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58.一斤なのに、三十分の一だけ重いです(下)


 共同秤が落ち着くと、次は古い分銅の照合だった。

 まず王冠と車輪の印を持つ分銅を、現在の王家基準と比べる。

 一斤は、ほぼ一致。

 二斤も同じ。

 五斤についても、表面の錆を丁寧に落としてから確かめると、現在の基準との差はほとんどなかった。


「何百年も前のものですのに?」


 イデアが目を見開く。


「王国の基準が、その頃から大きく変わっていないことになります」


 クラウスも、古い分銅を注意深く見つめていた。


「それだけではありません。ここで王家と同じ基準が使われていたなら、古い市場が王国の取引制度へ組み込まれていた証拠のひとつになります」


 石に残された古い市場権。

 北街道側との共同管理を示す境界標。

 地下倉庫と共同秤。

 防火用の貯水槽。

 そして、王家の基準とほぼ同じ重さの分銅。

 伝承だけではない。昔の小ラズマイトには、小さくとも正式に管理された市場が存在していた。


「現地確認の資料へ追加できますね」


 ダリオが言う。


「ええ」


 イデアは満足して、古い分銅へ手を伸ばした。


「触れないでください」


 クラウスが即座に言う。


「今度は落としませんわよ!」

「まだ照合中です」

「終わったら?」

「正式検定の日まで保管します」

「厳しいですわね」

「今朝、王家の基準分銅を落とした方へ言われたくありません」

「一度だけでしょう!」

「一度で十分です」


 ◇


 そして、翼と花の印を持つ方を調べる。

 こちらは、現在の一斤よりも明らかに重かった。

 一斤だけではない。二斤も、五斤も、すべて同じ割合だけ重い。


「三十分の一」


 ダリオが銅板の記述と数字を照らし合わせる。


「合います」

「偶然ではありませんね」


 クラウスも頷いた。


「意図して作られた別の分銅です」

「救済用の重さだね」


 ハンナが静かに言った。


「病人や旅人へ穀物を渡す時だけ、少し多くするための」


 イデアは、廃教会の奥から見つかった古い薬房を思い出した。

 いまも廃教会の一角は、ハンナが病人を診る場所として使っている。

 古い薬房からは、この場所が昔から祈りだけではなく、人を癒やすためにも使われていたことがうかがえた。商いと、困っている者への助けは、昔からすぐ近くにあったのかもしれない。


「こちらは今後、どう扱います?」

「通常の取引へ使うことはできません」


 ダリオが尋ねると、クラウスが即答した。


「現在の一斤より重いものを『一斤』として売買へ使えば、かえって基準を混乱させます」

「では、現在の重さまで削る?」


 ミラが言う。


「するな」


 ガルドンの声が低くなった。


「意味が分かったあとで削れば、記録そのものを壊す」

「わたくしも反対です」


 イデアは翼と花の分銅を見る。


「保存しましょう。ただし、箱へしまうだけではなく、昔どのように使われていたのかも残します」

「再使用するつもりですか?」


 クラウスが尋ねた。


「商取引には使いません。ただ、診療所や共同の食料配布で、この考え方を使うことはできますでしょう?」

「法定の一斤として扱わなければ」

「でしたら、別の名前にしますわ」


 イデアは少し考えた。


「……『救済斤』では?」

「公的な斤と混同します」

「では、正式名称ではなく、市場内で意味を分ける呼び名としてだけ」

「それなら、明確に表示してください」

「もちろんですわ」


 商人へ、昔からの習慣だから余分に渡せと命じるつもりはない。

 売る側は、王家の基準で正しく売る。

 そのうえで市場や診療所が、共同基金や寄付から購入した食料を困っている者へ渡す時にだけ、昔の考え方にならって少し多めに渡す。


「余分の分は、誰が負担するのです?」


 クラウスが確認する。


「診療所の共同基金、寄付、それから市場会で正式に決めた救済費です。商人へ押しつけません」

「通常の在庫と帳簿を分けてください」

「当然です」

「分銅の保管場所も」

「同じ箱には入れませんわ」


 ダリオが新しい項目を書き加える。

 王家基準の分銅は、これまでどおり黒い箱。

 翼と花の分銅は、別の鍵付き箱へ入れ、用途と由来を札に書く。使用する場合はハンナかダリオが立ち会い、配った量も通常の市場在庫とは分けて記録する。


「ほんの一匙を多く渡すために、記録が増えますわね」

「その一匙の負担を、知らない誰かへ押しつけないためです」


 クラウスが言った。

 イデアは少し黙り、それから頷く。


「……そのとおりですわ」


 ◇


 午後には、仮市場で実際に使われている分銅や升の予備確認も始まった。

 正式検定ではない。

 だが現地確認当日になって大量の不備が見つかるより、先に直せるものは直しておいた方がいい。

 出店者が使っている道具を、ひとつずつ共同秤や基準容器で確認していく。

 エーミルが持っている検定済みの分銅は問題なし。

 ネッサの金属取引用の分銅は、基準よりごくわずかに重かった。


「削ります?」


 イデアが尋ねる。


「削らない」


 ネッサが即答した。


「重いなら買う側が少し得をする」

「あなたが損をしますわよ?」

「許容範囲なら、このままでいい」


 クラウスが確かめる。


「市場で使う範囲として問題のない差です」

「なら、このまま」


 ネッサは満足そうだった。

 次に確認したマーサの穀物升では、問題が見つかった。


「少ないですね」


 ダリオが言う。


「そんなはずはないよ。ずっと使ってきたんだから」


 マーサが升を抱えて覗き込む。

 ミラが木の縁を指でなぞった。


「長く使って、上が削れてる」


 長年穀物をすり切って量ったためだろう。縁が少しずつ減り、一杯入れても本来の量に足りなくなっていた。


「わたし、これでずっと売ってたのかい」


 マーサの顔色が変わる。


「故意ではございませんわ」


 イデアはすぐに言った。


「ですが、現状のまま次の取引へ使うことはできません」

「新しい升なんて、安くないよ」


 マーサのように小さな量の商品を扱う者にとって、計量道具の買い替えは決して小さな出費ではない。

 イデアは少し考えた。


「共用の升を作りましょう」

「市場の?」

「ええ。少量しか売らない方が、毎回自分の道具を用意しなくてもよいように」

「使用料は?」


 ダリオが尋ねる。


「正式認可までは無料でよいでしょう。その後も、小さな出店者が使えなくなるような額にはいたしません」

「持ち帰られたら?」


 クラウスが口を挟む。

 イデアが一瞬黙った。


「……保証金?」

「最近、そればかりですね」


 アルゼルが言う。


「便利なのです!」


 返却を前提とした預り金を一枚だけ受け取り、升が返ればそのまま返す。利用料を設けるかどうかは、正式認可後に市場会で改めて決める。


「それなら借りられるよ」


 マーサが頷いた。

 古い升も捨てず、ミラが縁へ新しい木枠を足して修理できるか試すことになった。


「修理代はわたしが払うよ」

「よろしいの?」

「知らないうちに少なく売ってたことを考えれば、そのくらいはね」


 小さな升ひとつであっても、誰かへ無償で直させない。

 知らないところで、別の誰かへ負担を押しつけない。

 今日一日だけでも、その考え方が何度も出てきた。

 夕方までに確認した道具のうち、大半はそのまま使用できた。いくつかは調整や修理が必要で、ふたつは使用を止めることになった。

 幸い、新たな偽造分銅は見つからなかった。


「思ったより状態はよいですね」


 クラウスが記録をまとめながら言った。


「共同秤と照合する規則を先に作っていたことが大きいのでしょう」


 ダリオが答える。


「以前、不正な分銅が見つかりましたので」

「その報告書も読みました」

「処理に問題は?」


 イデアが尋ねる。


「市場側に正式な刑罰権限はありませんが、使用を止め、本人の同意を得て証拠を保管し、不足分の弁償について記録した。王領側へ報告する準備もしている」


 クラウスは頁を閉じた。


「妥当です」

「褒めております?」

「行政処理として」

「ベネディクト管理所長と同じ言い方をなさるのね」

「行政官は、そう簡単に感情を混ぜません」

「あなたも?」

「場合によります」


 クラウスの視線がイデアの向こうへ移る。アルゼルが、翼と花の分銅を収めた箱を持っていた。


「なぜアルゼル殿が?」

「最も安全に運べますので」

「落としませんこと?」


 イデアが尋ねる。


「あなたとは違います」

「一度だけですわよ!」

「本日の実績です」


 アルゼルが箱を抱えて地下倉庫へ向かう。

 その近くでは、カイとリナがユーイたちを手伝い、夕方の散歩を終えた山羊たちを囲いへ戻しているところだった。そのうちの灰色の雌山羊が、アルゼルの白い衣を見つけると、列を外れて後を追いかけようとした。


「止めて!」


 イデアがすぐさま気付いて叫ぶ。

 カイとリナが、慌てて山羊を囲いの方へ誘導する。


「箱を狙っているのでは?」

「あなたを狙っておりますわ!」

「やはり白が原因ですね」

「干し草も白くございませんでしょう!」

「では、私個人への執着でしょうか」

「嬉しそうに言わないで!」


 箱は無事に地下倉庫へ入った。

 結局、山羊への対策はいつも同じところへ戻る。

 食べられて困る物も、噛まれて困る物も、アルゼルの白い袖も、山羊の届かない場所へ置く。

 少なくとも最後のひとつだけは、なかなか実行が難しそうだった。


 ◇


 夜。

 クラウスは共同秤の予備照合記録を礼拝堂の仮机へ広げた。

 イデア、ダリオ、市場会の代表、ガルドン、エルク、アルゼル。それぞれが内容を確認していく。

 途中で、イデアの指が止まった。


「『基準分銅落下。原因、領主外套の袖』」

「事実です」


 クラウスが答える。


「もう少し不可抗力のように書けませんこと?」

「不可抗力でしたか?」

「外した金属板が、非常に袖へ引っかかりやすい位置に――」

「『領主が検査区画へ近づきすぎたため』と変更しますか」

「現在のままで結構です!」


 さらに悪くなった。


「その落下をきっかけに、内部の調整皿と古い銅板を発見」


 アルゼルが次の行を読む。


「結果として、翼花の分銅の用途が判明」

「災難の見返りですね」

「わたくしの災難ではなく、分銅の災難でしょう!」

「落とされた分銅は無事に回収され、古い記録まで発見した」

「でしたら、分銅の方が黒字ですわ」

「あなたが原因ですから、やはりあなたの加護の範囲では?」

「わたくしの袖を何でも利益へ変換しないでくださる?」


 クラウスが眉間を押さえた。


「この会話も記録しますか」


 エルクが真面目に尋ねる。


「絶対に不要です!」


 ◇


 予備照合の記録へ署名を終えると、クラウスは別の帳簿を開いた。


「伯爵閣下」

「今度は何ですの?」

「市場の運営について確認します」


 制度は以前より増えた。それと同時に、管理を任される者も増えている。

 高額な弁償、出店停止、新しい料金、外部機関との協定は領主。

 日常の配置、小さな修繕、既存規則の範囲での判断は市場会。

 水車はローデンを中心に、記録はダリオ。

 診療所はハンナが中心となり、必要に応じてアルゼルが補助する。

 道路の実作業はミラやローデン、ガルドンらが担い、領主判断が必要なものだけイデアへ上げる。

 クラウスはひとつずつ書き留めていった。


「現地確認の参考資料です」

「わたくしが仕事をしていないと?」

「逆です」


 クラウスが顔を上げた。


「領主がすべて直接命じなければ動かない市場では、継続性がありません」


 イデアが仕事で他領へ行くこともある。

 病気になることだってある。

 事故で何日か動けなくなる可能性もある。

 そんな時、すべてが止まるなら正式な市場としては脆すぎる。


「領主個人の働きだけへ依存していないことは、評価材料になります」

「善意ではなく借金返済のために始めましたのよ?」

「動機より、仕組みです」

「ベネディクト管理所長には、長く利益を見る商人のようだと言われましたわ」

「妥当ですね」

「皆様、わたくしを何だと思っておりますの?」


 クラウスは少し考えたあと、真面目な顔で答えた。


「借金を、公共の仕組みへ変えている領主でしょうか」

「褒めているのか分かりませんわ」

「高く評価しています」


 今回は、「行政官として」という言葉がつかなかった。

 イデアが少しだけ目を瞬く。


「以前より顔色もよくなりました」


 クラウスが続ける。


「食事は?」

「監督されております」

「睡眠は?」

「屋根がございます」

「領主としての報酬は?」

「ございません」

「そこは改善されておりませんね」


 アルゼルが即座に口を挟んだ。


「現地確認後に検討した方がよいでしょう」


 クラウスまで続ける。


「なぜあなたまで?」

「無報酬の管理者を前提にして制度を作れば、継続性に欠けます」

「わたくしは当主ですわ!」

「当主も人間です」

「同じことを」


 アルゼルが満足そうに笑う。


「やはり彼は有能ですね」

「あなた方、わたくしを休ませる時だけ協力しすぎではなくて!?」


 ◇


 その夜、共同秤の予備照合そのものが生んだ現金収入は一枚もなかった。

 その代わり、帳簿へ加わったものは多い。

 共同秤の予備照合記録。

 古い王冠と車輪の分銅が、現行基準とほぼ一致していたという記録。

 翼と花の分銅が別用途だったことを示す銅板。

 市場で使われる計量道具の確認結果。

 共用升の貸出案。

 通常在庫と分けた救済用の記録。

 箱や木札、修理のための支出も増えた。


「また、現金だけなら赤字ですわね」


 イデアが帳簿を閉じる。


「現地確認へ必要な支出です」


 アルゼルが温かな飲み物を置いた。


「本日は何ですの?」

「山羊乳と、乾燥果実を少し」

「甘い?」

「昨日よりは」


 イデアは素直に器を受け取った。


「結局、商いに使う正しい一斤は、昔も今もほとんど同じでしたわね」

「王冠の方は」

「翼と花の方は、少し重い」

「三十に一だけ」

「ほんの少しですわ」

「何十人へ、何年も渡せば大きな量になります」


 ほんの一匙。

 一人へ渡すだけなら、大きな違いには見えない。

 けれど、それを毎日、何年も、病人や旅人や食べ物に困っている子供へ渡し続けるなら、決して小さな量ではない。


「なぜ三十分の一だったのかしら」

「姉上の考えすべてを、私が知っているわけではありません」

「意外ですわね」

「兄弟姉妹は多いので」

「では、あなたなら?」

「何がです?」

「困っている方へ一斤を渡すとして、どのくらい多くしますの?」


 アルゼルは少し考えた。


「その人が必要なだけ」

「秤の意味がございませんわ」

「必要な量は、人によって違いますから」

「それでは市場の基準になりません」

「だから人間は、誰に対しても同じ重さになる基準を作ったのでしょう」


 アルゼルは今日の記録へ顔を向けた。


「正しい一斤を決めるのは、売る者と買う者のため」

「ええ」

「誰へ余分に渡すかを決めるのは、人の側です」


 共同秤は、重さなら正しく量れる。

 だが、誰の食料が足りないのか。誰へもう一匙を足すべきなのか。

 そこまでは、どれだけ精巧な秤にも分からない。


「アルゼル」

「何でしょう」

「もし、わたくしを量ったら?」

「体重ですか?」

「価値ですわ」

「共同秤が壊れますね」

「重すぎて?」

「現在の王国基準では、確認項目が足りません」

 

 イデアは少しだけ顎を上げ、強気な笑みを浮かべた。


「足りない項目は、美貌?」

「責任。頑固さ。借金。無謀さ」

「後半が欠点ばかりではなくて!?」

「人を放っておけないところ」


 アルゼルの声が、ほんの少し柔らかくなった。

 イデアの手が止まる。


「それから」

「それから?」

「私が、少し余分に気を配りたくなる分」


 思っていたより静かな声で言われて、イデアは返事を忘れた。

 守るのは加護があるからで。

 そばにいるのも役目だから。

 これまでならそういう言葉で片づけられたはずなのに、今の言い方だけは、そこへきれいに収まらない。

 器を持つ指先に、わずかに力が入る。

 アルゼルはいつもと変わらず穏やかに笑っている。けれど、その横顔をまっすぐ見るのが少しだけ難しくなって、イデアは視線を帳簿へ落とした。


「……三十分の一ほど?」

「それでは少ないですね」

「では、どのくらい?」

「秤では量れません」

「先ほどと同じ答えで逃げましたわね」

「事実ですよ」


 アルゼルは穏やかに笑った。

 イデアは山羊乳へ口をつけたまま、しばらく帳簿を見ているふりをした。


 ◇


 現地確認まで、残り五日。

 市場の共同秤には、まだ黄色い札が下がっている。

 地下倉庫には王家基準の黒い箱と、用途を分けて保管された翼と花の分銅。

 正しい取引には、誰が売っても誰が買っても変わらない重さを使う。

 困っている者へ何かを渡す時には、その同じ基準の外側で、誰が余分を負担するのかまで決めてから一匙を足す。

 昔の小ラズマイトも、ふたつを混ぜずに使い分けようとしていたらしい。

 そうして、ふたつの重さの意味が帳簿へ収まった翌朝。

 村入口の鉄板が一度鳴った。

 一台の黒い小型馬車が、仮補修の済んだ石畳をゆっくりと進んでくる。扉には、杯と閉じた書物を組み合わせた銀色の印が刻まれていた。

 その印を認めたクラウスが、わずかに姿勢を正した。


「礼務院です」


 馬車が止まり、扉が開く。

 降りてきたのは、黒髪を隙なくまとめ、灰紫色の官服を身につけた三十代ほどの女性だった。片手には厚い書類鞄を提げ、胸元には礼務院の銀章が光っている。

 女性は馬車を降りると、まず市場を見た。

 次に、廃教会。

 その脇の花壇。

 そして最後に、イデアの隣に立つアルゼルの白い翼へ視線を止めた。

 驚いた様子はない。ただ、確認するように一度だけ見つめたあと、彼女はイデアたちの前まで歩いてくる。


「礼務院地方祭祀調査室、セシリア・ノールです」


 落ち着いた声で名乗り、軽く一礼した。

 共同秤は、ひとまず正しい重さを取り戻した。

 昔の市場が、商いのための一斤と、誰かへ一匙多く渡すための重さを分けていたことも分かった。

 けれど、秤で確かめられるものがひとつ片づいたところへ、今度は礼務院から、重さでは量れないものを確かめる役人がやって来た。

 その視線の先には。

 白い翼を畳んだアルゼルがいた。

 

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