第四話 決着/終章 記録として
—2031年7月 封鎖の継続と変化
「海峡の扉」作戦の成功は、封鎖を終わらせなかった。
人民解放軍の封鎖ゾーンは依然として設定されたままだった。花蓮港への船団通過は一度の例外として処理され、人民解放軍はその後、台湾西側の封鎖を強化することで対応した。台湾海峡の西側、すなわち台湾と中国大陸の間の航路は完全に遮断されたままだった。
第二の船団を組む計画が検討された。今度はより大型の船団で、日米に加えてオーストラリア海軍とイギリス海軍が護衛に参加する案が浮上した。しかしこの案は、オーストラリアとイギリスの政治的な手続きに時間がかかり、実施の見通しが立たなかった。
台湾政府は封鎖への対応として内部での施策を強化した。エネルギーの消費を徹底的に削減するため、工場の操業を週四日に制限し、照明の使用規制を強化し、公共交通機関への移行を促した。食料については、国内農業の生産を最大化するための措置が講じられた。
封鎖は経済的な圧力として設計されていた。しかし台湾社会の対応は、設計者の想定と異なる部分があった。
消費の削減と代替手段の開発が進み、台湾の電力消費量は封鎖前比で四十パーセント減少した。その結果、LNG備蓄の減少が封鎖前の試算より遅くなった。食料配給は混乱なく実施された。社会的な秩序は維持された。
もっとも、これは「耐えられている」ということを意味するだけであり、「苦しみがない」ということではなかった。
封鎖による死者は、台湾当局の集計で、封鎖開始から二ヶ月間に百三十七名と記録された。内訳は医薬品の不足による入院患者の死亡が七十一名、ミサイル攻撃による死亡が六十六名だった。
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—2031年7月 外交の動き
七月の第二週、北京とワシントンの間で非公式の接触が始まった。
チャンネルは複数あった。公式には、国連を舞台とした間接的な対話が続けられた。非公式には、第三国を経由した外交電報のやりとりが行われた。後に明らかになったところによれば、接触のチャンネルの一つはカタールの外交機関を通じたものだった。
交渉の内容は公開されなかった。
七月の第三週、人民解放軍の艦艇の一部が封鎖ゾーン内の配置を変えた。055型の何隻かが西方に移動し、台湾東方の封鎖ゾーンの実効的な密度が低下した。この変化が意図的なシグナルなのかどうかは不明だった。
同じ週、日本の外務省はワシントンと緊密な連絡をとりながら、独自の外交働きかけを行っていた。G7の枠組みを超えて、中東の主要産油国に対してエネルギー融通の可能性を打診し、東南アジアの国々に対して対中圧力への同調を求めた。成果は限定的だった。
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—2031年8月 封鎖の解除
封鎖の解除通告が国際海事機関に届いたのは、八月の第一週の金曜日の朝だった。
通告は「軍事演習の終了に伴い、前記の航行制限区域を解除する」という文言で記されていた。有効な理由は示されなかった。
解除の経緯については、後に複数の政府関係者と外交官がそれぞれの立場から証言した。それらを総合すると、経済制裁の段階的な強化、国際世論の変化、外交交渉における米中間の条件交換、そして台湾社会の耐性が当初の想定を上回ったことが、複合的に作用したとされた。
どの要素が決定的だったかについては、見解が分かれた。
封鎖が終わったという事実は確認できた。しかし何が封鎖を終わらせたかという問いに対する答えは、確定しなかった。
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—2031年8月 帰投
「かが」が佐世保に帰投したのは、封鎖解除の通告から五日後だった。
航行時間は二日半だった。艦は九州西方沖を北上し、長崎半島の南端を回って港に入った。
岸壁に特別な出迎えはなかった。自衛隊の規定に従い、家族の面会は翌日以降とされた。岸壁の係留作業が終わると、乗組員は艦内での各種処理を行い、段階的に下艦した。
飛行甲板のF-35Bは順次、格納庫に収納された。
各種機器の点検が始まった。レーダー、通信機器、武装システム、エンジン、艦体。任務中に蓄積されたデータが収集され、分析のために送られた。飛行機の飛行記録も同様に回収された。
これらの記録は、今後の訓練と装備の改善に使われる。
第一機動艦隊の他の艦艇も順次、各母港に帰投した。潜水艦「おうりゅう」は呉に戻った。補給艦「ましゅう」は横須賀に入港した。
補給艦の船倉は空に近かった。任務中に消費した燃料と物資の量は、事後の報告書に数値として記録された。
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終章 記録として
—事実の集計。
書類上の記録として、この一連の事態は「台湾周辺武力攻撃事態(二〇三一年)」と命名された。
戦闘行為に関わる主な数値は以下の通りである。
日本側の死者はゼロだった。負傷者は三名。いずれも艦艇の運動に伴う落下や衝突による事故であり、直接の戦闘による怪我ではなかった。
アメリカ側の死者は二名。ミサイル駆逐艦の電子戦機器の故障に伴う事故と報告された。
台湾側の軍人の死者は、台湾国防部が百九名と発表した。
台湾側の民間人の死者は最終的に三百四十七名と集計された。そのうち百八名が基隆へのミサイル攻撃、二百三十九名がその後の各種攻撃と封鎖下の医療逼迫によるものだった。在台日本人の死者は十一名だった。
中国側の発表はなかった。
台湾のGDPは、事態が続いた五ヶ月間で前年同期比で約十九パーセント減少した。日本のGDPは同期間に約三パーセント減少した。世界全体のGDP成長率は、同年の第二・第三四半期を通じて大幅に下方修正された。
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—残った問題
台湾の法的地位は変わらなかった。
台湾海峡の現状は、事態の前と比べて、外形的には大きく変化しなかった。中間線は維持された。台湾の政治体制は変わらなかった。中国の主権主張も変わらなかった。
変わったことがあった。
日本の機動艦隊が実際の有事において機能したという事実は、それ以降の地域の安全保障の前提条件を変えた。日本が「実力を持つ同盟国」として行動したことは、アメリカとの関係を変え、周辺国の日本に対する認識を変えた。それが地域の安定に資するのか、新たな緊張の種になるのかについては、見方が分かれた。
人民解放軍は今回の事態から何かを学んだ。何を学んだかは、外からは分からなかった。
日本は今回の事態から何かを学んだ。それは防衛省の報告書と、防衛大学校の研究紀要と、元自衛官の回顧録に、それぞれの形で記録されることになる。
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—海の凪
「かが」が佐世保に係留されて三日が経ったとき、定期点検の作業員が飛行甲板に上がった。
甲板の耐熱塗装の一部に摩耗が確認された。F-35Bの発着を繰り返したことによる摩耗で、次の出港前に補修が必要だった。
補修の見積もりは作成され、発注書が書かれた。調達のルーティンに従って、必要な資材が手配された。
作業はおよそ三週間で完了する見込みだった。
三週間後、「かが」は再び準備を整える。
海はまた凪いでいた。
※ 本作はフィクションです。登場する組織、人物、事件はすべて架空のものであり、実在の人物・団体・事象とは関係がありません。
※本作中の法律解釈、兵器のスペック、作戦の詳細はすべて架空のものです。
実際の防衛政策、自衛隊の能力、国際法の解釈とは異なる場合があります。
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