11.女神の花は、金貨では買えません(下)
坑道の修復は、翌日も続いた。
アルゼルは相変わらず巨大な岩を一人で運んだ。
あまりにも力があるため、途中からガルドンが、
「一度に持ちすぎるな。床が傷む」
と注意するほどだった。
「以前は効率を上げろと」
「限度がある」
「人間もドワーフも要求が細かいですね」
「坑道では力があればいいわけではない」
「ここへ来てから何度も聞いています」
「分かっていないから何度も言う」
アルゼルの翼がわずかに下がる。
そして、その直後。
身体の前に抱えていた石のひとつが、翼の先へ擦れた。白い羽根に灰色の筋がつく。
「……」
アルゼルが止まった。
イデアは見なかったことにした。
「……イデア」
「何でしょう」
「翼が汚れました」
「見れば分かります」
「白い羽根に」
「前にも聞きましたわ、その台詞」
「坑道の汚れは泥とは違います」
「あとで拭いて差し上げますから、まず運びなさい!」
「約束です」
「分かりました!」
近くのドワーフが、呆れたように二人を見ていた。
「本当に天使なのか、あれ」
「残念ながら」
「残念とは何です?」
「聞こえておりますのね!」
そんなやり取りをしながらも、作業は確実に進んだ。
夕方には、聖域へ続く本来の通路も十分な幅まで開かれた。
新しい支柱が入り、崩れやすい岩は取り除かれ、空気の流れを妨げていた箇所も直された。
先日までの重い空気が嘘のように、坑道の奥から澄んだ風が流れてくる。
ドワーフたちが、聖域の前へ集まった。
ガルドンを先頭に、一人ずつ女神像へ頭を垂れる。
イデアとアルゼルは、その少し後ろへ立った。
「アルゼル」
「はい」
「よく働きましたわね」
「当然です」
白い衣は灰色になっていた。
金髪にも細かな土埃がついている。
翼の先にもまだ少し汚れが残っていた。
廃教会で初めて会った時とは、えらい違いだ。
あの時は、どこにも汚れなどない白い翼を広げ、自分の美しさに一片の疑いも持っていなかった。
今も自信は変わらない。
けれど、土まみれで岩を運んでいる姿の方が、以前よりずっと近い存在に見えた。
「何を見ています?」
「……別に」
「働く私に見惚れましたか?」
「少し見直していただけですわ」
アルゼルが黙る。
「見直した?」
「ええ。文句を言いながらも、ちゃんと最後まで働いておりますもの」
「当然でしょう。私は仕事のできる天使です」
「そこで自慢をしなければ、もう少し評価が上がりましたのに」
「私の美点を正しく伝えることも重要です」
「前言撤回いたします」
「早すぎませんか?」
イデアは小さく笑った。
◇
その日の作業を終えたあと、
「伯爵」
イデアはガルドンに呼び止められた。
「何でしょう」
「手を見せろ」
「手?」
言われるまま差し出す。
数日間、慣れない仕事をした手には、小さな豆ができていた。
以前の傷へ巻いた布も残っている。
さすがに貴族令嬢の手とは呼びづらくなってきた。
ガルドンが眉を寄せる。
「痛くないのか」
「痛いですわよ」
「なら、なぜやる」
「壊したものを直すと約束しましたもの」
「そういう意味じゃない」
ガルドンは腕を組んだ。
「なぜ小ラズマイトへ行く」
「……領地だから?」
「昔ならともかく、今は何もない土地だ」
「借金はございます」
「それはあるとは言わん」
「ごもっともですわね」
「残った金を持って逃げれば、しばらく暮らせる。貴族の名前を捨てて、どこかの町で暮らすことだってできるだろう」
イデアは自分の手を見る。
泥にまみれている。
傷も豆もある。
少し前までなら、こんな手になるとは思ってもいなかった。
「逃げた先で、わたくしは何をするのでしょう」
「知らん」
「わたくしも分かりません」
ラズマイトという家を捨てれば、身軽になるのかもしれない。
借金も。
領地も。
継母が残した問題も。
すべて手放してしまえばいい。
けれど。
「わたくしは、家を取り戻すために長い間戦いました」
「その家は隕石で消えたんだろ」
「建物は」
イデアは苦笑した。
「でも、家というのは建物だけではないはずですわ」
名前がある。
土地がある。
そして、その土地で暮らしている者がいる。
「小ラズマイトには、まだ会ったことのない領民がおります」
「お前を待っているとは限らん」
「ええ」
「領主を恨んでいるかもしれん」
「その可能性も高いでしょうね」
「それでも行くのか」
「行きます」
「なぜだ」
イデアは少し考えた。
義務だから。
家名を守りたいから。
借金を返さなければならないから。
どれも間違ってはいない。
「……知らないままでいるのが、怖いのです」
「怖い?」
「領民がどのように暮らしているのか。何に困っているのか。ラズマイト家が、そこで何をしてきたのか」
ここへ来るまで、イデアはラズマイト家がドワーフたちとの道を閉ざしたことさえ知らなかった。
「知らないままなら、自分には関係ないと思っていられますでしょう?」
ガルドンは何も言わない。
「でも、それではまた同じことになります。わたくしは家督を取り戻すことばかり見て、その家にどれだけ借金があるかさえ十分に確かめませんでした」
一度した失敗だった。
「だから、まず見ます。聞きます。調べます。その結果、何もできないかもしれませんけれど」
「できなかったら?」
「その時に考えますわ」
「ずいぶん頼りない答えだな」
「できるかどうかも知らないうちから、全部できますと申し上げる方が信用できませんでしょう?」
ガルドンが黙る。
「……そうか」
やがてそれだけ言って、背を向けた。
数歩進んでから、立ち止まる。
「明日の朝、出るんだろ」
「そのつもりです」
「なら早く寝ろ」
「はい」
再び歩き出す。
イデアはその背中を見送り。
「……ガルドン」
「あ?」
「今、心配してくださいました?」
「していない」
「そういうことにしておきますわ」
「余計なことを言うな!」
声が坑道へ響いた。
◇
坑道へ落ちてから四日目の朝。
イデアが外へ出ると、そこには見慣れたものと、見慣れないものが並んでいた。
「……これは」
まず農具。
橋から落ちた時に曲がった鍬や鋤は、ドワーフたちの手で修理されていた。
曲がった金具は打ち直され、折れた柄も交換されている。
中には、買った時より明らかに頑丈になっているものまであった。
次に紙。
乾かしていた紙はきちんと重ねられ、薄い板で挟んで平らにされていた。
完全に失ったものもある。
泥染みの残ったものもある。
それでも、大半は小ラズマイトまで持っていける。
しかも、無事だった紙と傷んだ紙を分けて、新しい木箱へ詰め直してある。
「箱まで?」
「前のは割れていただろ」
ガルドンは素っ気なく言う。
「湿気が入らんよう、蓋を少しきつくしておいた」
イデアは蓋を開けてみる。
本当に、ぴたりと閉まる。
「……ありがとうございます」
「礼なら最後にまとめて言え」
「まだ何かございますの?」
「横を見ろ」
そこには、一台の荷車があった。
「まあ……」
元の荷馬車より少し小ぶりだ。
だが、車輪は太く、荷台も頑丈に造られている。壊れた荷馬車から回収できた部材に、坑道にあった木材と金具を足して作り直したらしい。
細部を見れば、さりげなく彫刻まで入っている。
車軸の端には、小さな花の模様。
金具には、蔦の意匠。
「これを……一晩で?」
「一晩ではない。昨日から手の空いた連中がやっていた」
「それでも十分に早いですわ!」
「荷車がなければ、お前たちも困るだろう」
「それはそうですが」
「病人を助けてもらった礼だ」
ガルドンはそう言い、少し間を置いた。
「それと」
腰に下げていた小さな革袋を外すと、そのままイデアの前へ差し出した。
「これを持っていけ」
受け取る。
軽い。
中を開けると、淡い銀色をした小さな種が入っていた。
イデアは息を呑む。
「月白花……?」
「種だ」
十粒。
聖域に咲いていたものと同じ花の種。
「本当に、いただいてよろしいの?」
「売るんじゃない」
ガルドンがすぐに言った。
「預ける」
「預ける?」
「ああ」
ガルドンの顔から、先ほどまでのわずかな柔らかさが消える。
「フィルネアの花は、わしらにとって女神の花だ。その名前まで人間の商売へ使わせるつもりはない」
イデアは黙って聞いた。
「人間の土地で育てるなら、月白花の名を使え。フィルネアの名は、わしらの祈りの中にある」
イデアは革袋を両手で持ち直した。
「分かりました」
「それから、勝手に聖域から持ち出すな」
「もちろんです」
「もし育って、増えたとしても。最初から自分たちだけのものだったような顔をするな」
「いたしません」
「病人が必要とする時に、金がないというだけで見捨てるな」
そこだけは。
イデアも少し考えた。
「すべてを無償にはできません」
ガルドンの眉が動く。
「薬を作り続けるには、畑も、道具も、作る人の生活も必要です。売れる方からは、正当な代金をいただきます」
「……ああ」
「ですが」
イデアは革袋を見た。
「金がないから死ぬしかない、という使い方にはいたしません。その方法は、きちんと考えます」
「約束できるか」
「できます」
即答した。
「それと、月白花が増えたなら、あなた方が必要とする分もお渡しします」
ガルドンは少し驚いた顔をした。
「ここには花がある」
「今は、でしょう?」
いつか、また崩落するかもしれない。
病が流行るかもしれない。
聖域の花だけに頼らなければならない理由はない。
「育てる場所がふたつあった方が安全です」
ガルドンはしばらくイデアを見る。
やがて、髭の奥で小さく息を吐いた。
「好きにしろ」
「ええ」
「ただし」
「まだございますの?」
「育たなかったら知らせろ」
イデアが目を瞬く。
「知らせる?」
「土が悪いのか、水が悪いのか、それとも女神の花に合わない何かがあるのか。見なければ分からん」
「……小ラズマイトへ来てくださるの?」
「花を見るだけだ」
「ええ。そういうことにしておきますわ」
「余計なことを言うな」
ガルドンは不機嫌そうに顔を背けた。
だけどもう、最初に会った時のような嫌悪はなかった。
イデアは革袋を大切に胸元へしまう。
金貨を積んだわけではない。
買ったわけでもない。
働き、病人を助け、話をして。
ようやく預けてもらった種だった。
その重さは、小さな革袋からは想像できないほど大きかった。
「それから」
ガルドンが言う。
「お前の領地に古い坑道があると言ったな」
「記録には。使われていないものがあるそうですわ」
「勝手に掘るなよ」
「なぜ?」
「山は中でつながっている」
イデアは顔を上げた。
「……つながっている?」
「鉱脈も、空洞も、人間が昔掘った穴もな」
ガルドンは山の向こうを示す。
「地上の道だけ見れば遠い。だが、山の中まで同じとは限らん」
イデアは、その言葉を覚えておくことにした。
「では、小ラズマイトの坑道を調べる時は」
「先に呼べ」
「分かりましたわ」
「そこの男には掘らせるな」
アルゼルが顔を向ける。
「なぜです?」
「力任せに山を割りそうだ」
「私はそのような粗雑なことはしません」
「橋では問題ないと言ったな」
「それとこれは関係ありません」
「落ちただろう」
「橋が悪かったのです」
イデアは笑いを堪えた。
「仲よくなりましたわね」
二人が同時にこちらを見る。
「どこを見てそう思ったのです?」
「どこを見てそう思った」
声だけは見事に揃っていた。
「そこですわ」
◇
出発の支度が整った。
マルタへ新しい荷車をつなぐ。
農具に種、保存食。
紙と墨。
王都を出た時より減ったものもある。
そして、増えたものもあった。
ドワーフたちが直してくれた道具。
新しい荷車。
月白花の種。
それから。
何かあれば、またここへ来てもよいという細い糸のような縁。
「……黒字ですわね」
イデアが荷台を見ながら呟いた。
「ようやく認めましたか」
隣のアルゼルが嬉しそうに答えた。
「失ったものもございますから、決算には精査が必要です」
「厳しいですね」
「ですが」
イデアは新しい荷車を撫でる。
「少なくとも、橋から落ちた直後に思っていたほどの赤字ではなくなりましたわ」
「加護を信用しましたか?」
「少しだけ」
「私も?」
「それはまだ別です」
「残念です」
「でも、あなたにはずっと働いていただいた分がありますから」
「かなり働きましたよ」
「ええ。ご苦労様でした」
イデアはアルゼルを見る。
白い翼は、昨夜きちんと汚れを拭き取ったため元通りになっている。
だが、長い金髪の後ろ側に、まだ小さな土の塊がひとつ残っていた。
「アルゼル」
「はい」
「少し屈んで」
「なぜです?」
「いいから」
アルゼルが素直に身体を屈めた。
イデアは金髪へ手を伸ばし、絡んでいた小さな土の塊を取る。
「まだついておりましたわよ」
「どこに?」
「後ろです」
「見えない場所ですね」
「だから取って差し上げました」
「ありがとうございます」
アルゼルが顔を上げる。
瞳は閉じたまま。
その口元には、いつもより少しだけ柔らかな笑みがあった。
「……何です?」
「いいえ」
なんとなく落ち着かなくなって、イデアは先に御者台へ乗った。
橋から落ちた時に見た黄金の瞳を思い出しそうになったからだ。
あれは——今、考えなくていい。
「行きますわよ」
「はい」
アルゼルも隣へ座る。
ガルドンをはじめ、何人かのドワーフが坑道の入口まで見送りに出ていた。
「伯爵!」
荷車を動かしかけたところで、ガルドンに呼ばれる。
「何でしょう?」
「領地へ着くまで、橋を渡る前にはよく確認しろ!」
「そういたしますわ!」
「私の確認に問題があったように言わないでいただけますか?」
「実際に落ちただろ」
「橋の方に問題があったのです」
「あなたが大丈夫とおっしゃった直後でしたわ!」
「因果関係はありません」
「縁起が悪いという話です!」
言い合いながら、マルタが歩き出した。
ドワーフたちの坑道が、ゆっくり遠ざかっていく。
本来なら橋を渡ったあと、何度も山腹を折り返しながら下らなければならなかった。
橋から谷へ落ちたことで、その道の一部を思いがけず飛ばしてしまったらしい。
さらにガルドンたちが使う山中の運搬路を教えてもらったため、ここから小ラズマイト方面へ戻るのも、街道をそのまま進むより少し早い。
もっとも、坑道で数日過ごした以上、旅の日数そのものが短くなったわけではない。
王都を出た時の予定から大きく外れていることには変わりなかった。
イデアは荷台を振り返った。
木箱の中には、大切な紙。
修理された農具。
そして胸元には、銀色の小さな種。
王都を出た時には持っていなかったものも増えている。
不幸は、なくならない。
橋は本当に落ちた。
荷馬車も壊れた。
怖い思いもした。
それでも、そのあとには何かが残る。
アルゼルが言っていたことを、少しずつ理解し始めている。
「アルゼル」
「何でしょう」
「次の橋では、何もおっしゃらないでくださいませね」
「安全でも?」
「特に安全そうな時ほど」
「難しい注文ですね」
「黙っていれば美青年なのですから、たまにはその美点を生かして」
「ようやく私の美しさを認めましたか?」
「そこだけ拾わないで!」
アルゼルが笑う。
マルタが鼻を鳴らす。
新しい荷車は、山道を小ラズマイトへ向かって進んでいった。




