8.女神の花だけでは、薬になりません(上)
「多すぎますわ!」
イデアの声が坑道へ反響した。
七十二柱。
そういえば、アルゼルは初めて会った時にそんなようなことを言っていた。だが、あの時のイデアは屋敷を失い、借金を抱え、挙げ句に廃教会から天使まで現れた直後である。兄弟が何人いるのかまで気にする余裕などなく、今の今まですっかり忘れていた。
改めて考えれば、アルゼルを含め、父神の直系だけでそれだけの子がいるということになる。これまでの話を聞く限り、その誰かが地上のどこかで信仰されていたとしても、もはや驚くべきなのかどうか分からなくなってきた。
「父は子沢山ですから」
「聞けば聞くほど、お父様への不信感が増していきますわね」
「神の繁栄は、信仰の繁栄でもあります」
「邪神と呼ばれる神であっても?」
「それは人が定めた分類です。しかし父は、そう呼ばれると少し悲しそうにします」
アルゼルは穏やかに微笑んでいる。
先ほど橋から落ちた時、一瞬だけ開かれていた瞳は、もう閉じられていた。
黄金の色が脳裏をよぎり、イデアは慌てて目の前のドワーフたちへ意識を戻す。
今はそれどころではない。
「お前たち」
先頭に立つ灰色髭のドワーフが、低い声を発した。
「さっきから何の話をしている」
イデアの胸ほどしかない背丈に対し、肩幅は人間の成人男性よりも広い。節くれ立った両腕は太く、手にした戦斧は、イデアなら持ち上げるだけでも苦労しそうだった。
腰まで伸びた灰色の髭には、鉄製の飾り輪がいくつも編み込まれている。
その男だけではない。
背後に並ぶドワーフたちも、揃って武器を構えていた。
イデアは、先ほど地面へ置いた斧から十分に手を離したまま、両手を少し上げる。
「まず、武器を下ろしていただけませんこと?」
「先に坑道の壁を壊したのはお前たちだ」
「わたくしが壊したわけではありません。荷馬車が橋から落ちて、たまたま岩壁へぶつかったのです」
「荷馬車は勝手に橋から落ちん」
「わたくしの荷馬車は落ちましたわ!」
落ちたのだから仕方がない。
それどころか本人まで一緒に落ちた。
好きで起こした事故だと思われてはたまらない。
「ガルドン」
後ろにいた若いドワーフが声をかけた。
「あいつらの話、本当らしい。上へ出た奴が確認した。谷に橋の残骸がある」
ガルドンと呼ばれた男は、それでもすぐには戦斧を下ろさなかった。
「それで、ラズマイト家の当主が偶然この坑道へ落ちてきた、と?」
「信じがたいのは理解しております」
イデアは胸へ手を当てる。
「ですが、わたくしの身に起こることは、たいてい信じがたいことですの」
「自慢することではありませんよ」
「あなたは黙っていて」
横から口を挟んだアルゼルを睨み、それからイデアはガルドンへ向き直った。
「わたくしたちは盗掘者ではありません。この坑道の存在さえ、先ほどまで知りませんでした」
「ラズマイトを名乗る者が?」
「現在のラズマイト家に残された記録には、この場所について何もございません」
「都合のよい話だ」
「都合がよければ、屋敷も財産も領地も失っておりませんわ!」
思わず声が大きくなった。
ガルドンの太い眉がわずかに動く。
イデアは息を整え、今度は少し声を落とした。
「旧ラズマイト領の大半は、借金の返済として王家へ返還されています。領主館も、すでにラズマイト家のものではありません。わたくしに残されたのは、小ラズマイトと呼ばれる荒れた土地だけです」
「それで?」
「五年以内に残った借金を返せなければ、その土地も失います。わたくしは、その現状を自分の目で確かめるために向かっている途中でした」
「そして今度は、わしらの坑道を金にするつもりか」
「そのような話は一言もしておりません!」
「昔のラズマイトも、最初は似たようなことを言った」
ガルドンの声に、別の硬さが混じった。
周囲のドワーフたちも表情を険しくする。
「昔、この山の向こうにいたラズマイトの者たちは、わしらと取引をしていた。坑道へ続く道を使わせ、こちらも向こうへ鉱具や細工物を運んだ。女神を祀ることにも口を出さぬと約束していた」
そこでガルドンは鼻を鳴らした。
「だが、人間どもの教会が女神を邪なるものと呼ぶようになってから、地上の者は来なくなった。道は閉じられ、取引も途絶えた。困って使いを出しても、ラズマイトから返事はなかった」
イデアは言葉を失った。
自分が知るラズマイト家の歴史には、そんな話は残っていない。
もともと記録の多くが失われている。継母の代に処分されたものもあるだろうし、それ以前から意図的に残されなかった可能性もある。
だが、記録がないからといって、起きたことまで消えるわけではない。
「そのことについて、わたくしは何も知りませんでした」
「知らなかったで済むと思うか」
「済むとは思いません」
イデアはまっすぐにガルドンを見た。
「わたくしが生まれる前のことです。ですから、自分には責任がないと申し上げることもできます」
「なら、そう言えばいい」
「ですが、わたくしはラズマイト家の名も爵位も、自分のものとして取り戻しました」
奪われた家を取り戻した。
その名前を自分のものだと主張した。
ならば、その名についてくるものを、都合よく選り分けることはできない。
「家の栄誉だけを受け取って、都合の悪い過去だけは自分と無関係だとは申し上げませんわ」
ガルドンは黙っている。
「だからといって、わたくしがここで頭を下げれば過去が消えるとも思っておりません。まずは、何があったのかを教えてください。それから、今のわたくしにできることを考えます」
「できること?」
「最初に、壊した入口を直します」
イデアは背後を振り返った。
砕けた荷馬車。
崩れた岩壁。
どう見ても修理費はこちら持ちである。
「それから、ほかに損害があるなら確認します。弁償できるものは、できる限り弁償いたしますわ」
「金がないと言ったばかりだろう」
「ございません」
「胸を張るな」
「ですが、働くことならできます」
背後でアルゼルが小さく笑った。
イデアが振り返る。
「何がおかしいの?」
「いいえ。あなたらしいと思いまして」
「あなたも働くのですよ」
笑みが止まった。
「私も?」
「当然でしょう」
「橋が崩れたことまで私の責任にされるのですか?」
「『問題なさそうです』とおっしゃいましたわよね」
「あれは外見上の話です」
「責任逃れは美しくありませんわよ」
アルゼルが黙った。
イデアは、ほんの少しだけ勝った気分になった。
ガルドンは二人を交互に見たあと、ようやく戦斧を下ろした。
「信用したわけではない」
「ええ」
「だが、橋から落ちてきたという話だけは本当らしい。坑道の奥へ連れていく」
「奥へ?」
「お前たちが何者なのか、こちらも見極める」
そこでガルドンの視線が、アルゼルの白い翼へ向いた。
「特に、そいつだ」
「私ですか」
「女神を姉と呼んだな」
「ええ」
「もう一度言ってみろ」
「あなた方が女神と呼んでいる方は、私の姉です」
短い沈黙が落ちた。
ドワーフたちが互いに顔を見合わせる。
「女神の弟?」
「神の直系、七十二柱の一柱。アルゼルと申します」
アルゼルは胸へ手を当て、優雅に一礼した。
「見てお分かりのとおり、高位の天使です」
「分からん」
ガルドンは即答した。
アルゼルの口元が、ほんのわずかに固まる。
「この翼が見えませんか?」
「見えている」
「神々しさは?」
「顔が整った、ひょろ長い男にしか見えん」
「この私を、顔が整っているだけと?」
「腕も細い」
「先ほど荷馬車を一人で持ち上げましたが」
「髭もない」
「天使に髭は必要ありません」
「ものを作った手でもない」
ガルドンが、アルゼルの白く滑らかな手を見た。
「女神は、石や金属の中から美しいものを見つけ、それを形にする方だ。自分の手で何も作らぬ者が、美しい顔をしているというだけで軽々しく姉と呼ぶな」
アルゼルは自分の手を見た。
「私は、生まれながらに完成された美を持っています」
「それはお前が作ったものではなかろう」
「……確かに」
アルゼルが言い負かされた。
イデアは思わず彼を見る。
「どうかなさいましたの?」
「少々、価値観の違いに衝撃を受けています」
「世の中には、あなたのお顔にさほど価値を感じない方もいらっしゃるのね」
「由々しき事態です」
どうやら本気で傷ついているらしい。
ガルドンは鼻を鳴らし、坑道の奥へ背を向けた。
「ついてこい。妙な真似をすれば岩の下へ埋める」
「わたくし、もう十分に岩と縁がありますの。遠慮いたしますわ」
◇
坑道の内部は、外から想像していたよりずっと広かった。
壁には一定の間隔で灯りが取りつけられ、薄青い光が通路を照らしている。天井を支える梁には細かな彫刻が施され、蔦や花、鉱石、それに翼を広げた女性の姿が繰り返し刻まれていた。
単なる装飾ではない。
梁の継ぎ目。
壁の補強金具。
扉の取っ手。
どれも実用品として機能しているのに、そこへ必ず何かしら美しい意匠が加えられている。
「綺麗ですわね」
イデアが思わず呟くと、前を歩くガルドンが少しだけ振り返った。
「人間にも分かるか」
「美しいものを美しいと感じるのに、種族は関係ありませんでしょう?」
「そこの男より見る目がある」
「私も美しいと思っています」
アルゼルが口を挟んだ。
「お前は、自分以外のものを本当に見ているのか?」
またアルゼルが黙った。
今日はどうにも分が悪い。
やがて通路の先に、ドワーフたちの居住区が現れた。
石をくり抜いて造られた小さな家々。
鍛冶場。
共同の食堂。
鉱石を選り分ける作業場。
ただし、思ったより活気がない。
炉には火が残っているのに、槌を打つ音が聞こえない。運搬用の台車も壁際へ寄せられ、鉱石を積んだまま止まっている。
住んでいる者の数も少なかった。
老人。子供。女たち。
働き盛りと思われる者もいるが、その何人かはひどく疲れた顔をしている。
そして、外から入ってきたイデアたちを見る目は冷たい。
「ガルドン、その人間は?」
「ラズマイト家の当主を名乗っている」
ざわめきが広がった。
「ラズマイト?」
「何をしに来た」
「また坑道を取り上げに来たのか」
イデアは反論しなかった。
彼らの側から見れば、そう疑う理由がある。
ただ、その敵意とは別に、居住区全体へ張りつめた不安が漂っていることが気になった。
その時。
奥にある石造りの小部屋から、激しい咳が聞こえた。
イデアが足を止める。
「病人が?」
「お前には関係ない」
ガルドンはそう言ったが、ちょうど扉が開いた。
若いドワーフの女性が出てくる。
腕には、まだ幼い子供が抱かれていた。
頬は赤く、唇は乾いている。呼吸も浅い。
「熱があるのですか?」
イデアが一歩近づくと、母親は反射的に子供を抱き寄せた。
「近づくな」
「害を与えるつもりはありません」
「人間の施しなどいらん」
「施しではなく――」
「イデア」
アルゼルが静かに呼んだ。
止めるような声ではなかった。
ただ、相手が怯えていることに気づけと告げる声だった。
イデアは足を止める。
「……失礼しましたわ」
少し距離を取ってから、ガルドンを見る。
「同じ症状の方が、ほかにも?」
「三人だ」
「原因は?」
「分からん」
ガルドンの顔が曇った。
「三月ほど前から、奥の坑道で崩落が続いた。その頃から咳と熱を出す者が増えた」
「外の医者や薬師には?」
「使いを出した」
「来てくださらなかった?」
「近くの町では病を持ち込むなと言われた。別の場所から薬だけは何度か買ったが……」
ガルドンは奥歯を噛んだ。
「女神の花は?」
不意にアルゼルが尋ねた。
イデアは隣へ顔を向ける。
なぜ今、花の話なのだろう。病人に必要な薬草について話していたはずなのに、アルゼルは何か思い当たったようだった。
ガルドンも訝しげに彼を見る。
「知っているのか」
「姉に縁の深い土地に咲く花です。銀白色の花弁と、青みを帯びた葉を持つ」
ドワーフたちの表情が変わった。
「……本当に知っているのか」
「姉ですから」
「まだ信じてはおらん」
「ずいぶん慎重ですね」
「お前が胡散臭いだけだ」
「私ほどの天使なら、初対面でももう少し神々しいと思われてよいはずなのですが」
「……それは、どなたの評価ですの?」
「私自身の評価です」
「ご自分でおっしゃっているだけではありませんか!」
「客観的に見ても妥当だと思います」
「どこが客観的ですの!」
思わず口を挟みながらも、イデアは先ほどの問いを忘れてはいなかった。
アルゼルがこの状況でわざわざ花のことを尋ねた以上、ただ姉に縁があるから気になった、というだけではないのだろう。
「花は残っている?」
イデアの呆れた声を聞こえなかったことにして、アルゼルは再びガルドンに尋ねた。
ガルドンはしばらく黙ったあと、頷いた。
「聖域にあるはずだ」
「あるはず?」
「奥へ続く道が崩れた。完全には入れん」
ガルドンは病室の方を見た。
「昔の書物には、女神の花が病に使えると書かれている」
「でしたら、その書物を見せていただけません?」
「読めるのか」
「人間の文字で書かれた部分があるなら」
しばらく迷った末、ガルドンは一人のドワーフへ声をかけた。
やがて持ってこられたのは、革表紙の古い冊子だった。
ページの多くは見慣れない文字で埋められている。
だが、その間に古い王国文字で書かれた箇所があった。
「……薬師の記録ですわね」
イデアは慎重に頁をめくった。
昔、地上との往来があった時代に、人間の薬師がドワーフたちから花の使い方を聞き取り、書き残したものらしい。
そこには、花の形。
採取時期。
乾燥方法。
そして薬としての使い方が記されていた。
――なるほど。アルゼルは、これを知っていたから花のことを尋ねたのだ。
イデアは一行を読み、眉を寄せる。
「これ……花だけでは駄目ですわ」
「何?」
ガルドンが身を乗り出す。
「『フィルネアの花は、それ自体を病人へ与えるものにあらず』」
さらに続ける。
「『病に応じた草根を煎じ、その薬へ少量を加えることで、本来の薬効を強く引き出す』」
アルゼルも覗き込んだ。
「なるほど」
「知りませんでしたの?」
「姉が花を育てていたことは知っていますが、人間やドワーフがどのように薬へ利用していたかまでは」
「役に立つところと立たないところの差が激しいですわね」
「天使にも専門があります」
イデアは読み進めた。
熱、咳、毒。
傷の化膿。
それぞれに使う薬草が違い、フィルネアの花は最後に少量を加える。
万能薬ではない。
だが、正しく使えば普通の薬草だけで作った薬よりも強い効果を引き出せるらしい。
「この病に使うなら、熱を抑える草と、咳を鎮める根が必要ですわ」
「ない」
ガルドンが即答した。
「ない?」
「とうに使い切った」
坑道だけで採れるものではない。
外から仕入れていた薬草の在庫は、病人が出始めてからすぐに尽きたという。
残っているのは傷薬程度。それでは今の病人には使えない。
花があっても、薬がない。
「では」
イデアは本を閉じた。
「先に、花のところまで行きましょう」




