4.天使を廊下に立たせると、幽霊になります
翌朝。
イデアは、まだ人通りの少ないうちに王都を出ることにした。
荷馬車には、昨日一日をかけて揃えた品々が積まれている。
鍬や鋤、鎌などの農具。作物の種。保存食。薬。寝具。水を入れる小樽。そして、アルゼルが最後まで「本当にこれほど必要なのですか」と疑問を呈していた紙束と墨。
荷物が落ちないよう縄を確かめてから、イデアは御者台へ上がった。
薄茶色の雌馬――マルタは、朝から機嫌よく鼻を鳴らしている。
「では、参りますわよ」
「ええ」
アルゼルも御者台の隣へ腰を下ろした。
王都を出るまでは、今日も翼をできるだけ背中へ畳み、その上から大きな外套を掛けている。
昨日よりは幾分ましだった。
イデアが古着屋を何軒も回り、できる限り幅の広い外套を見つけたからだ。
それでも、人間の背中としては妙に厚い。
「門では、余計なことをおっしゃらないでくださいませ」
「余計なこととは?」
「昨日、背中が大きいほど品格がある地方のご出身という設定を勝手に増やしたでしょう」
「あれは有効な説明でした」
「今後二度と使いませんわよ」
「残念です」
「どこが?」
「私は非常に品格があるという部分です」
イデアは手綱を握ったまま、横目で彼を見た。
いつものように、アルゼルの目は細く閉じられている。
金色の長い睫毛が、白い頬へかすかな影を落としていた。
それだけなら静謐な聖人のようにも見えるのに、口を開けば大抵こうである。
「黙っていれば、本当に立派な天使に見えますのに」
「話していても立派な天使です」
「あなたがご自分の品格や美しさを過剰に語らなければ」
「過剰ではないので、問題ありませんね」
「あるから申し上げているのです」
アルゼルは何が問題なのか分からないという顔で微笑んでいる。
彼の両目は今日も細く閉じられていた。
それでも不自由している様子はない。
昨日も人や物へぶつかることなく王都を歩いていたし、古物商では卓上の祭具へ正確に手を伸ばしていた。
不思議ではある。
だが今は、門を無事に抜ける方が先だった。
荷馬車が王都の外門へ近づく。
イデアは伯爵家当主としての身分証と通行証を門番へ見せた。
荷台の中も簡単に確認される。
積み荷はどれも特に怪しいものではない。
問題は一人だけだった。
「……そちらの方は?」
案の定、門番の視線がアルゼルへ向いた。
「同行者ですわ」
「ずいぶん大きな荷物を背負っているようですが」
来た。
イデアはすぐさま笑顔を作った。
「旅用の羽毛です」
口が勝手に答えていた。
アルゼルがゆっくり顔をこちらへ向ける。
見るな。イデアは心の中で呟く。
「羽毛?」
「ええ。非常に上質な」
「その話、昨日もどこかで聞いたような……」
門番が首を傾げた。
噂が回っている。イデアは張り付けた笑顔をなんとか維持して、言葉を続けた。
「地方では珍しくありませんの」
「どこの地方です?」
「山をいくつも越えた遠いところです」
「袋には入れないんですか?」
「繊細な品ですので」
昨日と同じ説明を繰り返す。
ところが門番は、まだ納得していない。
「それにしても、身体にくくりつける必要が?」
「彼の故郷では、そうするのが一般的なのです」
言ってから、イデアは心の中で頭を抱えた。
つい先ほど、その話を二度と使わないと決めたばかりではなかったか。
門番の表情がますます怪しくなる。
すると、横からアルゼルが穏やかに口を挟んだ。
「私の故郷では、羽毛を身体へ密着させて運ぶのが伝統なのです」
イデアは目を閉じたくなった。
「伝統?」
「ええ。羽根とは非常に繊細なものです。乱雑に袋へ詰めれば、その美しさが損なわれる」
「へえ……」
「一枚一枚を慈しみ、形を保ったまま運ぶ。故郷では幼い頃から教えられます」
妙に説得力のある声音だった。
内容はすべて嘘である。
いや、羽根を慈しんでいる部分だけは本当かもしれない。
門番はしばらくアルゼルを眺め、
「変わった土地もあるもんだな」
と、ようやく納得してくれた。
荷馬車が門を抜ける。
王都の城壁が後ろへ遠ざかってから、イデアは大きく息を吐いた。
「……なぜ、さらに設定を増やしましたの」
「お役に立ったでしょう?」
「次に聞かれたら、幼少期の羽毛教育についてまで説明する羽目になりますわよ」
「私に幼少期はありませんが、必要なら考えます」
イデアは手綱を放しかけた。
「……いま、さらりと妙なことをおっしゃいませんでした?」
「何がです?」
「幼少期がない、と」
「ええ。ありません」
あまりにも当然のように答えられ、イデアはそれ以上聞くべきか迷った。
人間ならば生まれ、育ち、子供から大人になる。
だが、目の前にいるのは天使である。
父神の家庭事情だけでも十分なのに、ここで天使の誕生についてまで尋ねれば、また理解の追いつかない話が増えそうだった。
「……聞かなかったことにいたしますわ」
「羽毛教育の設定は?」
「それも考えなくて結構です!」
マルタが、ぶるると鼻を鳴らした。
イデアには、それが呆れたため息のように聞こえた。
◇
王都から小ラズマイトまでは、順調に進んでも十日ほどかかる。
もっとも、イデアの旅において「順調」という言葉ほど信用できないものもなかった。
それでも、王都を離れた最初の半日は穏やかだった。
街道は広く整えられている。
春から初夏へ移ろう陽気も心地よく、道沿いには青々とした草が茂っていた。荷馬車の車輪が土を踏む音と、マルタの蹄の音が一定の調子で続く。
王都が見えなくなってから、イデアはアルゼルに外套を脱がせた。
「もうよろしいですわ」
「ようやくですか」
待ちかねていたらしい。
アルゼルは荷馬車を降りると、大きく肩を回した。外套を外し、背へ押し込めるように畳んでいた翼を伸ばす。
ばさり、と風が起きた。
「きゃっ」
大きな白い翼が一気に広がり、イデアの髪が風に煽られる。
「広げるなら先におっしゃってくださる?」
「失礼しました」
そう言いながら、あまり反省した様子はない。
青い空を背にした白い羽根が、陽光を受けて淡く輝く。
廃教会の暗がりで初めて見た時には、その大きさと人ならざる姿への驚きの方が強かった。
けれど、こうして日の下で改めて見ると。
ただ、綺麗だった。
一枚一枚の羽根まで形が整い、風を受けるたび、柔らかな光が表面を滑る。
「……何です?」
「何でもありませんわ」
「見惚れていました?」
「翼を見ていただけです」
「では、どうぞ。私の美しさは鑑賞されてこそ価値があります」
「感心したわたくしが馬鹿でした」
イデアは御者台へ座り直した。アルゼルも隣へ戻る。
外套を脱いだ今は、大きな翼を後ろへ折り畳み、荷台の邪魔にならないようにしている。
荷馬車が再び走り出した。
しばらくして、イデアはふと、横へ座るアルゼルの顔を見た。
今日も目は閉じている。
昨日も。
一昨日、廃教会で現れた時からずっと。
「アルゼル」
「はい」
「ひとつ、お尋ねしても?」
「私の年齢以外でしたら」
「聞くつもりはございません」
何歳なのだろう、とは一瞬思った。
だが、尋ねれば人間の尺度では分からないような答えが返ってきそうなので、今はやめておく。
「あなた、ずっと目を閉じておりますけれど、見えておりますの?」
「見えています」
「本当に?」
「ええ」
あまりにも普通に答えられた。
イデアは疑わしく思い、アルゼルの前へ手を出した。
「では、これは何本?」
イデアは指を三本立てた。
「三本」
「……見えておりますわね」
「疑っていたのですか」
「普通、目を閉じていれば見えないでしょう」
「天使ですので」
「説明になっておりませんわ」
「人間の目だけを使って見ているわけではない、と言えばよろしいですか?」
「最初からそうおっしゃい」
イデアは改めてアルゼルの横顔を見た。
「どうして閉じておりますの?」
アルゼルは一瞬、黙った。
「その方が都合がよいからです」
「何に?」
「主に周囲の方々にとって」
ますます分からない。
「目を開けると何か起きますの?」
「多少」
「多少とは?」
「人間の感情へ影響します」
イデアは眉を上げた。
「魅了の魔法?」
「魔法ではありません。生まれつきの性質です」
「では、目が合った人はあなたを好きになる?」
「何もないところへ感情を作るほど単純なものではありません」
アルゼルは穏やかに説明した。
「私へ向けられている好意や関心、親しみ、憧れ――そういったものを強くしてしまうことがあります」
「すでにある感情を?」
「ええ」
「では、あなたを嫌っている方が見れば?」
「急に愛するようになることはありません」
「……思ったより地味ですわね」
「地味」
「もっとこう、目が合った瞬間に誰も彼もあなたへ跪くような話かと思いました」
「それはそれで困りますね」
「あなたなら喜びそうですけれど」
「美しさを称えられることと、意思を曲げることは別です」
その言葉に、イデアは少しだけアルゼルを見る目を変えた。
自信過剰で。
自分の顔が美しいことを疑わず。
隙があれば自画自賛する。
しかし、自分の力で誰かの心を勝手に動かすことは避けているらしい。
「……意外と良識がおありですのね」
「意外と、は不要です」
「お父様の話を聞いたあとですもの。神の一族にどこまで常識を期待してよいのか分からなくなっておりますの」
「父を基準にしないでください」
そこだけは、やけに切実だった。
イデアは少し笑った。
「ちなみに、どのような色なの?」
「私の瞳ですか?」
「ええ」
「黄金です」
「……金色」
「非常に美しいですよ」
「結局そこへ戻るのね」
「事実ですから」
アルゼルは、わずかに顔をこちらへ向けた。
「ご覧になりますか?」
「結構です」
即答した。
「いまのお話を聞いた直後に、わざわざ見る理由がございませんもの」
「気にならないのですか?」
「色くらいなら気になりますけれど」
イデアは前を向いたまま答えた。
「必要もないのに、人の気持ちへ影響するものを覗こうとは思いませんわ」
アルゼルが少し黙った。
「慎重ですね」
「これまで散々、余計なものに巻き込まれてきましたので」
「私の瞳を余計なものと」
「では、見なければ困る場面がありますの?」
「今のところはありません」
「でしたら閉じていてくださいませ」
「残念です」
「なぜ?」
「せっかく美しいのに」
「あなたがご自分でご存じなら、それで十分でしょう!」
「それもそうですね」
それで納得したらしい。
イデアは呆れてため息をついた。
ただ、ほんの少しだけ、気にならないわけではなかった。
黄金の瞳。この男がそこまで自信を持つのなら、さぞ人間離れした色なのだろう。
けれど、見たいと思うことと、実際に見ることは別だ。
それに――。
「そのままの方がよろしいですわ」
「何がです?」
「目です」
「なぜ?」
「閉じている方が、少しは大人しそうに見えますもの」
「私は元から落ち着いた天使ですが」
「口を開かなければ、という条件つきです」
「ずいぶんな評価ですね」
アルゼルは不満そうに言った。
だが、その口元は笑っている。
イデアも少しだけ笑いかけるが、頭上で鳥が鳴いたことで気を逸らされる。
何気なく見上げると、嫌な予感がした。
「アルゼル」
「はい」
「少しだけ、こちらへ――」
べちゃり。
言い終わらぬ間に、肩へ何かが落ちた。
イデアは固まった。
アルゼルも顔を向ける。
マルタだけが何事もなく歩き続けている。
「……」
「……」
「いま、笑いました?」
「いいえ」
「口元が動きましたわ」
「残念ながら、鳥の排泄物ですね」
「見れば分かります!」
イデアは荷馬車を止め、肩を確認した。
最悪である。
「なぜ、わたくしだけ?」
「神聖な存在へ落とすのを避けたのでは」
「そんな賢い鳥なら、誰にも落とさないでしょう!」
その時。
少し先から、ぼとり、と別の音が聞こえた。
二人がそちらを見る。
先ほど鳥が飛び立った木の枝から、古びた革袋が地面へ落ちていた。
「……何ですの、あれ」
アルゼルが拾う。
紐をほどくと、中には銅貨が十数枚入っていた。
「見返りでしょうね」
イデアは汚れた肩と銅貨を交互に見た。
「鳥の糞と引き換えに?」
「損害としては軽微ですから」
「品がありませんわ」
「黒字です」
「黒字なら何でも許されるわけではありません!」
イデアはそう言いながらも、アルゼルの手にある革袋へ視線を戻した。
袋そのものは古びており、長いあいだ雨風にさらされていたらしく、革はところどころ硬くなっている。持ち主の名を示すような印は見当たらなかったが、底の方には、小さく折り畳まれた紙切れが一枚だけ入っていた。
「……これは?」
イデアが取り出して開く。
かなり色褪せているうえ、端は湿気で波打っていた。それでも、書かれている文字までは何とか読める。
「日付がありますわね」
確認すると、一年以上も前のものだった。
どうやら、どこかの店で品物を買った時に渡された控えらしい。
「少なくとも、昨日今日落としたものではなさそうですね」
「そうですわね」
だからといって、そのまま自分のものにしてよいわけでもない。
「街道沿いに兵士の詰所があったでしょう」
イデアは道の先へと視線を向ける。
「そこへ届けますわ」
その言葉通り、少し進んだ先に、小さな兵士詰所があった。
街道を行き交う旅人の確認や、落とし物、揉め事などを扱う場所である。
事情を説明し、革袋と中身を見せる。
兵士は紙切れの日付を確かめたあと、古い記録を引っ張り出して確認してくれた。
「一年以上前か……」
しばらく帳面をめくり、やがて首を振る。
「この辺りでは、その時期にこれと一致する落とし物の届けは出ていませんね」
「そうなのですか」
「ええ。少なくとも、こちらに残っている記録にはありません」
持ち主が名乗り出ていない。
しかも、見つかったのは一年以上あと。
兵士は中身を数え直し、少し考えてから言った。
「こういう場合は、発見者への謝礼として中身の一部を認めることがあります」
「一部?」
「三分の一ですね」
イデアは目を瞬いた。
「……受け取ってよろしいの?」
「ええ。残りはこちらで預かります。あとから持ち主が現れた場合にも説明できますから」
兵士は銅貨を三つに分け、そのうち一つ分をイデアへ差し出した。
革袋ごと拾った時よりは、もちろん少ない。
けれど、きちんと届けた上で、正当に受け取ったものだった。
イデアはしばらく銅貨を見つめ。
それから、アルゼルを見る。
「……三分の一になりましたわ」
「それでも増えましたね」
「肩に鳥の落とし物を受けて?」
「見返りとしては十分では?」
「十分かどうかは、わたくしが決めます!」
そう言いながら、イデアは受け取った銅貨を財布へしまった。
少なくとも、拾ったものをそのまま懐へ入れるよりは、ずっと気分がよかった。
内心では、せめて肩を洗う水代くらいは加算してほしいと思いながらも。
◇
その日の夕方、二人は街道沿いの小さな宿へ入った。
王都の安宿よりさらに素朴な建物だったが、屋根があり、寝台があり、温かい食事が出るだけで十分だった。
マルタを預け、荷物のうち貴重品だけを持って中へ入る。
「一部屋お願いいたします」
イデアは宿の主人へそう告げた。
主人はイデアと、その隣に立つアルゼルを見比べる。
「お二人で?」
「ええ」
頷くと、隣に立っていたアルゼルが顔を向けた。
だが、彼は何も言わない。部屋がひとつな理由も訊ねてこない。
ここで余計な説明をするつもりはなかった。
かといって、天使とはいえ出会ったばかりの男性と部屋を共にするつもりもない。
食事も睡眠も必要としない同行者だから、夜になったら廊下へ立たせます――などと正直に言えば、さすがに宿の主人もよい顔はしないだろう。
そもそも客でもない男を一晩中廊下へ立たせておくなど、宿側からすれば迷惑でしかない。
「では、こちらを」
鍵を受け取り、二人で二階へ上がる。
部屋へ入ると、イデアは荷物を卓の上へ置き、それからアルゼルを振り返った。
「では」
「はい」
「あなたは外へ」
アルゼルが、わずかに顔を傾けた。
「外?」
「廊下です」
「なぜです?」
「なぜって」
イデアは当然のように答えた。
「一部屋しか取っておりませんもの」
「二人で使う部屋として借りたのでは?」
「主人の前ではそういうことになっております」
「実際は?」
「わたくしが使います」
「私は?」
「廊下です」
少しの沈黙。
「つまり」
アルゼルが確認するように言う。
「宿の主人には二人で同室だと思わせておいて、扉が閉まった途端に私を追い出すと」
「その通りですわ」
「ずいぶん手際がよろしいですね」
「褒めても何も出ませんわよ」
「褒めてはいません」
イデアは外套を脱ぎながら続けた。
「あなた、眠る必要はないのでしょう?」
「ええ」
「でしたら寝台も必要ありません」
「では、夜の間はずっと廊下に?」
「玄関でも構いませんけれど、勝手に外へ出て宿の主人に見つかるのも面倒ですわね。廊下になさい」
「天使を廊下へ立たせるのですか」
「部屋代を払うほど余裕がございませんの」
王都を出るまでに、すでにかなりの金を使っている。
小ラズマイトへ着けば、さらに何が必要になるか分からない。
一泊ごとに部屋をひとつ余分に取れば、それだけ確実に手持ちは減っていく。
「削れるところは削ります」
「私は削られる側なのですね」
「食事も睡眠も不要なのですもの。最も削りやすいでしょう」
「合理的ではあります」
「でしょう?」
「扱いは雑ですが」
そこは否定しない。
「この部屋の隅に立っているのでは?」
「それはもっと嫌です」
「なぜ?」
「夜中に目を覚ました時、枕元に目を閉じた男性が立っていたら怖いでしょう!」
「ですが王都の宿では、そのように——」
「あの時は色々なことが起こりすぎて、そこまで気にしていられなかったのです!」
「見守られていると思えば安心かと」
「眠れませんわ!」
アルゼルは少し考えた。
「では、扉の外で」
「最初からそう申し上げております」
イデアは扉を開ける。
「朝になったら戻っていらっしゃい」
「追い出し方まで自然ですね」
「おやすみなさい」
「私は眠りませんが」
「存じております!」
そして。
扉は、アルゼルの目の前で閉められた。
◇
翌朝。
宿を出た二人は、まだ朝靄の残る街道を歩いていた。
厩にいるマルタを迎えに行くまでの短い間である。
「昨夜はよく眠れましたか?」
アルゼルが尋ねた。
「誰かさんのせいで、一度叩き起こされましたけれど」
「私のせいでしょうか。悲鳴を上げたのは別の方です」
「原因はあなたでしょう」
「私は静かに立っていただけです」
「夜中の薄暗い廊下で、目を閉じたまま微動だにせず?」
「ええ。大変お行儀よく」
「幽霊と間違われる程度には?」
「それは見る側の想像力の問題かと」
イデアは呆れながらも、それ以上は言い返さなかった。
そもそも、彼を廊下に立たせたのは自分である。そこは少しだけ、見直すべき点だった。
厩の扉を開けると、中ではマルタが朝の飼葉を食べ終えたところだった。イデアを見ると、待っていたとでも言うように顔を上げる。
「少なくとも、マルタの方があなたより旅の同行者として手がかかりませんわ」
「それは聞き捨てなりませんね」
「事実ですもの」
「私は昨日も一昨日も、かなりの荷物を運びましたが」
「その代わり、夜中に幽霊騒ぎを起こしました」
「差し引きでは、まだ私の方が役に立っていると思います」
「自分で採点なさらないで」
イデアがマルタの手綱を取る。
アルゼルは当然のように荷馬車の留め具を外し始めた。
昨日までなら、彼が何かするたびに「できますの?」と確認していた気がする。
アルゼルの方も、イデアが命じれば一拍置いてから動いていた。
けれど今は。
「アルゼル。そちらを先にお願いします」
「分かっています」
「本当に?」
「昨日もやりました」
「では、縄を逆に通さないでくださいませ」
「一度間違えただけでしょう」
「一度あれば十分です」
「イデアは細かいです」
「領主ですもの」
「便利な言葉ですね」
「天使ですから、よりはましでしょう?」
アルゼルが少しだけ笑った。
イデアも、言い返してから気づく。
こうして遠慮なく言葉を投げ合うことが、いつの間にか自然になっていた。
まだ出会って、ほんの数日しか経っていないというのに。
イデアはマルタの首筋を撫でながら、横目でアルゼルを見た。
「昨日から、わたくしへの口の利き方が少し遠慮なくなっていません?」
何気なく言う。
「そうでしょうか」
「まあ、一夜を共にした仲ですものね」
イデアが冗談交じりに言うと、アルゼルの微笑みがわずかに深くなった。
「ほう」
「その表情をおやめなさい。宿の廊下で夜を明かしただけでしょう」
「自分から紛らわしい表現をなさったのでは?」
昨夜、アルゼルは本当にイデアの部屋へ入らず、廊下に立ったまま朝を迎えた。
本人には何の問題もなかったらしい。
眠る必要がないのだから、寝台もいらない。
壁へ寄りかかる必要すらなく、ただ静かに立っていればよい。
問題があったのは、宿の他の客だった。
厠へ向かおうとしたのだろう。夜中に一人の宿泊客が部屋から出てきた。
薄暗い廊下。
壁際の小さな油灯。
窓から差し込む月明かり。
その先に、長い金髪の美青年が、両目を閉じたまま微動だにせず立っていた。
『うわあっ!?』
悲鳴でイデアは叩き起こされた。
何事かと部屋を飛び出す。
すると宿泊客の男が壁へ張りつき、アルゼルを指差して震えていた。
『な、何だ、こいつは! さっきから全然動かないぞ!』
『何だとは失礼ですね』
『しゃべった!』
『しゃべりますよ』
そこへ騒ぎを聞きつけた宿の主人まで階下から上がってきた。
『どうしました!』
『幽霊だ!』
『幽霊?』
主人がアルゼルを見る。
イデアは額を押さえたくなった。
天使です。などと説明できるはずもない。
しかもアルゼルは、翼を背中へ強く畳み、その上から大きな外套を羽織っている。
詳しく調べられれば、幽霊どころではない騒ぎになる。
『この方は幽霊ではございませんわ』
『では、何者で?』
『遠縁の者です』
イデアは言い切った。
アルゼルがゆっくり顔を向ける。
『遠縁』
『黙っていて』
『はい』
だが、宿の主人はまだ怪訝そうだった。
『でも、どうして夜中にこんなところへ立っているんです?』
『少々……』
イデアは必死に考えた。
部屋代を惜しんで、廊下へ追い出したとは言えない。
眠らないから。
天使だから。
翼を隠しているから。
使える説明が一つもない。
そして、
『立ったまま眠る癖がありますの』
咄嗟の思いつきが口から出た。
我ながら無理がある。
『立ったまま?』
『ええ』
『朝まで?』
『ええ』
アルゼルが口を開く。
『私は眠ってなど――』
イデアは勢いよく彼の腕を引いた。
『立ったまま眠りますの!』
『……そのようです』
宿の主人は、改めてアルゼルを眺めた。
波打つ長い金髪。
人間離れして整った顔立ち。
目を閉じたまま静かに立つ姿。
そして、しばらく考えたあと。
『ああ、芸術家の方ですか』
『……はい?』
思わず聞き返したのはイデアだった。
『芸術家ってのは変わった方が多いですからねえ。立って寝る人くらいいるんでしょう』
『そういうものですか』
なぜかアルゼルまで納得している。
『違うと思いますわ』
小声で言ったが、もう遅かった。
主人はすっかり理解した顔で、
『では、なるべく静かにお願いしますよ』
と言い残して階下へ戻っていった。
なぜ芸術家なら立ったまま眠ることまで許容されるのか。
イデアには、最後まで分からなかった。
そんな騒動を思い出し、朝の街道でイデアは深くため息をついた。
「次の宿では、あなたの部屋も取ります」
「よろしいのですか?」
「よくありませんわ」
即答だった。
「宿代が二人分になりますもの」
銅貨一枚でも惜しい。
本来なら、食事も睡眠も必要としない天使の宿泊費など、真っ先に削るべき項目である。
だが。
「毎晩、夜中に悲鳴を上げられて、そのたびに『遠縁の芸術家で、立ったまま眠る癖がございます』などと説明するわけにはまいりません」
「私は芸術家になったのですね」
「なっておりません」
「では、遠縁?」
「それも違います」
「一夜を共にした仲では?」
「廊下です!」
アルゼルが楽しそうに笑う。
「とにかく」
イデアは言い切った。
「これは贅沢ではございません。必要経費です」
「私のための部屋が必要経費に」
「宿の皆様の安眠と、わたくしの精神の平穏を守るためです!」
財布は痛む。非常に痛む。
それでも、天使を廊下へ放置して毎夜幽霊騒ぎを起こされるよりはいい。
イデアはそう自分へ言い聞かせた。




