12.王家の書記官は川辺に落ちています(上)
ドワーフの坑道を発ってから、半日ほどが過ぎた。
新しく譲ってもらった荷車は、以前のものより少し小さいものの、山道ではむしろ扱いやすかった。太い車輪は石の多い道でも安定しており、マルタも機嫌よく歩いている。
少なくとも今のところは。
「順調ですわね」
御者台でイデアが呟いた。
「そうですね」
隣のアルゼルも頷く。
「……何も起こりませんわね」
「起こらない方がよいのでは?」
「もちろんです。ただ、こう何も起こらないと、逆に不安ですのよ」
「あなたは随分と不幸に慣れましたね」
「慣れたくて慣れたわけではございません!」
とはいえ、橋は落ちない。
車輪も外れない。
鳥も頭上を飛んでいない。
天気もよい。
あまりにも平穏である。イデアはむしろ落ち着かなかった。
そんな時だった。
荷台の後ろで、からん、と音がした。
「……何か落ちましたわ」
「水筒ですね」
「どうして?」
「紐が切れたようです」
「やっぱり何か起きましたわね!」
荷車を止める。
道端へ転がった水筒は、運悪く岩へぶつかって栓が外れていた。
中身はほとんど地面へ染み込んでいる。イデアは水筒を拾い上げ、深く息を吐いた。
「水筒ひとつで済んだなら安いものです」
「そう思えるようになった自分が嫌ですわ……」
「近くに水の音がしますよ」
アルゼルが道の先へ顔を向けた。
木々の向こうから、かすかに水音が聞こえている。
地図を見ると、街道から少し外れたところに小川があるらしい。
「水を汲んで参りましょうか」
「ええ。どうせならマルタにも飲ませましょう」
細い獣道のような道を入り、木立を抜ける。
ほどなく、小さな川が見えてきた。山の雪解け水が流れ込んでいるのか、水は澄んでいる。
「ここなら――」
イデアは途中で言葉を止めた。
川辺に、何かいる。
最初は、流木かと思った。
だが、
「……人?」
人間だった。
男が一人、浅瀬へ半身を浸したまま倒れている。
「アルゼル!」
「生きています」
「まだ何も聞いておりませんわ!」
「聞くと思いましたので」
イデアは急いで川辺へ下り、男のそばへ膝をついた。
二十代の終わりから三十歳ほどだろうか。
焦げ茶色の髪は濡れて額へ張りつき、右のこめかみに血が滲んでいる。
丈夫そうな旅装だが、外套は何かに引き裂かれていた。
腰に剣を下げていたらしい鞘だけが残り、中身はない。
「本当に生きておりますの?」
「呼吸があります」
アルゼルが男の身体を抱え上げる。
そのまま軽々と持ち上げ、川から離れた草地へ寝かせた。
「服がずぶ濡れですわ」
「かなり冷えていますね」
イデアが男の手へ触れる。
冷たい。
雨に濡れた程度ではない。長時間この川辺に倒れていたのだろう。
「荷車から毛布を」
「持ってきますわ」
イデアは急いで戻り、毛布と乾いた布を持ってきた。
二人で男の濡れた外套を外す。
頭の傷以外にも、左脇腹には大きな青痣があり、右足首も腫れている。
「随分と怪我をしていますわね」
「骨が大きく折れている様子はありません。ただ、頭を打っています」
「あなたの力では?」
尋ねてから、イデアは言い直した。
「……治すことはできませんのよね」
「ええ。私は治癒を司る天使ではありません」
アルゼルは男の胸元へ手をかざした。
淡い金色の光が灯る。
だが、傷が消えることはなかった。
光は男の身体を柔らかく包み、冷え切った指先へ少しずつ温もりを戻していく。
「この程度ならできます」
「温めているの?」
「熱を分けているだけです。病も傷も、それ自体を消しているわけではありません」
「十分ですわ」
イデアは濡れた髪を布で拭き、毛布を掛けた。
少し経つと、男の唇にも色が戻り始める。
イデアはそこでようやく息をついた。
「また見返りですかしら」
「何の?」
「水筒の紐が切れた見返り」
「人一人では釣り合いが大きすぎませんか?」
「では、この方を見つけたことで別の何かがある?」
「まだ分かりません」
イデアは男を見る。
「悪人だったら?」
「その時は赤字になるかもしれませんね」
「助けてから収支を計算しないでくださる?」
「先に言い出したのはイデアですよ」
「……そうでしたわね」
その時。
男の腕の下に、何か硬いものがあることへ気づいた。
革製の書類筒だ。
意識を失っているにもかかわらず、片腕でしっかりと抱えている。
泥だらけだが、蓋の部分には紋章が刻まれていた。
王冠と剣。
「これは」
イデアの表情が変わる。
「王家直属の役所が使う印ですわ」
「役人ですか」
「そのようですわね」
ますます、なぜこんな川辺へ落ちているのか分からなくなった。
やがて。
「……う」
男が低く呻いた。
「お気づきになりました?」
イデアが覗き込む。
男はゆっくりと瞼を開いた。
「ここは……」
「川辺ですわ。あなた、浅瀬へ半分浸かったまま倒れておりましたのよ」
まだ意識がはっきりしていないのだろう。
男はしばらくイデアの顔を見つめていた。
次に、その隣にいるアルゼルを見る。
そして周囲へ視線を巡らせた。
人気のない川辺。
見覚えのない荷車。
自分の剣はない。
目の前にいるのは、見知らぬ男女が二人。
男の表情が強張った。
「追い剥ぎか……!」
「どうしてそうなりますの!?」
イデアは思わず声を上げた。
男は反射的に書類筒を胸へ抱え、後ずさろうとする。
しかし、右足を動かした途端に顔を歪めた。
「無理に動かないでくださいませ! あなたを川から引き上げたところですわ」
「信じられるか。見知らぬ男女が、人気のない川辺で――」
「助けた人間を追い剥ぎ扱いするなんて、ずいぶん失礼ではなくて?」
腹立たしくはあるが、相手の立場になって考えれば警戒するのも無理はない。
イデアは胸元から、ラズマイト伯爵家の指輪を取り出した。
緑の石へ家紋が彫られている。
「わたくしはイデア・ラズマイト。ラズマイト伯爵家の現当主です」
男の目が見開かれた。
「イデア・ラズマイト?」
「ええ」
「本物の?」
「偽物が名乗りたがるほど、現在のラズマイト家に価値があると思って?」
「それは……」
「否定しにくそうな顔をなさらないで!」
「失礼いたしました!」
今度は慌てて身体を起こそうとし、脇腹を押さえて呻く。
「だから動かなくて結構です!」
「申し訳ございません、伯爵閣下。ご無礼を――」
そこまで言ったところで。
男の視線が止まった。
イデアではない。後ろにいるアルゼルへ向けられている。
正確には、その背中へ。
「……」
アルゼルの白い翼が、わずかに動いた。
長く地面へ触れないよう畳んでいた翼を、位置を直すように持ち上げる。
男の顔が固まった。
「……翼?」
今度の声には、先ほどの警戒とはまるで違うものが混じっていた。
驚愕。
困惑。
そして、わずかな畏れ。
無理もない。
王都で暮らす人間にとって、正教会は特別に熱心な信徒だけが関わるものではない。
祭日には鐘が鳴る。
祝い事にも弔いにも祈りがある。
神の教えは、生活のすぐそばにある。
だからこそ。
人間ではあり得ない大きな白い翼を持つ男が、何食わぬ顔で目の前に立っている状況を、簡単に受け入れられるはずがなかった。
「そちらの方は……」
「ええと」
イデアは一瞬だけ迷った。
しかし、これまでにも何度か切り抜けてきた。
王都の門では羽毛。
宿では芸術家、旅の商人には神学研究者。
今回も、なんとか押しきらなければ。
「遠縁の者ですの」
アルゼルが顔を向ける。
「イデア」
「少し黙っていて」
イデアは笑顔を保った。
「神学を研究しておりまして。その……研究への熱意が少々強すぎる方ですの」
男は翼を見る。
「では、あれは……」
「研究用ですわ」
「研究用?」
「非常に精巧に作られた翼ですの」
ちょうどその時。アルゼルの片翼が、ぱさりと羽ばたいた。
白い羽根が揺れ、川辺の草が風に伏せる。
「……動きましたが」
「精巧ですので」
「一枚ずつ羽根も動いているように見えます」
「とても精巧ですの」
「根元が背中へつながっておりますが」
「ものすごく精巧なのですわ!」
「イデア」
とうとうアルゼルが口を挟んだ。
「何ですの!」
「さすがに今回は無理があるのでは?」
「わたくしだって分かっております!」
イデアも認めざるを得なかった。
以前、商人に翼を見られた時は、アルゼルが微動だにしなかったおかげで、どうにか作り物だと言い張れた。
だが今回は違う。
外套もなく、翼は完全に見られているうえ、本人が平然と動かしてしまっている。
これで作り物として押し通すのは、さすがに無理があった。
「もう少し人間らしくしてくださらない?」
「翼はしまえませんので」
「知っておりますわよ!」
アルゼルは小さく息を吐いた。
どうやら、彼は早々に諦めていようだ。
「これほど明確に見られた以上、隠し続けても意味はありませんね」
姿勢を正す。
アルゼルは優雅に胸へ片手を当てた。
「改めてご挨拶を」
いつもの穏やかな声だった。
「私の名はアルゼル。偉大なる神の直系の子、七十二柱の一柱です」
「……」
男は何も言わなかった。
アルゼルを見る。
翼を見る。
もう一度、アルゼルの顔を見る。
「……七十二柱」
「ええ」
「神の、直系の子?」
「そうです」
男の眉間へ、深い皺が寄った。
信じられない。
そう顔に書いてある。
むしろ、簡単に信じられる方がおかしいだろう。
「正教会では、そのような……」
男が口を開く。
だが、そこで止めた。
何かを思い出すように、胸元の書類筒へ目を落とす。
そして目を閉じ。
一度だけ、深く息を吐いた。
「……いえ」
顔を上げた。
「その件は、後にいたします」
イデアは目を瞬いた。
「よろしいの?」
「よろしくはございません」
男がきっぱり答える。
「正直に申し上げれば、今すぐにでも確認したいことがいくつもございます。私がこれまで教会で聞いてきた話とも、どう整理すべきか分かりません」
「でしょうね」
「ですが」
男は泥で汚れた書類筒を抱え直した。
「私は現在、王領監理局の職務中です」
「……そちらを優先なさるの?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「目の前に、神の直系を名乗る天使がいても?」
「非常に気になります」
「翼まで生えておりますわよ?」
「非常に気になります」
「では」
「ですが、職務は職務です」
アルゼルが少しだけ首を傾げた。
「私より仕事を優先するのですか?」
「はい」
「即答ですか」
「はい」
今度はもっと早かった。
アルゼルが黙った。
イデアは、少しだけこの男に好感を持った。
「……真面目な方ですのね」
「役人ですので」
そこで男は、ようやく自分がまだ名乗っていなかったことに気づいたらしい。
「失礼いたしました」
傷を庇いながら姿勢を整える。
「クラウス・ハルフェンと申します。王領監理局の書記官です」
「王領監理局?」
イデアにも聞き覚えがある。
王家へ返還された旧貴族領や直轄地を管理し、領地の引き渡しにも関わる役所だ。
当然、ラズマイト家の領地返還についても記録を持っている。
「まさか」
イデアはクラウスが守り続けていた書類筒を見る。
「わたくしに用がございましたの?」
「はい」
クラウスは答えた。
その途中で一度だけ、アルゼルの翼へ視線が流れる。
まだ気にはなっている。
当然だろう。
それでも、すぐにイデアへ視線を戻した。
「家督継承に伴い、小ラズマイトの管理権を正式にイデア・ラズマイト伯爵へ移管するための書類をお届けする途中でした」
「王都へ?」
「当初は」
クラウスの表情が少しだけ複雑になる。
「ですがお屋敷へ到着したところ、ラズマイト邸が……その」
「隕石で消えていた」
「はい」
「もう慣れましたから、言いにくそうになさらなくて結構ですわ」
「慣れるものなのですか?」
「慣れたくはありませんでした」
クラウスは少しだけ困った顔をした。
「その後、伯爵閣下がすでに小ラズマイトへ向かった可能性が高いと分かり、後を追うよう命じられました。管理権移管の確認と、現地の状況を記録する役目もございますので」
「それで、こんなところへ?」
「途中までは馬で順調に進んでおりました」
クラウスが悔しそうに唇を噛んだ。
「ですが、街道で三人組の男に襲われました」
「盗賊?」
「おそらく。馬と金銭、それに剣と旅行鞄を奪われました。書類筒だけは身体へ縛っていたため守ることができましたが、逃げる途中で斜面から落ちました」
「それで川へ」
「面目次第もございません」
「書類を守って、生きていたのですから十分でしょう」
イデアは書類筒を確認する。
封蝋は残っている。
「ですが」
クラウスは続けた。
「奪われた鞄に、小ラズマイトの土地台帳の写しが入っております」
イデアの顔が上がった。
「土地台帳?」
「旧ラズマイト領との境界。村落。水路。廃道。使われなくなった井戸や旧鉱区などをまとめたものです。正式な原本ではありませんが、現地確認のために持ち出しておりました」
「それは困りますわね」
「王領監理局へ戻れば、再度写しを用意することはできます」
「王都まで?」
「はい」
「戻りませんわ」
即答した。
「せっかく小ラズマイトの目前まで参りましたのに、土地の状態を記した資料を盗まれたから王都へ引き返すなど論外です」
「ですが、相手は武装しています」
「こちらにはアルゼルがおります」
「私に話を振るのが早いですね」
アルゼルが穏やかに言う。
「役に立たないの?」
「まさか」
「では決まりです」
「私の意思確認は?」
「わたくし一人で盗賊を追いかけてもよろしいのなら」
「それは認められません」
「なら決まりですわね」
「最近、私の扱い方が随分と上手くなりましたね」
「有能な領主ですので」
そのやりとりを聞いて、クラウスはなおも不思議そうに二人を見比べた。




