9.女神の花だけでは、薬になりません(下)
聖域へ続く坑道は、居住区よりさらに深いところにあった。
奥へ進むほど、壁の彫刻は精巧になる。
花を手にする女性。
鉱石へ触れる女性。
槌を振るう女性。
すべて同じ人物を表しているらしい。
「姉は、石や金属そのものを作る方ではありません」
アルゼルが像を眺めながら言った。
「すでにそこにあるものの中から、美しい形を見つけることを得意としていました。素材が持っているものを、よりよい形へ導くといいますか」
「だからドワーフの方々が信仰しているのね」
「相性はよかったのでしょう」
「お名前は?」
「フィルネアです」
前を歩いていたガルドンが振り返った。
「女神の名を軽々しく呼ぶな」
「姉の名前を呼んで何が悪いのです?」
「本当に弟だという証拠は?」
「証拠ですか」
アルゼルは少し考えた。
「姉は細工をする時だけ左手を使います」
ガルドンが足を止める。
「像には右手で槌を持った姿が多いでしょう。しかし細かな細工をする時は左です」
「……ほかには」
「甘い果実酒が好きです」
「女神が酒を飲むのか」
「本人は嗜む程度と申します」
「お前はどう思う」
「姉の名誉のため、回答を控えます」
「もう十分答えておりますわよ」
ガルドンの表情が複雑になった。
疑ってはいる。
しかし、信仰を外から眺めただけの者には知りようのない話でもあるらしい。
「それと、私には幼少期というものがありませんので、幼い頃からとは申しませんが」
アルゼルは懐かしむように笑った。
「昔から、少々口うるさい姉でした」
「女神を口うるさいと言うな」
「事実ですよ」
そんな話をしながら進んだ先で、通路は完全に塞がれていた。
巨大な岩がいくつも重なり、向こう側が見えない。隙間から、かすかな風だけが流れてくる。
そして、花の香りも。
「この向こうですわね」
「ええ」
アルゼルの背中で、翼がわずかに動く。
「姉の神性を強く感じます」
ガルドンが岩壁へ手を当てた。
「無理に崩せば天井まで落ちる。だから手を出せん」
「では、上から順番に支え直せば?」
「簡単に言うな。これだけの岩だぞ」
イデアは横を見る。
「アルゼル」
「はい」
「出番ですわ」
「嫌な予感がします」
「荷馬車を持ち上げられるのでしょう?」
「持ち上げられますが」
「岩も持てますわね?」
「持てますね」
ガルドンがアルゼルを見る。
「本当に持てるのか」
「私を何だと思っておられるのです?」
「顔が整った細い男」
「訂正させていただきます」
結局。
岩そのものを持ち上げるのはアルゼル。どの岩から動かすか判断し、支柱を入れるのはドワーフたち。イデアは運べる範囲の木材や道具を渡す役となった。
力だけでは駄目だった。
アルゼルなら巨大な岩をひとつ持ち上げることはできる。
だが、適当に抜けば、その上にある岩が崩れてくる。
「止まれ!」
ガルドンが叫ぶと、アルゼルは岩を持ったまま止まった。
「右へ指二本分だ」
「この程度ですか?」
「もう少し」
「こう?」
「そこで止めろ!」
ドワーフたちが素早く支柱を差し込み、楔を打つ。
槌の音が坑道へ響いた。
イデアは、その作業を感心しながら見ていた。
力はアルゼルの方が圧倒的だ。けれど、この山を知り、岩を知る技術はドワーフたちのものだった。
どちらか片方では進めない。
何度か同じ作業を繰り返した末、人が通れるだけの隙間ができた。向こう側から、澄んだ空気が流れ込んでくる。
「通れますわ」
「まだ触るな」
ガルドンは慎重に周囲を確認すると、やがて小さく頷いた。
「行ける」
隙間の向こうへ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
坑道の中とは思えないほど、甘く澄んだ香りが満ちている。
少し先に、小さな空洞があった。
中央には一体の石像。長い髪を流し、片手に槌、もう片方に一輪の花を持った女性。
そして、その足元には、銀白色の花が群れて咲いていた。
青みを帯びた葉。花弁は白いのに、暗がりの中では淡い月光を宿しているように見える。
「これが……」
イデアは思わず近づいた。
「わしらは、フィルネアの花と呼ぶ」
ガルドンが言った。
「昔、地上の薬師は月白花と呼んでいたらしい」
「月白花」
確かに、その名が似合う。
白ではない。銀とも少し違う。
月明かりのような淡い色。
「綺麗ですわね」
イデアがそう言うと、ガルドンは何も答えなかった。
けれど先ほどより、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
アルゼルも花を眺めていた。
瞳は閉じたまま。それでも、姉の気配を感じているのだろう。
「姉らしい花です」
「美しいから?」
「ええ」
「ご自分と同じだと?」
「よくお分かりですね」
「褒めておりません」
ガルドンがため息をついた。
古い書物に従い、花は必要な分だけ採ることになった。
病人は三人。
まずは三輪。
根までは抜かない。種をつけている株にも触れない。
ガルドン自身が一本ずつ慎重に摘み取る。
「これで薬が作れますわね」
イデアが言う。
「薬草があればな」
「……そうでしたわ」
花だけでは使えない。
必要な薬草は、外にしかない。
イデアは少し考えたあと、隣を見る。
「アルゼル」
「また嫌な予感がします」
「近くの宿場まで、飛べばどれくらい?」
「直線なら、それほどかかりません」
山道を歩けば半日以上。荷馬車ならもっとかかる。
だが、アルゼルには谷も峠も関係ない。
「薬草を買ってきてくださいませ」
「私が?」
「ほかに誰が飛べるの?」
ドワーフたちを見る。
誰も翼は生えていない。
「……私ですね」
「必要なものを書きます」
「一人で大丈夫ですか?」
「何が?」
アルゼルは少し間を置いた。
「いえ」
「橋なら、もう落ちましたわよ」
「そういう意味ではありません」
それでも、彼は何か言いたそうだった。
イデアは気づかなかったふりをし、薬草の種類と必要量を紙へ書き出した。
幸い、谷底から回収した紙の大半は使える。濡れたものは坑道の空いた作業場を借り、布の上へ一枚ずつ広げて乾かしていた。
橋から落ちても、紙は残った。
この数日で、紙に対する執着だけはずいぶん強くなった気がする。
「これを薬屋へ見せて」
「分かりました」
「値段が高すぎたら値切ってくださいませ」
「天使に値切りを?」
「借金持ちの同行者なら当然です」
「私の地位が日に日に下がっていますね」
「早く行ってらっしゃい。それと、宿場では翼を晒さぬよう気を付けてくださいませ」
アルゼルはため息をついた。
「なるべく早く戻ります」
「ええ」
坑道の外へ向かいかけて、彼は一度だけ振り返った。
「本当に、ここから動かないでくださいね」
「子供ではありませんわ」
「そこは信用しています」
「では?」
「あなたの運を信用していません」
イデアは言葉に詰まった。
「……早くお行きなさい!」
アルゼルは少し笑い、大きな翼を広げて坑道の外へ消えていった。
◇
アルゼルがいなくなってから一刻ほど。
イデアは、自分が特に困っていないことを確認していた。
坑道にはドワーフたちがいる。危険な場所へ行くつもりもない。
濡れた紙を乾かし、無事だった荷物を仕分け、病人へ飲ませる水を運ぶ程度なら、一人でも十分できる。
そう思っていた。
「痛っ」
最初は、紙の入っていた木箱だった。
割れた角を持ち上げようとして、飛び出していた木片が指へ刺さった。
大した傷ではなく、血もすぐ止まった。
「これくらいなら」
布を巻く。
次に、水を運ぼうとした。
桶の持ち手が外れた。
「きゃっ!」
水をまともに浴びることは避けられたが、慌てて後ろへ下がった拍子に石へ踵を取られ、膝をついた。
擦りむいた。
「……これくらいなら」
また布を巻く。
そのあと、乾かしていた紙が一枚だけ通路へ飛んだ。
追いかける。
壁から突き出た金具へ袖を引っかける。
転びはしなかった。代わりに腕へ細い擦り傷ができた。
「これくらい……」
「伯爵」
後ろからガルドンの声がした。
振り返ると、彼はイデアの手と膝と腕を順番に見た。
「お前、さっきから何をしている」
「仕事ですわ」
「怪我を増やす仕事か?」
「違います!」
「一刻で三つ増えたぞ」
「数えないでくださる?」
ガルドンは呆れたように髭を撫でた。
「本当に妙な女だな」
「わたくしも好きでこうなっているわけではありませんわ」
幸い、どれも小さな傷だった。
橋から落ちたことに比べれば、怪我のうちに入らない。
イデア自身もそう思っていた。
だから、坑道の入口から大きな羽音が聞こえ、しばらくして薬草の包みを抱えたアルゼルが戻ってきた時も、
「お帰りなさい」
いつも通りに声をかけた。
「ただいま戻り――」
アルゼルが止まった。
「その手は?」
「何が?」
「布が巻かれています」
「木箱で少し切りましたの」
アルゼルの顔が下へ向く。
「膝は?」
「少し転びました」
「腕も赤いですね」
「引っかけただけです」
彼は薬草の包みを抱えたまま、しばらくイデアを見ていた。
もちろん瞳は閉じている。
それなのに、ひどく見られている気がした。
「……何ですの?」
「私が出てから、どれくらい経ちましたか?」
「一刻ほどでしょう?」
「その一刻で?」
「小さな傷ばかりですわ」
「三つ」
「ガルドンと同じところを数えないで!」
「ほかには?」
「ございません」
「本当に?」
「ございませんったら」
アルゼルは黙った。
普段ならここで何かしら余計な一言を添える男なのに、今日は言わない。
イデアは少し居心地が悪くなった。
「そんな顔をしなくても大丈夫ですわよ」
「どんな顔ですか?」
「……心配そうな顔」
一瞬、橋から落ちた時のことを思い出した。
初めて見た黄金の瞳。
あの時も、同じ顔をしていた。
——いや。
今は目を閉じている。
だから同じではない。
「とにかく」
イデアは話を切るように薬草の包みへ手を伸ばした。
「買えたのでしょう?」
「ええ。紙に書かれていたものは一通り」
「よかった」
「イデア」
「何です?」
「次から」
アルゼルは少し考えてから言った。
「できるだけ、あなたを一人にはしないことにします」
イデアは瞬いた。
「なぜですの?」
「一刻離れただけで傷が三つ増えました」
「偶然です!」
「あなたの場合、その偶然が多すぎます」
「ですが、今後だって別行動が必要になることくらい――」
「その時は、なるべく別の方法を考えます」
声は穏やかだった。冗談を言っている様子はない。
「父から、あなたを助けるよう言われています。それに私は、あなたの因果を見届けると申し上げました」
「……そうでしたわね」
「そばにいれば、防げるものもあります」
橋から落ちた時のように。
椅子が壊れた時のように。
今回の小さな傷だって、彼がいればひとつくらいは防げたのかもしれない。
「責任感が強いのですね」
イデアが言うと、アルゼルは少しだけ笑った。
「そういうことにしておきましょう」
「何ですの、その言い方」
「いえ」
アルゼル自身にも、それが理由のすべてなのかは分からなかった。
父に任されたから。
加護を授けたから。
因果を見届けると約束したから。
どれも間違ってはいない。
ただ。
自分が離れていたわずかな間に、イデアの身体へ傷が増えていることが、思っていた以上に気に入らなかった。
その感情に名前をつけるほど、二人はまだ長く一緒にいない。
だから今は、責任ということにしておけばよかった。
◇
薬は、その日のうちに作ることになった。
古い書物を卓へ広げ、イデアとガルドン、それに坑道で薬の扱いを任されている年配のドワーフが手順を確認する。
まず、買ってきた薬草を分ける。
熱を抑えるもの。咳を鎮めるもの。身体へ溜まった悪いものを排出しやすくするもの。
それぞれを決められた量だけ鍋へ入れ、水で煎じる。
煮詰めすぎてはいけない。火を弱め、色が十分に出るまで待つ。
「月白花は?」
イデアが尋ねる。
年配のドワーフが古い頁を指した。
「最後だ」
「一緒に煮ない?」
「香りが飛ぶほど煮立ててはならん、とある」
煎じた薬を火から下ろし、少しだけ落ち着かせる。そこで初めて、細かくした月白花の花弁を加えた。
銀白色の花が薬液へ触れる。
淡い光が、ほんの一瞬だけ広がった。
「……綺麗」
イデアが呟く。
色そのものが大きく変わったわけではない。
けれど、薬草特有の苦い匂いの中へ、あの聖域で嗅いだ澄んだ香りが混ざった。
「これで?」
「書物どおりなら」
ガルドンも不安そうだった。
病人のうち、まず最も症状の重い子供へ少量を飲ませる。
ひと口。
ふた口。
母親が身体を支えながら、ゆっくり飲ませた。
すぐに何かが起きるわけではない。熱が一瞬で下がることもなければ、起き上がって走り出すこともなかった。
「様子を見ましょう」
イデアは言った。
薬とは、本来そういうものだ。奇跡ではない。
一刻ほど経つと、子供の呼吸が少しだけ穏やかになった。
さらに時間が過ぎると、額を触った母親が目を見開いた。
「熱が……」
完全に下がったわけではない。
だが、先ほどまで焼けるようだった身体から、明らかに熱が引き始めている。
子供が眠った。苦しさから意識を失うような眠りではなく、呼吸を整えながら静かに。
母親の肩から力が抜けた。
ガルドンは何も言わなかった。ただ、長い髭の奥で、強く唇を噛んでいる。
「ほかの方にも」
イデアが声をかけた。
「同じように作りましょう」
月白花だけでは、病を治せなかった。
薬草だけでも、これまで十分には効かなかった。
けれど、ふたつを合わせることで、ようやく届いた。
イデアは卓の上に残った一輪の月白花を見た。
銀白色の花弁。
小さな花。
これだけを見れば、借金を返せるようなものには到底見えない。けれど、使い方次第で既存の薬の価値を高めることができる。
そして坑道の聖域には、まだ花がある。種もある。
もし、小ラズマイトでも育てられるなら——。
そこまで考えて、イデアは止めた。
この花は、自分のものではない。ここに住むドワーフたちが長く守ってきたものだ。
先にやるべきことがある。
「ガルドン」
「何だ」
「病人が落ち着いたら、お話があります」
「花を売れと言うのか」
「違います」
イデアは月白花を見る。
「小ラズマイトで育てられないか、相談したいのです」
ガルドンの顔が険しくなる。
「金にするためか」
「それもございます」
「正直だな」
「嘘をついても借金は減りませんもの」
イデアは苦笑した。
「ですが、勝手に持っていくつもりはありません。花を荒らさない。独占しない。あなた方が薬として必要とする分を優先する。そのうえで、増やせるのなら、種を少し分けていただけないかと」
「売るのだろう」
「売れる相手には、正当な代金をいただきます」
「女神の花で商売を?」
「薬を作り続けるにも、畑が必要です。人手が必要です。道具も必要です。必要であれば、利益を出せるところからはきちんと代金をいただくべきですわ」
ガルドンは黙った。
「神聖なものを、誰にも触れさせず奥へしまっておくだけでは、病人は救えません」
イデアは静かに続けた。
「利益を得ることと、敬意を失うことは同じではない。わたくしは、そう考えます」
ガルドンはすぐには答えなかった。
やがて、病室で眠る子供を一度見て。
「病人が治ってからだ」
「ええ」
「種を渡すとはまだ言っていない」
「承知しております」
「それから」
ガルドンの視線が、アルゼルへ向く。
「入口も、崩れた通路も直してもらう」
「もちろんですわ」
「お前だけではない」
「分かっております」
イデアもアルゼルを見る。
「そこの細い男にも働いてもらう」
「私はすでに巨大な岩をいくつも持ち上げましたが」
「明日はもっとある」
「天使に石運びを?」
「女神の弟なのだろう」
アルゼルが沈黙した。
「……姉を持ち出すのは卑怯ではありませんか?」
「家族を助けるのは当然ですわね」
イデアが微笑むと、彼は閉じた瞳のまま、しばらく天井を仰いだ。
「下界へ来てから、私への敬意が急速に失われている気がします」
「敬意ならございますわ」
「本当ですか?」
「荷馬車一台分ほど」
「重いのか軽いのか分かりませんね」
「あなたなら持ち上げられる程度です」
「それでは軽いではありませんか」
イデアは笑った。
橋が落ちた。
荷馬車を失った。
農具も食料も、一部は駄目になった。
紙だって、何枚かは取り戻せなかった。
マルタも今はどこにいるのか分からない。
それでも、その先で出会ったものは。
忘れられていた道。
優れた技術を持つドワーフたち。
病を治すための知識。
そして、既存の薬の力を引き出す月白花。
少なくとも、橋から落ちた直後よりは、収支の見え方が変わってきている。
「アルゼル」
「何でしょう」
「今回の災難」
イデアは卓の上で淡く光る月白花を見た。
「黒字になるかもしれませんわね」
アルゼルは、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「最初からそう申し上げているでしょう」
「まだ決算前ですわ」
「厳しいですね」
「領主ですもの」
そう返しながら、イデアはふと自分の指へ巻いた布を見る。
アルゼルも同じところを見ていた。
「……もう痛くありませんわよ」
「聞いていませんが」
「顔に書いてあります」
「目は閉じていますよ」
「そこではありません」
アルゼルは小さく笑った。
だがその日以降、何か特別な理由がない限り、彼がイデアから長く離れることはなくなった。
本人は、父から任された仕事だからだと言った。
加護を与えた者として、因果を見届ける責任があるからだとも。
その説明は、おそらく間違ってはいなかった。
ただ。
それだけだったのかどうかを。
この時の二人は、まだ知らなかった。




