5.天使の部屋代は、壊れた椅子で戻りました
二日目。
王都を出てから初めての宿を後にしたイデアたちは、朝靄の残る街道を北西へ進んでいた。
昨夜は、廊下に立たせたアルゼルが幽霊と間違われるという、想像もしなかった騒ぎがあった。
だがこの日は幸い、昼頃までは何事も起こらなかった。
王都から離れるにつれて街道沿いの建物は少なくなってきたものの、道そのものはまだ広く、荷馬車同士がすれ違うにも困らない。時折、旅人や商隊と行き交う程度で、マルタも一定の調子で歩いていた。
問題が起きたのは、午後になってからである。
前日にこの辺りでは雨が降ったらしく、街道のところどころに大きな水溜まりとぬかるみが残っていた。
「端を通れば大丈夫でしょう」
中央には深い轍が残っているが、道端はまだ土が固そうに見える。マルタも嫌がる様子はなく、慎重に足を進めていた。
これなら問題ない。
そう思った直後だった。
ぐずり、と嫌な音がした。
「あ」
荷馬車がわずかに傾く。
後輪の片方が、見た目よりずっと柔らかかった地面へ沈んでいた。
「ちょっと、待って」
イデアが慌てて手綱を引くより先に、車輪はさらに深く潜り込んでいく。マルタに少しだけ前へ進むよう促してみても、ぬかるみの中で車輪が回るばかりで、車体はほとんど動かなかった。
「……動きませんわね」
「そうですね」
「ずいぶん落ち着いておりますのね」
「慌てれば出るのですか?」
「出ませんけれど」
腹立たしいほど正論だった。
イデアは御者台から降り、裾を持ち上げながら車輪の状態を確認した。
かなり深い。一人で押してどうにかなるとは思えなかった。
「アルゼル」
「はい」
「何とかしてくださいませ」
「ずいぶん広い依頼ですね」
「この荷馬車を泥から出してくださいと申し上げておりますの」
アルゼルも御者台から降りる。翼へ引っかけただけの外套がずれて、荷台へ落ちた。
それに気を留めることもなく、ぬかるみへ沈んだ車輪を一度眺め、それから荷馬車を見る。
「分かりました」
「一緒に押せば――」
イデアが言い終えるより早く。
アルゼルは荷馬車の後部へ回り込み、車体の下へ手を掛けた。
「少し離れていてください」
「え?」
次の瞬間、荷馬車の後ろ半分が、持ち上がった。
「……は?」
イデアは思わず目を瞬いた。
積み荷には農具も種も保存食も水もある。大量の紙まで積んでいるため、決して軽い荷馬車ではない。
それを、アルゼルは一人で持ち上げていた。
腕へ大きく力を込めているようにも見えない。
背中の翼がわずかに動いた程度で、顔つきに至っては普段とほとんど変わらなかった。
「ちょっとお待ちなさい」
「はい」
「……それ、重くありませんの?」
「多少は」
「多少」
イデアは荷馬車とアルゼルを交互に見た。
考えてみれば、廃教会で梁が落ちてきた時にも、彼は人間では到底できないようなことをしている。
天使なのだ。
人間と同じ力しかないと思う方がおかしい。
それは分かる。
分かるのだが。
「最初から、それができるとおっしゃい!」
「訊かれませんでしたので」
「泥の中で一緒に押す必要すらなかったではありませんか!」
「まだ押していません」
「そういう問題ではありません!」
アルゼルは荷馬車を持ち上げたまま、少し顔を傾けた。
「イデア。マルタを前へ」
「分かっておりますわよ!」
釈然としないまま、イデアは御者台へ戻った。
後輪が泥から浮いている今なら抜け出せるはずだ。
「マルタ、お願い」
手綱を軽く操る。
マルタが力を込めて前へ進んだ。
アルゼルも荷馬車の後部を持ち上げたまま歩を進める。
泥へ沈んでいた車輪がぬかるみの縁へ掛かり、勢いよく回った。
その瞬間、車輪にまとわりついていた泥が、一気に跳ね上がった。
「きゃっ!」
イデアの裾へ茶色い飛沫が散る。
荷台の脇にも。
そして、アルゼルの白い翼の先にも。
べたりと、ひときわ目立つ泥がついた。
「……」
荷馬車が固い地面へ戻る。
アルゼルは静かに車体を下ろした。
ぎしり、と車輪が地面へ着く。
「出ましたわね」
「ええ」
返事が妙に静かだった。
イデアが振り返る。
アルゼルは、自分の翼の先を見ていた。
真っ白だった羽根の一部が、見事に茶色く汚れている。
「……アルゼル?」
「泥が」
「つきましたわね」
「白い羽根に」
「見れば分かります」
「とても目立ちます」
心なしか、翼までしょんぼりと下がっている。
あれだけ重い荷馬車を平然と持ち上げた男が、羽先についた泥には目に見えて落ち込んでいる。
イデアは呆れながらも、少し笑いそうになった。
「あとで洗えば落ちますわ」
「簡単におっしゃいますね」
「わたくしの裾にもついておりますのよ」
「布と羽根では事情が違います」
「どちらも洗えばよろしいでしょう!」
「羽根は乾かすのも大変なのです」
新たな事実を知った。
天使の翼は泥を嫌い、濡らせば乾かす手間までかかるらしい。
神々しい話とは程遠い。
「ともかく、荷馬車は出たのですから――」
イデアが言いかけたところで、前方から複数の蹄と車輪の音が聞こえてきた。
二人が振り返る。
街道の向こうから、数台の荷馬車を連ねた商隊がやってくるところだった。
先頭を進んでいた護衛が、道端へ止まっているイデアたちを見つける。
「大丈夫ですか!」
「ええ。少し泥にはまりましたけれど、もう抜けましたわ」
商隊が近くまで来る。
一人の商人が、ぬかるみと泥まみれの車輪を見て苦笑した。
「この辺りは雨のあとが厄介でね。見た目より深いところがあるんですよ」
「身をもって知りましたわ」
「車軸は無事ですか?」
「ええ。そのようです」
イデアが答える傍ら、商人の視線がアルゼルへ向かった。
正確には、アルゼルの背後にある大きな白い翼へ。
まずい。
ここで誰かとすれ違う可能性くらい考えておくべきだったのに、ぬかるみへ車輪を取られた騒ぎですっかり頭から抜けていた。
アルゼルも視線に気づいたらしく、畳んだ翼を微動だにさせない。だが、動かないからといって消えるものではない。むしろ人間の背中には到底収まりきらない白い羽根が重なり合い、存在を主張するだけだった。
商人が目を瞬く。
「……そちらの方の、それは?」
来た。
イデアは一瞬だけ考えた。
羽毛です。
以前ならそう押し切ったかもしれない。
だが、今回はどう見ても背中から生えている。さすがに「上質な羽毛を身体へ括りつけております」では無理がある。
「神学の研究者ですの」
口が先に動いた。
アルゼルがゆっくりと顔を向ける。
「神学の?」
「ええ。少々……研究熱心な方でして」
ここまで言ってしまった以上、進むしかない。
イデアは伯爵令嬢として培ってきた微笑みを浮かべ、何でもないことのように続けた。
「天使について研究するあまり、装束まで自作してしまいましたの」
「自作では――」
「とても研究熱心なんですのよ」
アルゼルの言葉へ重ねる。
商人は改めて翼を眺めた。
「ずいぶん本物らしいですね」
「そこが本人のこだわりで」
「本物ですからね」
「お黙りなさい」
小声で言うと、アルゼルはわずかに口元を上げた。
絶対に面白がっている。
商人は二人を交互に見た。
「では、ご本人も天使のつもりで?」
「ええ。少々、研究対象へ感情移入しすぎるところがございまして」
「私は実際に天使ですが」
「このように」
イデアは即座にアルゼルを示した。
「自分を天使だと思い込むところまで含めて、かなり熱心な研究者ですの」
「思い込んでいるわけではありませんよ」
「ですから、お黙りなさい!」
商人はしばらくアルゼルを眺めたあと、妙に納得したように頷いた。
「学者先生というのは、変わった方が多いですからねえ」
「そういうものなのですか?」
今度はアルゼルが興味深そうに尋ねる。
「あなたまで納得しないでくださいませ」
また同じようなことを言われている。
昨夜は、立ったまま眠る男を見た宿の主人に「芸術家なら変わった人もいる」と納得されたばかりだ。
芸術家。
研究者。
旅を始めてまだ二日だというのに、アルゼルの人間社会における経歴だけが妙な方向へ充実していく。
しかも、そのほとんどを作っているのはイデア自身だった。
商人はそれ以上深く尋ねなかった。
街道を旅していれば変わった者に出会うこともあるのだろう。少なくとも、翼の生えた本物の天使だと考えるより、神学へ入れ込みすぎた奇人の方がまだ理解しやすかったらしい。
イデアとしても、それで十分だった。
ただし。
次に誰かからアルゼルの専門分野を尋ねられた時、何と答えるかという新たな問題が生まれたことには、考えないふりをした。
気を取り直した商人が、イデアに尋ねる。
「どちらまで行かれるんです?」
「小ラズマイトですわ」
すると、商人の表情が変わった。
「小ラズマイト?」
「ご存じで?」
「名前くらいは。ですが、あの辺りはほとんど商いがないと聞いています」
悪意のある口調ではない。
知っている現状を、そのまま口にしただけなのだろう。
だからイデアも、気を悪くはしなかった。
「今は、でしょう?」
「今は?」
「そのために向かっておりますの」
商人が一瞬、目を丸くした。
やがて、その意味を理解したらしく笑みを浮かべる。
「なるほど。これからは違うと?」
「そうするつもりですわ」
「面白い方だ」
話を聞けば、彼は北西部の町々を巡り、薬や農具を中心に扱っているという。
小ラズマイトへ直接立ち寄ったことはないが、その周辺まで商いに来ることはあるらしい。
「もし本当に商いができるようなら、声をかけてください。道さえひどくなければ、こちらも商売になりますから」
「必ず」
イデアはすぐさま荷台から紙と墨を取り出した。
商人の名。
普段立ち寄る町。
扱っている品。
次に近隣を回るおおよその時期。
忘れないうちに、聞けることはできるだけ書き留めておく。
商人はその様子を見て、また少し笑った。
「ずいぶん熱心ですね」
「一度聞いただけですべて覚えていられるほど、自分を信用しておりませんの」
以前なら、領主である自分が把握しているつもりで、それで済ませていたかもしれない。
だが、もう同じ失敗はしたくなかった。
商隊と別れた二人は、再び荷馬車を進ませる。
しばらくしてから、イデアは書き終えた紙を見た。
次に、泥まみれになった車輪を見る。
「……これも、見返りなのかしら」
「可能性は高いですね」
アルゼルが答えた。
「荷馬車が泥にはまった」
「ええ」
「あなたが簡単に持ち上げて解決した」
「簡単というほどでもありませんよ」
イデアは横目で見る。
「顔色ひとつ変わっておりませんでしたけれど」
「私は力がありますので」
今後、重い物を動かす時には遠慮なく働いてもらおう。
イデアは心の中でそう決めた。
「それで、泥にはまって立ち止まったから、あの商隊と話すことになった」
「そうなりますね」
「小ラズマイトへ来てくれるかもしれない商人と知り合えた」
「あなたにとっては価値のある縁でしょう」
イデアは手元の紙を丁寧に折った。
見返りは、必ずしも金貨になって転がり込んでくるわけではない。
人。
情報。
これから先につながる機会。
そういうものも含まれるらしい。
「ずいぶん、見返りらしくなってきましたわね」
「加護を信じ始めましたか?」
「少しだけ」
「私も?」
「それは別です」
「残念です」
アルゼルは笑っている。
しかし、その直後。また自分の背後へ顔を向けた。
一度。
少しして、もう一度。
イデアはため息をついた。
翼の先には、先ほど跳ねた泥がまだ残っている。
「……布を出してくださいませ」
「何に使うのです?」
「翼を拭きます」
アルゼルが、少し意外そうに顔を向けた。
「よろしいのですか?」
「そのままにしておいたら、一日中気にしていそうですもの」
「そういう理由ですか」
「ほかに何が?」
荷台から使い古しの布と水を取り出す。
アルゼルは荷馬車の脇へ身を隠すように立つと、泥のついた方の翼をゆっくりと広げた。
間近で見ると、やはり大きい。
イデアが両腕を広げたくらいでは、とても端から端まで届かない。
その先端にある汚れた羽根を、そっと手に取った。
「……柔らかいのね」
思わず口から出た。
見た目から想像していた以上だった。
羽根は指先の圧に合わせてしなやかに沈み、手を離せば元の形へ戻る。ただし鳥の抜け落ちた羽根を手にするのとは違い、その先には確かにアルゼルの身体がある。
彼の背中から生えた翼。
飾りでも、神性が作り出した光でもない。
本当に、彼の身体の一部なのだ。そう思うと、自然と手つきも慎重になる。
濡らした布を羽根へ当て泥を拭き取ると、アルゼルの肩がわずかに揺れた。
「痛い?」
「いいえ」
「では、動かないで」
「感覚があるだけです」
もう一度拭う。
翼の先が、かすかに震えた。
「……くすぐったい?」
「少し」
「それなら我慢してくださいませ」
「人の翼を触っておいて、ずいぶんな言い方ですね」
「あなたが汚れを気にするからでしょう」
そう答えながら、羽根の向きを揃えていく。
触れるたびに、翼がほんのわずかに反応する。
妙な感じだった。
アルゼルは、人間ではない。
父は神で。
本人も神の直系の子で。
空を飛び、光を操り、人には見えない因果まで見る。
そんな存在なのに、翼が汚れれば嫌がる。
長く畳めば疲れる。
触ればくすぐったい。
そういうところをひとつ知るたびに、廃教会へ突然現れた得体の知れない天使が、少しずつ身近な存在になっていくような気がした。
「終わりましたわ」
最後の泥を拭き取る。
アルゼルは翼を軽く持ち上げ、羽先を確かめた。
「きれいになりました」
「当然です」
「ありがとうございます」
あまりにも素直に礼を言われたため、イデアは一瞬だけ返事に詰まった。
普段なら、そこから自分の翼の美しさについて一言くらい付け加えそうなのに。
「……どういたしまして」
結局、ごく普通の言葉を返した。
ただ、それだけだった。
それなのに。
昨日までは、こんなふうに互いへ素直に礼を言うことすら、あまりなかったような気がした。
◇
その日の夕方、二人は次の宿へ到着した。
受付の卓まで行くと、イデアは一度だけ腰の財布へ手を当てた。
昨夜までは一部屋。
今夜からは二部屋。
必要経費。
必要経費である。
自分へそう言い聞かせてから、覚悟を決めた。
「二部屋お願いいたします」
「二部屋ですね」
「ええ」
主人が料金を告げた。予想通りである。
当然、一部屋の倍。
分かっていた。分かっていたのだが、実際に貨幣を二人分並べると、胸の辺りがきゅっと痛んだ。
「……」
「イデア?」
「何です?」
「顔が険しいですよ」
「誰のせいだと?」
「宿代ですか?」
「あなたの部屋代です」
「ですが、必要経費なのでしょう?」
イデアはゆっくりアルゼルを見る。
「その言葉を本人から言われると、なぜこんなに腹が立つのでしょうね」
「今夜から私は堂々と部屋で過ごせます」
「眠らないくせに」
「個室というものには興味があります」
「満喫しなくて結構です!」
「扉も閉めてよいのですね?」
「閉めるための部屋です!」
二人のやり取りを、宿の主人が妙な顔で眺めていた。
イデアは咳払いをひとつして話を終わらせる。
余計な出費だ。
けれど昨夜の騒ぎを考えれば、仕方がないのだ。
そう自分を納得させながら、二人は先に食堂へ向かった。
数組の旅人が食事を取っている。
壁には油灯が掛けられ、木戸を閉めた窓の隙間から、夕方の冷たい風がわずかに入り込んでいた。卓も椅子も長年使われてきたものらしく、木の表面は人の手や衣服に擦れて滑らかになっている。
「ようやく休めますわね」
朝から御者台へ揺られ続けてきた腰が重い。
同じ座るという動作でも、荷馬車の上と宿の椅子ではまるで違う。
イデアは空いている卓を見つけ、何の疑いもなく椅子を引いた。
腰を下ろした、その瞬間。
ばきり、と乾いた音がした。
「え?」
視界が傾く。
椅子の片脚が根元から折れていた。
短い悲鳴を上げながら、身体ごと床へ倒れる。
咄嗟に卓へ手を伸ばしたが、指先は届かなかった。
だが、床へぶつかるより先に横から伸びてきた腕が、イデアの腰をしっかりと抱き止めた。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
アルゼルだった。
床へ落ちる寸前だったため、半ば彼へ身体を預けるような格好になっている。
近い。
顔を上げれば、すぐ目の前にアルゼルの顔があった。
いつもどおり両目は細く閉じられている。
波打つ長い金髪が肩から流れ、端正な顔には少し心配そうな色が浮かんでいた。
見慣れてきたと思っていた。
けれど、こうして近くから見ると、やはり腹立たしいほど整っている。
それに、自分の腰を支えている腕が、思っていたよりずっとしっかりしていた。
「イデア?」
「何です?」
「立てますか?」
「立てますわ!」
自分でも分かるほど、声が大きくなった。
イデアは慌てて足へ力を入れ、自分で立ち上がる。アルゼルもそれ以上支え続けることなく、素直に腕を離した。
「怪我は?」
「ございません」
「腰や手首は?」
「大丈夫ですったら」
何度も確認されると、むしろ、先ほど腰へ回された腕の感触の方を意識してしまう。
イデアはそれを追い払うように壊れた椅子へ目を向けた。
「まったく。座っただけで壊れるなんて――」
椅子を起こそうと屈みかける。
その時、床板の隙間で何かが光った。
「あら?」
「どうしました?」
「何かありますわ」
壊れた脚のそば。
壁際と床板のわずかな隙間に、金属の輪が挟まっている。
指を入れて引き出すと、古びた鍵が三本、ひとつの輪へまとめられていた。
「鍵束ですわね」
騒ぎに気づいて駆け寄ってきた宿の主人が、それを見るなり目を見開いた。
「それ!」
「ご存じなの?」
「どこにあったんです!?」
「この椅子の下ですけれど」
主人は鍵束を受け取り、一本ずつ食い入るように確かめる。
やがて顔いっぱいに喜色を浮かべた。
「間違いない。倉庫の鍵だ!」
「倉庫?」
「少し前に失くしたきりだったんですよ。予備もなくてね。古い錠前だから合う鍵を作るのも難しくて、そろそろ扉の方を壊して取り替えようかって話してたところで」
「それは……よかったですわね」
「いやあ、本当に助かりました!」
主人は鍵束を握ったまま、しばらく考え。
「今夜の宿代、半分でいいですよ」
イデアの顔が変わった。
「……半分?」
「ええ。錠前を壊して新しくすることを考えれば、そっちの方がよほど安い。それに椅子まで壊れたとなっては」
「わたくしは特に怪我などしておりませんが……本当に?」
「もちろん」
イデアは頭の中で、つい先ほど支払った金額を計算した。
二部屋分。その半額。
つまり。
「……一部屋分」
「はい?」
「何でもございませんわ」
主人は嬉しそうに鍵束を持って去っていった。
その後ろ姿を見送ると、イデアは壊れた椅子を見る。
次に、アルゼルを見る。
「これ」
「ええ」
「見返りですわね?」
「おそらく」
アルゼルも同じことを考えていたらしい。
イデアは指を折って確かめる。
「椅子が壊れました」
「はい」
「わたくしが転びかけました」
「私が受け止めましたので、怪我はありません」
「その結果、失くされていた鍵束を見つけました」
「ええ」
「そして、宿代が半額」
「そうなりますね」
イデアは黙った。
今夜からアルゼルのために、部屋をひとつ余計に取ることになった。
その結果、宿代は昨日までの倍になるはずだった。
高い。惜しい。
仕方がないと何度自分へ言い聞かせたか分からない。
それが、椅子の脚一本が折れた結果。
二部屋分の料金が半額になった。
最終的に支払うのは、昨日までとほとんど同じ一部屋分である。
「……黒字ではありませんわね」
「そうですね」
「元へ戻っただけです」
「ですが、赤字は消えました」
「わたくしの椅子が壊れたおかげで」
「正確には、宿の椅子ですね」
「そこはどうでもよろしいの!」
言いながら、イデアは少しだけ笑いそうになった。
「妙に律儀な加護ですこと」
「お気に召しましたか?」
「いいえ」
「即答ですね」
「できれば最初から部屋代が増えない方を希望しております」
「それは加護ではどうにも」
「あなたが廊下で幽霊扱いされなければ済んだ話ですわ」
「私のせいでしょうか?」
「……わたくしのせいでもありますが」
アルゼルはしばらく考え、閉じた目のまま微笑んだ。
「では、今夜は部屋がありますから問題ありませんね」
「ええ」
「せっかくですので、寝台へ横になってみましょうか」
「眠らないのでしょう?」
「人間の宿泊を体験してみたくなりました」
「余計なことに興味を持たないで!」
「枕も使ってみたいです」
「持ち帰ってはいけませんわよ」
「持ち帰りません」
本当に分かっているのだろうか。
イデアはため息をつき、別の椅子を引いた。
そして。
今度は座る前に、脚を確認した。
座面を両手で押す。
少し揺らす。
軋みがないことを確かめてから、慎重に腰を下ろした。
「ずいぶん用心深くなりましたね」
「学習したのです」
「また壊れても、私が受け止めますよ」
イデアの手が止まった。
「……そういうことを、さらりとおっしゃるのはおやめなさい」
「なぜ?」
「何でもです!」
今度の椅子は壊れなかった。
ようやく落ち着いて座れたイデアは、小さく息を吐く。
予定外の宿代が増え。
椅子が壊れ。
転びかけ。
なくした鍵を見つけ。
その結果、増えた宿代がちょうど消えた。
不幸はなくならない。
けれど、その後には何かが残る。
アルゼルが廃教会で言った通りだった。
ただひとつだけ。
椅子から落ちかけた時。
当然のように自分を抱き止めた腕のことまで、見返りのうちに数えるのだろうか。
そこまで考え、イデアはすぐに首を振った。
そんなはずはない。
そして仮にそうだったとしても、本人へ確認するつもりは、まったくなかった。




