3.天使を隠すには、布が足りません
翌朝。
イデアは目を覚まして早々、昨夜とは別の問題に直面していた。
「……どういたしましょう」
安宿の狭い一室。
寝台の上に腰掛けたイデアの前で、アルゼルが穏やかな微笑を浮かべている。
「何がです?」
「その翼ですわ」
イデアが指を差すと、アルゼルは不思議そうに肩越しを振り返った。
昨夜、廃教会で初めて目にした時には、礼拝堂いっぱいに広がるほど巨大に思えた白い翼。それはいま、彼の背に沿ってきつく畳まれている。
畳まれてはいる。
しかし、なくなったわけではない。
翼の根元から幾重にも重なる白い羽根は、アルゼルの肩幅よりはるかに大きく膨らんでいる。長い羽先は脚の後ろまで垂れ、少し身体を動かすだけで壁や椅子へ触れそうになった。
昨夜は暗かったうえ、イデア自身も疲れきっていた。
ひとまず宿へ戻ることしか考えていなかったのだ。
だが、夜が明けた。
これから王都の真ん中を歩かなければならない。
「まさか、そのまま外へ出るおつもり?」
「いけませんか?」
「いけませんわよ!」
思わず声を上げてから、イデアは慌てて口元を押さえた。
薄い壁の向こうから、何かが動く音がする。
幸い、隣室から苦情は飛んでこなかった。
イデアは声を落とした。
「あなた、天使ですのよ」
「そうですね」
「しかも、王国では邪教とされている神の子なのでしょう?」
「その呼び方は不本意ですが」
「正教会のお膝元で、その翼を見せながら歩けば、どうなると思っていらして?」
アルゼルは少し考えた。
「注目を集めるでしょうね」
「それだけで済めばよろしいですけれど!」
正教会の教えしか知らない者が見れば、アルゼルを神の使いだと思うかもしれない。
あるいは逆に、何かの魔物や異端の術師と疑うかもしれない。
どちらにしても、王都を離れる前に騒ぎになるのは困る。
イデアには今日中に済ませたいことが山ほどあるのだ。
昨夜見つけた古い祭具を売り、旅に必要なものを買う。
農具に種。保存食、荷馬車。
可能なら、領地で使う紙や墨も用意しておきたい。
天使の身元について役人へ説明している余裕など、どこにもない。
「翼を小さくすることは?」
「できません」
「消すことは?」
「できませんね」
「透けさせるとか」
「なぜ皆さん、翼というものを都合よく扱えると思うのでしょう」
「皆さん?」
「過去にも似たことを聞かれました」
「でしょうね!」
これほど目立つ身体をしていれば、地上へ降りるたびに聞かれるに決まっている。
アルゼルは翼を少し持ち上げた。
「身体の一部ですから。腕を邪魔だからと消さないでしょう?」
「腕よりずっと場所を取っておりますわ」
「美しいものには、相応の空間が必要なのです」
「いま必要なのは美しさではなく、隠密性です」
イデアは部屋を見回した。
使えそうなものは多くない。
安宿だけあって、調度は必要最低限だ。寝台、椅子、小卓、水差し。窓には高価な硝子などなく、木の戸があるだけである。
そして寝台の上には、くたびれた大きな掛け布が一枚。
イデアの視線が止まった。
アルゼルも、その視線を追った。
「……嫌な予感がします」
「少々お借りしましょう」
「それを?」
「あなたへ掛けます」
「私に?」
「ほかに何がございますの」
「私は寝具ではありません」
「存じております」
反論を無視して、イデアは掛け布を広げた。
洗ってはあるらしいが、ずいぶん古い。もともとは茶色だったのか灰色だったのかも分からないほど色褪せている。
「失礼ですね」
「何が?」
「私の翼へ、その布を?」
「白い布などこの宿にはありませんわ」
「せめて、もう少し品のあるものを」
「では、その美しい翼を堂々と晒して外を歩きます?」
「……掛けてください」
意外と諦めは早かった。
アルゼルが翼をできる限り背中へ寄せる。
イデアはその上から掛け布を被せた。
右を包み。
左を包み。
余った部分を前へ回す。
「…………」
「どうです?」
「どう、と申されましても」
イデアは一歩下がった。
そこには、背中だけ異様に膨らんだ絶世の美青年が立っていた。
どう見ても怪しい。
翼は見えていない。
だが、見えていないからこそ余計に怪しい。
「何か背負っているように見えますわね」
「実際、翼を背負っていますから」
「自分の身体は背負うとは言いません」
横から見る。
さらに怪しい。
背中から掛け布の中身が大きく張り出しており、とても人間の普通の体格には見えない。
しかも翼は生きた身体の一部なので、アルゼルが姿勢を変えるたびに微妙に動く。
「動かさないで」
「長時間同じ姿勢で翼を畳むと疲れます」
「我慢なさい」
「イデア」
「何です?」
「あなたは天使の扱いが雑ではありませんか?」
「昨日出会った天使の扱い方など、教わったことがございませんの」
それはそうですね、とアルゼルが納得しかけた時。
扉が叩かれた。
「お客さん、朝ですよ。昨夜の追加分の代金だけ――」
宿の主人の声だった。増えた宿泊客の代金を貰いに来たのだ。
イデアとアルゼルが同時に扉を見る。
「……どうしますか?」
「どうするも何も」
入らせないわけにもいかない。
イデアが少しだけ扉を開ける。
「おはようございます」
「ああ、おはよう――」
主人の目が、イデアの肩越しへ向かった。
背後には、古びた掛け布に包まれたアルゼルが立っている。
しかも、布の下で翼の先がわずかに動いた。
主人の眉が上がった。
「……そちらの方、背中に何を?」
「荷物ですわ」
即答した。
アルゼルがイデアを見る。
見ないでほしい。
「ずいぶん大きな荷物ですねえ」
「旅に必要なもので」
「いま、動きませんでした?」
「気のせいですわ」
「でも、確かに」
「羽毛ですの」
「羽毛?」
「ええ」
口にしてから、自分でも苦しいと思った。
けれど、もう引き返せない。
「旅先では寝具が手に入らないかもしれませんでしょう? ですから、こちらの者が……その、上質な羽毛を背負っておりますの」
アルゼルの微笑みが、わずかに引きつった。
「上質な?」
「大変上質ですわ」
嘘ではない。
少なくとも見た目だけなら、これほど美しい羽根をイデアは知らない。
宿の主人はアルゼルをじっと見た。次に、背中の巨大な膨らみを見る。
「袋に入れないんですかい?」
「事情がありまして」
「どんな?」
「……羽毛が繊細なのです」
「ほう」
「圧迫すると傷むので」
「なるほど」
本当に納得した。
イデアの方が驚いた。
主人は何度か頷き、宿代の追加分を受け取ると、そのまま廊下へ戻っていった。
扉が閉まる。
しばらく沈黙が続いた。
「イデア」
「何もおっしゃらないで」
「私は上質な羽毛なのですね」
「何もおっしゃらないでと申し上げましたわ!」
◇
宿から出るまでにも一苦労した。
古い掛け布だけではあまりに怪しいので、イデアは宿の主人から大きめの外套を一枚借りた。もちろん、それらの代金はきっちり支払う。
ただし、外套を掛け布の上から羽織っても、状況は劇的には改善しなかった。
翼を強く畳み、布で包み、その上から外套を着せる。
遠目なら、大きな荷物を背負った旅人に見えなくもない。
近くからなら、間違いなく何かがおかしい。
「背筋を伸ばしすぎないで」
「姿勢は美しさの基本です」
「今日は少し醜くなってください」
「無茶をおっしゃいますね」
朝の王都を歩きながら、イデアは何度もアルゼルの背中を確認した。
幸い、翼そのものは見えていない。
だが、もともとアルゼルは目立つ。
陽光を受けて輝く長い金髪。
まるで名工が丹念に彫り上げた彫像のように、非の打ちどころのない顔立ち。
細く閉じられた目。頬に影を落とすほどの長い睫毛。
そこへ、異様に膨らんだ背中が加わる。
当然、人々は振り返った。
「目立っていますわ」
「私ほど美しければ仕方ありません」
「今日は美貌ではなく背中を見られております」
「それは心外ですね」
すると、通りすがりの女性がアルゼルを二度見した。
さらに背中を見た。
「あの……」
呼び止められた。
イデアの肩が強張る。
「はい?」
「そちらの方、お怪我でも?」
「いいえ」
イデアは笑った。
「では、その背中は……」
「地方の礼装ですの」
「礼装?」
アルゼルの顔がイデアに向いた。
黙っていてほしい。
「ええ。彼の故郷では、成人男性は背中を大きく見せるほど……その……」
「尊敬されるのです」
アルゼルが続けた。
「そうなの?」
女性が興味深そうに聞く。
「ええ。背中の大きさは、その者の品格を示します」
イデアはアルゼルを睨んだ。
話を広げるな。
「まあ。では、とてもご立派な方なのですね」
「お分かりになりますか」
アルゼルが嬉しそうに微笑む。
「アルゼル」
「何でしょう」
「参りますわよ」
イデアは彼の腕を引っ張った。
人通りの少ない角まで来てから、ようやく手を放す。
「余計な設定を加えないでくださる?」
「苦しい説明でしたので、補強しただけですが」
「どこの地方ですのよ」
「聞かれたら考えましょう」
「その場で設定を増やすのはおやめなさい!」
「しかし、尊敬されました」
「そこですか!」
初日からこれである。
小ラズマイトへ到着する頃には、自分は天使を隠す嘘だけで一冊の帳面を埋められるのではないか。
イデアは本気で心配になった。
◇
最初に向かったのは、王都の職人街の外れにある古物商だった。
昨夜、廃教会の床下から見つかった銀器と古い貨幣を換金するためである。
店の看板は片側の鎖が外れかけ、斜めに傾いていた。
中へ入ると、さらに雑然としている。
欠けた陶器の壺。
錆びた剣。
片腕を失った石像。
用途の分からない金属の輪。
鹿の角。
古い燭台。
価値があるのか、単なるごみなのか。イデアには半分も判断できなかった。
「買い取りをお願いしたいのですが」
奥で帳簿を見ていた店主が顔を上げた。
イデアを見る。次にアルゼルを見る。
そして、彼の異様に膨らんだ背中を見る。
「……そっちのお兄さんも売り物かい?」
「違いますわ」
「かなり値がつきそうだが」
「ほら」
アルゼルが得意げに言った。
「ほら、ではありません。人身売買は犯罪です」
「肖像画なら合法ですよ」
「売りません」
店主が笑った。
「仲がいいねえ」
「昨日会ったばかりです」
「そうなのかい?」
「ええ」
「それで一緒に古物を売りに?」
「事情がございますの」
説明すると余計に怪しくなる。
イデアは話を切り上げ、持参した布包みを卓上へ置いた。
結び目を開く。
黒ずんだ銀の杯と皿。
それから、昨夜見つけた古い貨幣。
店主の表情が変わった。
「これは……」
杯を持ち上げ、底を覗き込む。
縁を指でなぞり、刻まれた文様を確かめる。
「ずいぶん古いな。どこで見つけた?」
「古い建物です」
「どこの?」
「王都の外れですわ」
「教会か何かか?」
鋭い。
イデアは笑みを崩さなかった。
「古い建物です」
「二度言ったな」
「大事なことですので」
店主が疑わしそうに眉を寄せる。
その横からアルゼルが杯を覗き込んだ。
「その杯でしたら――」
嫌な予感がした。
「アルゼル」
「かなり古いものですね」
「そこまでにしてくださいませ」
「ですが、材質は――」
イデアは彼の足を踏んだ。
アルゼルがわずかに顔をこちらへ向ける。不満そうな彼をひとまず無視して、イデアは店主へ向けて笑う。
「この方、古い品を見るのがお好きで」
「ほう。もしや、こういった研究を?」
「ええ」
「私は実際に――」
「研究者ですわ」
今度は強めに踏んだ。
アルゼルは少し沈黙した。
「……研究者です」
「詳しいなら助かるよ」
店主は気にした様子もなく、品物をひとつずつ確かめ始めた。
アルゼルが何度か口を開こうとするたび、イデアが視線で止める。
もしここで、
――これは父に捧げられた祭具です。
などと言われたら面倒なことになる。
正教会が邪教と呼んでいる宗教の祭具だと分かれば、買い取りどころではなくなる可能性もある。
幸い、刻まれた紋章の由来までは店主にも分からなかった。
「銀そのものにも価値はある。こっちの貨幣も珍しい。古い宗教関係の品を集める好事家なら、もう少し出すかもしれないが……出所が曖昧だからな」
提示された金額を、イデアは頭の中で素早く計算した。
農具、種、保存食、荷馬車。
全部を新品で揃えるのは難しい。でも中古品を混ぜれば、何とかなる。
「この金額でお願いします」
店を出たあと。
イデアは受け取った貨幣を、通りの隅でもう一度数えた。
「疑り深いですね」
「数え間違いで損をするよりよろしいでしょう」
「私が数えましょうか?」
「人間のお金を扱った経験がおありで?」
「ほとんどありません」
「では結構です」
「信用がありませんね」
「実績を積んでください」
数え終わる。間違いはない。
イデアはようやく、小さく息を吐いた。
「これなら農具を揃えられますわ」
「私の加護の成果ですね」
「その点については感謝しております」
「素直ですね」
「ただし、昨夜天井が崩れたことについては忘れておりません」
「差し引き黒字です」
「人の命を帳簿の項目のように言わないでくださいませ!」
とはいえ。
イデアの足取りは、昨日より確実に軽かった。
何もなかったところへ、少しだけ資金が生まれた。
小さな一歩。けれど、家も領地も借金も、一度にどうにかできるわけではない。
小さなものをひとつずつ積み上げるしかないのだ。
◇
それから二人は、王都の市場と職人街を行き来した。
最初に農具。
鍬、鋤、鎌。
斧に金槌。釘と縄。
新品にこだわらず、刃を研ぎ直せば使えるもの、柄を替えればまだ働くものを選んでいく。
アルゼルは最初こそ黙っていたが、途中から明らかに退屈し始めた。
「これは?」
「鍬です」
「先ほども買いましたね」
「大きさが違います」
「こちらは?」
「鎌」
「それも先ほど」
「用途が違います」
「人間は道具を細かく分けるのですね」
「あなた方は?」
「必要なら力でどうにかします」
「農業へ奇跡を持ち込まないでくださる?」
次は保存食。
乾燥豆。固焼きのパン。
干した肉。干し果物。
塩。その次に薬。
針と糸、蝋燭、火打ち石と油。
水を運ぶための小樽。
最低限の寝具。
アルゼルは食事も睡眠も必要ないと言ったが、荷物だけは次々と持たされた。
「なぜ私が?」
「荷馬車を買うまでの辛抱です」
「私には翼があります」
「飛んだら目立ちますでしょう」
「背中にはすでに翼があります」
「隠しているでしょう」
「その上から荷物まで?」
「持てますでしょう?」
「持てますが」
「では問題ありませんわね」
アルゼルは両腕に荷物を抱えたまま、しばらく黙った。
背中には翼。
その上に外套。
両手には袋。
美貌だけが場違いなほど輝いている。
「これは、父から聞いていた地上任務と少し違う気がします」
「何と聞いていらしたの?」
「困っている人間を助けろ、と」
「助かっておりますわ」
「荷物持ちとして?」
「非常に」
アルゼルが何とも言えない顔をした。
「父は、ここまで見越して私を寄越したのでしょうか」
「お父様なら、そこまで深く考えていないのでは?」
「否定できないのがつらいところですね」
少しだけ遠い声だった。
父神に振り回される天使というものが、イデアにはだんだん珍しく感じられなくなってきていた。
◇
「次はこちらですわ」
イデアが入ったのは、文具や帳簿用の品を扱う小さな店だった。
店先には紙束、羽根ペン、墨壺などが並んでいる。上質な白い紙は見ただけで高い。
イデアが手に取ったのは、その隅へ積まれていた安物だった。
少しくすんだ色。厚さも完全には揃っていない。端もわずかに歪んでいる。
だが、書けないわけではない。
「こちらを」
店主へ告げる。
「何枚ほど?」
イデアは少し考えてから答えた。
店主が目を瞬いた。
アルゼルも顔を向けた。
「ずいぶん買うのですね」
「足りなくなるよりよろしいでしょう」
「農具より多く見えますが」
「紙と鍬を枚数で比べないでくださる?」
紙束がいくつも重ねられていく。
アルゼルは、それを見ながら首を傾けた。
「何に使うのです?」
「記録ですわ」
「それほど?」
「それほどです」
イデアは紙の一枚を指先で持ち上げた。
「まず、小ラズマイトに何人住んでいるか分かっておりません」
「古い記録はあるのでしょう?」
「九年も前のものです。今も同じ人数のはずがありませんわ」
死んだ者もいる。
生まれた者もいる。
出ていった者もいるだろう。
「土地も見ます。畑の場所、水源、使える建物、道、家畜。何を持っていて、何が足りないのか。領民に何が必要なのか」
アルゼルは黙って聞いている。
「農具を買ったら記録。種を配ったら記録。お金を使ったら記録。誰かへ何かを貸したら記録。借りたら記録。収穫したら記録」
「かなり書きますね」
「今回、身に沁みましたの」
イデアは紙を紙束へ戻した。
「知らないというのは、怖いことですわ」
家督を取り戻した。
けれど、その中に何が残っているのかを知らなかった。
財産がどれほど減っているのか。
どの土地がすでに王家へ返されているのか。
誰が、どれだけの債務を作ったのか。
自分の家でありながら、何も知らなかった。
「もう、同じ失敗はしたくありません」
静かに言うと、アルゼルの表情からいつもの軽い笑みが少しだけ薄れた。
「だから、書くのですね」
「ええ。忘れないために。誤魔化されないために。そして、後から確かめられるように」
「なるほど」
アルゼルは紙束を見る。
「ですが」
「何です?」
「それを私が持つのでしょうか」
「ええ」
「全部?」
「荷馬車を買うまでです」
アルゼルの翼が、外套の内側でもぞりと動いた。
「翼が圧迫されています」
「紙は軽いでしょう」
「量という概念をご存じですか?」
「天使なら頑張りなさい」
「便利に使われていますね、天使」
結局、紙はアルゼルが持った。
安い黒墨もいくつか買った。
羽根ペン用の替え先になる羽根も必要最低限だけ。
高価な正式文書用の羊皮紙や上質な墨までは買わない。
これから必要なのは、美しい書状を書く道具ではない。
日々の現実を残すための道具だった。
◇
昼を少し過ぎる頃には、中古の荷馬車も見つかった。
決して立派ではない。
荷台には修繕した跡があり、片側の車輪も新しいものへ替えられている。
だが、軸はしっかりしていた。
それを引く雌馬も一頭つけてもらう。
薄茶色の毛並みに、鼻先だけ白い。
「名前はマルタです」
馬を売る商人が、その首筋を撫でた。
「年は少し取っていますが、働き者ですよ。気性も穏やかです。ただ、食い意地が張っている」
「旅向きですわね」
イデアはマルタの顔を覗き込んだ。
馬もイデアを見る。穏やかな黒い瞳だった。
「よろしくお願いいたしますわ」
鼻先を撫でようとした瞬間、マルタの首が伸びた。
イデアが持っていた干し果物の袋から、ひとつ抜き取られる。
「あっ」
もぐもぐと、満足そうに口が動く。
「それは旅の食料ですわ!」
「聞いていた通りですね」
アルゼルが言う。
「笑っていないで取り返してくださいませ」
「もう食べています」
アルゼルがマルタへ手を伸ばした。
すると馬は、すっと顔を逸らした。
「……」
もう一度手を伸ばす。
再び逸らされる。
反対側から触れようとする。
マルタは、イデアの肩へ顔を寄せて避けた。
アルゼルの微笑みが止まった。
「この馬」
「どうしました?」
「私を避けていますね」
「そうですわね」
「なぜでしょう」
「馬だからでは?」
「私の美しさが分からない?」
「馬に何を求めておりますの」
アルゼルは少し不満そうにマルタを見た。
マルタは興味を失ったように、イデアの干し果物の袋を再び狙っている。
「よい馬ですわね」
「判断基準がおかしくありませんか?」
「気に入りましたわ」
「私より?」
「比べる必要があります?」
アルゼルは黙った。
翼のあたりが、少しだけしょんぼりと下がった。
◇
旅支度は、思っていたより順調に進んだ。
荷馬車も手に入った。
農具もある。紙も墨も積んだ。
あとは作物の種を揃えれば、最低限の準備は終わる。
最後に立ち寄ったのは、種を扱う露店だった。
「痩せた土地でも育ちやすいものを探しておりますの」
イデアが言うと、愛想のよい店主がすぐにいくつかの袋を出した。
「それでしたら、こちらの麦がおすすめですよ。乾燥にも強い。土地が多少悪くても育ちます」
「収穫量は?」
「普通の麦より少し落ちますが、その分丈夫です」
「発芽率は?」
店主が一瞬だけ止まった。
「……十分ですよ」
「十分とは?」
「まあ、それなりに」
曖昧だった。
イデアは袋を手に取った。紐をほどき、中を見る。表面には、ごく普通の麦の種が入っていた。
「安いですわね」
「今年は仕入れが多くて」
アルゼルが横から覗き込む。
「神性はありません」
「種へ神性を求めておりません」
「では問題ありませんね」
「あなたは少し黙っていて」
イデアは麦のほか、豆や蕪など、比較的育てやすいものを選んだ。
土地の状態すら見ていない以上、何か一種類へ賭けるのは危険だ。
少量ずつ試す。どれが育つかを見て、次の年へつなげる必要がある。
代金を払い、袋を抱える。
「アルゼル、これは荷馬車へ――」
言葉の途中で、ぶちりと、嫌な音がした。
「……え?」
麦の袋の底が抜けた。
大量の中身が石畳へ落ちる。
ぱらぱらと乾いた音を立てて、足元へ広がった。
「申し訳ありません!」
店主が慌てて出てくる。
「袋が古かったようで。すぐ新しいものへ――」
「お待ちなさい」
イデアは動かなかった。
落ちたものを見ていた。
最初に転がったのは、確かに麦だった。
だが。
袋の下半分からこぼれたものは、形が違う。
イデアはしゃがみ、一粒つまみ上げた。
「これは」
指先で擦る。
表面の色が少し剥げた。
「石ですわね」
店主の顔から血の気が引いた。
麦に似た色をつけた細かな砂利が、大量に混ぜられていた。
「これは、その」
「痩せた土地でも石なら立派に残りますでしょうね」
「仕入れ先が――」
「代金を返してくださいませ」
「ですが」
「いま」
イデアは笑った。できるだけ穏やかに。
すると店主は一歩後ろへ下がった。
なぜか昔から、イデアが穏やかに笑おうとすると人が怖がることがある。
大きなエメラルドの瞳が強すぎるのだと、かつて侍女に言われたことがあった。
「返します! 返しますから!」
市場の管理をしている者まで騒ぎを聞きつけてやってきた。
ほかの袋も調べると、同じ細工が見つかった。
結局、店主の露店はその場で営業を止められ、詳しく調べられることになった。
イデアには代金が全額戻ったうえ、騒ぎへ巻き込まれたことへの迷惑料まで支払われた。
少し離れたところまで荷馬車を引いてから、イデアは足を止めた。
「アルゼル」
「はい」
「これですの?」
「何がでしょう」
「加護ですわ」
イデアは汚れた服を示した。
「袋が破れました」
「ええ」
「詐欺が分かりました」
「ええ」
「代金が戻り、余分にお金までいただきました」
「分かりやすいですね」
「……黒字?」
「黒字でしょう」
イデアは足元を見る。
麦の粉と土で、裾が少し汚れている。
「洗濯が必要ですわ」
「その程度の損失です」
「服を洗うのはわたくしです」
「見返りは得ています」
「因果とは細かいものですのね」
「大きな不幸には大きなものを。小さな不幸には、それなりのものを」
「では今回、袋が破れなければ、わたくしは石を領地へ持っていった?」
「そうなった可能性は高いですね」
イデアは黙った。
もしここで袋が破れなければ、何も知らないまま小ラズマイトまで運び、畑へ撒いていたかもしれない。
ただでさえ痩せているという土地で、初年度のために用意した貴重な種。その半分近くが石だったと気づくのが、撒いた後になっていたら――取り返しがつかなかった。
「……なるほど」
イデアは少しだけ、アルゼルの加護というものを理解した。
不幸がなくなるわけではない。
むしろ、相変わらず起きる。
服は汚れるし。袋は破れるし。
頭上から天井まで落ちてくる。
けれどその先に、昨日までとは違うものがある。
「少しだけ、あなたを信用してもいいかもしれませんわ」
「少しだけ?」
「調子に乗らない程度です」
「すでに十分信用していただいて構いませんが」
「取り消しましょうか?」
「少しで結構です」
賢明である。
◇
改めて別の店で種を購入した。
今度は袋の底まで確認する。
事情を聞いた老店主は笑いながら、一握りほど種を多く入れてくれた。
すべての買い物を終える頃には、日もずいぶん傾いていた。
中古の荷馬車の荷台には、これからの生活に必要なものが積まれている。
その中でも紙束は、かなりの場所を占めていた。
アルゼルが荷台を眺めた。
「やはり紙が多いですね」
「まだおっしゃいますの?」
「食料より多くありませんか?」
「食料は途中でも買えます。紙は小ラズマイトで手に入る保証がありませんもの」
「なければ?」
「なくなる前に考えます」
「何を?」
「作れるかどうかを」
アルゼルが顔を向けた。
「紙を?」
「必要なら」
「何でも作るつもりですか?」
「買えないのなら、作るしかありませんでしょう」
その時点では、ただの思いつきだった。
紙の作り方をイデアが詳しく知っているわけでもない。
けれど。
その一言を彼女自身が思い出す日は、そう遠くない。
何もない土地では、ないものを嘆くより、作る方法を考えなければならないのだから。
「明日の朝、出ますわ」
イデアは荷台の縄を締め直した。
「小ラズマイトまで十日以上。順調に進んでも、です」
「あなたの場合、順調という前提を置かない方がよさそうですね」
「わたくしも同じことを考えておりました」
マルタがのんびりと鼻を鳴らした。
アルゼルは荷馬車の横へ立ち、自分の背中を振り返るような仕草をする。
「旅の間も、翼を隠すのですか?」
「少なくとも王都を出るまでは」
「外套が窮屈です」
「門を抜けるまで我慢なさい」
「羽根が曲がります」
「梳かせば戻るでしょう?」
「簡単におっしゃいますね」
「では堂々と出ます?」
「……我慢します」
不服そうに顔を逸らしたアルゼルに、イデアは小さく笑みを漏らした。
「それから」
「まだ何か?」
「明日は、あなたにも荷物の確認をしていただきます」
「なぜ私が」
「一緒に行くのでしょう?」
「そうですが」
「なら、働きなさい」
「私はあなたへ加護を与えるために来た天使です」
「存じております」
「荷運びのためではありません」
「昨日は祭具を持ち、今日は紙を持ちました」
「そうですね」
「もう立派な荷運び要員ですわ」
アルゼルは何か言おうとした。
だが、結局何も言わずに口を閉じた。
その代わり、外套の下で、大きな翼がもぞりと動いた。
「動かさないで!」
「疲れました」
「道行く人が見ていますわよ!」
イデアが慌てて外套を押さえる。
ちょうどその時、通りかかった男が足を止めた。アルゼルの膨らんだ背中を見る。
「……その荷物、動いてないか?」
「羽毛ですわ!」
イデアは即答した。
「大変上質な!」
男は怪訝そうな顔をしながら去っていく。
イデアはしばらくその背中を見送った。
「……早めに、もっと大きな布を買いましょう」
「ようやく私の翼に相応しいものを?」
「もっと上手に隠せるものをです!」
アルゼルが残念そうに息を吐いた。
ラズマイト伯爵家当主となって四日目。
こうしてイデアは、荒れ果てた領地へ向かう最低限の準備を整えた。
農具もある。
種もある。
紙も墨もある。
中古とはいえ荷馬車も、働き者らしい馬も手に入った。
そして。
荷物持ちとしては非常に優秀で、隠すには大きすぎる翼を持った天使も一人。
明日、二人は王都を発つ。
小ラズマイトまで、順調に進んでも十日以上。
もっとも、イデアの旅が順調に進むと信じている者は、本人を含めて一人もいなかった。




