59.天使の拝観料は、徴収できません
礼務院地方祭祀調査室。
その書記官、セシリア・ノールは、村へ着いたその場で質問を始めようとしたものの、さすがに馬車を降りたばかりの役人を市場の真ん中へ立たせたままにしておくわけにはいかなかった。
イデアはひとまず彼女を廃教会へ案内した。
現地確認まで、残り五日。
朝の市場にはすでに人の出入りがあり、共同秤には昨日から変わらず黄色い札が下がっている。
石畳の端では修繕用の材木が積まれ、廃教会へ続く道では、患者を診療所へ運ぶための荷車と市場へ向かう商人が互いに道を譲っていた。
そのひとつひとつを、セシリアは歩きながらよく見ている。
市場の布屋根。
共同秤。
廃教会脇の月白花の花壇。
出入りする村人。
そして何より、イデアの隣を歩くアルゼルの翼。
彼女は露骨に見つめ続けることこそしなかったが、視線が何度も白い翼へ戻るのを、イデアは横目で確認していた。
「珍しいでしょう?」
「翼を持つ人物が、村人にまったく避けられていない光景は珍しいですね」
「そこですの?」
「翼そのものは見れば分かりますので」
セシリアは淡々と言い、廃教会の入口まで来た。
しかし、そのまま中へ入ろうとはしなかった。
敷居の手前で足を止めると、古びた扉の枠を見上げ、次に壁、床、天井の順へゆっくり視線を巡らせる。それから胸元の銀章へ指を触れたまま、イデアへ尋ねた。
「入る前に確認します。この建物には、入った者の言動、判断、感情、記憶などを制御する術式や呪いが残っていますか」
「ございません……と思いますけれど」
思いがけない質問に、イデアは一度アルゼルを見た。
「少なくとも、わたくしが知る限りでは」
「アルゼル殿は?」
「ありません」
アルゼルはすぐに答えた。
「人の意思を縛るような力は、この建物には残っていません」
「あなた自身が、ここへ入った者の発言へ干渉することは?」
「しません」
「可能ではある?」
セシリアが一段深く尋ねる。
アルゼルはわずかに首を傾けた。
「意思や言葉を直接操ることはしませんし、そのための力を使うつもりもありません。ただ、神性を強く顕せば、人間が圧倒され、判断へ影響する可能性はあります」
イデアが思わず彼を見る。
「できますの?」
「できることと、することは別です」
「先に教えておいてくださる?」
「使う予定がありませんでしたので」
「そういう問題ではございません!」
セシリアは二人のやり取りにも表情を変えず、続けた。
「では、少なくとも本日の聞き取り中は、回答者の判断、感情、記憶、発言へ神性による干渉を行わないこと」
「構いません」
アルゼルの返答には迷いがなかった。
「伯爵閣下にも確認します。この場所に入ることで、普段と違う考えを持つ、特定の言葉を口にできなくなる、あるいは誰かへ逆らいにくくなると感じたことは?」
「ございませんわ」
イデアは今度こそ真面目に答えた。
ここは小ラズマイトへ来た当初から暮らしている場所だ。
雨漏りもした。
壁も崩れかけた。
隙間風も入った。
けれど、少なくとも意思を奪われた覚えだけはない。
「承知しました」
そこでようやくセシリアは敷居を跨いだ。
礼拝堂へ通すと、イデアは修繕された長椅子を勧める。セシリアは書類鞄を脇へ置き、マーサが持ってきてくれた水を一杯だけ飲んだ。
「お茶もお持ちします?」
「水で十分です。ありがとうございます」
言葉こそ丁寧だが、休むつもりはほとんどないらしい。
水杯を置くとすぐ、彼女は鞄から厚い質問票と記録板を取り出した。
羽根ペン。
予備の紙。
礼務院の銀章。
小さな砂入れまで、机の端へきっちり並べていく。
向かいではアルゼルが、礼拝堂の柱へ翼を当てないよう少し斜めに立っていた。イデアはその隣へ腰掛けかけたが、セシリアに視線だけで止められる。
「ラズマイト伯爵閣下にも後ほど質問します。まずはアルゼル殿から」
「わたくしが隣にいてはいけませんの?」
「いてはいけないとは申しません。ただし、回答は本人からいただきます」
「わたくしが代わりに答えると思われております?」
それでも、イデアは少しだけ椅子を引いた。
アルゼルの口元がわずかに上がる。
「珍しく素直ですね」
「あなたへの調査なのですから、邪魔をしないだけですわ」
「では、私が困った時は?」
「ご自分で何とかなさい」
「冷たい」
「始めてもよろしいでしょうか」
セシリアの一言で、二人とも口を閉じた。
◇
「まず、最も基本的な点から確認します」
質問票を開いたセシリアは、正面からアルゼルを見た。
「あなたは、自らを天使であると称していますね」
「ええ」
「その根拠は?」
アルゼルがわずかに首を傾げた。
「私自身が天使だからです」
「本人申告以外の根拠を尋ねています」
「翼では足りませんか?」
アルゼルが片方の翼をほんの少し動かした。白い羽根が重なり合って擦れ、静かな礼拝堂にかすかな音が広がる。
セシリアはそれを見ても、すぐには頷かなかった。
「翼を持つ存在であることの根拠にはなります。天使であることの証明とは別です」
「随分と厳密ですわね」
イデアが感心する。
「翼のある魔物、人工的な変異、呪術による変化、未知の種族である可能性を、見た目だけでは除外できません」
「私を魔物と?」
「可能性を排除するための調査です」
「では父を呼べば——」
アルゼルが言いかける。
「呼びませんわよ」
「呼ばないでください」
イデアとクラウスの声が重なった。
セシリアは構わず質問を続ける。
「神性を示す現象は?」
「必要なら示せます」
「本日は、必要になるまで使わないでください」
「先ほど干渉を禁じられたばかりですからね」
「それとこれは別件ですが、余計な神性を撒かない方が記録しやすいので」
アルゼルが少しだけ不満そうな顔をした。
「では、現段階では?」
セシリアは自分で確認するように書き留める。
「翼を持ち、神性を有すると本人が申告する存在。天使であるとの身分は未確認」
「『高位天使』も加えてください」
「未確認です」
「神の直系です」
「それも未確認です」
アルゼルの笑みが、少しだけ引きつった。
イデアは口元を押さえる。
人間の役所は、天使の自尊心にも平等だった。
「では次です」
セシリアは新しい欄へ移った。
「あなたは、どの信仰に属していますか」
「属していません」
今度はアルゼルが即答した。セシリアの羽根ペンが止まる。
「無信仰という意味ですか」
「そうではありません」
アルゼルは少し考え、言葉を選んだ。
「そもそも、人間のいう宗派へ私たちを当てはめるのが少し違うのです。私は父の子です。それ以上の所属を、人間の宗派名で答えることはできません」
「父とは、神を指しますか」
「ええ」
「名は?」
そこでアルゼルが、ほんのわずかに困ったような笑みを浮かべた。
「私たちは、父を父としか呼びません」
「固有名がない?」
「少なくとも、子である私たちが呼ぶための名は必要ありません」
セシリアの目が少しだけ細くなった。
「地上には、神を示す名や称号が複数あります」
「知っています」
「そのいずれかでは?」
「それはすべて、人間が決めた呼び方です」
アルゼルは穏やかに答えた。
「父を示す言葉は、地上にはいくつもあります。土地が違えば呼び名も変わり、時代が変われば称号も変わる。ですが、それらはすべて人が父を呼ぶためにつけたものです」
そこで少しだけ口元を上げた。
「そのあたりは、礼務院にいるあなたの方がよくご存じなのでは?」
今度はセシリアが黙った。
ほんの一瞬だったが、初めて質問する側が言葉を選ぶ番になった。
「……否定はしません」
「でしょう?」
「得意そうにならないでください」
「正しい説明をしただけです」
「では記録上は、『父と呼称する神性存在の直系を自称。人間側で用いられる神名との対応は未確認』とします」
「自称が多いですね」
「確認前ですので」
「私は自分の父親まで自称扱いされるのですか」
「礼務院の記録上は」
アルゼルが静かに息を吐く。
「人間の制度には、本当に改善の余地がありますね」
「ございません」
即答だった。
役人は、天使にも容赦がない。
◇
「では、信仰の実態について確認します」
セシリアは質問票へ視線を落とした。
「現在この地で、あなた、またはあなたに関係する存在への信仰を理由として、金銭、食料、土地、労働、その他の供物を要求していますか」
「要求していません」
アルゼルは即答した。
「領主が命じていますか」
「命じておりませんわ!」
イデアが反射的に答えた。
セシリアの羽根ペンが、紙へ触れる直前で止まった。アルゼルがゆっくりイデアへ顔を向ける。
「ご自分で何とかしろと言った直後ですが」
「これはわたくしについても聞かれましたでしょう!」
「伯爵閣下」
「……はい」
「後ほど確認します」
「承知しましたわ」
今度こそ黙る。
「アルゼル殿。あなた自身を信仰しない者へ、不運、疾病、貧困、失職、婚姻上の不利益、家畜の不調などを与えることはありますか」
「ありません」
「ラズマイト伯爵閣下の不運は?」
その問いだけは、礼拝堂の空気をわずかに変えた。
アルゼルの笑みが薄くなり、イデアも膝の上で指を組み直した。
「私への信仰とは無関係です」
「では、原因は?」
「彼女には以前から古い因果が絡んでいます。ただし、その由来と内容は、まだ十分に確認できていません」
「あなたにも?」
「ええ」
アルゼルは静かに答える。
「分からないものを、分かったふりで説明するつもりはありません」
セシリアはしばらく彼を見たあと、質問票の端へ小さな印だけをつけた。
「では、別件とします。資料が出た段階で改めて確認を」
それ以上は掘り下げない。
イデアは、無意識に止めていた息を少し吐いた。
役人というものは何でも書きたがると思っていたが、少なくともセシリアは、根拠のない推測まで公文書へ載せる気はないらしい。
「次です。治療を受ける条件として、フィルネア、アルゼル、その他の神格への信仰を求めていますか」
「求めてないよ」
礼拝堂の後方からハンナが答えた。
診療所で薬草を煎じていたらしい彼女は、匂いの染みついた布を腰へ挟んだまま、杖をついて立っている。
「祈って病気が治るなら、あたしが薬草を煎じる必要なんてないからね」
「祈ること自体を否定しますか」
「したい者はすればいい。したくない者へ無理にさせるなってだけさ」
「治療費を払えない場合は?」
「命に関わるなら先に診る。元気になってから払える物で払えばいい。布でも、薪でも、食い物でもね」
「信徒を優先することは?」
「ない」
「多く払える者は?」
「急ぎじゃなければ待ってもらう」
セシリアの羽根ペンがさらさらと動いた。
「信仰と診療の優先順位は分離」
「当然ですわ」
イデアが今度こそ小さな声で言う。
それでも聞こえたらしく、セシリアは顔を上げた。
「その当然が守られているかを確認するのが調査です」
最近、小ラズマイトへ来る役人は、妙に当たり前へ厳しい。
◇
「未成年者だけを集め、保護者のいない場所で教義や宗教契約について教えていますか」
「教義は教えていません」
アルゼルは少し考えてから付け加えた。
「子供たちは、勝手に集まります」
「アルゼル兄ちゃんの目が寝てるか見てるだけだよ!」
開いた扉から、ピムが顔を出した。
「寝ていません」
アルゼルの眉がわずかに動く。
「いつも閉じてる!」
「優美に細めているのです」
「閉じてるよ!」
セシリアがピムへ顔を向けた。
「あなたは、この方から何かを信じるよう命じられたことがありますか」
「ない!」
「食べ物やお金を渡すよう言われたことは?」
「ない!」
「言うことを聞かなかったことで、罰を受けたことは?」
ピムは口を閉じ、真剣な顔で天井を見上げた。
イデアは嫌な予感がした。
「三杯目のお粥を止められた」
「それは食事監督です」
アルゼルがすぐに訂正した。
「宗教的な罰ではありません」
「本当に?」
「食べすぎ防止です」
後ろから来たセラが息子の肩を掴む。
「質問に答えたなら、もう戻りなさい」
「まだ聞かれるかもしれないよ」
「呼ばれたらまた来ればいいでしょう」
「はーい」
ピムが走っていく。
セシリアは何事もなかったように一行書き足した。
「未成年への食事制限あり。保護者異議なし」
アルゼルの口元から笑みが消えた。
「そこまで記録するのですか?」
「事実ですので」
「礼務院の正式記録へ、私が粥を止めたことが残る?」
「食事監督を名乗ったのは、あなたでしょう」
アルゼルは少しだけ黙った。
「肩書とは重いものなのですね」
「今さら気付きましたの?」
「もっと美しい響きだけを受け取れるものかと」
「役職は装飾品ではございません!」
◇
質問票が一枚めくられる。
「地上への滞在についても確認します」
イデアはわずかに姿勢を正した。
アルゼルが地上にいること。
それを、改めて役人から尋ねられる場面は初めてだった。
「あなたが地上へ来たことは、神族側からの命令ですか」
「最初に来たことについては、仕事の一環です」
「現在も、その命令が継続している?」
「そういう形ではありません」
「では、帰還命令は?」
「ありません」
「地上へ長期間留まることに、反対されていますか」
「いいえ」
アルゼルは椅子へ座り直し、翼の端が柱へ触れないよう少しだけ位置を変えた。
「父は、私がいつまでも戻らないことを、むしろ面白がっている節があります」
「面白がる?」
思わずイデアが聞き返す。
セシリアも止めなかった。
「なぜですか」
「父にとっては、私が地上にいる時間など、それほど長くないからでしょう」
「人間の一生ほど滞在しても?」
「父から見れば、そう長い留守ではありません」
あまりにも穏やかな声だった。
だからこそ、イデアの胸へ小さな棘のように引っかかった。
数十年。
それが、長くない。
「あなた自身も同じ考えですか」
セシリアが尋ねた。
アルゼルは、今度はすぐに答えなかった。
閉じた瞳の向こうで何を考えているのか、イデアには分からない。ただ、いつもなら軽く上がっている口元が、少しだけ真っすぐになっていた。
「以前なら」
やがて彼が言う。
「特に疑問には思わなかったでしょうね」
「今は?」
「……好きではありません」
短い答えだった。
イデアが顔を上げる。
アルゼルは彼女を見ている――瞳を閉じていても、それが分かった。
「人間にとっては、その短い時間が、その人のすべてでしょう」
礼拝堂の外から、遠くで木槌を打つ音がした。
「十年も、二十年も、一日ずつ生きる。最初から全部まとめて『短いから構わない』と言うのは、今はあまり好みません」
イデアは何も言えなかった。
自分へ向けて言われたわけではない。
けれど、アルゼルがその考えを嫌うようになった理由のどこかに、自分との日々が含まれている気がしてしまった。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
「神族側から、地上滞在を終えるよう強制する意思は現在確認できない、と」
セシリアは淡々と記録する。
「ほかに、ご家族から何か言われていますか」
アルゼルの口元に、わずかな苦笑が戻った。
「父は、私が一人の女性のそばへ長くいることも面白がっています」
イデアの指が膝の上で止まった。
「一人の女性?」
「質問は私がします」
「ですが」
「伯爵閣下」
「……はい」
「その女性は誰ですか」
セシリアは遠慮なく聞いた。
アルゼルは、ほんのわずかに顔を逸らした。
「イデアです」
分かっていた。
それでも、自分の名前をその文脈で本人の口から聞かされると、胸が一度強く鳴った。
「わたくし?」
「ほかに誰がいるのです」
「言い方が!」
「事実ですから」
「父神は、伯爵閣下との関係について具体的に何か?」
アルゼルの返事が、少し遅れる。
「父は男女関係について、あまり深く考えません」
「具体的には?」
「互いに気にしているなら、娶ればよいだろう、と考える程度には」
「……まあ」
イデアの声が少し低くなる。
「随分と簡単におっしゃる神ですこと」
「女性関係については、父の言葉は参考にしない方がよい」
「実の息子がそこまで?」
「実の息子だから言えるのです」
クラウスが横で小さく咳払いした。
セシリアはさらに一行書き加える。
「その父神の意向を、あなた自身の判断へ影響させますか」
「させません」
今度の返事には、間がなかった。
「父が何を言おうと、イデアの人生を父が決めることはありません」
イデアがアルゼルを見る。
彼の声には冗談も、いつもの自信過剰な響きもなかった。
「あなた自身が何かを望む場合は?」
セシリアが続ける。
ほんの一瞬。
アルゼルの口元から、完全に笑みが消えた。
「同じです」
静かな声だった。
「私がどう思おうと、彼女が望まなければ、それで終わりです」
イデアの胸の奥に、何かが静かに落ちた。
何を。
彼がどう思う可能性を口にしているのか。
そこを考えようとすると、妙に息が浅くなる。
「自由意思を尊重する、と」
「当然でしょう」
「当然が守られない事例はあります」
セシリアはそう言って、次の質問へ移った。
イデアだけが、すぐには気持ちを切り替えられなかった。
◇
「瞳を常に閉じている理由は?」
「私の瞳を見た者が、私へ恋をする可能性が高いからです」
羽根ペンが止まった。
クラウスが眉間へ手を当てる。イデアも思わず額を押さえた。
「本人の主張ですわ」
「事実です」
「過去に確認したことは?」
「何度も」
「全員が?」
「全員とは申しません」
「では、思い込みの可能性は?」
アルゼルは、少しだけ顎を上げた。
「私の顔を見て、その可能性を完全に否定できますか?」
セシリアが彼を真正面から見る。
長い金髪。
整いすぎた顔。
白い衣。
背後に畳まれた翼。
しばらく沈黙してから。
「否定材料は不足しています」
「でしょう」
「なぜ得意そうになさるの?」
「客観的評価です」
「瞳そのものに、精神へ干渉する神性がありますか」
「意思を書き換えるようなものではありません。ただ、見る者へ強く作用する性質はあります」
「抑制は?」
「このように閉じています」
「では、献金、契約、財産寄進、証言、婚姻その他、本人の自由意思が重要となる場面では、今後も瞳を開かないこと」
「普段から開きませんよ」
「規則として書きます」
アルゼルは少し不満そうにしたものの、やがて肩をすくめた。
「自由意思の確認に必要というなら、構いません」
先ほどの父神の話を思い出したのか、その返事だけは素直だった。
◇
「身体の一部を、聖遺物として販売、配布、献納していますか。髪、血、涙、羽根などです」
「していません」
「自然に抜けた羽根は?」
「残ります」
セシリアが羽根ペンを止めた。
「実物として?」
「私は受肉していますから。翼も羽根も身体の一部です」
「抜けた羽根に神性や祝福の力は?」
「ありません」
「現在はどのように扱っていますか」
「見つけたら拾っていますわ」
今度はイデアが口を挟んだ。
「わたくしかアルゼルが。落ちたままにしておくと、誰かが持っていくかもしれませんもの」
「保管は?」
「少し溜まったら、時々燃やしております」
「なぜ?」
「勝手に聖遺物扱いされても困りますでしょう?」
セシリアは納得したように一行書いた。
「本物の抜け羽根であっても、宗教的効能なし」
「ええ」
アルゼルは自分の翼を少しだけ振り返る。
「私から抜けたという事実しかありません」
その時、セシリアが礼拝堂の入口越しに市場を見た。
視線が止まる。
「では」
「何ですの?」
「あちらで販売されている白い羽根は、確認が必要ですね」
イデアが振り返った。
布屋根の下。見慣れない細身の行商人が、白い羽根を何枚も並べている。
店先には木札。
——天使の祝福羽根 一枚銅貨二枚。
数秒、イデアの顔から表情が消えた。
「……いつからですの?」
次の瞬間には立ち上がっていた。
「伯爵閣下」
「参りますわよ!」
「質問はまだ残っていますが」
セシリアも記録板を持って立つ。
「実地確認へ切り替えます」
◇
「こちら、本物の天使様の祝福を受けた羽根です! 病避け、恋愛成就、家畜の安産、畑の豊作!」
「随分と働き者の羽根ですこと」
イデアが店先へ立った途端、行商人の顔が引きつった。
「ラ、ラズマイト伯爵閣下」
「出店の届けは?」
「小さな護符だけですので」
「届けは?」
「……まだです」
「羽根の出所は?」
「天使様がお休みになった場所から拾ったもので」
アルゼルが一枚を手に取った。指先で軸を確かめ、羽弁をなぞる。
「鵞鳥ですね」
「即答ですのね」
「私の羽根とは形も手触りも違います」
「当然でしょうけれど」
「私の方が美しいです」
「いま必要な情報ではございません!」
行商人が慌てて口を挟む。
「私は天使様ご本人の羽根だとは申しておりません!」
ダリオが木札を見る。
「『天使の祝福羽根』とあります」
「祝福を受けた羽根という意味で!」
イデアがアルゼルを見る。
「祝福しました?」
「していません」
「では、偽物ですわね」
「ですが、昔から白い羽根には病避けの言い伝えが」
「それはアルゼルの祝福とは別でしょう」
セシリアも木札へ目を落とす。
「さらに、本物のアルゼル殿の抜け羽根にも、本人の申告では神性的効能はありません」
「本物でも?」
「ありません」
アルゼルが答えた。
「では、どうして燃やすのです?」
「まさに、こうなるからですわ!」
イデアが店先を指した。
行商人は羽根の束を抱き込む。
「私は見物の方を整理しているだけです! 天使様を近くから見られる場所へ案内して、記念に羽根を――」
「見物?」
イデアの眉が動いた。
市場の端には、確かに見慣れない者たちが数人集まっている。
旅人に商人、近隣から来たらしい農夫。
皆、アルゼルの翼を遠巻きに見ていた。
「一人銅貨一枚で、近くからご覧いただけます!」
「私の価値が銅貨一枚?」
アルゼルが不満そうに言う。
「そこではございません!」
「金貨なら?」
「価格の問題でもございません!」
セシリアは、客を並ばせるため地面へ張られた縄まで確認した。
「市場管理側の許可は?」
「皆が見たがるので」
「それは許可ではありません」
イデアは縄の先へ視線を走らせた。
「しかも、廃教会の診療所へ向かう通路まで狭くなっておりますでしょう」
「ですが私は並ばせただけで」
「勝手に道を狭くして、ご自分で作った列を整理して、その手間賃を取るおつもり?」
行商人は答えられない。
「すでに羽根を買った方へは、希望があれば全額返してくださいませ。見物のために払わせた銅貨も同じです」
「羽根には羽根としての価値があります!」
「鵞鳥の羽根として、適正な値をつけ直すなら構いません」
「祝福なしで?」
「当然です」
「売れません!」
「それが本来の商品価値ではなくて?」
行商人は非常に不満そうだったが、周囲の視線に耐えきれず返金を始めた。
その横で、客の一人がおずおずと手を上げる。
「じゃあ、天使様を見るだけなら無料?」
「見世物ではございません」
「見るのも駄目?」
イデアは一度アルゼルを見る。
アルゼルは特に嫌がる様子もなく、肩をすくめた。
「市場の通行を妨げず、本人へ勝手に触れず、仕事や診療の邪魔をしないのでしたら、見るだけまで禁止するつもりはございませんわ」
「祈っても?」
「ご自由に」
「金は?」
「いりません」
「本当に?」
「祈りへ値札をつける理由がございませんもの」
セシリアの羽根ペンが動く。
「アルゼル殿本人を対象とした拝観料徴収なし」
「対象?」
アルゼルが少し不満そうに聞き返す。
「少なくとも、あなたを商品として扱っていないことは確認できました」
「褒められております?」
「行政上は」
「クラウスと同じ言い方ですね」
「同じ役人ですので」
◇
偽の祝福羽根が片づくと、セシリアはそのまま廃教会内の診療所を確認した。
薬草の棚に煎じ薬、包帯。患者のための寝台。
後日、治療費の代わりとして持ち込まれた薪や布も、何を誰から受け取ったのか記録されている。
「治療費が払えない者に、労働を求めることがありますか」
「本人が働けるならね」
ハンナが答える。
「働けない者へは?」
「させない」
「断った場合、治療を止めますか」
「止めない」
「信仰を求めますか」
「求めない」
セシリアは、薬を受け取りに来ていた女性にも同じことを確認した。
「ここで治療を受ける際、フィルネアやアルゼルへの祈りを求められましたか」
「いいえ」
「自分から祈ったことは?」
「あります」
「なぜ?」
「助かったと思ったからです」
「祈らなければ、次に治療してもらえないと思いましたか」
女性は驚いて首を横へ振った。
「まさか。ハンナさんには、祈る前に薬を飲めと言われました」
「言ったね」
ハンナは少しも悪びれない。
「祈りは薬の代わりにならない」
セシリアが記録する。
「信仰と診療行為は、実態として分離」
その後は廃教会脇の花壇へ向かい、月白花についても確認した。
「信仰の有無によって、使用の優先順位を変えますか」
「いたしません」
イデアが答える。
「信仰していない患者にも?」
「必要なら使う」
ガルドンが先に言った。
「フィルネア様の花でも?」
「必要な者に使うことと、そいつが誰へ祈るかは別だ」
セシリアは彼を見て、それからほんの少し頷いた。




