14.新しい伯爵様は、秋の税を取りません
丘を下りるにつれ、小ラズマイトの様子がはっきりと見えてきた。
畑は乾いていた。遠目には休耕地かと思ったが、近づけば、ところどころに細い麦の茎が残っている。作物を植えていないのではない。植えたものが、満足に育たなかったのだ。
土は白っぽくひび割れ、風が吹くたびに細かな砂が舞い上がる。
用水路らしき溝はある。だが、水は流れていない。
少し先では井戸の周囲に桶を持った人々が並び、一杯ずつ慎重に水を汲んでいた。
家々も傷んでいる。
屋根板は剥がれ、壁には補修した跡がいくつも見える。煙突から煙が上がっている家は、村全体の半分にも満たなかった。
イデアは御者台で手綱を握ったまま、唇を引き結んだ。
王都で見た書類には、収益の乏しい土地と書かれていた。
官吏からも、ほとんど価値のない領地だと説明された。
けれど。
価値がない土地などではない。
ここで暮らしている人間がいる。
痩せた土を耕し、少ない水を分け合い、毎年冬を越してきた人々がいる。
帳簿の上では赤字を示す数字でしかなかったものが、今は人の暮らしとして目の前に広がっていた。
「伯爵閣下」
馬に乗って並走しているクラウスが、小さく呼びかけた。
「間もなく村へ入ります」
「分かっておりますわ」
「緊張なさっていますか?」
「しておりません」
即答した。
その直後、自分が手綱を強く握りすぎていることに気づく。
隣に座っていたアルゼルが、閉じた瞳のまま口元を緩めた。
「緊張していますね」
「しておりませんったら」
「では、なぜ先ほどから同じ場所を三度も見ているのです?」
「領地の状態を念入りに確認しているだけですわ」
「井戸の隣にいる山羊を?」
「家畜の数だって重要でしょう!」
当の山羊は、近づいてくる荷車をじっと見つめていた。
やがて興味を失ったらしく、道端の枯れ草へ顔を戻す。
「山羊には歓迎されていないようですね」
「あなたはマルタにも警戒されていたでしょう」
「マルタの美的感覚には以前から疑問があります」
名前を呼ばれたマルタが鼻を鳴らした。
反論したように聞こえた。
その横で、アルゼルが外套の襟元を直す。
小ラズマイトへ近づく少し前から、彼は再びあの大きな外套を羽織っていた。
背中の翼は消せない。強く畳み、その上から布を被せているだけなので、どう見ても背中が不自然に膨らんでいる。
王都を出てから何度も苦労した姿だった。
「アルゼル」
「はい」
「念のため申し上げますけれど、村へ入ってから翼を動かさないでくださいませね」
「分かっています」
「大きく伸びをするのも禁止です」
「窮屈なのですが」
「我慢してください」
「羽根が曲がったら?」
「あとで整えて差し上げますから」
アルゼルが少し考えた。
「では我慢しましょう」
「そこは素直ですのね」
「手入れまで含まれるのであれば」
「余計な条件を見つけないでくださる?」
クラウスが馬上から二人を見る。
「伯爵閣下」
「何でしょう」
「その外套で、本当に隠れているのでしょうか」
イデアはアルゼルの背中を見た。
大きい。
非常に大きい。
人間一人が背負う荷物として見ても、かなり不自然だ。
「……見えなければよいのです」
「形はかなり見えていますが」
「見えているのは外套ですわ」
「そういう意味では」
「クラウス」
「はい」
「村へ着く前からわたくしの心を折らないでくださいませ」
「失礼いたしました」
クラウスは素直に引き下がった。
その隣でアルゼルが言う。
「以前は、上質な羽毛という説明でしたね」
「今、その話を思い出させないで」
「盗賊からは羽毛商にまでされました」
「あなたが余計なことをおっしゃるからでしょう」
「今回は何という設定に?」
「聞かれなければ何も言いません」
「賢明ですね」
「あなたのせいで学習したのですわ!」
◇
村の入口には、二十人ほどが集まっていた。
老人。
女性。
痩せた青年。
母親の後ろからこちらを覗く子供。
農具を手にしたままの者もいる。
歓迎の花も、音楽もない。旗さえなかった。
そもそも、新しい領主を迎える準備などしていなかったのだろう。
王家から連絡が届いていたとしても、いつ来るのかまでは分からなかったはずだ。
荷車が近づくにつれ、村人たちの視線が動いた。
最初にクラウスを見る。
衣服へ縫いつけられた王領監理局の記章に気づいたらしい。
次にイデア。
旅の埃に汚れてはいるが、金髪と緑の瞳、それに立ち居振る舞いまでは隠せない。
最後にアルゼル。正確には、その背中。
何人かが明らかに首を傾げた。
子供の一人が、母親の服を引く。
「母さん、あの人、背中すごい」
聞こえた。
イデアは聞こえなかったことにしたかった。
「大きな荷物だねえ」
「何が入ってるんだろ」
小声まで聞こえてくる。
アルゼルがイデアへ顔を寄せた。
「注目されていますよ」
「分かっています」
「説明しますか?」
「しなくて結構です」
だが。
村人の中から一人の老人が進み出た時、その視線も一度だけアルゼルの背中で止まった。
六十歳ほど。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、白髪交じりの髪は短い。身体は決して大きくないが、長年畑仕事を続けてきた者らしい厚い手をしていた。
「村長のオルド・ベックと申します」
男はイデアの前で片膝をつこうとした。
「そのままで結構です」
イデアが止める。
オルドは中途半端な姿勢で動きを止めた。
「ですが、領主様の御前ですので」
「膝をつかせるために参ったのではありませんわ」
イデアは自分から一歩近づく。
「イデア・ラズマイトです。本日より、正式にラズマイト伯爵領の管理を引き継ぎます」
「承知しております」
返事は淡々としている。
「王家からの連絡は?」
「十日ほど前に、隣の王領から役人が参りました。新しい伯爵様が、近くこちらへ来られると」
「そう」
「まさか、ご本人が荷車で来られるとは思いませんでしたが」
「わたくしも、少し前までは思っておりませんでしたわ」
人生には予定というものがある。
隕石は、それを尊重してくれない。
「これまで、ラズマイト家の者がこちらへ来たことは?」
「二十年ほど前に、先代伯爵が一度」
「父が?」
初耳だった。
「まだお若い頃でした。半日ほど滞在され、日が暮れる前には帰られました」
「それ以降は?」
オルドは少しだけ間を置いた。
「徴税人が参りました」
「どのくらいの頻度で?」
「年に二度。春と秋に」
「……それだけ?」
オルドは答えなかった。
その沈黙で十分だった。
領主家から来るのは、税を取りに来る者だけ。
何かを直すためでも、困り事を聞くためでもない。
税を取るためだけに、年に二度。
クラウスが馬から降りた。
「王領監理局書記官、クラウス・ハルフェンです。管理権移管に伴う現地確認を行います」
「王都のお役人様まで」
オルドだけではない。村人たちの間にも緊張が走った。
クラウスはそれに気づいたらしい。
「今日は徴税や取り調べのために来たのではありません。新当主が現地へ到着し、実際に管理を開始したことを確認するためです」
村人たちの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
その反応を見て、イデアの胸が重くなった。
領主が来る。
役人が来る。
それを聞いた人々が真っ先に考えるのが、助けではない。
何を取られるのか——それだけなのだ。
「オルド村長」
「はい」
「まず、村の現状を教えてくださいませ。人口。食料。水。畑。家畜。病人。それから、冬を越すために必要なもの」
オルドがイデアを見る。
「本日中に、すべてを?」
「まさか。正確に調べるには時間が必要でしょう。今日は分かる範囲で結構です。明日から、わたくし自身でも確認いたします」
「伯爵様ご自身で?」
「領地を見に来たのですもの。見ないでどうしますの?」
オルドは何も答えなかった。
代わりに。
「その前に」
低い声で尋ねた。
「今年の税について、お伺いしてもよろしいでしょうか」
周囲の空気が再び張りつめた。
「税?」
「春の分は、すでに納めております」
「誰へ?」
「ラズマイト家の徴税人へ」
イデアの眉が寄る。
「いつですの?」
「二月ほど前です」
その頃、ラズマイト家を事実上動かしていたのは、まだ継母だった。
大半の領地を失い、借金を積み上げ。
ろくに小ラズマイトへ人を寄越さなくなっても、税だけは取っていたらしい。
「春税として、何を納めましたの?」
「麦を十八袋。それから銀貨を」
「ほかには?」
オルドが少し迷う。
「徴税人の滞在費を」
「……滞在費?」
「決まりだと言われました」
イデアはクラウスを見る。
クラウスは即座に首を横へ振った。
「王国法にも、王領監理局が把握しているラズマイト家の徴税規程にも、そのような定めはありません」
村人たちがざわめく。
オルドの表情はほとんど変わらなかった。
「決まりがあるかどうかを、わしらには確かめられませんので」
その一言に、イデアは何も返せなかった。
文字を読める者がいたとしても、王都の法令を確認する方法がない。
領主家から来た人間が「規則だ」と言えば、従うしかない。
「領収書はございますの?」
「あります」
オルドが懐から折り畳んだ紙を取り出した。
何度も開いたのだろう、端は擦り切れている。
クラウスが受け取り、目を通す。
表情が少しずつ険しくなった。
「ラズマイト伯爵家代理人の印章があります」
「内容は?」
「麦十二袋と銀貨のみです」
イデアは黙った。
「……十二?」
「はい」
「実際には十八袋」
「村長のお話が正しければ」
「滞在費も?」
「ありません」
麦六袋。
それに、規則にも記録にもない徴税人の滞在費。
村人たちが差し出したものの一部が、帳簿の外へ消えている。
「横領ですわね」
イデアの声が冷えた。
「可能性は非常に高いでしょう」
クラウスが頷く。
「代理人の名も残っています。王都へ戻り次第、監理局から照会できます」
「お願いいたします」
「承知しました」
オルドは二人のやり取りを黙って見ていたが、やがて再び尋ねる。
「それで……秋の税は、どの程度になりますか」
イデアは村人たちを見る。
痩せた頬。
擦り切れた服。
まだ収穫の時期でもないのに、家の軒先に置かれた穀物袋には底が見えているものもある。
来年以降の税を、今ここで決めるつもりはない。
畑の広さも、収穫量も。人口さえ正確には分かっていない。
だが、今年の秋についてだけは、目の前を見れば自ずと答えが出ていた。
「今年の秋税は徴収いたしません」
静寂が広がる。
クラウスが顔を上げた。
オルドも、初めてはっきりと表情を変える。
「……何と?」
「今年の秋、ラズマイト家は小ラズマイトから税を取りません」
「伯爵閣下」
クラウスが低い声で呼ぶ。
「領主判断による一時的な減免は可能です。ただし、残存債務の返済計画にも影響します」
「分かっていますわ」
「春税についても、今回確認できた記録だけでは領主家へ実際に入った額が判然としません」
「それも含めて調べます」
税を取らなければ、イデア自身が使える金も減る。
借金返済へ回す金など、なおさら少なくなる。
それでも。
「この状態で秋にも取り立てれば、冬を越せない家が出ます」
イデアは言った。
「冬を越せなければ、来年畑を耕す者も減ります。畑が駄目になれば、その次の税もなくなる」
これは慈善ではない。
「領地を潰して借金だけ返そうとするなど、本末転倒ですわ」
クラウスは黙って聞いている。
「来年以降は、村の状態を調べた上で決めます。春と秋の二度という仕組みそのものも、必要なら見直します」
「税を……変えるのですか?」
オルドが尋ねる。
「変えるかどうかを決めるために、まず調べますの」
今までのイデアなら、決められた数字をそのまま帳簿へ書いたかもしれない。
けれど、もう知らないまま他人へ任せるつもりはなかった。
「それから」
イデアは村人たちへ視線を向ける。
「今後、税を取ることになっても、そのすべてを借金返済へ回すつもりはございません」
何人かが顔を上げた。
「井戸を直す。水路を使えるようにする。道や建物を直す。冬の備蓄を残す。まず、この土地が来年も生きていけるように使います」
「では、伯爵様の借金は?」
「必要なものを確保したあと、余った分から返します」
簡単に言えば、返済は遅くなる。
「税を取っておきながら、全部王都へ持っていってしまえば、ここには何も残りませんでしょう?」
「……ええ」
「それでは五年後までに借金を返せても、その翌年に領地が死にますわ」
そんな経営は黒字とは呼べない。
クラウスが手帳を開き、何かを書き込む。
「今年秋の徴税停止。伯爵権限による一時的減免として記録します」
「お願いいたします」
オルドはまだ信じ切れない顔をしていた。
当然だろう。
言葉だけなら、何とでも言えるのだから。
「ただし」
イデアは続けた。
「何もしなくてよいという意味ではありません」
「では、何を?」
「教えてくださいませ」
「何をです?」
「全部です」
村を見回す。
「誰が何人住んでいるのか。誰が何を作れるのか。どの畑が使えるのか。どの井戸が枯れているのか。壊れた水路はどこなのか。家畜は何頭いるのか。冬の食料がどれだけ足りないのか」
イデアはひとつずつ指を折る。
「それから、病人。働けない方。修理が必要な家。使われていない建物。昔は使っていたのに、今は捨てられている場所」
「随分と多いですな」
「ええ」
「全部調べるおつもりで?」
「そのために紙を山ほど持ってきましたもの」
橋から落ちても守り抜いた紙である。
オルドは何とも言えない顔になった。
「隠し事をしたら?」
「困ります」
「罰するのではなく?」
「隠されれば計算を間違えます。計算を間違えれば領地が潰れます」
イデアはきっぱりと言った。
「わたくしも困りますし、皆様も困るでしょう?」
オルドの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったわけではない。
ただ、予想していなかった答えだったらしい。
「ひとつ、よろしいですか」
「何でしょう」
「なぜ、そこまでなさるのです」
「そこまで?」
「税を止める。村を調べる。井戸も道も直すとおっしゃる」
オルドの声に怒りはなかった。代わりに、深い疲れがあった。
「これまでにも、助けると言った者はおりました」
誰も話さない。
「井戸を直す。道を造る。冬の食料を送る。そのたびに、村の者は少しだけ期待した」
オルドがイデアを見る。
「ですが、一年も経たずに皆いなくなる。王都へ戻り、報告書には努力したと書く。こちらに残るのは、途中まで掘られた溝と、使い方の分からん道具だけです」
村の空気が重くなる。
「一年だけ善人のふりをされるのが、一番困る」
領主へ向ける言葉としては、かなり率直だった。
クラウスもわずかに息を呑む。
けれど、イデアは腹を立てなかった。
「もっともですわ」
オルドの眉が動く。
「わたくしが本当に残るかどうか、今日ここで証明することはできません。口で何を言っても、これまでの方々と同じですもの」
「では」
「五年後に判断してくださいませ」
「五年?」
「わたくしには、五年で借金を返さなければならない事情があります」
村人たちがざわめく。
「失敗すれば、ここを維持できません。成功すれば、ラズマイト領として残せる」
「その間、この村で金を稼ぐと?」
「ええ」
イデアは認めた。
オルドがわずかに目を細める。
「この村には、きちんと利益を生んでいただきますわ」
「やはり」
「当然でしょう?」
イデアは胸を張った。
「作物を育てる。何かを作る。外から人を呼ぶ。売れるものがあるなら売る。そうしなければ、借金など返せませんもの」
「では、結局は——」
「ただし」
言葉を遮る。
「稼いだものを全部わたくしが持っていくつもりはありません」
目の前には、荒れた大地が広がっている。
水の流れない用水路。
傷んだ家。
少ない備蓄。
痩せた畑。
「ここが稼げる土地になるためには、ここで暮らす方々が生きていなければなりません」
働けないほど飢えさせて。
病人を放置して。
家が壊れても直さず。
井戸が枯れても知らないふりをして。
それで税だけを取る。
「そのような領主は、善人か悪人か以前に、経営者として無能ですわ」
「経営者……」
「わたくしは借金を返したい。皆様は、ここで暮らしていきたい」
イデアはオルドをまっすぐ見る。
「目的が完全に同じでなくても、協力することはできるでしょう?」
しばらく。
誰も何も言わなかった。
やがてオルドが、深く息を吐いた。
「変わった伯爵様だ」
「よく言われますわ」
「褒めてはおりません」
「アルゼルより、よほど分かりやすい褒め方です」
「なぜ私が比較されるのです?」
後ろから声がした。
オルドが初めて、アルゼルを正面から見る。
そして、やはり視線が背中へ向かった。
「ところで」
嫌な予感がした。
「そちらの方は?」
「遠縁の研究者です」
アルゼルが口を開く前に、イデアは即答した。
「まだ何も言っていませんが」
「先に答えただけですわ」
オルドはアルゼルの背中を見る。
「随分と大きな荷を背負っておられる」
「これは――」
「研究資料です」
今度もイデアが先に答える。
「何の?」
「……羽毛の」
言ってしまった。
アルゼルがゆっくり顔を向ける。
「また羽毛ですか」
「ほかに説明しようがないでしょう!」
小声で返す。
オルドが首を傾げた。
「羽毛を、あれほど?」
「非常に研究熱心なのです」
「私は羽毛を研究したことはありません」
「今だけ研究してくださいませ」
「研究とは、そんなに即席で始めるものですか?」
「黙っていれば始まります!」
村人の中から、小さな笑いが漏れた。
子供が母親へ囁く。
「あのお兄ちゃん、羽毛屋さん?」
「研究者です」
アルゼルが反射的に訂正した。
「そこは気になりますのね」
「盗賊に続いて、この村でも羽毛商になるのは避けたいところです」
「……盗賊?」
オルドが聞き返す。
「長い話になりますので、後日にしてくださいませ」
今度は村人たちから、先ほどより少し大きな笑いが起きた。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
管理権の移管に必要な確認は、村の集会所で行われた。
集会所といっても、大きな倉庫の一部を板で仕切っただけの部屋だった。
中央に古い机。
椅子が四脚。
そのうち一脚は、見るからに片方の脚が短い。
「伯爵閣下」
クラウスが先に気づいた。
「その椅子は避けた方がよろしいかと」
「分かっておりますわ」
王都を出てからというもの、イデアは何度、椅子に裏切られただろう。
最も丈夫そうな一脚を選ぶ。
座面を押す。
脚を一本ずつ見る。
少し揺らす。
「随分と慎重ですね」
アルゼルが壁際から言った。
翼を隠しているせいで背もたれのある椅子には座れないため、彼だけ立っている。
「学習したのです」
「椅子へ座るだけで?」
「椅子へ座ることを侮らないで」
イデアはゆっくり腰を下ろした。
ぎし。
音はした。
だが壊れない。
「……勝ちましたわ」
「何にです?」
「運命に」
イデアは満足げに胸を張った。
その瞬間だった。
天井から、何か小さなものが落ちてきた。
ぽとり。正確に、イデアの頭の上へ。
「きゃあっ!」
イデアは勢いよく立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れそうになり、クラウスが咄嗟に机を押さえる。
「何です?」
「蜘蛛! 蜘蛛が落ちましたわ!」
「小さいですよ」
アルゼルは落ち着いていた。
「大きさの問題ではありません!」
「動かないでください」
「髪の中に入りました!?」
「確認します」
アルゼルがイデアのそばへ寄る。
村へ入ってからずっと翼を隠している大きな外套が邪魔にならないよう、少し身体を横へ向けながら手を伸ばした。
長い指が、イデアの金髪をそっとかき分ける。
「どこですの?」
「今、右へ」
「右ってどちらの!?」
「あなたの右です」
「早く取ってくださいませ!」
「あまり動くと逃げますよ」
「それを先に言って!」
イデアはぴたりと止まった。
アルゼルの顔が近づく。
髪へ触れる指先。
すぐそばにある、整いすぎた顔。
瞳はいつも通り閉じられている。
それでも、近い。
必要なことだと分かっているのに、妙に落ち着かない。
「……ありました」
アルゼルが髪の間から小さな蜘蛛をつまみ上げる。
「本当に?」
「ええ」
「ほかには?」
「蜘蛛は一匹です」
「念のため、もう少し確認して」
「承知しました」
アルゼルは再びイデアの髪へ指を入れようとするも、
「や、やっぱり結構ですわ!」
今度はイデアから離れた。
「先ほど確認しろと」
「もう大丈夫です!」
「まだ十分には見ていませんが」
「十分ですったら!」
イデアは自分で髪を整えながら、一歩距離を取った。
そこで、妙に静かなことに気づく。
オルド。
クラウス。
集会所の入口から様子を窺っていた村人たち。
全員が二人を見ていた。
「……何ですの?」
イデアが尋ねると、村人の一人が、遠慮がちに口を開いた。
「領主様と、その方は……ご夫婦で?」
「違います!」
イデアは即答した。
ほとんど反射だった。
「ええ。まだ」
アルゼルが続けた。
室内が静まり返る。
イデアがゆっくりと彼を見る。
「……まだ、とは何ですの?」
「将来の可能性まで否定する必要はないでしょう」
「ございます!」
「なぜです?」
「あなたと、そのような話をした覚えがありませんわ!」
「ですから、まだなのです」
「言葉遊びをしないでくださる!?」
村人たちの間から、堪えきれないような小さな笑いが漏れた。
村の入口で向けられていた硬い視線とは、少し違う。
オルドも口元をわずかに緩めている。
一方、クラウスは手元の書類へ視線を落とし、何も見なかったことにしていた。
「クラウス」
「はい」
「今のやり取りは記録しなくて結構ですわよ」
「その予定はございません」
「即答で安心しましたわ」
「王領監理局の管轄外ですので」
「理由が妙に事務的ですわね……」
オルドが咳払いをした。
「では、そろそろ手続きを始めても?」
「お願いいたします!」
イデアは顔が熱くなるのを誤魔化すように、倒れかけた椅子を直した。




