間を超えたとき、台湾の状況は臨界点に近づいていた。
島内の発電量は通常の六十二パーセントまで低下した。液化天然ガスの備蓄が底をつきつつあったためだった。台湾の電力の約四十パーセントはLNGを燃料とする火力発電所によって賄われており、LNGの海上輸送が封鎖によって遮断された結果、備蓄量は急速に减少した。
輪番停電は最初、一地区あたり一日二時間から始まった。それが三時間に延長され、さらに四時間となった。TSMC(台湾積体電路製造)の主要工場では、電力の安定供給が製造プロセスに不可欠なため、独自の発電設備を稼働させたが、それでも生産量は通常の七十パーセント以下に落ちた。TSMCが製造する半導体は世界の先端ロジックチップ生産の過半を占めており、その減産は世界のテクノロジー産業に遅延をもたらした。
台湾国内の医療体制も逼迫した。手術に用いる麻酔薬や輸液など、海外からの輸入に依存していた医薬品の在庫が減少した。国内の病院は選択的手術の実施を先送りし、救急と重篤患者への対応を優先した。
台湾政府は戒厳令には至らないものの、緊急事態宣言に相当する措置を発動した。外出は規制されなかったが、物資の配給と輸送に関する規定が施行された。
日本にとっても台湾の状況は直接の問題だった。台湾向けの輸出品が滞留し、台湾から輸入していた電子部品の入荷が止まった。半導体の調達難は製造業全体に影響し、自動車、家電、医療機器の生産に支障が出た。政府は「サプライチェーン強靭化基金」からの緊急支出を検討し、代替調達先の確保を産業界に促した。
その週、日米両政府は作戦の方針を変更した。
「シーレーン防衛」から「封鎖ゾーンへの対抗」へ。
変更の決定は、ワシントンと東京が同時刻に行った閣僚級のテレビ会議によって合意された。日本側は防衛大臣と外務大臣が、アメリカ側は国防長官と国務長官が参加した。会議は四十分間だった。
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—2031年6月 日本の法的判断
作戦変更に伴い、日本の法的な枠組みも再整理された。
問題となったのは「集団的自衛権の行使」の範囲だった。二〇一五年の安全保障関連法の改正によって、日本は限定的な集団的自衛権の行使が認められていた。しかし「限定的」の定義が、今回の状況に適用できるかどうかについては、内閣法制局と防衛省の間で解釈の相違があった。
内閣法制局の見解は、台湾への封鎖は台湾が直接武力攻撃を受けているとは言えず、「存立危機事態」に当たるかどうかの判断が必要というものだった。防衛省の法務担当は、台湾のシーレーンが封鎖されることで日本のエネルギー供給と半導体供給が深刻な影響を受けており、これは「日本の存立が脅かされる明白な危険」に当たるという立場をとった。
NSCは、防衛省の解釈を採用することを決定した。
閣議決定の文書には、次のように記載された。「台湾周辺における中華人民共和国による海上封鎖は、わが国のエネルギー安全保障および重要物資の安定供給に対する直接の脅威をなすものであり、この事態の継続はわが国の存立を脅かす明白な危険に当たると認定する。よって、国際法および日米安全保障条約に基づく集団的自衛権の行使として、台湾の封鎖に対抗するための措置を講じることは、憲法の範囲内で認められる」
この閣議決定は、日本の憲法解釈の歴史において、二〇一五年以来最大の変更を意味した。
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—2031年6月 作戦「海峡の扉」
日米共同作戦の計画は「海峡の扉」と命名されていた。
計画の骨子は、台湾東方の封鎖ゾーン境界線を実力で無効化し、人道支援物資を搭載した船団を通過させることにあった。「無効化」の意味するところは、人民解放軍の艦艇が船団の通行を阻もうとした場合に実力で排除するということだった。「排除」の手段については、段階的対応の原則が定められていた。第一段階は通信による警告、第二段階は妨害行動による進路の確保、第三段階は必要最小限の武力の行使だった。
計画は、人民解放軍が第三段階に進むことを選ばないという見込みの上に成立していた。その見込みの根拠は、軍事的なものと政治的なものに分けられた。軍事的には、日米の統合された対空・対艦能力が人民解放軍に対して抑止として機能するという評価だった。政治的には、全面的な交戦への拡大は中国にとっても国際的な孤立と経済制裁の深刻化をもたらすという判断だった。
見込みはあくまで見込みであり、確実性を意味しなかった。
国際法上の根拠として、国連海洋法条約の人道的例外条項と、集団的自衛権の行使が用いられた。前者は、「人道支援物資の輸送を目的とする船舶の無害通航を妨げることは、国際法上の義務違反を構成する」という解釈に基づいていた。後者については、日本政府の閣議決定によって正式に行使が認められた。
船団は三隻で構成された。台湾籍の貨物船「亮島」(八千トン)と「澎湖」(九千五百トン)、および国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の旗を掲げた輸送船「ムンドゥス」(一万二千トン、パナマ籍)。合計積載量は三万二千トン。内容は主として燃料(軽油とLNG)、医療物資、食料で、重量の六割を燃料が占めた。
護衛に当たるのは第一機動艦隊と米空母打撃群だった。「ロナルド・レーガン」と「かが」が台湾東方二百キロに待機し、イージス艦群とアーレイ・バーク級駆逐艦が船団を直接護衛する形成をとった。
潜水艦「おうりゅう」と米海軍の攻撃型潜水艦二隻が先行して封鎖ゾーン内の水中を哨戒した。
作戦開始は現地時間の午前三時に設定された。
計画は、人民解放軍の夜間の警戒能力が昼間より低下するという前提をとっていた。これが事実かどうかを証明する手段は、実際に行動するまでなかった。
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—2031年6月 前夜
作戦前夜、船団は台湾東方三百キロの海上で待機していた。
三隻の船の乗組員は計百七十二名だった。「亮島」と「澎湖」の乗組員の大部分は台湾人と東南アジア出身者だった。「ムンドゥス」の乗組員はフィリピン人が中心だった。彼らは自分たちが護衛されていることを知っていたが、作戦の詳細については伝えられていなかった。
各船の船長には、翌朝の出発時刻と進行方向が通達された。それ以外の情報は提供されなかった。
海上自衛隊のイージス艦「まや」と米海軍の「ベンフォールド」が船団の左右に位置した。二隻の艦は通信を最小限に保ちながら、周辺海域の監視を続けた。
「かが」の作戦室では、当直士官が交代で監視を続けていた。ディスプレイには封鎖ゾーン内の光点が映り続けていた。
深夜、光点の一部が移動した。
055型のうち三隻が、封鎖ゾーンの東端に向かって移動を始めた。速力は約二十ノット。これが警戒のための移動なのか、阻止のための前進なのかは判断できなかった。
報告が統幕に届き、米インド太平洋軍司令部と共有された。
移動した三隻は、封鎖ゾーン境界線から二十キロ内側の位置で停止した。
静止した。
それ以上は動かなかった。
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—2031年6月 夜明け前の海
午前三時、船団が動き始めた。
「亮島」を先頭に、「澎湖」「ムンドゥス」の順で、三隻は北西へ向かった。速力は十二ノット。封鎖ゾーンの境界線まで、三百キロ地点から距離を縮め始めた。
「まや」と「ベンフォールド」が左右に位置した。
海面は静かだった。風速は七ノット、波高は一メートル以下。星は見えた。
「まや」の艦橋から見える水平線はまだ暗かった。
レーダー上には人民解放軍の艦艇が映っていた。封鎖ゾーンの内側で、その数は減っていなかった。しかし隊形に変化があった。前夜に移動した三隻の055型は停止したままだったが、別の艦艇が動き始めていた。052D型のミサイル駆逐艦二隻が、東を向いて速力を上げていた。
船団は境界線まで七十キロ地点を通過した。
「ロナルド・レーガン」の艦載機が発艦した。F/A-18EスーパーホーネットとEA-18Gグラウラーの混成編隊だった。EA-18Gは電子攻撃機で、相手の通信と電子システムを妨害する能力を持つ。艦隊の上空を旋回しながら、電子戦の準備を始めた。
「かが」からもF-35Bが発艦した。機体は台湾東部の沿岸線に向かい、南北に哨戒線を維持した。
船団は境界線まで五十キロになった。
052D型の二隻は境界線の内側で速力を落とし、東を向いたまま停止した。
日米のイージス艦は戦闘態勢をとっていた。火器管制システムが起動し、ミサイルの発射準備が完了していた。ターゲティング・レーダーが封鎖ゾーン内の艦艇に向けられていた。ただし、照射はしていなかった。照射は攻撃の前段として認識されるため、これを行うことは事態を急激にエスカレートさせるリスクがあった。
発射命令は出ていなかった。
船団は境界線まで三十キロ地点にさしかかった。
055型の三隻が再び動き始めた。境界線に向けて、北上を開始した。速力は十八ノット。境界線まで到達するのに、現在の速力では約二十分かかる計算だった。
「まや」の艦長は統幕と米側の指揮所に状況を報告した。
返答は来た。命令内容は変わらなかった。船団の前進を続けること、脅威が現実のものとなった場合に段階的対応を行うこと。
三十五分が過ぎた。
055型の北上は、境界線の手前十二キロで停止した。
理由は分からなかった。停止命令が出たのか、燃料や機械の問題があったのか、判断の再検討が行われたのか、外部からは確認できなかった。
その後の二時間、海の上で何も起きなかった。レーダーの光点が位置を保ち、船団が少しずつ北西へ進んだ。夜が明けた。
水平線が白くなり、次第に青みを帯びた。海面が光を受け始め、波の形が見えるようになった。
船団は境界線まで十キロになった。
五キロ。
三キロ。
「まや」の艦橋から、前方の水平線を見ると、封鎖ゾーンの内側に人民解放軍の艦艇が見えた。双眼鏡を使えば、マストのシルエットが確認できた。
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—2031年6月 通過
「亮島」の船首が封鎖ゾーンの境界線を越えたのは、日本時間の午前九時五十三分だった。
その時刻、台湾東方の空では複数の軍用機が飛行していた。人民解放軍のJ-16戦闘機四機が境界線の内側を飛行し、米海軍のF/A-18E四機が境界線の外側を飛行していた。双方の距離は約三十キロ。互いの動きを観察しながら飛行を続けた。
「澎湖」、「ムンドゥス」が続いて境界線を越えた。
人民解放軍の艦艇は行動しなかった。
「亮島」が境界線を越えてから花蓮港の外に達するまで、約四時間かかった。その間、護衛のイージス艦は警戒態勢を解かなかった。人民解放軍の艦艇は距離を保ったまま追尾した。射程外からの追尾が六十分続いた後、055型の三隻は反転した。理由は分からなかった。
船団が台湾東部の花蓮港に入ったのは午後二時過ぎだった。
岸壁で荷降ろしが始まったとき、港の照明はすでに輪番停電によって部分的に落ちていた。作業は懐中電灯と車両のヘッドライトで行われた。港湾労働者と台湾軍の兵士が共同で荷役を行った。
三隻の船の積み荷は、燃料が優先して陸揚げされた。タンクローリーが隊列を組んで発電所に向かった。最初の車列が花蓮発電所に到着したのは、夜になってからだった。燃料の充填が始まり、翌朝には発電機が追加で起動した。
食料と医療物資は翌日の昼間に陸揚げが続けられた。
その理由については、後に様々な分析が行われた。日米の統合された軍事プレゼンスが機能したという見方、北京内部で政治的判断が割れていたという見方、人民解放軍が消耗戦を避けたという見方、封鎖の主目的が経済的締め付けであり軍事衝突のエスカレートは計画に含まれていなかったという見方があった。単一の原因で説明できる事象ではなかった。
翌朝、台湾北部の発電所が通常出力に近い水準に戻った。
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