第五話「拒絶」
夜の空気は、やけに重かった。
息を吸うたびに、肺の奥がざらつく。
男は足を止めた。
振り返る。
——誰もいない。
分かっている。最初から、誰もいないことくらい。
それでも、確かに“何か”に追われている感覚があった。
スマートフォンが震える。
見ない。
もう、決めた。
あれを見た瞬間から、すべてがおかしくなった。
手の甲に浮かんだ、あの印。
最初は痣だと思った。
だが違う。
消えない。
時間が経つほどに、むしろ濃くなっている。
——関わるな。
直感がそう告げていた。
だから、逃げた。
仕事も、家も、全部置いて。
電源も切った。
位置情報も切った。
誰とも連絡を取っていない。
それでも。
“来る”。
震え。
ポケットの中で、確かに震えている。
あり得ない。
電源は切ったはずだ。
ゆっくりと、取り出す。
画面は——暗い。
だが、その暗闇の奥で。
文字だけが、浮かび上がっていた。
《対象確認》
息が止まる。
次の瞬間。
《応答なし》
指が震える。
触れてはいけないと分かっているのに、目が離せない。
《再通知》
やめろ。
《再通知》
やめろ、やめろやめろ——
《対象状態:不適合》
静寂。
すべてが止まったように感じた。
……終わったのか?
肩から力が抜ける。
足の震えが、ようやく収まっていく。
助かった。
そう思った、その時だった。
画面が、にじむ。
黒が、歪む。
文字が——書き換わる。
《回収対象:更新》
理解が、追いつかない。
何が、更新された?
その瞬間。
“後ろ”で、音がした。
振り向く。
誰もいない。
——はずだった。
視界の端。
確かに、何かが“いた”。
人の形をしている。
だが、輪郭が定まらない。
影のように揺れ、現実から浮いている。
男は後ずさる。
一歩。
もう一歩。
足がもつれる。
倒れる。
スマートフォンが、手から滑り落ちた。
地面に転がる画面に、
最後の表示だけが、静かに残っていた。
《回収対象:確定》
——翌朝。
その男の部屋は、もぬけの殻になっていた。
家具も、衣類も、すべて揃っている。
ただ一つ。
そこに住んでいたはずの人間だけが、いない。
そして。
誰一人として、
その存在を思い出すことはなかった。
だが。
記録だけは、残っている。
消去されていないデータの中に、
ただ一つの文字列が、静かに残っていた。
《回収対象:更新》




