10.女神の花は、金貨では買えません(上)
翌朝。
坑道の居住区へ足を踏み入れたイデアが最初に向かったのは、昨夜まで病人たちが寝かされていた部屋だった。
扉の前まで来ると、中から話し声が聞こえる。
咳も聞こえた。
けれど昨日のように、肺の奥から無理やり絞り出すような苦しい音ではない。
「入っても?」
声をかけると、幼い男の子の母親が扉を開けた。
昨日まではイデアを見るだけで身構えていた女性だったが、今日は何も言わず道を空ける。
部屋の中では、三人の病人がそれぞれ寝台へ横になっていた。
幼い男の子はまだ顔色が悪いものの、上半身を起こして薄い粥を食べている。鍛冶場で働いていたという男も、額へ布を乗せながら会話ができる程度まで回復していた。
もう一人の若い女性も眠ってはいるが、呼吸は穏やかだ。
「昨夜より、ずいぶん」
「ああ」
後ろから来たガルドンが答えた。
「熱が下がった。斑点も薄くなっている」
完全に治ったわけではない。薬草と月白花を混ぜた薬も、あとしばらく続ける必要があるだろう。
それでも、少なくとも命の危険は遠のいたらしい。
イデアはほっと息を吐いた。
「よかった」
「領主様」
小さな声がした。
振り向くと、寝台の上から男の子がこちらを見ていた。
イデアは少し驚く。
「わたくし?」
「母さんが、領主様だって」
「まあ……一応は」
まだ、自分の領地にすら着いていない。
しかもここは小ラズマイトの外で、彼らはイデアの領民でもない。
領主様と呼ばれるのは、なんとも妙な気分だった。
「薬、苦かった」
「……それは申し訳ございませんでしたわ」
「すごく苦かった」
「二度言わなくても分かります!」
男の子が少し笑う。
その笑顔を見て、母親もようやく頬を緩めた。
「ありがとう」
昨日よりも、はっきりとした声だった。
イデアは一瞬だけ言葉に迷い、それから首を横へ振る。
「まだお礼は早いですわ。元気になって、もう薬など飲みたくないと逃げ回るようになってからにしてくださいませ」
「もう飲みたくない」
「元気になるまでは飲みなさい!」
今度は、部屋の中に小さな笑い声が広がった。
昨日まであれほど張りつめていた場所だった。
たった一晩で、すべてが解決したわけではない。
それでも、何かが少しだけ変わり始めている。
部屋を出ると、入口の壁へ寄りかかっていたアルゼルが声をかけてきた。
「安心しましたか?」
「ええ」
「よかったですね」
アルゼルも微笑んでいる。
いつも通り、瞳は閉じたままだ。
昨日、薬草を買いに行って戻ってきてからというもの、彼は本当にイデアの近くを離れなくなった。
病人の様子を見に来る時も。
濡れた紙を並べ直す時も。
朝食を受け取りに行く時ですら、気づけば少し後ろにいる。
「……アルゼル」
「はい」
「別に、そこまでずっとついていなくても大丈夫ですわよ?」
「昨日、一刻で三か所怪我を増やした方がおっしゃることですか?」
「まだ覚えておりますの?」
「忘れる理由がありません」
「小さな傷です!」
「それが積み重なるのが、あなたでしょう」
否定しようとして、できなかった。
「ともかく」
イデアは話を変えた。
「病人が落ち着いたのでしたら、次はわたくしたちの仕事ですわね」
「やはり、忘れてはいませんでしたか」
「何を?」
「入口を直すという話です」
「当然です」
イデアは当然のように答えた。
「働きますわよ」
「私も?」
「あなたも」
「昨日も岩を持ち上げました」
「今日も持ち上げてくださいませ」
「天使の扱いとして正しいのでしょうか」
「非常に力の強い方を、力仕事へ適切に配置しているだけですわ」
「物は言いようですね」
◇
坑道の修復は、病人たちが快方へ向かったその日の朝から始まった。
直す場所はひとつではない。
まず、橋から落ちた荷馬車が岩壁へ衝突した際に壊した坑道の外壁。
次に、聖域へ通じる道を塞いでいた崩落箇所。
昨日は人が通れるだけの隙間を作ったにすぎず、あのままでは再び崩れる危険がある。
さらに、崩落によって滞っていた空気の流れも整えなくてはならない。
「伯爵」
ガルドンがイデアへ差し出したのは、先端の平たい槌だった。
受け取ると、ずしりと腕が沈んだ。
「……重いですわね」
「それでも軽い方だ」
「もう少し軽いものは?」
「子供が使うやつになるぞ」
「それをくださいませ」
即答した。
ガルドンが呆れたような顔をする。
「見栄を張らんのか」
「見栄で腕を痛めても、借金は減りませんもの」
「妙なところで潔いな」
結局、一回り小さな槌を借りた。
一方で、
「お前はこれだ」
アルゼルの前には、拳ふたつ分ほどの大きさの岩がいくつも転がされていた。
アルゼルがそれを見る。
「これは?」
「運べ」
「どちらへ?」
「あっちだ」
ガルドンが顎で、かなり離れた土砂置き場を示す。
「この程度なら、籠を使う必要もありませんね」
アルゼルは岩をふたつ持った。
さらにひとつ。
おまけにもうひとつ。
岩が両腕へ積み上げる。
ドワーフの一人が眉を寄せた。
「落とすぞ」
「問題ありません」
「アルゼル」
イデアも止める。
「一度に持ちすぎでは?」
「問題ありません。昨日も、顔が整っているとは認めていただけましたから」
「そこから、どうして力仕事への自信につながりますの?」
「外見だけでなく実力まで示せば、より評価が上がるでしょう」
「『ひょろ長い』とも言われておりましたけれど」
「細身で整った容姿、と受け取りました」
「随分と都合よく言い換えましたわね……」
イデアには、だいぶ誇張されているようにしか思えなかった。
結局、アルゼルは大人のドワーフ数人でも苦労しそうな量を一度に抱え、そのまま平然と歩いていった。
ガルドンが黙って見送る。
「……本当に力だけはあるんだな」
「力だけ、とは聞き捨てなりませんね」
遠くから返事が飛んできた。
「耳もよろしいようですわ」
作業は続いた。
イデアは崩れた壁際から小さな石をどかし、ドワーフたちが新しい支柱を組む手伝いをした。
やってみれば、簡単な仕事などほとんどない。
石をひとつ取り除くにしても、どこから動かすかを間違えれば、その上にある岩が崩れる。
木の支柱を一本立てるにも、地面の硬さ、天井の形、荷重のかかる方向まで見なければならない。
「そこへ置くな」
ガルドンが言う。
イデアは抱えていた石を止める。
「なぜ?」
「下が空洞だ」
「見ただけで分かりますの?」
「叩けば分かる」
ガルドンが槌で地面を軽く叩いた。
こつ。
別の場所。
こつ。
イデアにはほとんど同じ音に聞こえる。
「……違いが?」
「全然違うだろう」
「全然同じですわ」
近くのドワーフたちが笑った。
少し前までなら、その笑いも嘲るものに感じただろう。
今は違う。
「覚えれば分かる」
「何年ほど?」
「十年もやれば」
「借金の期限を五年延ばしていただけない?」
「王様に言え」
「正論ですわね……」
坑道で働くドワーフたちは、想像以上の技術を持っていた。
岩の内部の亀裂を音で見抜く者。
槌を数度振るうだけで、狙った形へ石を割る者。
必要な場所へぴたりと合う金具を、その場で加工して作る者。
イデアは作業をしながら、それらをひとつずつ見ていた。
この者たちが、小ラズマイトへ来てくれたなら。
家を建てる時。
道を作る時。
坑道を調べる時。
どれほど力になるだろう。そんな考えが浮かぶ。
けれど、口にはしなかった。
その願いをするには、まだ早い。
彼らは長いあいだ、ラズマイト家との関係を断たれてきた。昨日今日会ったばかりのイデアが、病人を一度助けたからといって、すぐに「今度はわたくしの領地を手伝って」と言えば、それでは昔と何も変わらない。
まずは、自分たちが壊したものを直す。
約束した仕事を終える。
話は、それからだ。
◇
昼を過ぎた頃。
「紙はどうした」
作業の休憩中、ガルドンが突然尋ねた。
「紙?」
「そこら中に広げていただろう」
「ああ」
橋から落ちた際、水と泥を被った紙である。
木箱へ分け、油を含ませた布で包んでいたおかげで大半は助かったものの、一部は濡れてしまった。
「乾かしておりますわ。風通しのよい場所をお借りしています」
「見せろ」
「なぜ?」
「いいから」
言われるまま案内すると、作業場の片隅には何本もの縄が張られ、その間へ紙が一枚ずつ並べてあった。
完全に濡れたものは少ない。
ただ、端が波打った紙。
泥染みの残った紙。
角が破れた紙。
新品として使える状態ではなくなったものもある。
ガルドンは一枚取ると、光へ透かした。
「まだ使えるな」
「もちろん使いますわよ」
「捨てんのか」
「字を書ければ紙です」
「汚れているぞ」
「裏があります」
ガルドンがイデアを見る。
「伯爵というのは、もっと贅沢なものかと思っていた」
「数日前までは、わたくしもその予定でしたの」
「予定?」
「王都の屋敷で暮らし、領地経営を覚えながら、伯爵として恥ずかしくない生活をするつもりでした」
「それが?」
「隕石で消えましたわ」
ガルドンの眉間に皺が寄る。
「……それ、本当に本当なのか」
「まだ疑っていらしたの!?」
「空から石が降って家だけ消えたなど、普通は信じん」
「わたくしだって信じたくありませんわ!」
近くで紙を整理していたアルゼルが口を挟む。
「かなり大きな穴でしたよ」
「あなたは見ておりませんでしょう!」
「痕跡は見ました」
「細かいところで事実を補強しないで!」
ガルドンの髭の奥が少し動いた。
笑ったのかもしれない。
彼は紙を戻した。
「乾いたら、薄い板で挟んで重しを置け。少しは平らになる」
「まあ」
イデアは目を丸くする。
「ありがとうございます」
「別に大したことではない」
「それでも、知らないことでしたから」
ガルドンは返事をせず、作業場を出ていった。
昨日より、ほんの少しだけ。彼の背中が遠くなくなったような気がした。
◇
夕方近くになって、坑道の外から慌ただしい声が聞こえてきた。
「伯爵!」
呼ばれたイデアは、持っていた道具を置いて振り返った。
若いドワーフが走ってくる。
「上の道へ出ていた連中が戻った!」
「上の道?」
「橋の様子を見に行っていたんだ。それで――」
彼が最後まで言うより先に、聞き覚えのある鳴き声がした。
イデアは動きを止める。
「……マルタ?」
坑道の外へ駆け出した。
谷の斜面を縫う細い運搬路。
その先から数人のドワーフが下りてくる。
そしてその真ん中に、茶色い牝馬がいた。
「マルタ!」
イデアが駆け寄る。
マルタもこちらへ気づいたらしい。
疲れているのか歩みは鈍かったが、それでも頭を上げ、イデアへ鼻先を伸ばした。
「無事だったのね!」
首へ腕を回す。
毛には泥がついている。
細かな枝葉も絡んでいた。
革帯の切れ端も、まだ一部が身体へ残っている。
「山の中を歩き回っていたらしい」
連れてきたドワーフが説明した。
「橋の先からかなり離れた斜面にいた。最初は近づこうとすると逃げたが、干し果物を見せたら寄ってきた」
「……食べ物ですのね」
感動が少し減った。
マルタがイデアの肩口へ鼻を押しつける。
「心配してくださった?」
今度は腰の荷物袋へ顔を伸ばした。
「やっぱり食べ物ですわね!」
それでも、無事でよかった。
イデアは袋から干し果物をひとつ取り出し、マルタの口へ入れた。
「よく無事でいてくれましたわ」
自分でも思っていた以上に、声が柔らかくなった。
「怪我は?」
「脚に浅い擦り傷があるくらいだ。骨も蹄も問題ない」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「探してくださったのね」
「橋が落ちた原因を見に行ったついでだ」
「それでも」
ドワーフは少し居心地悪そうに鼻を擦った。
「……馬を山へ置いておくわけにもいかんだろ」
その日のイデアにとって、何より嬉しい出来事だった。




