60.恋心は、調査票では確認できません
礼拝堂へ戻る頃には、昼を大きく過ぎていた。
現在、フィルネアへ捧げられているものといえば、村人が感謝の気持ちで置いた形のよい小石くらいで、高価な祭具も金貨もない。
「将来、金銭の寄付が集まる可能性はあります」
セシリアは石をひとつ確認してから言った。
「受け取らない方がよろしい?」
「全面的に禁止する必要はありません。ただし、誰の金で、何のための金かを曖昧にしないことです」
信仰への寄付。
診療への寄付。
市場維持のための金。
領主への贈答。
ひとつの箱へ入れてしまえば、あとから何へ使ったのか分からなくなる。
「宗教寄付を受け取る場合は別会計へ」
クラウスが補足する。
「寄付額によって、診療や市場利用の順番を変えない」
「礼拝堂の修繕は?」
「用途を明示した寄付なら可能です」
「私の衣服は?」
「不要ですわ」
口を挟むアルゼルに、イデアが即答した。
「なぜ?」
アルゼルが心外そうに顔を向ける。
「信じてくださる方のお金で、あなたの服を買うおつもり?」
「私の姿を美しく保つことには、一定の宗教的価値が」
「ありません」
セシリアまで即答した。
「個人の衣服は本人負担です」
「私は貨幣を持っていません」
「夜番、診療補助、防火作業等の労働実績は?」
「あります」
「でしたら、必要に応じて労働対価を検討してください」
アルゼルがゆっくりイデアを見る。
「賃金が出るそうです」
「わたくしより先に?」
「領主報酬も同時に検討すべきですね」
クラウスまで言った。
「どうしてふたつの役所が揃うと、そこだけ意見が一致しますの!?」
◇
結局、まだ金銭の宗教寄付は一枚も受け取っていないため、献金箱を急いで置くことはしなかった。
代わりに、必要になった時のための規則を先に残す。
一、フィルネア、アルゼル、その他の神格を信仰するか否かは各人の自由とする。
二、信仰しないことを理由として、市場、水車、道、仮宿、診療その他の利用を拒まない。
三、祈り、供物、寄付、宗教的な労働は、本人の意思によるものとする。
四、寄付額によって診療や市場利用の順番を変えない。
五、アルゼルの姿、言葉、祝福、羽根、接触、祈祷場所を、本人と管理側の許可なく商品として扱わない。
六、虚偽の奇跡や宗教的効能を表示した商品は、訂正、返金、必要に応じて出店停止の対象とする。
七、金銭による宗教寄付を受ける場合は、領主会計、市場会計、診療に関する会計と分ける。
「七項目」
ダリオが読み返す。
「増えますかな」
「増えるでしょうね」
イデアは疲れたように額を押さえた。
「何か起こるたびに」
「これまでの実績から考えれば」
クラウスが真顔で頷く。
「増える可能性は高いですね」
「そこは否定してくださってもよろしいのよ?」
◇
午後、セシリアは関係者を一人ずつ別に呼び、同じ事柄を違う角度から確認し始めた。
村の代表者と子供たち。
市場を利用する者と労働者に加え、ドワーフ。
アルゼル。
そして最後が、イデアだった。
「わたくし一人で?」
「はい」
「アルゼルは?」
「礼拝堂に残っていただきます。本人の前では答えにくい質問もありますので」
廃教会内の診療所として使っている一角の小部屋で、イデアはセシリアと向かい合った。
机の上には質問票と羽ペンが置かれている。
「アルゼル殿から、信仰を求められたことは?」
「ございません」
「祈るよう命じられたことは?」
「ありませんわ」
「金銭、土地、労働、財産を要求されたことは?」
「ございません」
「身体へ触れられたことは?」
イデアの返答が、一瞬だけ遅れた。
「……救助の際には」
「具体的に」
「落ちかけた時に腰を支えられたり、泥から引き上げられたり、荷車が傾いた時に抱えられたり……」
思い出すたびに、妙に近かった距離まで一緒に蘇る。
イデアは無意識に背筋を伸ばした。
「頻度が高いですね」
「わたくしの不運が多いのです!」
「救助以外では?」
「月白花を咲かせる際に、手を繋いだことはございます」
「拒否できる状況でしたか」
「その時はハンナの命が関わっておりましたから……」
「完全に自由な状況ではなかった、と」
セシリアの筆先が動く。
「いったい何を心配なさっているの?」
「神性を持つ存在が、救助や治療を理由に、私的な関係を強要していないかです」
「アルゼルは、そのようなことをいたしませんわ」
そこは迷わず答えられた。
彼は、自分へ近づくことはあっても、逃げ道まで奪う人ではない。
少なくとも、イデアはそう信じている。
「婚姻を求められたことは?」
「ございません」
「恋愛関係を求められたことは?」
「ございません」
セシリアが頁を一枚めくった。
「あなた自身は、アルゼル殿へ恋愛感情を抱いていますか」
「ございません!」
自分でも驚くほど早く、大きな声が出た。
言った直後、胸の奥が大きく跳ねる。
何をこんなに慌てているのか。
小部屋の外で、ほんのわずかに衣擦れのような音がした。
まさか、聞こえてはいないだろう。
「回答、即答」
セシリアは平然と書く。
「なぜ速さまで記録しますの?」
「反応の一部です」
「これだけ早く答えたのですから明確でしょう?」
「明確であることと、正確であることは別です」
「どういう意味ですの!?」
「本人申告としては『なし』と記録します」
「その言い方、何か疑っておりますでしょう!」
「調査員は申告だけで断定しません」
淡々とした顔が腹立たしい。
「では、将来アルゼル殿との婚姻を望む可能性は?」
「ございません!」
「将来の意思を、現在断定できますか」
「できますわ!」
「記録しました」
「なぜ少しも動じませんの!?」
「仕事ですので」
イデアは頬が熱いのをごまかすように、水杯へ手を伸ばした。
冷たい水を飲んでも、熱はなかなか引かなかった。
◇
小部屋の外。
礼拝堂の長椅子へ座ったアルゼルにも、その声ははっきり届いていた。
――ございません!
普段なら、いかにもイデアらしい勢いだと笑えただろう。
実際、最初の瞬間には口元が動きかけた。
けれど、笑みにはならなかった。
声が強すぎた。
否定が、あまりにも早かった。
アルゼルは閉じた瞳のまま、膝の上へ置いた手をわずかに組み直した。
思えば、最初から不思議な人間だった。
王都の廃教会で出会った時、イデアはすでに多くのものを失っていた。ようやく取り戻した家督も、屋敷も、財産も、一夜でほとんど失い、そのうえ残ったのは返さなければならない借金と、豊かな領地とは到底呼べない小ラズマイトだけだった。
そんな状況で神へ縋る人間なら、もっと分かりやすい願いを口にするものだとアルゼルは思っていた。
金が欲しい。
失ったものを戻してほしい。
憎い相手を罰してほしい。
あるいは、もう何も考えたくないから助けてほしい、と。
けれど、イデアは自分の魂まで差し出そうとしたくせに、いざアルゼルが現れれば、救いを待つだけではなかった。
魂はいらないと言われれば驚き。
加護について聞けば条件を確かめ。
不幸がすべて消えるわけではないと知れば文句を言い。
それでも最後には、自分に残されたものを数え始めた。
借金。
荒れた土地。
古い廃教会。
そして、自分自身。
その全部を使って、どうにか立て直そうとしていた。
最初に小ラズマイトまでついて行こうと思った理由は、もっと単純だった。
加護を与えた人間が、どこへ辿り着くのか見届ける必要がある。
彼女へ絡んだ古い因果も気になった。
不幸を完全に消せない以上、一人で放り出すのも無責任だと思った。
それに、自分は帰路を司る。行き場を失った人間が、それでも「帰る場所」を作ろうとしているなら、そこへ辿り着くまで導くのも、自分の仕事の延長に思えた。
だから、ついてきた。
少なくとも最初は、それだけで説明できた。
旅の途中でも、イデアは面倒な人間だった。
疲れていても大丈夫だと言い、食べるべき時に帳簿を開き、自分が困っていても先に他人の損失を数える。
助ければ礼を言うくせに、助けすぎれば自分でできると怒る。危険な場所へ入るなと言えば理由を求め、止めれば別の方法を探し、ようやく休んだと思えば、次に必要なものを考えている。
人間とは、もっと簡単に守らせてくれるものだと思っていた。
イデアは違った。
守ろうとすれば、自分で立つと言う。
自分で立たせておけば、今度は信じられない場所で転ぶ。
それを拾い上げれば怒りながらも離れず、翌日にはまた新しいことを始めている。
いつからだったのだろう。
彼女が転ばないかを見ることが、仕事ではなくなったのは。
食事を抜いていないか確かめることも。
夜更けまで帳簿を見ていれば声をかけることも。
市場で誰かに囲まれていれば、その声が聞こえる場所にいることも。
危険がなくても、彼女がどこにいるのか何となく把握していることも。
最初は、加護を与えた相手だから。
次は、不幸の多い人間だから。
その次は、領地を立て直そうとしている当主だから。
理由なら、その都度いくらでもつけられた。
けれど今では、そのどれも少しずつ足りない。
父が言うように、人間の一生など天使にとっては短い。
ならば、その間だけ地上にいても何の問題もない。
以前の自分なら、本当にそれだけで済ませただろう。
数十年。
天使にとっては短い寄り道。
けれど今は、その考え方を好めなかった。
イデアにとって、その数十年は寄り道ではない。
朝起きて、食べて、働き、誰かと話し、季節を越え、少しずつ年を取っていく。その一日一日を全部合わせたものが、彼女の生涯になる。
それを「短いから」とひとまとめにしてしまうのは、ひどく雑なことのように思えた。
そして、そう思うようになった理由を考えれば、答えはおそらく目の前の小部屋の向こうにいる。
イデアが自分へ近づかれると頬を赤くすることを知っている。
顔を寄せれば、ほんの一瞬だけ息を止めることも。
思いがけず触れれば言葉を失い、そのくせ離れれば、何となくこちらへ視線を向けることもある。
アルゼルは鈍くない。
むしろ、人間の表情や声の変化を見ることには慣れている。
だから、彼女から自分へ向けられるものの中に、単なる感謝や信頼だけではない何かが混じっているのではないかと、考えたことくらいはあった。
ただ、それを都合よく恋と呼ぶつもりはなかった。
自分は人間ではない。
顔も、神性も、加護も、彼女にとって普通の男よりずっと強く作用する可能性がある。
助けたという事実さえ、彼女の気持ちを縛るかもしれない。
だから決めつけない。
それは、ずっと守ってきた線だった。
父が何を言おうと、自分が何を感じようと。
最後に決めるのは、イデアでなければならない。
けれど。
――ございません!
照れ隠しなら、そこまで強く拒まなくてもよいのではないかと思う。
本心なら。
その方が、もっと困る。
胸の奥へ残ったわずかな痛みに気付き、アルゼルは自分でも少し驚いた。
痛むほどの何を、自分は期待していたのだろう。
彼女のそばへいる理由なら、以前はいくらでも説明できた。
今も説明しようと思えばできる。
古い因果が残っている。
領地にはまだ危険も多い。
加護を与えた責任がある。
頼まれる仕事もある。
けれど、そのどれかひとつがなくなったとして、自分はここを離れるのだろうか。
問いを置いてみる。
答えは、思ったより早く出た。
おそらく、離れない。
では、なぜ。
そこから先だけが分からなかった。
分からないままでいいとも思う。今すぐ名前をつける必要はない。
ただひとつだけ、先ほどセシリアへ答えたことに嘘はなかった。
彼女が否定したのなら、その言葉も彼女のものだ。自分がどう受け取るかとは関係なく、尊重しなければならない。
たとえ。
その答えが、自分にとって思った以上に都合が悪くても。
アルゼルは背後の翼を、音を立てないよう静かに畳み直した。
◇
日が傾く頃には、その日の調査もようやく一区切りついた。
「現在、小ラズマイトにおいて、特定の信仰を強制する行為は確認されませんでした」
礼拝堂へ集まった者たちを前に、セシリアが暫定結果を読み上げる。
診療、市場、水車、道の利用に、特定の信仰は求められていない。
祈りや供物も強制されていない。
フィルネアやアルゼルに関する祭祀については、古い地域信仰と現在の自発的な感謝が重なっているため、資料を追加確認する。
「アルゼル殿については」
セシリアが一度頁を確認する。
「現時点では、『分類未確定の翼ある神性存在』とします」
「まだ未確定なのですか」
アルゼルが明らかに不満そうな顔をした。
「神の直系であることを、礼務院側で確認できていません」
「父を呼べば」
「呼びません!」
イデアが即座に止めた。
アルゼルの父。女性を気にしているなら娶ればよいと簡単に考えるらしい神。
今はまだ、できれば会いたくない。
「一度で証明できますよ」
「その一度で何が増えるか分かりませんでしょう!」
「父はそれほど危険では」
「女性関係について参考にしてはいけないと、あなた自身がおっしゃったばかりではなくて?」
「そこを覚えていましたか」
「当然です!」
「続けます」
セシリアは二人のやり取りを無視した。
「アルゼル殿本人の許可なく、姿を見るための料金、接触料、祝福料、羽根その他を、聖遺物または宗教的商品として販売しない。また、市場通行や診療を妨げる形で見物客を集めないこと」
「本人が許可すれば、拝観料を取れるのですか」
「取りませんわよ」
イデアが即座に返す。
「領地収入になりますが」
「あなたを見世物にはいたしません!」
「翼を広げるだけで、かなり人は来るでしょう」
「その方々が道を塞ぐでしょう!」
「整理券を――」
「売りません!」
セシリアだけは、最後まで一度も表情を変えなかった。
「調査は継続します。現地確認終了までは、小ラズマイトへ滞在します。調査の不足があれば、延長することも」
「でしたら、仮宿規則へ署名をお願いいたしますわ」
「すでに読みました」
「いつの間に?」
「到着前にクラウス書記官から写しを受け取りました」
イデアはクラウスを見る。
「準備がよろしすぎませんこと?」
「必要な資料ですので」
「宿泊先は?」
「空きがあるなら、ミラ殿の家を希望します。女性の家主で、市場と廃教会の双方へ移動しやすい」
「では、後ほどミラへ伝えますわ」
「宿代は礼務院の旅費から支払います」
イデアも満足して頷く。
「役人であっても、無料ではございませんわね」
「当然です」
またひとつ。
当たり前のことが確認された。
◇
夜になると、礼拝堂にはイデアとアルゼルだけが残った。
机の上には、その日増えた書類が何枚も重なっている。
信仰の自由についての暫定規則。
宗教寄付を受け取る場合の会計方針。
虚偽の祝福品に関する記録。
分類未確定の翼ある神性存在についての調査票。
イデアは最後の一枚を持ち上げ、眉を寄せた。
「何度見ても長い名称ですわね」
「不正確です」
「翼はございますでしょう?」
「未確定ではありません」
「人間側では、まだ未確定なのです」
「父を呼べば――」
「絶対に呼ばないでくださいませ」
アルゼルは向かいに座ったまま、少しだけ首を傾げた。
「そこまで嫌ですか」
「あなたのお父様、わたくしについて随分と勝手なことをおっしゃるのでしょう?」
来ると思っていた質問だったのか。
アルゼルはすぐには答えず、机の端へ置かれた羽根ペンへ指先を触れた。
「父は、私が地上へ長く留まり、一人の女性を気にしていることを面白がっているだけです」
「一人の女性」
「あなたです」
分かっていても、また胸が跳ねる。
「それで、簡単に娶ればよいと?」
「父にとって、男女関係はそれほど難しいものではないのでしょう」
「あなたも?」
「いいえ」
その答えは早かった。
イデアは思わずアルゼルを見る。
「少なくとも、あなたについてはそう思いません」
「……どういう意味ですの?」
尋ねた声が、思ったより小さくなった。
アルゼルは少し考えてから答える。
「父の言葉だけで決められる話ではない、という意味です」
「あなた自身が決める?」
「それも違います」
アルゼルは穏やかに首を振った。
「私一人でも決められません」
白い翼が、椅子の背後で静かに畳まれている。
「私が何を望んだとしても、あなたが望まなければ、それで終わりです」
昼間にも聞いた言葉だった。
なのに、二人きりで聞くと重さが違う。イデアの胸は落ち着かないまま、アルゼルの横顔を見上げた。
「何を望んでおりますの?」
聞いてから、自分でもなぜその質問が口から出たのか分からなかった。
アルゼルは、すぐには答えなかった。
その沈黙に、イデアはわずかに眉を寄せる。
以前にも、こんなことがあった。こちらが答えを求めているのに、アルゼルはすぐには答えをくれず、結局イデアが待つことになった。
「……またですの?」
「何がです?」
「また、わたくしがあなたの答えを待つばかりですわ」
アルゼルが、ほんの少し口元を緩めた。
「覚えていたのですね」
「当然でしょう。待たされている側は覚えております」
「はぐらかしているつもりはないのですが」
「では、答えは?」
今度こそ逃がさないつもりで見つめると、アルゼルは少しだけ困ったように笑った。
「まだ、私にもよく分かりません」
結局、答えは同じところへ戻ってきた。
けれど今回は、それを意外だとは思わなかった。
ただ、またひとつ、返事を待つものが増えただけだ。
「そうですの」
「申し訳ありません」
「別に、謝っていただくほどではございませんわ」
イデアは少し考え、それからアルゼルを見上げた。
「では、こちらも覚えておきます」
「何をです?」
「あなたが何を望んでいるのか、まだ答えていただいていないことを」
「……ずっと?」
「答えをいただくまでですわ」
アルゼルの笑みが、わずかに深くなる。
「それは、なかなか逃げられませんね」
「逃がすとは申し上げておりませんもの」
言い返してから、イデアは自分の言葉が思った以上に強かったことに気づき、わずかに視線を逸らした。
アルゼルの口元には笑みが戻っていたが、それはいつもの軽いものより、少しだけ静かだった。
「ただ」
アルゼルが続ける。
「分からないからこそ、あなたの気持ちを私が勝手に決めないことだけは、間違えないようにしたいと思っています」
イデアは、昼間の質問を思い出した。
――アルゼル殿へ恋愛感情を抱いていますか。
――ございません!
顔が熱くなる。
「……ところで」
「何でしょう」
「昼間の個別質問」
喉が少し乾いた。
「聞こえておりました?」
アルゼルの笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
昼間の彼の内側を知らないイデアには、それが何を意味するのか分からない。
「私は耳もよいので」
「忘れてくださいませ!」
「何を?」
「それを聞き返す時点で覚えておりますでしょう!」
イデアは書類へ視線を落とした。
頬が熱い。
あれは違う。
何が違うのかと聞かれても説明できない。
ただ、セシリアから突然あんなことを聞かれれば、否定するしかなかったのだ。
それだけ。
きっと。
「忘れろと言われても、聞こえたものは消せませんね」
アルゼルの声は穏やかだった。
「でしたら、せめて気にしないでくださいませ」
「……努力します」
返答まで、ほんの一拍。
イデアが顔を上げる。
「今、間がございましたわね」
「気のせいです」
「ございました!」
「あなたも随分、私の反応を見るようになりましたね」
「閉じた瞳でも分かる時は分かります!」
アルゼルが笑う。
今度の笑みは、さっきより自然だった。イデアも少しだけ肩の力を抜いた。
「とにかく」
「はい」
「あなたを市場の備品へするつもりはございません」
「備品」
「所有物でも」
「ええ」
「見世物でも」
「では、何です?」
イデアは少し考える。
「……古文字読解立会人」
「そこへ戻りますか」
「食事監督」
「もう少し私的な役割は?」
「山羊除け」
「役に立っていません」
「山羊寄せ?」
「悪化しましたね」
二人の間に、ようやくいつもの笑いが落ちた。
それでも。
昼間までと、何もかも同じではなかった。
イデアの胸には、アルゼルが人間の短い生涯を「短いから構わない」と思わなくなったという言葉が残っている。
アルゼルの胸には、イデアが強く否定した声が残っている。
どちらもまだ、相手へ確かめることはできない。
◇
現地確認まで、残り五日。
共同秤にはまだ黄色い札が下がり、道にも、防火にも、衛生にも、仮宿にも確認すべきことは残っている。
そこへ今度は、信仰という目に見えないものまで加わった。
けれど、その日一日で、小ラズマイトにおける最低限の線だけは引かれた。
祈ることは自由。
祈らないことも自由。
供物を捧げるかどうかも、自分で決める。
治療や市場を、信仰と交換しない。
天使から抜けた羽根に、勝手な奇跡を足さない。
そして。
天使を見るための料金は、徴収しない。
偽の祝福羽根で得られた銅貨は、買った者へ返された。
宗教寄付も、まだ一枚もない。
献金箱さえ、今は置く必要がないと決めた。
現金だけを見れば、何も増えていない。
それでも。
誰が何を信じるのか。
誰のそばにいたいのか。
誰と生きたいのか。
何を受け入れ、何を拒むのか。
その答えだけは、本人以外の誰にも勝手に決めさせない。
神にも。
領主にも。
天使にも。
そして、まだ自分の気持ちさえ量り切れない本人自身にも、急いで答えを出させない。
その日の黒字は、空の献金箱ですらなく。
まだ何も入れないと、自分たちで決めた場所の形をしていた。




