6.天使のいない朝は、少しだけ静かです
三日目。
二人は昼頃、小さな宿場へ到着した。
ここから先は、人の住む場所の間隔が目に見えて広がっていくらしい。
宿場の商人へ尋ねると、場所によっては次の宿まで一日で辿り着けないこともあるという。
イデアは水と保存食を買い足した。王都でかなり準備したとはいえ、旅の途中で何が起こるか分からない。まして、自分の不幸がまだ消えたわけではないのだ。
備えすぎて困ることはない。
その代わり荷物は増えた。
増えた荷を当然のように持たされたアルゼルは、何か言いたそうだったが、今回は黙っていた。
旅を続けるうちに、イデアにも、アルゼルという天使について少しずつ分かってきたことがある。
地上へ降りた経験がないわけではない。
街道の方角も分かるし、夜の暗闇でも困らない。
危険への対処に至っては、人間であるイデアとは比較にならないほど早い。
ところが、人間の暮らしに慣れているかというと、それはまったく別の話だった。
その日の夕方。
宿場を出てしばらく進んだところで、夕食のため街道脇の開けた場所へ荷馬車を止めた。
イデアは枯れ枝を集め、乾いた草をまとめる。
「アルゼル」
「はい」
「火を起こしてくださいませ」
「火?」
「夕食を作ります」
アルゼルは地面へ積まれた薪を見た。
「奇跡でつけてよろしいですか?」
「駄目です」
「なぜ?」
「火打ち石があるでしょう」
「便利な方法があるのに、どうして不便な方を使うのです?」
「薪へ火をつける程度で、いちいち奇跡に頼らないでくださいませ」
「人間は奇妙ですね」
「あなたがいなくなったら、わたくしはどうするの?」
何気なく口にして、イデアはほんの少しだけ言葉を止めた。
深い意味はない。
アルゼルは人間ではない。
父神から命じられて地上へ来ているだけで、いつまで同行するのか本人にも分かっていない。
いつかはいなくなる。
それは当然のことだ。
だから、便利なものに頼りすぎないようにと。
「……ですから、普通のやり方も覚えてくださいませ」
「私がですか?」
「一緒にいる間くらいは」
アルゼルは差し出された火打ち石を受け取った。
「仕方ありませんね」
一度。
火花が飛ぶ。乾いた草へは移らない。
二度。やはり駄目。
三度。今度は勢いよく石を打ちすぎた。
「強すぎます」
「では、これくらい?」
「今度は弱いですわ」
「人間の道具は難しいですね」
「天使の器用さを見せてくださいませ」
「もし私の指が傷ついたら?」
「見返りが来るでしょう」
「加護を受けているのはあなたです」
何度も失敗した末、ようやく小さな火花が乾草へ移った。
細い煙が上がり、やがて小さな炎になる。
「あ」
アルゼルの顔が明るくなった。
「できました」
「ずいぶん嬉しそうですこと」
「初めてできたことを喜んで、何が悪いのです?」
「悪いとは申し上げておりませんわ」
むしろ少し可笑しかった。
神の子だという男が。
人の心へ影響するという瞳を持ち、空を飛び、瓦礫が落ちれば光で防げる天使が。
火打ち石で火がついたことを、こんなに嬉しそうに喜んでいる。
そういう姿を見ていると、自分とはまったく違う存在だということを忘れそうになる。
夕食には、豆と干し肉を煮た簡単なスープを作った。
明日の朝食も含めての一人分。
そのつもりだった。
「いただけますか」
横から声がした。
イデアは器へスープをよそいながら、アルゼルを見る。
「食事は必要ないのでしょう?」
「必要ないだけで、食べることはできます」
「先におっしゃい」
「香りがよかったので」
仕方なく、もうひとつの器へ少し分けた。
アルゼルが口へ運ぶ。
ひとくち味わってから、頷いた。
「人間の料理としては上出来です」
「返してください」
「なぜです?」
「褒め方が気に入りません」
「では」
アルゼルはもう一口食べた。
「イデアが作ったものとしても上出来です」
「悪化しておりますわ!」
「難しいですね、人を褒めるというのは」
「ご自分を褒めるのは、あれほどお上手なのに」
「得意分野が違います」
結局、少しだけ分けたはずのスープは、気づけば半分以上アルゼルの腹へ入っていた。
◇
四日目。
この日も予定どおり、宿のない場所で夜を迎えた。
街道から少し外れた木立のそばに荷馬車を止める。近くには細い川が流れており、マルタへ水を飲ませるにも、自分たちが使う水を汲むにも都合がよかった。
昨日より手際よく火を起こし、簡単な夕食を済ませる。
日が沈むと、春の終わりとはいえ空気はかなり冷えた。
イデアは荷馬車を風除けにし、その脇へ広げた敷物の上で外套を肩まで引き上げた。
不幸続きの人生とはいえ、流石に野宿は初めての経験だった。王都の屋敷で暮らしていた頃の、暖かな寝台が恋しくなる。安宿の薄い掛け布さえ、今となっては贅沢な寝具となってしまった。
「寒いですか?」
火の向こうからアルゼルが尋ねる。
「少し」
「翼を貸しましょうか」
「結構です」
「暖かいですよ」
「以前にも聞きましたわ」
「まだ試していないでしょう」
アルゼルは大きな翼を少し持ち上げた。
確かに、あれだけの羽毛に包まれれば暖かいのだろう。
だからといって。
「出会って数日の殿方の翼に包まれて眠るほど、わたくしは大胆ではありませんの」
「では、一月後なら?」
「期間の問題ではありません!」
「残念です」
「なぜ残念そうなの?」
「せっかく役に立つのに」
「毛布として?」
「最高級ですよ」
「自分で言わないでくださいませ」
アルゼルが小さく笑った。
火の向こうで広がった白い羽根が、炎の色を映して淡い金色へ染まっている。
イデアはその光景を少し眺めてから、敷物へ横になった。
簡素なものだ。
寝台のように柔らかくはない。
それでも、何日も荷馬車へ揺られてきた身体には十分だった。
「あなたは、今夜も寝ないの?」
「必要ありません」
「では、一晩中起きていらっしゃるのね」
「ええ」
「退屈では?」
「慣れています」
イデアは薄く目を開けた。
アルゼルは火の向こう側で、夜空へ顔を向けている。
目は閉じたまま。
けれど、星も見えているのだろう。
彼の瞳は黄金なのだという。
本人は大層美しいと自信満々だったが、イデアはまだ見たことがない。
そして、今のところ見るつもりもなかった。
必要もないのに、人の気持ちへ影響するものを覗く理由はない。
そのはずなのに。
どんな色なのかと、たまに気になる自分がいる。
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい、イデア」
静かな声が返ってくる。
川のせせらぎと。
薪の爆ぜる音。
その向こうにアルゼルの気配がある。
それを感じながら、イデアは眠りへ落ちた。
◇
鳥の声で目が覚めた。
朝だった。
木々の間から淡い光が差し込み、夜の冷たさを残した空気の中で、川がさらさらと流れている。
昨夜の焚き火はほとんど燃え尽き、灰の奥でわずかに赤い火が残っているだけだった。
少し離れたところでは、マルタが朝露に濡れた草を食んでいる。
いつもと変わらない朝。
しかしただひとつ、足りない音があった。
「……アルゼル?」
イデアはゆっくりと身を起こした。慣れない野宿のせいで、身体の節が少し軋んだ。
返事はない。
まだ少し眠気が残っていたため、最初は深く考えなかった。
川へ行ったのかもしれない。
荷馬車の裏にいるのかもしれない。
「アルゼル?」
もう一度呼ぶ。
やはり返事はなかった。
昨夜、火の向こうに座っていた場所を見る。
誰もいない。
荷馬車の向こうへ回る。
いない。
川辺にも。
木立の間にも。
あれほど目立つ白い翼の影が、どこにもなかった。
眠気が一気に消えた。
「……どこへ」
イデアは辺りを見回した。
アルゼルが使っていた荷物など、そもそもほとんどない。
荷物だけを見ても、どこかへ出掛けたのか、完全にいなくなったのか判断できなかった。
そして、ひとつの可能性が浮かぶ。
「まさか……帰った?」
神域へ。
父神のもとへ。
アルゼルは人間ではない。
父神から突然「困っている人間がいる」と言われ、地上へ送られてきただけだ。
いつまで滞在するのか。
いつまでイデアへ付き添うのか。
本人にすら、はっきりした期限は知らされていない。
ならば、昨夜のうちに父神から戻るよう命じられたとしても、不思議ではない。
「……勝手ですわね」
口から出た声は、自分が思っていたより低かった。
「帰るなら帰ると、一言くらい言いなさいよ」
腹が立った。
突然やってきて。
勝手に同行すると決めて。
そして、勝手にいなくなる。
いくら神の子でも、礼儀というものがあるだろう。
そう思ってから、別の考えが浮かんだ。
「……もしかして」
——自分が働かせすぎた?
紙を持たせた。
農具も持たせた。
泥にはまった荷馬車を押させた。
昨日は火打ち石まで使わせた。
小ラズマイトへ着いたら畑も耕してもらうと、当然のように言った覚えがある。
「少し、雑に扱いすぎましたかしら」
父神に突然地上へ送り出され。
出会った女には役に立たないと言われ。
翼を外套へ押し込まれ。
大量の荷物を運ばされ。
挙げ句の果てに泥までつけられた。
普通なら嫌になる。
アルゼルが普通かどうかはともかくとして。
以前、翼を拭いた時。彼は素直に「ありがとうございます」と言った。
では、自分は。
きちんと礼を言ったことがあっただろうか。
廃教会では瓦礫から守られた。
宿では転びかけたところを受け止められた。
泥にはまった荷馬車も持ち上げてくれた。
何より。
不幸を消すことはできないとはいえ、無償で加護まで与えられている。
それなのに、自分が言ったことといえば。
役に立たない。
働きなさい。
荷物を持って。
紙も。
農具も。
そんなものばかりだった気がしてきた。
「だからといって」
イデアは口元を引き結ぶ。
「黙って帰っていい理由にはなりませんわ」
小ラズマイトへは、一人でも行ける。
もともと、そのつもりだった。
屋敷を失った時も。
借金を知った時も。
残された領地へ向かうと決めた時も。
アルゼルなど知らなかった。
一人で何とかするつもりだったのだ。
「大丈夫ですわ」
誰に言うでもなく、呟いた。
「最初から、一人で――」
そこまで口にした時。
胸の奥に小さな違和感が生まれた。
朝の景色が妙に広い。
昨日までと同じような街道脇の木立で。
同じ荷馬車があり、同じマルタがいて、同じように川が流れている。
なのに。
火の消えかけた野営地が、ひどく静かに感じられた。
たった数日だ。
出会ってから、まだそれだけしか経っていない。
それなのに、いつも横から余計なことを言う声がない。
自信満々の笑顔がない。
何をしていても視界の端へ入ってくる、大きな白い翼がない。
それだけで何かが足りない。
「……少し静かになっただけですわ」
寂しいわけではない。
絶対に。
今まで一人で何とかしてきた。
これからだって。
そう自分へ言い聞かせた、その時だった。
ばさり、と。
頭上で大きな羽音が響いた。
「え?」
朝日が一瞬遮られ、地面を大きな影が横切る。
イデアが顔を上げた。青い朝空を、大きな白い翼が飛んでいる。
翼が風を掴むたび、長い金髪が朝日を受けて揺れる。
「……アルゼル」
大きく一度旋回すると、彼はゆっくり高度を下げてきた。
木立の少し先へ足をつける。
翼が大きく羽ばたき、巻き起こった風で、草の朝露がきらきらと散った。
「おはようございます」
いつもと変わらない声だった。
いつもと同じように目を閉じ、何事もなかったかのように微笑んでいる。
イデアはしばらく何も言えなかった。
驚きと。
安堵と。
先ほどまで一人で考えていたことへの気恥ずかしさが、一度に押し寄せてくる。
結果として、最初に口から出たのは、
「……どこへ行っておりましたの」
低い声だった。
「飛んでいました」
「見れば分かります!」
思った以上の大声が出た。
アルゼルが少し驚いたように首を傾げる。
「何かありましたか?」
「何かって……朝起きたら、あなたがいなかったでしょう!」
「ですから、飛んでいました」
「一言おっしゃい!」
「眠っていたので」
「起こしなさいよ!」
「ずいぶん気持ちよさそうでしたから」
「では、書き置きを!」
「紙を使うと怒られるかと」
「その程度で怒りませんわ!」
「かなり大切になさっていますので」
「そういう話ではありません!」
一気に言い切る。
そこでようやく息が切れた。
イデアは大きく息を吸い、乱れた呼吸を整える。
アルゼルは黙ってこちらへ顔を向けていた。
正確には、閉じた目を向けている。
「……神域へ帰ったのかと思いました」
先ほどまでの勢いが、急に萎んだ。
「帰っていませんよ」
「それは、もう見れば分かります」
「なぜ帰ると思ったのです?」
「お父様から呼ばれたとか」
「呼ばれていません」
「わたくしが、あまりに働かせるから嫌になったとか」
アルゼルの口元が、少し上がった。
「その自覚はあったのですね」
「少しくらいはありますわよ」
イデアは視線を逸らした。
「だから……その」
「はい」
「嫌になって、帰ったのかと」
口にしてしまうと、妙に居心地が悪い。
アルゼルはしばらく何も言わなかった。
朝の風が、まだ広げたままの翼を揺らしている。
「翼を伸ばしていただけです」
「翼を?」
「ええ」
アルゼルは片翼を大きく広げて見せた。
朝日を浴びて、白い羽根が眩しいほどに光る。
「王都では、ほとんど畳んだままでした。街道でも人目のある場所では自由に広げられませんし、荷馬車では荷物もあります。長く縮めたままですと、さすがに身体が固まりますので」
「……それで、飛んでいたの?」
「少し飛んで、動かしていました」
確かに。
翼を拭いた時にも、長く畳んでいると疲れると言っていた。
「でしたら、そう言ってから行けばよろしかったでしょう」
「起こす必要があるとは思わなかったのです」
「次からは言ってくださいませ」
「次から」
アルゼルが、その言葉を繰り返した。
「分かりました」
あっさりとした返事だった。
それだけなのに、イデアの胸の奥に残っていた重さが、ほんの少し軽くなった。
次。
当然のように、この先も一緒にいることを前提にした言葉だったからかもしれない。
「ですが」
アルゼルは翼を畳みながら続けた。
「なぜ、私があなたを置いて帰るのです?」
「なぜって」
「あなたは小ラズマイトへ行くのでしょう?」
「そうですわ」
「私も行きます」
「でも、お父様から、いつまで地上にいるよう言われたのか分からないのでしょう?」
「分かりません」
「でしたら」
「それと、途中であなたを置いて帰ることは別ですよ」
アルゼルは、ひどく当たり前のことを言うような口調だった。
「一緒に行くと決めたのですから、行きます」
「……」
「それとも、イデアの方が私を置いて行くつもりでしたか?」
「逆ですわよ!」
「なら、何も問題ありません」
「ありました!」
「寂しかったのですか?」
イデアの動きが止まった。
アルゼルは微笑んでいる。
「……誰が」
「イデアが」
「違います」
「そうですか」
「勝手にいなくなられて腹が立っただけです」
「ええ」
「労働力が一人減ったと思って」
「なるほど」
「紙を持つ方も必要でしょう」
「そうですね」
「ですから」
「よく分かりました」
明らかに信じていない。
「その顔は何ですの」
「目は閉じていますが」
「口元です!」
イデアは腹立ちまぎれに敷物を片づけ始めた。
けれど。
アルゼルは戻ってきた。
それだけでよかった。
そんなことを本人へ言えば、確実に調子へ乗る。
だから言わない。
言わないつもりだった。
「……アルゼル」
「はい」
それでも。
ひとつくらいは。
「翼を拭いた時。あなた、お礼をおっしゃいましたわね」
「言いました」
「わたくしも」
そこで言葉が詰まった。
何でもないことのはずなのに、改めて口にするとなると、妙に気恥ずかしい。
「何でしょう」
「……いろいろと、助かっておりますわ」
アルゼルの翼が止まった。
「加護だけではなく」
「……」
「瓦礫の時も。椅子の時も。先日の荷馬車も」
言い始めてしまった以上、途中でやめる方がおかしい。
「荷物も持たせておりますし、働かせている自覚もございます。でも」
イデアは少しだけ顔を逸らした。
「感謝していないわけではありません」
ぽつりと、しかし確かに届くように呟く。
アルゼルは何も返さない。
「……何かおっしゃい」
「いえ」
「何です?」
「思っていたより、素直で可愛らしい方だと」
「取り消します!」
「もう聞きました」
「全部取り消しますわ!」
その言葉に、アルゼルが声を立てて笑った。
いつもの、自分の容姿に一片の疑いも持っていない、非の打ちどころのない微笑とは少し違う。
純粋に楽しそうな笑いだった。
イデアはそれを見て、ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
この天使が戻ってきてよかったと思った。
◇
そして、その日の昼。
イデアは、その感情を早くも後悔した。
「アルゼル」
「はい」
「火を起こしてくださいませ」
「もう覚えましたからね」
「頼もしいですわ」
「もっと褒めていただいても構いません」
「まず成功させてからにして」
火打ち石を渡す。
アルゼルは妙に自信ありげに薪の前へしゃがみ込んだ。
一度。
二度。
三度。
火花は飛ぶ。しかし、火はつかない。
「……この前はできました」
「できましたわね」
「今日は薪が悪いのでは?」
「乾いております」
「では、火打ち石が」
「同じものです」
「風が」
「ほとんどありません」
イデアは腕を組んだ。
「頼もしいと申し上げた言葉を返してくださいませ」
「人間の技術には、日による揺らぎがあるのです」
「あなたの腕に揺らぎがあるだけです!」
結局。その日の火は、イデアがつけた。
アルゼルは最後まで納得していなかった。
◇
五日目になると、旅の景色が少しずつ変わってきた。
これまで遠くに霞んでいた灰色の山並みが、目に見えて近づいている。平坦だった街道にも緩やかな上り下りが増え、道の両側を囲む森も深くなってきた。
小ラズマイトは、まだ先だ。
順調に行けば。という、イデアにとってはあまり信用できない条件つきではあるが。
午後、御者台で地図を広げたイデアは、指で道筋を確かめた。
「明日には、主要街道を外れますわね」
「山道ですか」
「ええ。ここから先は道幅も狭くなるようです」
「宿は?」
「さらに少なくなります」
「また野宿ですね」
「嫌ですの?」
「いいえ」
アルゼルは背後の荷へ軽く寄りかかった。
「朝に飛べますから」
イデアはすぐに顔を向けた。
「行く前におっしゃってくださいませよ」
「覚えています」
「本当に?」
「ええ」
少し間を置いて。
アルゼルの口元が上がる。
「心配されますから」
「心配ではありません」
「そうですか」
「労働力の所在確認です」
「紙を持つための?」
「よくお分かりで」
二人とも前を向いた。
しばらく、マルタの蹄と、荷馬車の車輪が土を踏む音だけが続く。
不思議なものだった。
王都を発って、まだ五日しか経っていない。
アルゼルと出会ったのだって、その少し前だ。
それなのに、彼が隣へ座っていることが少しずつ当たり前になり始めている。
突然、廃教会へ現れた天使。
父神に振り回され。
自分が美しいことを疑わず。
翼が汚れれば気にして。
火打ち石ひとつ満足に使えない。
そのくせ、イデアへ危険が迫れば迷わず手を伸ばす。
泥にはまった荷馬車も持ち上げる。
一緒に行くと決めたのだから、途中で置いて帰る理由がないと、当たり前のように言う。
頼りになるのか、ならないのか。
まだ、よく分からない。
「イデア」
「何です?」
「笑っていますよ」
はっとして口元を引き締める。
「笑っておりません」
「そうですか?」
「前を見なさい」
「目は閉じていますが」
「見えているのでしょう!」
「よく覚えておられますね」
「何日も閉じたまま隣に座っていれば、嫌でも覚えますわ!」
アルゼルが楽しそうに笑う。
イデアは手綱を握り直した。
その日の夕方、二人は山間へ入る手前にある、小さな宿場へ到着した。
明日からは、道が険しくなる。
谷と急な斜面。
古くから使われてきた山道。
宿の主人から周辺の道について聞きながら、イデアは地図を確認した。
「この先には、橋もございますのね」
「ええ。ひとつ、大きな谷を渡ります。二年ほど前に補修されていますから、荷馬車でも問題ないはずですよ」
「二年前……」
「比較的新しいでしょう?」
「そうですわね」
普通なら安心できる話だ。
だが、イデアは地図へ描かれた橋の印を、何とも言えない目で見つめた。
「どうしました?」
アルゼルが尋ねる。
「いえ」
イデアは地図を畳んだ。
「何となく、嫌な予感がいたしましたの」
「考えすぎでは?」
「そうであればよろしいのですけれど」
窓の向こうでは、遠くの山へ夕日が沈んでいく。
王都を発って五日。
隕石に比べれば、これまで旅の途中で起きた不幸など、まだ可愛らしいものだった。
鳥の落とし物を肩へ受けたこと。
椅子が壊れたこと。
荷馬車が泥にはまったこと。
そして。
朝目を覚ました時。
隣にいるはずの天使が、どこにもいなかったこと。
最後のひとつだけは、果たして不幸だったのかどうか、イデアにもよく分からない。
ただ、青い朝空から白い翼が戻ってきた時。
胸の奥に広がった安堵だけは、アルゼルの加護がもたらした見返りではないのだろう。
たぶん。
あれは。
イデア自身の心から生まれたものだった。




