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7.橋が落ちたら、坑道へ着きました


 六日目の午後。

 王都を発ってから、イデアとアルゼルは初めて本格的な山間部へ入っていた。

 昨日まで走っていた広い街道はすでに外れ、道幅は荷馬車一台通るのがやっとというほど狭くなっている。左右には灰色の岩山が迫り、ときおり木々の隙間から深い谷が見えた。はるか下では川が流れているらしく、姿は見えなくとも絶え間ない水音が聞こえてくる。

 マルタも平地を歩いていた時より慎重だった。一歩ずつ確かめるように蹄を置き、荷馬車を引いていく。

 御者台で地図を広げたイデアは、道の先を指で辿った。


「この先の橋を渡れば、しばらく山腹に沿って進むことになりますわ」

「次の宿場までは?」

「順調なら半日ほどです。ただ、その先は宿の間隔がさらに開くようですから、また野宿になるかもしれませんわね」


 地図では、橋を渡った先の道が大きく曲がっている。

 谷へ直接下りることはできないため、荷馬車でも通れる緩やかな傾斜を求めて山腹を何度も折り返し、さらに山を回り込んでから低地へ下るらしい。

 地図の上で直線を引けば、大した距離には見えない。

 だが、人間も荷馬車も、天使のようには飛べないのだ。


「昨日の宿の主人が申していた橋ですわね。補修されたのは二年前」

「比較的新しいですね」

「わたくしの人生において、年月はさほど信用できませんの」

「橋の年齢まで疑うのですか?」

「数千年に一度の隕石が、家督を取り戻した日に屋敷へ落ちる人生を送ってからおっしゃい」

「それは難しいですね」

「でしょう?」


 そんな話をしているうちに、橋が見えてきた。

 深い谷の両岸を結ぶ、石と木で造られた橋だった。

 幅は狭い。荷馬車が一台通れば、人が横を歩く余裕はほとんどなさそうである。両端と橋脚には石が使われているが、実際に車輪が通る部分は厚い木板だ。

 古びてはいるものの、昨日聞いた通り補修跡も見える。

 少なくとも、遠目には今すぐ崩れそうな橋には見えなかった。

 だからこそ、イデアには不安だった。


「アルゼル」

「はい」

「先に見てきてくださいませ」

「橋を?」

「ええ。何か変なところがないか、よく見てきて」

「ずいぶん橋を信用していませんね」

「橋ではなく、わたくしの運を信用しておりませんの」

「なるほど」


 アルゼルは素直に御者台から降りた。

 山へ入ってからは人と出会うこともほとんどなくなったため、窮屈な外套は脱いでいる。大きな白い翼を背中へ寄せたまま、彼は一人で橋へ向かった。

 一歩。

 二歩。

 中央近くまで進み、床板を踏みしめる。

 位置を変えながら橋脚や継ぎ目を確かめたあと、アルゼルは振り返った。


「問題なさそうです」

「あなたの体重で確かめても、荷馬車が通れるかどうかは分からないでしょう」

「私の存在感には、相応の重みがあります」

「精神的な重さは測っておりません」


 アルゼルが戻ってくる。


「目立った傷みはありません。補修された部分も、外から見る限りではしっかりしています」

「そう」


 それでもイデアは、橋をしばらく睨んだ。

 ここまで来た以上、渡らないという選択肢はない。

 山道を引き返せば昨日の宿へ戻るだけでもかなりの時間を失うし、別の道がある保証もなかった。

 イデアは手綱を握り直した。


「ゆっくり行きますわよ」


 マルタの首筋を軽く撫でる。


「大丈夫。急がなくていいわ」


 穏やかな牝馬は鼻を鳴らし、橋へ一歩を踏み出した。

 木板が、ぎし、と鳴る。

 もう一歩。

 荷馬車の前輪も橋へ乗った。

 慎重に進む。車輪が回るたび、木の軋む音が谷へ響いた。

 イデアは前だけを見る。

 やがて半ばまで進んだ。

 何も起こらない。


「ほら」


 隣に座るアルゼルが言った。


「問題ありません」

「言わないで」

「何をです?」

「そのようなことを口にすると――」


 みしり。

 橋の下から、低い音がした。

 イデアは目を閉じた。


「……やはり」

「まだ何かが折れたと決まったわけでは――」


 ばきん。

 今度は、はっきり聞こえた。


「アルゼル!」

「はい」

「言葉には責任をお持ちになって!」

「私の発言が原因ではないと思います」


 言い合っている場合ではなかった。

 橋全体が、ぐらりと谷側へ傾いた。

 マルタが鋭くいななく。

 後輪のひとつが床板を突き破り、荷馬車が大きく傾いた。荷台で固定していた農具や木箱が縄に引かれ、一斉に片側へ寄る。


「マルタ、前へ!」


 イデアが手綱を振るう。

 だが、恐怖に硬直したマルタは前へ進めなかった。

 橋の下で何かが次々に折れていく。

 ぎしり。

 ばきり。

 嫌な音が連続し、荷馬車の後部がさらに沈んだ。

 このままでは、馬まで一緒に谷へ引きずり込まれる。


「馬を外します!」


 アルゼルが御者台から飛び降りた。

 傾いた足場など気にする様子もなくマルタの脇へ回り、荷馬車と馬をつなぐ牽引用の革帯へ手を伸ばす。


「普通に外している時間は――」

「ありませんね」


 淡い金色の光が走った。

 革帯が切れる。

 同時に、アルゼルが残った留め具を外した。


「行きなさい!」


 マルタは一瞬だけ立ち尽くした。

 だが、背後で橋が大きく軋んだ瞬間、本能に押されるように走り出した。

 橋の向こう側へ。無事な地面へ。


「マルタ!」


 イデアが名を呼ぶ。

 牝馬は振り返らなかった。そのまま山道の向こうへ駆けていく。

 けれど、生きている。

 それを確かめるより先に、イデアの足元が消えた。


「――っ!」


 橋の床板が崩れた。荷馬車が谷側へ滑る。

 イデアの身体が御者台から放り出された。

 空が見えた。

 次に橋。

 岩壁。

 深い谷。

 すべてが一度に視界を流れていく。

 自分が落ちている。

 そう理解した時には、声すら出なかった。

 白いものが視界いっぱいに広がった。

 大きな翼だ。

 次の瞬間、強い腕がイデアの身体を抱き止める。


「イデア!」


 アルゼルだった。

 背中の翼が一気に広げられる。

 羽ばたきが谷の空気を叩くと、落下の勢いが急激に弱まり、ふわりと身体が浮く。

 イデアは反射的にアルゼルの胸元へしがみついた。

 身体が止まるまで、ほんの一瞬だったはずだ。

 それなのに、ひどく長く感じた。


「怪我は?」


 すぐ近くから、普段より低い声がした。

 イデアが顔を上げる。

 そして、息を止めた。

 アルゼルの目が、開いていた。

 黄金。

 そう聞いてはいた。

 以前に本人から教えられている。自分の瞳は金色なのだと。

 見せましょうか、とまで言われた。

 その時のイデアは即座に断った。

 必要もないのに、人の感情へ影響するかもしれないものを見る理由などないと思ったからだ。

 けれど。

 聞いていた色と、実際に目の前で見る色は、まったく違った。

 陽光とも、金貨とも違う。

 深い金色の奥に、光そのものを閉じ込めたような瞳だった。

 そして今、そのふたつが真っ直ぐイデアだけを見ている。

 心配そうに。

 ただ、彼女が無事なのかを確かめるためだけに。

 ほんの一瞬だけ、目が合う。

 アルゼルの表情が変わる。

 自分が目を開いていることに、そこで初めて気づいたようだった。

 次の瞬間、彼は素早く顔を横へ逸らした。

 ほとんど同時に、イデアも反対側へ顔を向けた。


「……っ」


 胸の奥が、どくん、と大きく鳴った。

 さらにもう一度。

 自分でも分かるほど、心臓が速い。うるさいほどに。


「失礼しました」


 アルゼルの声がする。

 恐る恐る横目を向けば、すでに瞳は閉じられていた。

 いつもの顔だ。

 細く閉じられた両目。

 長い金髪。

 整いすぎていて腹立たしい顔立ち。

 けれど、いつもの余裕のある微笑はない。

 眉のあたりに、まだはっきりと心配そうな色が残っている。


「急でしたので」

「……何が?」

「目を開いてしまいました」

「そう」


 イデアは短く答えた。

 それ以上は言わなかった。

 言えなかった。

 胸がまだうるさい。

 あの瞳のせい――ではなく。

 橋から落ちたのだから。谷へ真っ逆さまに落ちたのだ。

 心臓くらい速くなる。

 むしろ速くならなければおかしい。

 そうに決まっている。


「それより」


 イデアは少し強引に話を戻した。


「わたくしは大丈夫ですわ」


 アルゼルが顔を戻す。

 瞳は閉じたままだ。


「本当に?」

「ええ」

「どこか打っていませんか?」

「まだ何も」

「痛むところは?」

「ございませんったら」


 何度確かめるつもりなのだろう。

 そう言い返そうとして、やめた。

 アルゼルの顔が、思っていた以上に真剣だったからだ。

 いつものように冗談を言う気配もない。翼も強く張ったままで、まだイデアを抱えている腕にも力が残っている。


「……大丈夫ですわ」


 今度は少しだけ静かに言った。

 ようやくアルゼルの肩から力が抜けた。


「そうですか」


 その直後だった。

 谷底から、凄まじい轟音が響いた。

 二人が振り返る。

 荷馬車が岩場へ激突していた。

 車体が砕ける。外れた車輪が跳ね、荷物が四方へ散っていった。

 イデアの顔から血の気が引く。


「……荷馬車」

「落ちましたね」

「農具」

「一緒に」

「種」

「おそらく」

「食料」

「それも」

「紙」


 アルゼルが一瞬黙った。


「……確認しましょう」

「今すぐですわ!」


 アルゼルはイデアを抱えたまま、谷底より少し高い岩棚へ降りた。

 足が地面へつくや否や、イデアは腕から抜け出す。

 そして真っ先に上を見た。


「マルタは?」

「橋を渡り切りました」

「そのあとが見えません」

「少なくとも、橋が崩れた時には安全な場所にいました」


 それだけでは安心できない。

 怯えた馬が山中を駆け続ければ、それはそれで危険である。

 だが今のイデアには追う手段がなかった。橋は崩れ、自分たちは谷底にいる。

 マルタは谷の上だ。


「……あとで必ず探しますわよ」

「ええ」


 アルゼルも迷わず頷いた。

 その返事に少しだけ安心してから、二人は斜面を慎重に下った。

 幸い、完全な絶壁ではない。岩と木の根を頼れば、人でも歩いて谷底へ降りられる程度の傾斜だった。

 やがて、壊れた荷馬車が見えてきた。

 悲惨だった。

 車輪は二つ外れ、車体は中央から大きく割れている。樽の一つは完全に砕け、中身の水は岩の間へ消えていた。食料袋にも破れたものがあり、乾燥豆が地面へ散っている。

 農具も無事ではない。

 柄の折れた鍬。

 曲がった金具。

 岩の隙間へ飛び込んだ袋。


「……いくらかは、残っておりますわね」


 イデアは自分へ言い聞かせるように呟いた。

 全部ではない。

 種の袋は何個かが岩の間へ引っかかり、中身まで失わずに済んでいる。保存食も、縄でまとめていたものには無事なものがあった。

 農具もすべてが使えなくなったわけではない。


「紙は?」


 イデアは荷台だった残骸へ駆け寄った。

 王都で買った紙は、一か所にはまとめていなかった。

 旅の途中で雨に遭うことを考え、小さな木箱へいくつかに分けてある。さらに紙束ごとに布で包んで紐を掛け、箱の内側には水を弾くよう油を含ませた布まで敷いていた。

 紙は安くない。

 しかも、小ラズマイトへ着いてすぐ同じものを買い足せる保証もない。

 だから念には念を入れていた。その用心が、思いがけないところで役に立った。


「ありましたわ!」


 ひとつ目の箱は、荷台の底板へ縄で括りつけられたまま残っていた。

 角は潰れている。蓋にもひびが入っている。

 それでも開けてみれば、内側の布はほとんど濡れていなかった。

 紙束も無事だ。


「よかった……」


 思わず本音が漏れる。


「農具を見つけた時より嬉しそうですね」

「記録がなければ領地経営などできませんもの!」

「鍬がなくても畑は耕せませんが」

「どちらも必要です!」


 ふたつ目の箱も見つかった。

 こちらは岩へぶつかって蓋が半分外れていたが、中の束は布で包まれていたおかげで大半が残っている。外側の数枚には水と泥が染み込んでいた。

 三つ目は、少し離れた場所で割れていた。


「ああ……」


 紙が散っている。

 何枚かは泥水へ落ち、すでに使い物にならない。

 風に飛ばされたのか、岩場の向こうへ消えてしまったものもあった。

 イデアは拾えるものを一枚ずつ集めた。

 濡れた外側を除けば、紐で束ねていた中央部分には無事な紙も多い。

 すべてではない。それでも、大半は残った。

 イデアは胸を撫で下ろした。


「……分けておいて正解でしたわ」

「ずいぶん念入りに包んでいたのですね」

「領地へ着くまでに雨が降るかもしれないと思いましたの。まさか谷底へ落ちることまで想定していたわけではございませんけれど」

「今後は想定に加えますか?」

「加えたくありません!」


 墨は紙とは別の小箱へ入れていた。

 ひとつの壺は割れていたものの、予備は残っている。

 イデアはそこまで確認し、ようやく大きく息を吐いた。

 紙と墨。

 一部の農具に種。食料。

 持ち込んだものすべてを失ったわけではない。

 けれど、荷馬車そのものはどう見ても修理できる状態ではなかった。


「……黒字」


 イデアが低い声で言った。


「はい?」

「これが黒字になると、おっしゃるの?」


 アルゼルは少し考えた。


「加護が正常に働けば」

「荷馬車一台ですわよ。農具も種も食料も失いました。紙だって何枚駄目になったと思っているの!」

「あなたの命も危険にさらされました」

「ならば、相当な見返りでなければ納得いたしません!」

「ですが、命そのものは失っていません」

「また未遂扱いなの!?」


 イデアの声が谷へ響く。

 木の上から鳥が数羽、驚いて飛び立った。


「あなたが助けたからでしょう!」

「助けられたので、そこは幸いでした」

「では、あなたが受け止めた分は何になるの?」

「私の働きでしょうか」

「加護の見返りに自分を計上しないでくださいませ!」

「まだ計上していませんよ」


 妙なところだけ律儀だった。

 いつもの調子が少し戻ってきたことに、イデアはなぜかほっとした。

 だが、それに気づくと、先ほど目の前で見た黄金の瞳まで思い出してしまう。

 胸がまた一度、大きく鳴った。

 まだ驚いているのだ。

 橋が落ちたのだから。それ以外に理由などない。

 イデアは心の中で強くそう決め、額を押さえた。

 そして改めて周囲を見回す。

 谷は思っていたより広かった。

 川沿いには細い平地もある。はるか上を見れば、自分たちが通ってきた橋の残骸が小さく見えていた。

 さらに目を凝らす。

 橋の向こう。山腹には、細い線のようなものが何度も折れ曲がりながら続いている。


「あれ……」


 イデアは荷物の中から地図を取り出した。

 幸い、これは御者台の脇に置いた革袋へ入れていたため、アルゼルと一緒に落ちた時にも失わずに済んでいる。

 現在地を確かめる。

 橋と、その先に描かれた、長い折り返しの山道。

 地図と山腹を見比べた。


「まさか」

「どうしました?」

「これ、橋を渡ったあとの道ですわ」


 アルゼルも山腹へ顔を向ける。


「ずいぶん上にありますね」

「そこから何度も折り返して、この谷へ下りてくるのです」


 荷馬車が通れる勾配にするため、急斜面を避けて延々と山腹を回る道なのだろう。

 地図上ではかなり長い。

 しかし今、イデアたちはそのはるか下にいる。橋から落ちたからだ。


「つまり」


 イデアは何とも言えない顔になった。


「道のりだけなら、少し進みましたわね」

「そうなりますね」

「橋を渡って、延々と山道を下る部分を飛ばした」

「落下という方法で」

「そこを強調しないで」


 少なくとも位置だけなら、本来の街道を進んだ場合より先へ来ている。

 一日。あるいは、道の状態によってはそれ以上の迂回を飛ばした可能性もある。

 もっとも、荷馬車はない。馬もいない。荷物の一部は失った。

 これでは、距離が縮んだから得をしたなどとは到底言えない。


「これを見返りですと言ったら怒りますわよ」

「まだ言っていません」

「顔が言いそうでした」

「目は閉じていますが」


 一瞬だけ、先ほどの黄金が頭をよぎった。


「……そういう意味ではありません!」


 イデアは必要以上に強い声で言い返した。

 アルゼルが、少し不思議そうに首を傾げる。

 その時だった。

 彼が不意に顔を横へ向けた。先ほどまでとは明らかに様子が違う。


「どうしましたの?」

「……何かいます」

「何か?」


 アルゼルが砕けた荷馬車の向こうへ歩いていく。

 そこは車体が激突した岩壁だった。

 衝撃で岩と土が大きく崩れている。

 よく見ると、不自然だった。

 崩れた岩の向こうに、黒い空間がある。

 自然の窪みではない。石の表面には、明らかに道具で削った跡があった。

 さらに土を払えば、古びた木の支柱まで現れる。


「……坑道?」


 イデアも近づいた。

 どうやら荷馬車が岩壁へ突っ込んだことで、塞がれていた横穴の一部を破ってしまったらしい。

 奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。


「地図にはございませんわね」

「ここはまだ小ラズマイトではありませんから」

「ええ。領地までは、街道ならまだ数日」


 ただし、先ほど見た通り、この山地では地上の道の長さと実際の位置関係が一致しない。

 道は谷や急斜面を避け、大きく回り込んでいる。

 山そのものを貫く坑道なら、どこへ続いているのか想像もつかなかった。


「昔の鉱山かしら」

「いえ」


 アルゼルが静かに答えた。


「完全に捨てられた場所ではありません」


 イデアが彼を見る。


「分かりますの?」

「奥に、生きているものがいます」

「魔物?」

「それもいるかもしれませんが」

「ほかにも?」


 アルゼルはしばらく黙った。

 瞳を開くことはない。

 閉じたまま、暗い坑道の奥へ意識を向けている。

 やがて背中の翼が、ごくわずかに持ち上がった。


「神性があります」

「……神性?」


 イデアは眉を寄せた。


「あなたのような天使の?」

「まだ分かりません。ただ」


 アルゼルの声音に、わずかな懐かしさが混じった。


「覚えのある気配です」


 その時。

 坑道の奥から、風が吹いてきた。

 冷たい空気だった。

 湿った土、岩。

 金属。

 そして、それらに混じって、かすかな花の香りがする。


「こんな場所で、花?」


 イデアが呟く。

 答えはなかった。

 代わりに、かつん、と。暗闇の中で音がした。

 金属が石へ触れた音。

 次に、足音。

 ひとつではない。

 いくつもこちらへ近づいてくる。


「アルゼル」

「私の後ろへ」

「嫌です」

「なぜです?」

「何が来るか分からないのに、あなただけ前へ出すわけにはいかないでしょう」

「先ほど谷へ落ちた方が言う台詞ではありませんね」

「先ほど谷へ落ちたからこそです!」


 イデアは辺りを見回した。

 無事だった農具の中から小ぶりな斧を一本拾い、両手で構えた。


「使えますか?」

「持ったことはあります」

「使えるかと聞いています」

「必要になれば覚えますわ」

「できれば必要になる前に覚えておいてください」


 暗闇の中に、光が灯った。小さなランタンだ。

 それを掲げて現れた者を見て、イデアは目を瞬いた。

 男だった。

 ただし、背が低い。

 イデアの胸ほどしかない。

 その代わり身体は横に広く、露出した腕は驚くほど太かった。長い髭を何本にも分けて編み込み、革と金属を組み合わせた作業着を身につけている。

 片手に握られているのは、イデアが持っているものよりはるかに大きな斧だった。

 その後ろからも、同じような者たちが次々と姿を現した。

 四人。そこからさらに増え、六人。全員が武器を持っている。

 そして全員が、非常に警戒していた。


「人間が」


 先頭の男が低い声を発した。


「何の用だ」


 イデアは斧を握ったまま答えなかった。

 男の視線がアルゼルの翼へ向く。

 一瞬だけ眉が動いた。

 しかし、それについて尋ねるより先に、さらに低い声で告げる。


「ここは、わしらの坑道だ」


 イデアは後ろを振り返った。

 壊れた荷馬車。

 散乱した荷物。

 自分たちが突き破ったらしい岩壁。

 そして手には斧。

 どこからどう見ても、まともな訪問者ではなかった。


「信じていただけないかもしれませんけれど」


 イデアは斧を少し下げた。


「橋から落ちてきましたの」


 沈黙が続く。

 誰も何も言わない。

 アルゼルが横から付け加えた。


「彼女はよく落ちます」

「余計な説明をしないでくださる!?」


 男たちが顔を見合わせた。

 先頭の男は、なおさら疑わしそうな顔になる。


「橋から落ちて、岩壁をぶち抜いたと?」

「正確には、荷馬車がぶち抜きました」

「あなたも補足しなくて結構です!」

「盗掘者ではあるまいな」

「違いますわ!」


 イデアが即答する。


「なら、その斧を置け」

「あ」


 手元を見る。

 確かに。

 相手の坑道へ壁を壊して入り込み、斧まで構えている。

 言い訳の余地がない。

 イデアは慎重に斧を地面へ置いた。


「失礼いたしました。申し遅れましたわね」


 旅で多少汚れていても、こういう時に身についた礼儀は勝手に出る。

 イデアは姿勢を正した。


「わたくしはイデア・ラズマイト。ラズマイト伯爵家の当主です」


 その名を口にした瞬間、空気が変わった。

 目の前の男たちから、単なる警戒とは違うものが滲む。

 驚きではない。

 もっと露骨な嫌悪だった。


「……ラズマイト?」


 先頭の男の声が、先ほどよりさらに低くなった。


「ええ」

「今さら、あの家の者が何をしに来た」


 イデアは息を呑んだ。

 ここは、小ラズマイトの外だ。

 少なくとも、王都で手に入れた地図と記録ではそうなっている。

 それなのに。


「ラズマイト家をご存じですの?」

「知らんものか」


 男が斧を握り直した。


「山の向こうの土地を捨て、こちらとの道まで閉ざした一族だ」

「道……?」


 イデアには覚えがない。

 当然だ。

 自分は小ラズマイトへ行ったことすらない。

 だが、ラズマイト家の過去に、自分の知らない何かがある。


「それに」


 男は吐き捨てるように続けた。


「わしらの女神への祈りまで忘れた」

「女神?」


 その言葉に反応したのは、イデアではなかった。

 アルゼルだった。

 閉じた目のまま、わずかに顎を上げる。

 坑道の奥から、再び風が吹いた。

 かすかな花の香り。その中に混じる何かを確かめるように、アルゼルの白い翼がゆっくりと持ち上がる。


「アルゼル?」

「なるほど」

「何か分かりましたの?」


 アルゼルの口元に浮かんだのは、いつもの自信に満ちた笑みとは少し違っていた。

 懐かしいものを見つけたような、そんな微笑だった。


「先ほどから感じていた神性ですが」

「ええ」

「やはり、覚えがあります」

「誰のものですの?」


 アルゼルは暗い坑道の奥へ顔を向けた。

 今度は、瞳を開かなかった。


「私の姉です」


 イデアは黙った。

 坑道を見る。

 次に、武器を持った小柄な男たちを見る。

 最後に、少し嬉しそうな天使を見る。


「……あなたのご家族は、どこにでもいらっしゃいますのね」

「七十二柱もおりますので」

「多すぎますわ!」


 声が坑道へ響いた。

 返ってきたのは、いくつもの反響音だった。

 橋を失った。

 荷馬車も失った。

 農具や食料の一部も失った。

 大切に買い込んだ紙も、すべてを守れたわけではない。

 その代わり、本来なら荷馬車で何度も山を折り返しながら下るはずだった道を、文字通り一気に谷底まで降り。

 地図にも載っていない坑道を見つけ。

 ラズマイト家を知る者たちと出会い。

 その奥には、アルゼルの姉に関わる何かまであるらしい。

 これが加護の見返りなのか。今のところ、イデアには判断できなかった。

 少なくとも、目の前ではまだ、大きな斧が何本もこちらへ向けられている。

 現時点の収支だけをつけるなら。

 どう考えても、赤字だった。


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