2.魂はいらないそうです
「ちょっと、失礼じゃなくて!?」
イデアの怒声が、朽ちかけた礼拝堂いっぱいに響き渡った。
声の余韻に震えたのか、ひび割れた天井から白い埃がぱらぱらと落ちてくる。
目の前に立つ天使――アルゼルは、それを気にする様子もなく微笑んでいた。
人間離れして整った顔に、穏やかな微笑。
細く閉じられた両目。
背後には、先ほどの光とともに現れた巨大な白い翼がある。
ただし、さすがに崩れかけた礼拝堂の中では邪魔らしい。
先ほどまで大きく広げられていた翼は、いまは背中に沿うよう強く畳まれていた。それでも羽先は床近くまで届き、アルゼルがわずかに身体を動かすだけで、白い羽根が擦れ合って柔らかな音を立てる。
「お気持ちは分かります」
「分かっている方の顔には見えませんわ!」
「人間ではなく天使ですので」
「そういう意味ではありません!」
イデアは思わず祭壇を叩きそうになり、拳を振り上げたところで止めた。
いくら打ち捨てられた邪教の遺構とはいえ、一応は神を祀っていた場所である。
ここで腹立ちまぎれに祭壇を壊し、その罰として明日の朝に雷でも落ちてきたら笑えない。
もっとも、今日までの人生を考えれば、祭壇を叩かなくても落ちてきそうではあるが。
「わたくしは、この不幸を退けてくださるのなら、死後の魂を捧げてもよいと申し上げました」
「ええ。聞いておりました」
「それを、いらないと?」
「正確には、父が受け取れないと申しております」
「同じことでしょう!」
「大きく違います。あなたの魂に価値がないという話ではありません」
アルゼルは困ったように言った。
だが、その顔があまりにも整っているせいで、本当に困っているのかどうか分かりにくい。
「父にも事情があるのです」
「神に、どのような事情がございますの?」
「家庭の事情ですね」
イデアは黙った。
アルゼルも黙った。
崩れた窓の向こうで、夜鳥の鳴く声だけが聞こえる。
「……家庭?」
「はい」
「神の?」
「神にも家庭はございます」
「聞きたくなかったような、少し聞きたいような話ですわね」
「聞かない方が賢明かもしれません」
アルゼルは小さく息を吐いた。
先ほどまでの、自分の美貌に一片の疑いも持っていない態度とは少し違う。そこには、どうにも説明しづらい親族へ長年振り回されてきた者だけが持つ、妙な疲労感があった。
「父には複数の妻がおりまして」
「複数」
「はい」
「……続けて」
「そして近頃、父の女性関係について、妻たちから非常に厳しく追及されております」
「もう十分ですわ」
「そうですか」
「ええ。だいたい分かりました」
イデアは片手で額を押さえた。
邪神だの古い神だの以前に、ずいぶん生々しい話になってきた。
「つまり、死後のわたくしを神域へ連れていけば」
「また女を連れてきた、と誤解される可能性があります」
「わたくし、魂ですけれど」
「その説明を先に聞いていただける保証がありません」
「神々なのに?」
「神々だからこそ、と申し上げるべきでしょうか」
アルゼルの声が、ほんの少し遠くなった。
どうやらこの天使は、この種の騒動に何度か巻き込まれた経験があるらしい。
「あなたも大変なのね」
「ご理解いただけますか」
「少しだけ」
「ありがとうございます」
「でも、わたくしの魂をいらないと言われた腹立たしさとは別ですわ」
「そうですよね」
アルゼルは素直に頷いた。
その素直さが、かえって腹立たしい。
「そもそも」
イデアは腕を組んだ。
「魂を受け取れないのでしたら、あなたは何をしに来ましたの?」
「あなたを助けるためです」
「魂は受け取らない。不幸が消えるともまだ聞いていない。それで、どう助けるというの?」
「その説明をしようとしていたのですが」
「先に父神の女性関係の話になりましたわね」
「私の責任ではありません」
「苦労しているのは分かりました」
「本当に」
アルゼルが深く頷いた。
その反応を見る限り、父神という存在には、威厳より先に別の印象を抱いてしまいそうだった。
もっとも、今のイデアにとって重要なのは神々の家庭事情ではない。
「それで。わたくしの不幸について、何か分かるの?」
「ええ」
アルゼルの声から、わずかに軽さが消えた。
彼は右手を持ち上げる。白く長い指が、何もない宙をゆっくりとなぞった。
そこに、一筋の金色の光が生まれる。
光は細い糸となった。
一本。
二本。
三本。
瞬く間に数を増やし、イデアの周囲へ浮かび上がっていく。
「……何ですの、これは」
気づけば、数えきれないほどの光の糸がイデアを取り囲んでいた。
あるものは髪のそばを通り、あるものは肩や腕へ絡みつくように揺れている。さらにその先は礼拝堂の壁をすり抜け、どこか遠い場所へ伸びていた。
美しい。
だが、不気味でもある。
「あなたへ結びついている因果の一部です」
「因果」
「出来事と出来事、人と人、過去と現在を結びつけているもの、と考えてください」
「それが、わたくしに?」
「誰にでもあります。ただし」
アルゼルは少し黙った。
閉じられた目のまま、イデアの周囲へ絡む糸を眺めているように顔を向ける。
「これほどひどく絡まっている方は、私もあまり見たことがありません」
「褒められておりますの?」
「まったく」
「でしょうね!」
イデアは自分の肩の横へ浮かんだ一本へ手を伸ばした。
指先は光をすり抜ける。何の感触もない。
「これが、不幸の原因ですの?」
「すべてではありません。人間には元々の巡り合わせがありますし、偶然の不運もあります。ですが、あなたの場合は、それだけでは説明できないほど強いものが重なっている」
「隕石も?」
「おそらくは、その影響を強く受けています」
「おそらく?」
「私は万能ではありませんから」
「天使なのに?」
「天使を何だと思っておられるのです」
「いまのところ、顔がよくて父親に振り回されている方」
アルゼルの翼が、ほんのわずかに下がった。
顔は笑っているが、翼の方は思いのほか正直らしい。
「訂正を求めます」
「それよりも、不幸の原因を説明してくださいませ」
アルゼルはしばらく金色の糸を見た。
「この中に、自然には生じない結びつきがあります」
「自然には?」
「誰かの意思によって作られたものです。かなり古い。あなた一人ではなく、ラズマイトという家そのものへ続いているように見えます」
イデアの表情が変わった。
「つまり、誰かがラズマイト家へ呪いを?」
「呪い、と断定するのはまだ早いですね」
「では?」
「契約です」
その一言に、イデアは眉を寄せた。
「契約?」
「何らかの契約が、あなたの家系に作用している可能性が高い」
「何らかの、とは?」
「そのままの意味です。私は契約当事者ではありませんので、内容までは分かりません」
「役に立ちませんわね」
「即座に切り捨てないでいただけますか」
アルゼルの羽先がわずかに揺れた。
「では、誰と何を約束したのかも?」
「現時点では分かりません」
「何のための契約なのかも?」
「分かりません」
「いつから?」
「かなり古いことは確かです」
「解除は?」
「内容も相手も分からない契約を、私が勝手に解除することはできません」
イデアは深く息を吸った。
「……本当に、役に立ちませんわね」
「二度目ですね」
「では、せめて何か予想は?」
アルゼルはすぐには答えなかった。
金色の糸の一本を指先でつまむような仕草をし、その光の揺らぎを確かめる。
「力の癖に、少々心当たりはあります」
「誰ですの?」
「確証がありません」
「心当たりを聞いております」
「少し苦手な兄の一人かもしれません」
「兄とは、天使の?」
「ええ。七十二柱ですから、兄も姉も多いのです」
「その中の、苦手な兄?」
頷くアルゼルに、イデアはなおも問いかける。
「どのくらい苦手?」
「できれば、自分から用事を作って訪ねたくはない程度です」
「少しどころか、十分に苦手ではなくて?」
「ですが、違う可能性もあります」
アルゼルはそこで話を切った。
「確証もなく名を挙げれば、話を余計に混乱させます。契約の痕跡があることは分かりますが、誰が、何を願われ、何を代償として受け取ったのか。それを確認するには、別の手段が必要です」
「別の手段とやらは、今すぐ使えませんの?」
「今すぐ、とはいきませんね」
イデアは唇を尖らせた。
不満ではある。
だが、分からないものを分かったふりで断言されるよりはましだった。
「では結局、わたくしの不幸そのものは消せないのね」
「現時点では」
「……そう」
期待していなかったつもりだった。
廃教会へ入り、誰とも知れない神へ祈りを捧げたのも、半ば自棄だった。
それでも。
実際に天使が現れれば、どこかで思ってしまった。
これで終わるのではないかと。
屋敷へ隕石が落ちるような人生が。
手に入れたものを端から失っていくような人生が。
ようやく、ここで普通になるのではないかと。
話はそう簡単ではなかったらしい。
「それでしたら」
イデアは祭壇へ背を向けた。
「もう結構ですわ」
「お待ちください」
「何を?」
「私は、不幸を消せないとは申し上げました」
背後から届くアルゼルの声に、イデアは振り返る。
「ですが、それを一方的な損失のままにする必要はありません」
「……どういう意味?」
アルゼルが片手を開く。
今度は、その掌の上へ小さな金色の光が集まった。
光は形を変え、ふたつの皿を持つ天秤になる。
片方の皿へ、黒い小石のようなものがひとつ落ちた。するともう片方の皿へ金色の光が満ち、ゆっくりと均衡する。
「あなたへ降りかかる災難に、それと釣り合うだけの見返りを結びつけます」
「見返り?」
「幸運。利益。人との出会い。情報。機会。必要なものが必要な時に見つかることもあるでしょう」
「お金とは限らないのね」
「ええ。何があなたにとって価値となるかは、その時によって変わりますから」
「不幸を止めるのではなく?」
「止めれば、元の契約へ直接干渉することになります。ですが、起きた不幸に対して私の側から別の因果を加えることならできる」
イデアは天秤を見つめた。
「つまり……ひどい目には遭いますのね?」
「そこは変わりません」
「結局、わたくしは不幸なまま、と」
「ですが、ただ損をするだけではなくなります」
「屋敷に隕石が落ちたような場合は?」
「相当に大きな見返りになるでしょう」
「もう落ちていますわよ」
「それは私の加護を与える前ですので」
イデアは無言でアルゼルを見た。
「……何でしょう」
「今すぐお帰りになって」
「待ってください」
「過去に遡れない?」
「残念ながら」
「屋敷は?」
「戻りません」
「使えませんわね」
「先ほどから私への評価が低すぎませんか?」
「不幸は消せない。契約の内容も分からない。屋敷も戻せない。どこを評価すればいいの?」
アルゼルはほんの少し考えた。
「容姿でしょうか」
「借金は顔では返せませんわ!」
「私ほどの顔なら、何らかの収益化は可能かもしれません」
「本気で言っていますの?」
「もちろんです」
天使は、閉じた目のまま堂々と言い切った。
イデアは額を押さえた。
どうやらこの男は、自分が美しいという一点についてだけは一切の疑念を持っていない。
だが、腹立たしいことに、選択肢がないのも事実だった。
五年以内に借金を返せなければ、最後の領地も失う。
何もせずとも不幸が続くのであれば、せめてその後に何かが残る方がいい。
「その見返りは、わたくしが選べますの?」
「いいえ」
「金貨で、と指定しても?」
「できません」
「では、いつ来るかは?」
「すぐの場合もあれば、後になる場合もあります」
「本当に見返りなのか、わたくしには分からないのでは?」
「そこは私が分かります」
「あなたが?」
「ええ」
「不安ですわね」
「信頼してください」
「出会って一刻も経っていない相手を?」
「私の顔を見れば、信用に値することは――」
「わたくし、顔のいい男は余計信用いたしませんの」
元婚約者の姿を思い浮かべ、イデアはため息をついた。
崩れた天井の向こうに、夜空が見えている。
正教会の神へは、何度祈っても何も起こらなかった。
古い信仰の廃教会で祈ったら、本当に天使が出てきた。
しかし、その天使は不幸を消せないという。
しかも、とんでもなく自信過剰だ。
普通なら、ここで断るべきなのだろう。
けれど。普通に生きてきて、普通に幸せになれた記憶がイデアにはない。
「……その加護に、代償はありますの?」
「ありません」
今度は、アルゼルが迷わず答えた。
「父から、あなたへ与えるよう命じられたものです。少なくとも、この加護の対価としてあなたから何かを徴収することはありません」
「父神が?」
「ええ」
「わたくしの魂はいらないと言った方が?」
「その父です」
「ずいぶん勝手ですわね」
「そこについては、否定いたしません」
アルゼルの返答が妙に早かった。
イデアは彼を見る。
「あなた、本当にお父様に苦労していらっしゃるのね」
「父は思いついたことを、ときどき説明の前に実行しますので」
「たとえば?」
「今回です」
アルゼルは目を閉じたまま、どこか遠い顔をした。憂いが浮かぶその表情も、腹が立つほど美しかった。
「つい先ほどまで、私は別の仕事をしておりました」
「そこへ?」
「父から突然、地上へ行けと言われました」
「理由は?」
「困っている人間がいる、と」
「それだけ?」
「それだけです」
「……雑ですわね」
「ええ」
アルゼルの翼が、しみじみと床へ近づいた。
「なぜ私だったのかも、詳しくは聞いておりません。仕事を途中で投げないと思われたのかもしれませんし」
「押しつけやすかった?」
「言葉を選んでください」
「違いますの?」
「否定しづらいのが腹立たしいですね」
イデアは少しだけ笑った。
アルゼルは続ける。
「あるいは、私の権能が関係している可能性もあります」
「権能?」
「私は、帰路を司っています」
「帰路……」
「帰る道。戻るべき場所。迷った者が、どこへ向かえばよいのか。それに関わる力です」
イデアは、何も言えなくなった。
帰る場所。
その言葉だけが、胸の奥へ落ちた。
母はいない。
父もいない。
公爵家へ嫁ぐはずだった道も消えた。
取り戻した屋敷まで、一日と持たず消えた。
いま彼女に残っているのは、行ったこともない荒れ地だけだ。
「……神がそこまで考えてあなたを?」
「分かりません」
アルゼルはあっさり言った。
「たまたま父の目に留まっただけかもしれません」
「台無しですわね」
「父ですから」
その短い一言に、長い苦労が滲んでいた。
「ですが、理由が何であれ、私は来ました」
アルゼルはそう言って、イデアへ右手を差し出した。
「加護を受けますか?」
イデアは、その手を見た。
白く、傷ひとつない。
おそらく土を掘ったことも、薪を運んだこともない手だろう。
これから自分が向かう場所に、この天使がどこまで役に立つのかは分からない。
それでも。
「ひとつ条件があります」
「何でしょう」
「わたくしの魂も身体も、勝手に父神へ差し出さないこと」
「承知しました」
「知らないところで、別の契約へ名前を書かないこと」
「それも承知しました」
「結婚、婚約、愛人になる話もなしです」
アルゼルが、一瞬だけ黙った。
イデアはすぐに気づいた。
「……いま、なぜ黙りましたの?」
「何も」
「間がありましたわ」
「父の家庭事情を思い出しただけです」
「それなら結構です」
非常に怪しい気はした。
しかし、ここで問い詰めても、これ以上ろくでもない神の家庭事情が出てくるだけかもしれない。
イデアは諦めて右手を差し出した。
「加護をくださいませ」
「かしこまりました」
アルゼルの手が、イデアの指先を取る。
近くで見ると、やはり腹立たしいほど整った顔をしていた。
長い金髪が肩から流れ、その向こうでは、大きく畳まれた白い翼が静かに息づいている。人間の背中に飾りとして付いているようなものではない。肩甲骨のあたりから生えた翼の根元が、彼の呼吸に合わせてわずかに動いている。
「本来なら、手の甲へ口づける方が儀式として美しいのですが」
「指で結構ですわ」
「即答ですね」
「必要のない演出を減らすことから、借金返済は始まりますの」
「情緒に乏しい」
「余計なお世話です」
アルゼルは小さく笑い、イデアの手の甲へ指先を添えた。
そこから、温かなものが流れ込んできた。
熱くはない。春の日差しに手をかざした時のような、柔らかな温度だった。
金色の文様が、イデアの手の甲へ浮かぶ。
翼にも。
道にも。
ふたつの皿を持つ天秤にも見える。
「我が神性の一端をもって、イデア・ラズマイトへ加護を授けます」
アルゼルの声が変わった。
先ほどまでの軽い調子が消え、礼拝堂そのものを震わせるような響きを帯びる。
イデアは思わず息を止めた。
「その身に降りかかる災いに、等しき返礼を。失うものに釣り合う恵みを。不当に奪われたものの先に、新たな道を」
文様が強く輝いた。
「この加護は、あなたの意思を縛りません。あなたが望む限り、私はその因果を見届けましょう」
光が、手の中へ吸い込まれていく。
やがて何事もなかったように消えた。
イデアは手の甲を裏返した。
「……これで?」
「ええ」
「何も変わっておりませんわ」
「見た目は」
「本当に効いているのでしょうね?」
「私を疑うのですか」
「ええ」
「ためらいがありませんね」
「効果を見なければ、信じようがありませんもの」
「そのうち、嫌でも分かりますよ」
不吉な言い方だった。
イデアが眉をひそめた、その時。
みしり、と。
頭上から嫌な音がした。
二人とも顔を上げる。
崩れかけた天井を支えていた太い梁に、亀裂が走っていた。
「アルゼル」
「はい」
「いまの『嫌でも分かる』というのは、まさか――」
最後まで言えなかった。
梁が折れた。
「きゃっ!」
古い木材と石片が、真っ直ぐイデアの頭上へ落ちてくる。
アルゼルが片腕を伸ばした。
同時に、畳まれていた翼が反射的に大きく開く。
白い羽根がイデアの視界を覆った。
その手前に淡い金色の光が広がり、落ちてきた瓦礫を受け止める。
轟音とともに石と木片が左右へ弾かれ、床を激しく打った。
礼拝堂全体が震える。埃が舞う。
しばらくして静かになってから、イデアは恐る恐る顔を上げた。
「……生きておりますわね」
「ええ」
アルゼルが翼をゆっくり畳む。何枚かの白い羽根に埃が付着していた。
彼はそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「汚れました」
「わたくしは頭から真っ白ですわよ!」
イデアは髪を払った。
金髪から、ぱらぱらと埃が落ちる。
「加護をいただいた直後に天井が落ちるとは、どういうことですの?」
「不幸そのものを止める加護ではありませんから」
「知っていますわ! では見返りはどこ?」
「少しお待ちを」
アルゼルが、崩れた祭壇の脇を指した。
落下の衝撃で床石の一部が割れている。
その隙間から、黒ずんだ金属の角が覗いていた。
イデアは目を細める。
「……何かありますわね」
「そのようですね」
二人で近づく。
割れた石の下には、小さな金属箱が埋められていた。長い年月を経て錆びており、蓋に付いていた鍵は衝撃で壊れている。
イデアが土を払い、慎重に蓋を持ち上げた。
中に入っていたのは、黒ずんだ銀の器と、古い貨幣だった。
大量ではない。だが、捨て置くには惜しいだけの量はある。
イデアの目が輝いた。
「お金ですわ!」
「見返りですね」
「本当に?」
「ええ」
イデアは古い貨幣を一枚手に取った。
見慣れない意匠が刻まれている。
「使えますの?」
「そのまま通貨として使うのは難しいでしょう。ただ、古いものとして価値はあるかと」
「銀器も?」
「こちらはこの教会で使われていた祭具でしょうね。略奪された際にも、床下までは見つからなかったのでしょう」
イデアは箱の中を改めて数えた。
金目のものはとうに奪われた廃教会だったが、誰にも見つからず残っていた品なら納得できる。
「売っても構いませんの?」
「問題ありません」
「神へ捧げられたものではなくて?」
「父へ確認します」
アルゼルが少し黙った。
何かに耳を澄ませるように顔を上げる。
そして、数呼吸の後。
「好きにしろ、とのことです」
「軽いですわね!」
「父は大抵、このような時だけ返事が早いのです」
「都合の悪いことを聞いたら?」
「先ほどの魂の件のように、私へ説明を任せます」
「あなた、本当に振り回されておりますのね」
「もう少し早く気づいていただきたかったですね」
アルゼルの翼が、疲れたように少し垂れた。
イデアは銀器を見直す。
これがどれだけの値になるかは分からない。
だが、少なくとも何もないよりはいい。
農具。
種。
保存食。
それに、記録を取るための紙や墨も必要になる。
五年で借金を返すという途方もない計画の、最初の足しにはなるだろう。
「……黒字ですわね」
「ええ」
「天井が落ちてきたことを除けば」
「実際の損害は、衣服が汚れた程度です」
「命の危険がございましたわよ?」
「私がいましたので」
「そこを計算から外すのはずるくない?」
「厳正な因果です」
「誰が厳正と決めましたの?」
「私です」
「やはり不安ですわ!」
アルゼルが笑った。
それまでの整いすぎた微笑ではなく、ほんの少し楽しそうな笑いだった。
イデアはそれを見て、なぜか調子を狂わされた。
◇
見つかった銀器と古貨幣は、古い布へ包んだ。
廃教会を出る頃には、空の色がわずかに薄くなり始めていた。
長い夜だった。
「ところで」
イデアは、包みを持って後ろを歩くアルゼルを振り返った。
翼は消えていない。外へ出ても、彼の背には大きな白い翼がある。
ただし今は、できるだけ目立たないよう背中へ強く畳まれていた。それでも普通の外套一枚で隠し切れる大きさではない。
「その翼、どうなさるの?」
「どうする、とは?」
「そのまま王都を歩けば大騒ぎですわよ」
「そうでしょうね」
「しまえませんの?」
「しまえません」
「……そうなの?」
「身体の一部ですから」
アルゼルは当然のように答えた。
イデアは翼を見る。
言われてみれば、先ほど瓦礫を防いだ時にも反射的に広がっていた。幻や飾りではなく、本当に彼の肉体なのだ。
「では、どうやって隠しますの」
「できるだけ畳みます」
「それだけ?」
「大きな外套があれば、かなり目立ちにくくなります」
「かなり、なのね」
「完全には無理でしょう」
また買うものが増えた。
イデアは頭の中で残金を計算しかけ、やめた。
天使用の外套という費目を、人生で考える日が来るとは思わなかった。
「明日、古着屋を探しますわ」
「もっと上質な仕立てを希望します」
「中古です」
「私に?」
「中古です」
「白い翼へ色移りしないものを」
「注文が多いですわね!」
アルゼルは不満そうだった。
だが、イデアは取り合わない。
「それより、あなたはいつまでわたくしについてくるつもりなの?」
「さあ」
「さあ?」
「父からは、あなたへ加護を与え、しばらく様子を見るようにと言われただけです」
「しばらくとは?」
「聞いておりません」
「確認して」
アルゼルが少し黙る。
「返事がありません」
「都合が悪くなると本当にいなくなりますのね、お父様!」
「慣れてください」
「なぜわたくしまで!」
アルゼルは何事もなかったように歩き続ける。
「ですが、加護を授けて終わりというわけにもいかないでしょう。因果がどのように働くかは、私自身で確認した方がよい」
「真面目ですのね」
「意外そうに言わないでください」
「だって、最初からずっと顔の話ばかりなさるから」
「美しさと勤勉さは両立します」
「そこは否定しませんけれど」
イデアは夜明け前の王都を見渡した。
「わたくしは、小ラズマイトへ行きます」
「残された領地ですね」
「ご存じなの?」
「祈りから、あなたが帰る家を失い、最後に残った領地まで失いかけていることは伝わりました。細かな事情までは知りません」
「では説明いたしますわ。五年です」
「何が?」
「借金の返済期限」
イデアは歩きながら、三日前に聞かされたばかりの話を簡潔に伝えた。
多額の債務。
王家へ返還された領地。
最後に残った小ラズマイト。
五年以内に返済できなければ、それすら失うこと。
アルゼルは途中で口を挟まなかった。
最後まで聞き終えると、少し考える。
「まずは、その土地を見なければなりませんね」
「財務に詳しいの?」
「いいえ」
きっぱりと言われた。
「では、なぜそんなに自信満々なの?」
「どこに何があるのかも知らず、五年後の話をしても仕方がないからです」
もっともだった。
「人口。水。土地。道。森。使われていない建物。人間が暮らしているのであれば、何かしら積み重ねてきたものもあるでしょう」
「荒れ地だと聞いておりますわ」
「聞いただけでしょう?」
「……ええ」
「ならば、ご自分で見てください」
アルゼルは、静かな口調で言った。
「あなたは、その土地の領主なのでしょう」
胸へ刺さった。
嫌な意味ではない。
むしろ、イデア自身がずっと考えないようにしていたことを、あっさり言葉にされたような気がした。
彼女はラズマイト家の正当な嫡子だった。
その家を取り戻すために、必死に証拠を集めた。
けれど、小ラズマイトに誰が住んでいるのか。
どのような暮らしをしているのか。
どこに水があり、何が育ち、何が足りないのか。
何一つ知らない。
継母に遠ざけられていた。
父と代理人を信じていた。
自分はいずれ公爵家へ嫁ぐものだと思っていた。
知れなかった理由はいくらでもある。同時にそれは、知ろうとしなかった言い訳でもある。
けれど、いまはもう違う。
「そうですわね」
イデアは頷いた。
「行かなければ」
「ええ」
「小ラズマイトへ参ります」
「それがよいでしょう」
「五年で借金を返します」
「簡単ではなさそうですね」
「そこで『私の加護があれば大丈夫です』くらい言ってくださらない?」
「まだ土地も見ていないのに?」
「妙なところで現実的ですわね!」
「私は仕事に真面目なのです」
アルゼルは胸を張った。
翼まで少し持ち上がる。
「では、働いていただきますわ」
翼が止まった。
「……何を?」
「何を、ではありません。わたくしについてくるのでしょう?」
「加護の経過を見るために」
「五年間、ただ眺めているつもり?」
「助言くらいは」
「畑も耕していただきます」
「私が?」
「水も運んでいただきます」
「天使が?」
「木材も必要ですわね」
「イデア」
「何です?」
「私の翼をご覧ください」
「見えております」
「白いでしょう」
「そうですわね」
「泥仕事には不向きです」
「洗えばいいでしょう」
アルゼルが黙った。
羽先が、明らかに嫌そうに震えた。
「……あなたは天使を何だと思っておられるのです」
「いまのところ、顔がよくて、父親に振り回されていて、翼を汚したくない労働力ですわ」
「評価が改善していませんね」
「働き次第です」
イデアは前を向いた。
東の空が、わずかに青み始めている。
昨日までなら、夜が明けることに何の意味も感じなかったかもしれない。
家を取り戻したと思ったら隕石で失い、その三日後には莫大な借金と荒れ地しか残っていないと知った。
祈ったところで、神は都合よくすべてを解決してはくれなかった。
不幸も消えない。
古い契約の正体も分からない。
それでも。
昨日までとは、ひとつだけ違う。
災難のあとに、何かが残るかもしれない。
何もかも奪われるだけではないのかもしれない。
そして。
一人ではない。
「ところで」
後ろからアルゼルが声をかけた。
「今夜の宿は、どちらです?」
「安宿です」
「私の部屋は?」
「ありませんわ」
「では、同室でしょうか」
「天使に眠る必要が!?」
「ありませんが、寝台の横へ立っているくらいなら」
「怖いからおやめなさい!」
「では翼だけお貸ししましょうか。暖かいですよ」
「結構です!」
「遠慮なさらず」
「出会ったばかりの殿方の翼に包まれて眠る趣味はございません!」
「残念です」
「なぜ残念そうなの!?」
夜明け前の王都へ、二人の声が響いた。
こうしてイデア・ラズマイトは、不幸を消すことのできない天使を連れ、最後に残された領地へ向かうことになった。
借金返済まで、残り五年。
彼女はまだ知らない。
この日、わずかに見えた金色の因果の糸が、ラズマイト家の過去へどれほど深く伸びているのか。
その古い結び目の正体を知る日は、まだ先のことである。




