1.屋敷は消え、天使が現れました
「わたくしほど不幸な人間、そうそうおりませんわ」
イデア・ラズマイトは、十八年の人生を振り返り、そう結論づけていた。
大げさな物言いではない。
幼い頃に母を亡くした。
父はほどなくして再婚したが、新しく母となった女性とイデアの関係は、決して良好とはいえなかった。
やがて父と継母の間に、娘が生まれた。
少なくとも、その時は誰もがそう信じていた。
ラズマイト伯爵家に男子はいない。
王国では、男子の相続人がいない場合に限り、娘が家督を継ぐことを認められている。だから本来なら、長女であるイデアが伯爵家を継ぐはずだった。
だが、幼い頃に公爵家嫡男との婚約が決まったことで事情が変わった。
イデアは将来、公爵家へ嫁ぐ。ラズマイト家には、妹が残る。
そう決められた。
イデア自身も、それを疑わなかった。
公爵家へ嫁ぐのだから、公爵家の人間にふさわしい令嬢にならなくてはならない。
礼儀を覚えた。
教養を身につけた。
感情を顔へ出さず、求められる言葉を選び、婚約者の隣へ立った時に恥ずかしくない女になろうとした。
セドリックは、そんなイデアへ誠実だった。
家同士が決めた婚約であっても粗雑には扱わず、贈り物を選び、言葉を尽くし、会えばきちんと彼女を気遣った。
だからイデアも、彼を愛しているのだと思っていた。
彼に選ばれるため、自分が何を欲しいのか考えることもなく、差し出されたものを受け取り続けた。
それが、将来というものだと思っていた。
父が亡くなったのは、イデアがまだ成人するよりずっと前だった。
未成年の彼女は家督を継げず、伯爵家の管理は継母と領地を預かる代理人たちの手へ移った。
それでもイデアは、大きな疑問を抱かなかった。
父が任せていた者たちなのだから。
自分はいずれ公爵家へ嫁ぐのだから。
ラズマイト家はいずれ妹が継ぐのだから。
そう思っていた。
――婚約を妹へ譲ったという、自分の署名入りの書面を見るまでは。
イデアに、そんなものを書いた覚えはなかった。
けれど、書面は正式なものとして扱われた。
そして婚約者だったセドリックも、それを受け入れた。
彼がイデア本人へ直接確かめに来ることはなかった。
当時のイデアには、それがすべてだった。
自分は公爵家へ行かない。
ラズマイト家は妹が継ぐ。
では、自分はどこへ行くのか。
そこでようやく、イデアは自分の足元を見た。
そして調べた。
婚約関係の書類を。
自分の署名を。
継母の周囲の人間を。
妹の出生を。
教会の記録を。
父が残した手紙を。
家督を取り戻すために必要なものなら、洗いざらい調べた。
その結果、妹として育った娘は父の子ではなく、継母と別の男との間に生まれた子だと判明した。
当然、ラズマイト伯爵家の継承権はない。イデアの署名にも偽造の証拠が見つかった。
長い調査の末、十八歳で成人したイデアは、ようやく正当なラズマイト伯爵家当主として認められた。
そして今日。
すべての手続きを終えた帰り道だった。
「長かったですわね……」
夕暮れの王都を進む馬車の中で、イデアは小さく呟いた。
陽光を溶かしたような金髪は、一日中あちらこちらの役所を回ったせいで少し乱れている。
それでも、大きなエメラルド色の瞳には疲労より達成感があった。
ようやく終わった。
これで、自分の人生を始められる。
そう思った。
「お嬢様――いえ、伯爵閣下。間もなくお屋敷でございます」
御者の声に、イデアは思わず笑った。
「その呼び方には、まだ慣れませんわね」
「ですが、本日から正式な当主でいらっしゃいますので」
「そうでしたわね」
窓の外へ目を向ける。そろそろ見えるはずだった。
灰色の石造りの屋敷。
春には蔦薔薇が咲き、冬には雪を戴く尖塔。
母との記憶はわずかしか残っていない。
けれど、あの屋敷だけは、生まれた時からずっとそこにあった。
今夜は祝宴などできなくてもよい。長く仕えてくれた使用人たちと、ささやかな食事を囲もう。
明日から帳簿を一から確認する。領地の現状も調べる。
家督を取り戻すことへ力を使いすぎて、ラズマイト家そのものの中身まで十分に見る余裕がなかった。
父が任せた代理人たちなら大丈夫だと、どこかで信じてもいた。
そのあたりは、これから自分の目で確かめればよい。
時間ならある。十八歳になったばかりなのだから。
そう考えていたイデアは、ふと眉を寄せた。
「……おかしいですわね」
屋敷の尖塔が見えない。
代わりに、その方角から黒い煙が上がっている。
「何かしら、あれは」
御者から返事がなかった。
馬車が進む。
道端の人が増えていく。
皆、同じ方角を見ていた。
やがて馬車が止まった。
「どうしたのです?」
「伯爵閣下、その……」
御者の声が震えていた。
イデアは自ら扉を開け、地面へ降りた。
近隣の住民。
役人。
見覚えのある使用人たち。
皆が煤まみれになり、呆然と立っている。
その一人がイデアに気づいた。
「お嬢様!」
家令だった。
彼が人混みをかき分けて走ってくる。
イデアは真っ先に尋ねた。
「皆、無事なの?」
「は、はい。奇跡的に死者はございません。負傷者も、軽傷の者が数名だけでございます」
「そう」
イデアは胸を撫で下ろした。
「それなら、よかった」
人が死んでいない。まずは、それでいい。
そう思ってから、改めて前を見た。
そして。しばらく黙った。
屋敷がない。
庭園もない。
門もない。
石垣もない。
幼い頃に何度も登ろうとして叱られた樫の大木もない。
何もない。
代わりに、巨大な穴があった。
穴という表現が正しいのかも分からない。
小さな湖から水だけを抜き、その底を焼いたようなものが、かつて屋敷のあった場所いっぱいに広がっている。
「……家令」
「はい」
「屋敷はどこ?」
聞かなくても分かっていた。
だが、誰かに説明してもらわなければ現実として受け止められそうになかった。
家令は青ざめた顔で答えた。
「空から、燃える岩が落ちてまいりまして」
「燃える岩」
「王立天文院の学者がおっしゃるには、隕石と呼ばれるものだそうでございます」
「いんせき」
「はい」
イデアは穴の底を見た。
巨大な赤黒い岩が、まだところどころで煙を上げている。
「つまり、あれが?」
「落ちました」
「どこへ?」
「お屋敷へ」
「……直撃?」
「直撃でございます」
家令が申し訳なさそうに頭を下げる。
彼の責任ではない。
分かっている。分かってはいるが、では誰へ怒ればよいのだろう。
「周囲の被害は?」
「近隣の家屋にも破損がございます。ですが、落下の中心は……」
「わたくしの屋敷」
「はい」
ひどく正確だったらしい。
「王立天文院によれば、きわめて珍しい天文現象とのことで」
「どのくらい珍しいの?」
「数千年に一度ほどではないかと」
「数千年に一度のものが」
「はい」
「よりによって今日?」
「本日でございます」
「わたくしが家督を取り戻した日に?」
「その日に」
「しかも、わたくしの屋敷へ?」
「狙ったわけではないと存じますが……結果だけを申し上げれば」
イデアは空を見上げた。
夕焼けは、腹立たしいほど美しかった。
「わたくしほど不幸な人間、そうそうおりませんわね」
誰も否定しなかった。
◇
死者が出なかったことだけは、本当に幸いだった。
隕石が落ちる少し前。庭の片隅から煙が上がっているのを使用人が見つけ、火事を疑って屋敷内の者を外へ出していたらしい。
その直後に隕石が落ちた。
避難があと少し遅ければ、笑い話では済まなかった。
だが、人が無事だからといって、何も失わなかったわけではない。
使用人たちは、一瞬で職場と住む場所を失った。
イデアは彼らへ補償金と、次の勤め先を探すための支度金を支払った。
周囲の家屋にも被害が出ている。
その修繕費。
瓦礫の撤去費。
安全確認の費用。
金は、驚くほど早く消えた。
隕石そのものには珍しい鉱物として価値があるらしい。しかし大きすぎて、掘り出して運ぶだけで売値以上の費用がかかるという。
「最後まで役に立ちませんのね」
そう言ったイデアに、王立天文院の学者は困った顔をした。
隕石に責任はない。
それくらいは分かっている。
そして三日後。
王都の安宿。
小さな卓の上に、羊皮紙と帳簿が積み重なっていた。
イデアは、その向こう側に座る王室財務院の官吏を見ていた。
華やかなドレスは、すでに売った。
いま身につけているのは、飾りの少ない赤い服だ。
伯爵家当主としてはいささか地味だが、今は衣服へ使う金が惜しい。
「以上が、前当主代理人の名義で締結された主な債務でございます」
官吏が羊皮紙を一枚置いた。
イデアは書かれた金額を見る。
一度。
二度。
念のため三度。
「……数字を間違えておりません?」
「確認済みです」
「もう一度確認して」
「三度確認しております」
「気が合いませんわね」
「数字とは、そういうものでございます」
イデアは額を押さえた。
「これだけの金を、何に使ったの?」
「宝飾品、衣装、社交費、別邸の改装、いくつかの投資」
「投資?」
「南部産の真珠をふんだんに使用した、幸運を招く寝台など」
「それは投資ではなく、詐欺なのでは?」
「結果だけを見れば、その可能性は高いかと」
幸運を招く寝台を購入した家へ、隕石が落ちた。
これほど説得力のない商品も珍しい。
官吏が次の書類を広げる。
「返済のため、旧ラズマイト領の管理権は段階的に王家へ返還されています」
地図も開かれた。
かつてのラズマイト領は広かった。
複数の村、森林。
農地、街道。
だが、その大半にはすでに王家の印がある。
「こちらの農業地帯は三年前。主要街道を含む東部は二年前。旧領主館のある中央部は昨年返還されています」
「領主館まで?」
「はい」
イデアはしばらく地図を見つめた。
これほどまでだとは知らなかった。
知らなかった、では済まない。
彼女は継母の不正を暴くことばかり考えていた。
家督を奪い返すための証拠なら、どこまでも探した。
けれど。
取り戻そうとしている家に、何が残っているのか。
そこまで見ていなかった。
父が築いた家なのだから。
父が任せていた代理人なのだから。
まさか、ここまでにはなっていないだろうと。
信じていた。
いや。
信じたかったのかもしれない。
「……わたくしにも、落ち度がありますわね」
官吏が顔を上げた。
「何がでしょう」
「家を取り返すことしか見ていませんでした」
地図の大半は、もう自分のものではない。
「中身を確かめずに、家督という名前だけを取り返した」
官吏は少し黙った。
「十八歳の女性が、伯爵家全体の財務を把握するのは容易ではありません」
「慰めていますの?」
「事実を述べております」
「そういう慰め方は、あまり上手ではありませんわね」
「財務院の職務に慰撫は含まれておりませんので」
「でしょうね」
イデアは息を吐いた。
「それで。残っている領地は?」
官吏の指が、地図の西端へ移動した。爪の先ほどの区画だった。
「こちらです」
「……小さいですわね」
「旧領の約三十分の一です」
「数字にすると、さらに小さく聞こえますわ」
「通称、小ラズマイト」
「勝手に可愛らしくしないでくださる?」
「正式名称はラズマイト伯爵領です」
「では最初からそう呼びなさい」
イデアは身を乗り出した。
小ラズマイト。
王国の北西部。主要街道から外れた土地。
村が一つ。
痩せた農地。
荒野。山林。
人口記録は八十七名。ただし、その記録自体がかなり古い。
「産業は?」
「特筆するものはありません」
「鉱山」
「古い坑道の記録はありますが、現在は使われていません」
「森林」
「伐採に適した範囲は限定的です」
「農業」
「土地が痩せており、収穫量は低いとされています」
「街道」
「主要街道から外れています」
イデアは目を細めた。
「つまり?」
「現在のところ、ほとんど収益を生まない土地です」
「なぜ、そこだけ返還されずに残っておりますの?」
「価値が低いからです」
「……なるほど」
あまりにも明快だった。
官吏は最後の羊皮紙を取り出した。
「こちらが残存債務に関する条件です。五年以内に全額を返済できなかった場合、小ラズマイトの管理権も王冠へ返還されます」
「伯爵位は?」
「所領をすべて失えば、廃絶の審査対象となります」
イデアは黙った。
何年もかけて調べて。
証拠を集めて。
ようやく家督を取り戻した。
その結果手元にあるのは、莫大な借金。
収益のない荒れ地。
そして、王都に残った巨大な穴。
「現金は?」
「使用人および周辺住民への補償を終えた後に残っているものがこちらです」
官吏が金額を示した。
イデアは見た。
「慎ましく暮らせば?」
「一年ほど」
「領地へ向かうための馬車を用意し、農具と種を買えば?」
「当然、その分だけ短くなります」
「伯爵らしい生活を続ければ?」
「ひと月ほどで厳しくなるでしょう」
「領主館を建て直すのは?」
「不可能です」
「新しいドレスは?」
「農具を諦めれば」
「農具を買いますわ」
「賢明な判断です」
「あなた、先ほどからわたくしの希望をすべて数字で殺していきますわね」
「財務とは、そういうものでございます」
イデアは最後の羊皮紙を見た。
「五年」
「はい」
「五年間で、この金額を返せと?」
「契約上は」
「収益のない土地で?」
「契約上は」
「屋敷もないのに?」
「隕石は契約締結後の出来事ですので」
「融通というものをご存じ?」
「財務院では扱っておりません」
当然、隕石が落ちたからといって借金が消えるはずもない。
正当な当主として財産を受け取るのであれば、負債も引き受ける。
それは分かる。
納得できるかどうかとは別として。
イデアは署名した。
これで、本当にラズマイト家のすべてが自分のものになった。
借金まで含めて。
◇
官吏が帰ったあと、イデアはしばらく椅子へ座っていた。
窓の外では雨が降り始めている。
ぽつり。
額に冷たいものが落ちた。
「……?」
見上げると、天井から水滴が落ちていた。
安宿の屋根が雨漏りしている。
「どうして、わたくしの真上だけ?」
部屋の反対側は乾いている。
椅子を少しずらした。
ぽつり。次の雫が、ずらした先へ落ちた。
もう一度。
ぽつり。
「……ついてきていますわね?」
雨漏りは何も答えなかった。
◇
夜になっても眠れなかった。
薄い壁の向こうから、誰かの笑い声が聞こえてくる。
この三日間、ほとんど休んでいない。
使用人への補償。
屋敷跡の処理。
財産の売却。
債務の確認。
動いている間はよかった。
止まった途端、身体の底へ沈めていた疲労が押し寄せてきた。
目を閉じると、瞼の裏に巨大な穴が浮かぶ。
ようやく取り戻した家が、一瞬で消えた。
明日からは、小ラズマイトへ向かう準備をしなければならない。
農具。
種。
保存食。
帳簿をつけるための紙や墨も必要になるだろう。
領地へ行けば何とかなる。
そう考えようとして、胸の奥に別の考えが浮かぶ。
イデアの人生は、幼い頃から不幸と不運に見舞われてきた。
道を歩けば何かしらに躓く。立ち止まれば何かしらが降ってくる。
そんなことは日常茶飯事だった。
靴を新調すればすぐに踵が折れ、どこからか飛んでくる汚れがお気に入りのドレスに付くことも、一度や二度ではなかった。
この先も、きっと災難は降りかかる。
畑を作れば、雹が降るのではないか。
家を建てれば、雷が落ちるのではないか。
商売を始めれば、騙されるのではないか。
何かを手に入れても。
また、なくなるのではないか。
「……馬鹿らしい」
イデアは寝台から起き上がった。
疲れているはずなのに、眠れそうになかった。
外套を羽織り、宿を出ると、雨はもう上がっていた。
夜の王都を、冷たい風が流れている。
行くあてはない。明かりの多い中心街を避け、人通りの少ない道を歩いた。
しばらくすると、建物がまばらになった。
王都の外れ。崩れかけた石壁の向こうに、古い建物が見えた。
かつては、かなり大きな教会だったのだろう。
だが今は見る影もない。
尖塔は途中から崩れている。窓枠に硝子は一枚も残っていない。金属の飾りや扉の金具も、価値のある部分はほとんど剥ぎ取られていた。
屋根や内部に使われていた木材まで、運び出せるものは持ち去られたらしい。
残っているのは、重くてどうしようもなかった石壁と、半ば朽ちた木材ばかりだ。
入口には縄が張られている。
その横の石壁へ、赤い塗料で大きく書かれていた。
『邪教の遺構につき、立入を禁ず』
イデアは足を止めた。
王国で広く信仰されている正教会とは異なる、古い信仰の跡。
邪教。
幼い頃から、近づいてはならないと教えられてきた。
信じれば魂を奪われる。
祈れば災いが起こる。
信徒は人の道を外れた者ばかり。
そんな話を何度も聞いた。
イデアは、崩れかけた教会を見上げた。
「災いなら、もう十分ですわね」
それでも、なんとなしに縄を跨いだ。
扉を押すと、残った蝶番が、ぎい、と低い音を立てた。
礼拝堂の中は暗かった。ところどころ崩れた天井から、月明かりが落ちている。
床には瓦礫と埃。長椅子はほとんど残っていない。
運び出されなかったものも、壊れているか、腐っている。
正面には石造りの祭壇だけが残っていた。
その上にあった神像は、顔も腕も削られている。
けれど、台座の彫刻までは完全に壊されていなかった。
翼を広げた、多くの人影。
その中心に、一際大きな影。
周囲には、数え切れないほどの小さな星。
「……妙な紋章ですこと」
イデアは祭壇の前へ立った。
信仰心があるつもりだった。
少なくとも、これまでは。
「正教会の神には、何度も祈りましたわ」
返事はない。
「母が亡くならないように」
静かな礼拝堂へ、声だけが落ちる。
「父をお守りくださるように」
月明かりが、ひび割れた床を照らしている。
「継母との暮らしが少しでも穏やかになるように」
息を吸った。
「それから……」
セドリックの顔が浮かんだ。
いつも礼儀正しく、誠実だった元婚約者。
だからこそ。
自分の知らないところで婚約が終わり、妹へ変わっていたことが、当時のイデアにはどうしても理解できなかった。
「せめて、決められていた未来くらいは失わずに済むように」
何ひとつ叶わなかった。
「ずいぶん祈ったのですけれど」
返事はない。
当然だ。
「聞いていらっしゃらなかったのかしら」
少し笑った。笑ったつもりだった。
けれど、声は思ったより弱かった。
泣くものか。
泣いても何も戻らない。
母も。
父も。
婚約も。
屋敷も。
それに、明日は農具と種の値段を調べなくてはならない。紙も安いものを探さなければならない。
泣いて目を腫らしている場合ではない。
イデアは唇を噛み、それから祭壇の前へ膝をついた。
「あなたが本当に邪神であっても構いません」
壊された神像を見上げる。
「もし、本当に何かを聞いてくださるのなら」
自分でも、何をしているのだろうと思う。
けれど今夜くらい。一度くらい。
誰かへ頼ってもよいのではないか。
「この不幸を、どうにかしてくださらない?」
返事はない。
「これから領地へ行きます。何もない土地だそうですわ」
自嘲するように笑う。
「借金だけは、たくさんございますけれど」
何を差し出せばいい。
金はない。
家もない。
財産もほとんどない。
残っている土地まで失いかけている。
差し出せるものなど、ほとんどなかった。
だからイデアは、最後に残ったものを口にした。
「この不幸を退けてくださるのなら――」
一度、息を止める。
「死後、この身をあなたに捧げても構いません」
静寂。
何も起こらない。
「……でしょうね」
イデアは肩を落とした。
廃墟へ入り込み。
壊れた祭壇へ祈り。
挙げ句、自分の死後を差し出す。
疲れているにもほどがある。
「正教会の神々にすら聞いていただけなかったのですもの。邪神がわざわざ拾ってくださるはずも――」
立ち上がろうとした。
その時だった。
祭壇の紋章が、淡く光った。
「……え?」
床へ積もった埃が舞い上がる。
風はない。
月明かりが揺らぎ、白金の光が暗い礼拝堂いっぱいに広がった。
「な……」
眩しさに、イデアは腕で目元を覆った。
光の中から音がする。
羽ばたき。
それも、鳥のものとは比べものにならないほど大きな。
風が頬を撫でた。
白い羽根が一枚、ゆっくりと舞い落ちる。
やがて光が弱まり、イデアは恐る恐る腕を下ろした。
一人の男が立っていた。
波打つ長い金髪。
陽光を細い糸へ変え、そのまま編み上げたような色だった。
白い衣。
人間離れした、あまりにも整った顔立ち。
そして背には。
礼拝堂の狭さを忘れてしまうほど大きな、白い翼。
翼は光の幻ではなかった。男の背から生えた、確かな身体の一部として存在している。
広げられた羽根が、崩れた柱すれすれまで届いていた。
悪魔。
怪物。
邪神。
どれでもない。
どう見ても。
「……天使?」
男の両目は細く閉じられていた。
口元には穏やかな微笑み。
ただし、その微笑みには、妙に揺るぎない自信がある。
イデアは男を見た。
祭壇を見た。
入口の『邪教』という文字を思い出した。
もう一度、男を見る。
「……場所をお間違えではなくて?」
「いいえ」
耳に心地よい声だった。
「あなたの祈りを受けて参りました」
男は胸へ手を当て、優雅に一礼する。
大きな翼も、それに合わせてわずかに揺れた。
「私の名はアルゼル。偉大なる神の直系の子、七十二柱の一柱です」
「……邪教の遺構に、天使?」
「何か問題が?」
「問題しかございませんわ」
アルゼルは穏やかな笑みを崩さない。
「神の息子が美しいことに、信仰の呼び名は関係ありません」
「聞いておりません」
「ですが、私の美しさが気になっておられたでしょう」
「まったく」
「そうですか」
残念そうには見えなかった。
明確な拒否を受けてもなお、自信満々である。
イデアは、この天使とは少々相性が悪いかもしれないと思った。
出会ってまだ、ほんのわずかしか経っていないのに。
「それで」
アルゼルが言った。
「あなたの祈りへの回答ですが」
イデアは息を呑んだ。
もしかすると本当に、これまで自分へ降りかかり続けた不幸から、解放されるのかもしれない。
わずかな期待が胸へ灯る。
アルゼルは、少しだけ言いづらそうに首を傾けた。
大きな翼の羽先まで、ためらうように動く。
「結論から申し上げますと」
「ええ」
「あなたの魂はいらないそうです」
廃教会に、長い沈黙が落ちた。
「……何ですって?」
「少々、家庭の事情がございまして」
イデアはゆっくりと立ち上がった。
「人が覚悟を決めて差し出したものを、いらないとは何事ですの!?」
アルゼルの翼が、わずかに後ろへ引いた。




