13.王家の書記官は川辺に落ちています(下)
クラウスへ保存食を食べさせ、水を飲ませ、しばらく横になってもらった。
身体の冷えも収まり、顔色もかなり戻っている。
とはいえ、足首の腫れは残っている。
「あなたはここにいてくださいませ」
「伯爵閣下まで盗賊を追うおつもりですか」
「土地台帳が必要です」
「しかし――」
「それに」
イデアは表情を引き締める。
「廃道や使われていない坑道まで載っているのでしょう?」
「はい」
「そんなものを盗賊に持たせたままにしておく方が危険です」
人目につかない道。
使われていない建物。
荒れた土地だからこそ、犯罪者に利用されやすい場所もあるだろう。
「取り戻します」
「ならば、私も」
クラウスが立とうとする。
だが、右足へ体重をかけたところで顔を歪めた。
「無理ですわ」
「ですが、文書を奪われたのは私の失態です」
「クラウス・ハルフェン」
「はい」
「これは領主命令です。休んでいなさい」
きっぱり告げる。
クラウスが口を閉じた。
「あなたは負傷者です。わたくしは領主。負傷した役人を連れ回して悪化させる方が問題でしょう」
「……承知いたしました」
「荷車とマルタをお願いします。危険があれば、逃げてくださいませ」
マルタは川辺で悠々と草を食べている。
少なくとも、今のところは最も落ち着いていた。
「参りますわよ、アルゼル」
「はい」
「足跡は分かる?」
「すでに見つけています」
「早いですわね」
「優秀ですので」
「顔の話はしておりませんわよ」
「まだ何も言っていませんが」
◇
森へ入れば、盗賊の痕跡は思った以上に分かりやすかった。
折れた枝。
踏み荒らされた草。
馬の蹄跡。
ところどころには荷物から落ちたらしい干し肉まで転がっている。
「追われるとは思っていなかったようですね」
「クラウスが川へ落ちて、そのまま死んだと思ったのでしょう」
「随分と雑ですわね」
「盗賊に几帳面さを期待してはいけません」
やがて、風に煙の匂いが混じった。
アルゼルが足を止める。
「います」
木々の隙間から、小さな焚き火が見える。
三人の男が座っていた。
近くの木には、一頭の馬がつながれている。クラウスのものだろう。
男たちは鞄を開け、中身を地面へ広げていた。
「何だ、紙ばかりじゃねえか」
「役人だったんだろ」
「こんなもの燃やせ。足がつく」
一人が冊子を持ち上げる。
イデアの目が細くなった。
「お待ちなさい!」
茂みから飛び出すと、男たちが一斉に振り返った。
「その冊子を火へ入れたら、許しませんわよ!」
「誰だ、お前」
「イデア・ラズマイト」
男たちが顔を見合わせた。
「ラズマイト?」
「ええ。その台帳に記されている土地の領主ですわ」
一番大柄な男がイデアを上から下まで眺めた。
「伯爵様が、こんな山の中を男一人連れて歩いてるのか」
「こちらは護衛ではありません」
アルゼルが隣へ出る。
森を進む間に、彼は大きな外套だけは羽織っていた。白い翼はその下へ押し込まれているが、当然ながら消せるものではない。
背中は不自然なほど大きく膨らんでいた。
盗賊の一人がそこへ目を留める。
「……何だ、そいつ」
「何とは?」
「背中だよ。でけえ荷物背負ってんな」
別の男もアルゼルを眺めた。
「羽毛か?」
イデアの嫌な記憶が蘇った。
王都を出る時に使った、あの言い訳である。
「ええ。まあ……」
仕方なく答える。
アルゼルがゆっくりイデアへ顔を向けた。
「まだその設定を使うのですか?」
「今は黙っていて」
盗賊たちが顔を見合わせる。
「なるほどな。羽毛商か」
「……羽毛商」
アルゼルが小さく繰り返した。
「高そうだぞ、あれ」
「白い羽毛なら都じゃいい値がつくんじゃねえか?」
一人がにやりと笑う。
「伯爵様に羽毛商。今日は当たりだな」
アルゼルの微笑みが、ほんの少しだけ固くなった。
「イデア」
「何ですの」
「私は今、羽毛商として略奪対象に加えられました」
「翼を見られるよりましでしょう」
「私自身より、背中の羽毛の方に価値を見出されています」
「そこを気にしますの?」
「由々しき問題です」
盗賊の一人が鼻で笑った。
「顔だけは随分と綺麗な羽毛屋だな」
アルゼルの表情がわずかに戻る。
「ほら」
「何が『ほら』ですの?」
「見る目はあるようです」
「その直前まで羽毛の値段しか見ておりませんでしたわよ!」
別の男が肩をすくめる。
「でも細いな。背中の羽毛の方が、本人より立派に見えるぞ」
アルゼルの微笑みが、また少し深くなる。
「細い」
「そこですの?」
「最近よく言われますので」
「気にしていたのね……」
「顔については高く評価されましたが」
「『顔だけ』とおっしゃっていましたわよ」
「重要なのは評価された部分です」
「都合よく切り取らないで!」
盗賊たちは、何を言い合っているのか分からないという顔をしていた。
「……まあ、護衛じゃねえならどうでもいい」
一人が鼻で笑う。
「羽毛背負って歩いてるだけの商人だろ?」
「私は羽毛商では――」
「アルゼル」
「……はい」
イデアに止められ、アルゼルは不満そうに口を閉じた。
盗賊たちはその様子を見て、ますます警戒を解いたらしい。
「見たところ、武器も持ってねえ」
「背中の羽毛だけ置いていけ。高く売れそうだ」
アルゼルの微笑みが、わずかに深くなった。
「イデア」
「何ですの」
「私より翼の方が高く評価されています」
「今そこを気にするの!?」
「非常に不本意です」
「では、ご自分の価値はご自分で証明なさって!」
「よろしいでしょう」
アルゼルが穏やかに笑う。
その意味を、盗賊たちはまだ理解していなかった。
一人が短剣を抜いた。
残る二人も立ち上がる。
その瞬間、イデアの背筋へ緊張が走った。
ドワーフたちとは違う。
彼らには、話し合う理由がない。
「アルゼル」
「はい」
「本当に大丈夫?」
「もちろんです」
「目は開けないでくださいませね」
一瞬。
橋の上で見た黄金の瞳が蘇る。
アルゼルは少しだけ間を置き、
「承知しました」
閉じた瞳のまま、一歩前へ出た。
最初の男が斬りかかる。
だが。
短剣が届くより先に、アルゼルの手が男の手首を掴んだ。
「な――」
軽くひねる。
短剣が地面へ落ちた。
そのまま男の身体を持ち上げる。
「え?」
本人が一番驚いた声を上げた。
「人へ刃物を向けるのは、おすすめしません」
「下ろせ!」
「では」
アルゼルは本当に下ろした。
ただし。
焚き火から十分離れた柔らかい茂みの中へ。
「うわっ!」
男が枝葉の中へ沈む。
残り二人が固まった。
「……おまえ、なにもんだ」
「私は神の直系——」
「そこで名乗らなくて結構です!」
「事実を訂正しようかと」
次の男が剣を構えた。
「来るな!」
「ならば武器を置いてください」
「誰が――」
アルゼルの翼が、外套の内側で一度、大きく開いた。
その瞬間。
背中を覆っていた大きな外套が、内側から押し広げられるように膨らみ、ばさりと激しく翻った。
巻き起こった風が、地面の落ち葉を一斉に舞い上げる。
「うわっ!」
男が顔を背け、反射的に腕で目を覆った。
そのため、外套の内側で何が動いたのかまでは見ていない。
アルゼルはその隙に間合いを詰め、男の手から剣だけを取り上げた。
「返せ!」
「嫌です」
「子供の喧嘩みたいになっておりますわよ!」
イデアが呆れている間に、アルゼルの翼は再び背中へ畳まれた。
ただし、勢いよく広げたせいで羽根の並びが少し乱れている。外套も元通りには落ち着かず、白い翼を包み込むように背中で不自然に膨らんでいた。
アルゼルは気にした様子もなく、奪った剣を片手に持つ。
男がようやく腕を下ろした時には、妙に背中の大きな羽毛商の姿だけがそこにいた。
最後の一人は、すでに逃げていた。
「待て!」
仲間の声など聞かない。
クラウスの馬へ飛び乗ろうと走る。
だが。
途中で、ばつん、と音がした。
男の足元へ絡んだ蔓が切れる。
「うおっ!?」
大きく前のめりに転倒した。
そのまま斜面を少し転がり。
浅い泥溜まりへ頭から突っ込む。
泥の跳ねる音のあと、静寂が訪れる。
イデアは瞬いた。
「……今のは?」
「私ではありません」
アルゼルが答える。
「では」
「おそらく、あなたの加護でしょうね」
「わたくし、まだ斬られておりませんけれど」
「剣を向けられた時点で、十分な災いと判断されたのでしょう」
「先払いまで始めましたの?」
「そこまで都合のよいものではありませんよ」
泥まみれの盗賊が顔を上げる。
その鼻先へ、枝から木の実が落ちた。
こつん。
「痛え!」
イデアは少しだけ考えた。
「……今日は調子がよいようですわね」
「だからといって、盗賊へ近づかないでください」
アルゼルはいつの間にかイデアの前へ立っていた。
「分かっております」
「本当に?」
「昨日から随分と心配性ですわね」
「あなたが心配させるのでしょう」
さらりと言われ、イデアは返事に一瞬詰まった。
「……と、とにかく! 台帳ですわ!」
◇
三人を縄で縛り、奪われた荷物を回収する。
クラウスの財布。
剣。
旅行鞄。
王領監理局の書類。
そして、
「ありましたわ」
イデアは厚い冊子を両手で持ち上げた。
小ラズマイトの土地台帳の写し。
火へ投げ込まれる寸前だったため、端が少し煤けている。
だが、中身は無事だ。思わずその場で開きたくなった。
「イデア」
「何です?」
「まずクラウスへ返すべきでは?」
「……そうでしたわね」
危うく自分のもののように読み始めるところだった。
「ですが少しだけ」
「駄目です」
「一頁」
「書記官本人の確認が先です」
「妙なところで堅いですわね」
「あなたが紙を大切にするようになったので、私も学びました」
「それを言われると弱いですわ……」
ほかにも盗賊たちの荷物から、複数の財布や装飾品が出てきた。
今回が初めてではないらしい。
「近くの町へ引き渡す必要がございますわね」
「そうですね」
「時間がかかるかしら」
「放置するよりはよいでしょう」
「ええ」
借金返済を急ぐからこそ。
自分たちだけの都合で犯罪者を見逃すわけにはいかない。
イデアは素直に頷いた。
◇
川辺へ戻ると、クラウスは荷車の脇へ座って待っていた。
三人の盗賊と奪われた馬。
そして戻ってきた鞄を見るなり、目を見開く。
「……本当に取り戻してきたのですか」
「ええ」
イデアは土地台帳を差し出す。
「中身を確認してくださいませ」
クラウスは受け取ると、すぐに頁を確認し始めた。
一枚。また一枚。
慎重に最後までめくり、
「欠損はありません」
そう言って深く息を吐く。
「ありがとうございます、伯爵閣下」
「わたくしの領地を調べるための資料ですもの。なくされては困ります」
「しかし、伯爵御本人が盗賊を追うとは思いませんでした」
「大半はアルゼルが働きましたわ」
「当然です」
アルゼルが胸を張る。
「一人は勝手に転びましたけれど」
「勝手にではありません」
「わたくしの加護でしょう?」
「私が与えた加護です」
「細かいところで所有権を主張しないで」
クラウスは二人を見たが、説明を求めることを諦めたらしい。
「それでは」
書類筒へ手をかける。
「本来お渡しする予定だった文書を」
王家の封蝋を確かめてから蓋を開ける。
中には羊皮紙が数枚。
王家の印。
王領監理局長の署名。
そして、イデア・ラズマイトの名。
「家督継承の承認に伴い、ラズマイト伯爵領――通称、小ラズマイトの管理権を、正式にイデア・ラズマイト伯爵へ移管するものです」
イデアは黙って文面を読む。
すでに分かっていたことだ。
自分がラズマイト伯爵家の当主であることも。
残っている領地が小ラズマイトだけであることも。
それでも。
王家の印が押された文書として目の前へ差し出されると、重みが違った。
「そして私は」
クラウスが続ける。
「移管後の現況確認を行い、王領監理局へ報告するよう命じられております」
「つまり」
「小ラズマイトまで同行いたします」
「その足で?」
「馬なら問題ありません」
クラウスの馬も戻っている。
「途中で悪化したら?」
「その時は申し出ます」
イデアはしばらく彼を見た。
「無理はなさらないと約束できます?」
「はい」
「では、同行を認めます」
「ありがとうございます」
「ただし。途中で倒れたら、今度こそ荷車へ載せますわよ」
「承知しました」
アルゼルが横から口を挟む。
「私が運んでもよいですよ」
「いえ」
クラウスが即答した。
「できれば人として運ばれたいので」
「私も人型ですが?」
「人型と言う時点で、人ではないのでは?」
「……あなた、本当に書記官ですのね」
イデアは妙なところで感心した。
◇
盗賊たちを最寄りの宿場町へ引き渡すと、すでに何件か余罪があったらしい。
クラウスから奪われた金品だけでなく、以前襲われた旅人の物まで見つかったため、町の役人たちは大いに喜んだ。
結果として、イデアたちには、少額ながら捕縛への謝礼が支払われた。
「黒字ですわ」
宿場町を出てから、イデアは銀貨を確かめた。
「随分と早く認めるようになりましたね」
「現金は分かりやすいですもの」
「土地台帳は?」
「金貨以上です」
「では、クラウスを見つけたこと自体がかなり大きな見返りですね」
「水筒の紐が切れた見返りにしては、大きすぎません?」
「その前から溜まっていたものもあるのでしょう」
「橋の分?」
「それとは限りませんが」
因果の収支は、やはり分かりにくい。
ただ。
もしあの時、水筒を落とさなければ。
小川へ寄らなければ。
クラウスを発見できなかったかもしれない。
土地台帳も燃やされていたかもしれない。
「……不幸になるのも忙しいですわね」
「普通はそのような感想にはなりませんよ」
◇
その夜から、旅人は三人になった。
イデア。
アルゼル。
そして、クラウス・ハルフェン。
クラウスは自分の馬へ乗り、イデアとアルゼルは荷車へ座る。
夕暮れの街道を進みながら、クラウスが口を開いた。
「伯爵閣下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「なぜ、ご自身で小ラズマイトへ?」
「当主だからですわ」
「通常なら、先に代理人を派遣します。執事や家令、少なくとも領地経営の経験がある者を」
「派遣できる方がおりませんの」
イデアは前を向いたまま答えた。
「屋敷と一緒に、皆様の働く場所も失いました。元使用人の方々には補償を渡して、別の勤め先を探していただいております」
「補償を?」
「ええ」
「伯爵閣下ご自身の資金がほとんど残らないと分かっていて?」
「分かっておりました」
「なぜ」
「わたくしの屋敷で働いていた方々ですもの」
イデアは手綱を握る。
「家を失ったのは、わたくしだけではありません。使用人の方々も、同じ日に職と住居を失いました。当主であるわたくしだけが残った金を抱えて逃げるわけにはいかないでしょう」
「その結果、領地再建へ使える資金まで減った」
「減りましたわね」
「後悔は?」
「ございません」
即答した。
クラウスは少し黙った。
「甘い判断だと思われます?」
「書記官として申し上げるなら、資産を温存すべきだったと考えます」
「でしょうね」
「ですが」
クラウスは馬上から前を見たまま続けた。
「その甘さを向けられた者は、救われることもあるでしょう」
イデアは横を見る。
「褒めておりますの?」
「事実を述べただけです」
「アルゼルと似た言い方をなさいますのね」
「私は、あの方ほど自身の容姿について言及しません」
「そこは大きな違いですわ」
御者台の隣から声がした。
「聞こえていますよ」
「聞かせておりますもの」
「クラウスまで、随分早くこちら側へ来ましたね」
「こちら側とは?」
「私を軽く扱う側です」
「初対面からご自身を高位の天使と説明なさる方へ、どう接するのが正解なのか判断しかねています」
「敬うのが正解です」
「却下ですわ」
「なぜイデアが答えるのです?」
◇
それから三日。
奇妙なほど、大きな災難は起こらなかった。
イデアの靴紐が切れた。
立ち止まって直している間に、少し先で道の一部が崩れていることへ気づいた。
宿で出された料理が、イデアの皿だけ異様に塩辛かった。
謝罪として宿代が安くなった。
マルタが荷物袋から干し果物を盗んだ。
追いかけた先で、使われなくなった旧道を見つけた。クラウスが土地台帳を確認すると、その道は小ラズマイト方面へ続く近道だった。
「小さくなりましたわね」
イデアが言う。
「何がです?」
「不幸も、見返りも」
「平和でよいでしょう」
「ええ」
イデアは少し笑った。
何も起こらないわけではない。
だが、大きなものを失わなくても。
少し困って。少し得をする。
この程度なら、悪くない。
◇
そして。
王都を出てから十二日目の朝。
山道を抜けた先で、視界が一気に開けた。
「伯爵閣下」
クラウスが馬を止める。
「こちらです」
イデアもマルタを止めた。
御者台から立ち上がる。
丘の下に、大地が広がっていた。
「……ここが」
声が、自分でも分かるほど小さくなった。
「小ラズマイト」
はじめて見る領地は、荒れていた。
事前に聞いてはいた。
土地は痩せている。
収穫は少ない。
人も減っている。
価値のない辺境。
何度もそう説明された。
それでも、実際に見るのとは違った。
大地は乾き、緑が少ない。
細い川筋が見えるが、水量は乏しい。
畑には土がむき出しになった場所が多く、ところどころに枯れた作物の茎が残されている。
遠くには、小さな家々が集まっていた。
屋根が傾いているものもある。
さらにその外れに、石造りの古い建物が見えた。
尖塔の一部は崩れ、壁にも蔦が絡みついている。
「教会?」
イデアが呟く。
「現在は使われていないようです」
クラウスが土地台帳を開く。
「記録上は、旧礼拝施設となっています」
その時。
隣で、アルゼルの翼がわずかに動いた。
「アルゼル?」
彼は瞳を閉じたまま、丘の下を見ている。
「どうかなさいましたの?」
「少し、覚えがあります」
「何を?」
アルゼルはしばらく黙った。
風が吹く。
乾いた土の匂いが運ばれてきた。
「この土地です」
「来たことがございますの?」
「私自身が地上へ来た、という意味ではありませんが」
アルゼルは地面の奥に残るものを探るように、静かに顔を上げた。
「かなり昔、この辺りは父と我々七十二柱へ祈りが集まる場所のひとつだったようです」
イデアはゆっくり彼を見る。
「……今、何と?」
「古い聖地です」
「どうして、到着してから思い出すの!」
「何百年も前の話ですよ。人の祈りもほとんど絶えていますし、土地の姿も随分変わっています」
「領地へ着いて最初に知らされる情報ではありませんわ!」
「私も先ほど気づいたのです」
アルゼルは丘の下を見渡す。
「神性も、かなり薄れていますね」
「それは、土地が荒れていることと関係が?」
「あるでしょう」
断言はしなかった。
「かつて神性によって土地へ還っていたものが、長い間失われたのでしょう。もちろん、すべての原因がそれだけとは限りませんが」
「……つまり」
イデアは眼下を見た。
借金。
痩せた土地と水の乏しい畑。貧しい村。
そして、忘れられた聖地。
調べることが、またひとつ増えた。
「伯爵閣下」
クラウスが静かに声をかける。
「参りますか?」
イデアは少しだけ息を吸った。
ここには人がいる。
ラズマイト家が何もしなかった間も。自分が、家督を取り戻すため奔走していた間も。
水を汲み、畑を耕し、家族を養い、生きてきた者たちがいる。
歓迎されるとは限らない。
むしろ、恨まれている可能性の方が高いだろう。
「ええ」
イデアは御者台から降りた。
「参りましょう」
丘の下では、こちらへ気づいたらしい村人たちが、少しずつ集まり始めている。
「アルゼル」
「はい」
「この土地」
イデアは荒れ果てた小ラズマイトを見つめた。
「黒字にできるのでしょうね?」
アルゼルは、いつもの自信に満ちた微笑みを浮かべる。
「私を誰だと思っているのです?」
「不幸を止められず、橋の安全確認にも失敗した天使」
「もう少し良いところを思い出してください」
「では、働きを見てから考えますわ」
「厳しいですね」
イデアは小さく息を吐き。
一歩、丘を下り始めた。
「まずは」
エメラルドの瞳が、村を真っ直ぐ見据える。
「この土地が、どれほど赤字なのか。全部確かめますわよ」
「そこからですか?」
「収支も分からずに、黒字になどできませんもの」
乾いた風が、金色の髪を揺らした。
その後ろを、白い翼を持つ天使と、王領監理局の書記官がついていく。
小ラズマイト再建。
その最初の日が、始まろうとしていた。




