57.一斤なのに、三十分の一だけ重いです(上)
現地確認まで、残り六日。
王家公認の基準分銅が収められた黒い箱は、昨夜から地下倉庫の鍵付き区画に保管されていた。
蓋には王領監理局の封蝋が押され、四隅を金属の留め具で固めた箱を市場中央へ運び出す時にも、クラウスだけでなくダリオとオルドが立ち会った。
その様子を眺めていたイデアは、思わず首を傾げる。
「山羊の囲いより厳重ですわね」
「山羊は柵を抜けます」
ダリオが真面目に答えた。
「でも分銅箱は抜けませんわ」
「箱ですから」
「山羊は縄を噛みます」
「分銅箱は噛みません」
「……わたくしたち、何の比較をしておりますの?」
二人は、昨日新しい縄寝台へ当然のように乗っていた灰色の雌山羊を思い出していた。
「随分と厳重ですわね」
「市場で使う重さの基準ですから」
クラウスは黒い箱を共同秤の横へ置いた。
「これが狂えば、ここで行われる取引の多くが狂います」
「盗まれた場合は?」
「王領監理局へ提出する報告書が増えます」
「最初に心配するのが書類なの?」
「処分にも捜索にも書類が必要です」
やはり相変わらずである。
「では、早く開けましょう」
イデアが一歩近づくと、クラウスにきっぱりと止められた。
「触れないでください」
「まだ触れておりませんわ!」
「触れるつもりの顔をなさっていました」
「最近、皆様がわたくしの顔から判断しすぎではなくて?」
共同秤の周囲には、市場会の者たちに加え、秤の修復へ関わったガルドン、北街道管理所から引き続き通行調査へ派遣されているエルク、それに現在の取引で基準のひとつとして使っている検定済みの分銅を持つエーミルも集まっていた。
そしてもう一人。
「古文字読解立会人、アルゼルです」
本人がなぜか満足そうに名乗る。
「誰もまだ役目を確認しておりませんわ」
「以前の遠縁の研究者より格が上がりました」
「本日は古文字を読む必要があるかも分かりませんでしょう?」
「私がいるだけで、場の格は上がります」
「分銅の予備照合です」
クラウスが遮った。
「神聖さは確認項目にありません」
「美しさは?」
「ありません」
「王領の制度には改善の余地がありますね」
「ございません」
即答だった。
役人は、天使にも容赦がない。
◇
「まず、封印を確認します」
クラウスは箱を開ける前に、封蝋と留め具を全員へ見せた。
封蝋に欠けはない。王領監理局の印も鮮明で、輸送中に開封された形跡もない。エルクがその状態を書き留め、ダリオも別の記録へ確認事項を残していく。
「立会人も記録します」
「全員?」
「後になって、誰も見ていなかったと言われないためです」
「山羊は?」
少し離れたところからピムが声を上げた。
「立会人ではありません」
ダリオが答える。
「でも見てるよ」
囲いの向こうでは、確かに灰色の山羊がこちらを見ている。
「目撃していることと、正式に立ち会うことは別です」
「山羊は立ち会えない?」
「議決権も立会権もございません!」
イデアが念を押すと、ピムは残念そうに引き下がった。
ようやくクラウスが封蝋を割り、留め具を外して鍵を開ける。
蓋の内側には黒い布が敷かれ、その上へ大きさの異なる金属製の分銅が整然と並んでいた。
一斤、二斤、五斤、十斤。
そのほかにも細かな調整用の分銅があり、すべてに番号と王家の検定印が刻まれている。
「これが現在の王国基準です」
「最も小さいものは?」
「薬や貴金属を量るためのものです。市場の穀物取引では、まず使わない大きさですね」
クラウスがそう説明すると、ネッサが興味深そうに小さな分銅を覗き込んだ。
「金属の配合なら使える」
「触らないでください」
「まだ触っていない」
「触る顔をしていました」
「伯爵様と同じこと言われてる」
マーサが笑う。
イデアとネッサは納得できずに眉を寄せた。
「わたくしとネッサは、まったく似ておりませんわ」
「止められる前に手を伸ばすところが似ています」
アルゼルが口を挟む。
「伸ばしておりません!」
「まだ」
「余計な一言を足さないで!」
◇
最初に確かめるのは、分銅ではなく共同秤そのものだった。
左右の皿を空にし、風の影響を減らすために布屋根の一部を下ろす。市場へ入る者にも、しばらく秤の近くを通らないよう説明したうえで、クラウスが中央の指針を確認した。
空のはずの梁は、ほんのわずかに左へ傾いている。
「ずれておりますわね」
「見れば分かる」
ガルドンが支柱へ近づいた。
「原因は?」
「皿かもしれんし、鎖かもしれん。軸か土台も考えられる。見なければ分からん」
「昨日までは使っております」
ダリオが帳面を開く。
「ただし、正式な検定前ですので、取引ではエーミルの検定済み分銅と照合しながら使用しております」
「最初から完全に正しい秤として扱ってはいなかった?」
クラウスが尋ねる。
「はい」
「よい判断です」
ダリオの背筋が、ほんの少しだけ伸びた。
「では開ける」
ガルドンが工具へ手を伸ばす。
「待ってください」
「まだ何だ」
「修理前の状態を記録します」
「直してから量れば早いだろう」
「先に直せば、最初から正しかったように見えます」
ガルドンが面倒そうにクラウスを見る。
「面倒な人間だな」
「正しい」
ネッサが援護した。
「記録のない修理では、何を直したのか証明できない」
同族から言われると、ガルドンもさすがに反論しづらかったらしい。
エルクが梁の傾き、風、皿と鎖の外見を記録してから、左右へ同じ基準分銅を載せる。
すると梁は、空の時よりも大きく左へ傾いた。
「皿だけの差ではございませんわね」
「左の軸が重い」
ガルドンが鎖をわずかに持ち上げる。
「中に泥か錆が入っている」
「修復時に内部は確認しましたか?」
クラウスが尋ねた。
「地上へ出した日に外側の泥を落とし、見える範囲の軸へ油を差しました」
ミラが答える。
「石柱の中までは、まだ開けてない」
「なら、そこだ」
ガルドンが支柱下部の細い金属板へ工具を差し込み、留め具を外した。
内部から現れたのは、秤の梁へつながる縦軸の仕組みだった。何百年も前のものとは思えないほど精巧で、クラウスも目を細める。
「随分よくできていますね」
「人間だけの仕事じゃない」
ガルドンが言う。
「軸はドワーフの仕事だ。だが、印は人間のものだな」
「共同で作ったということ?」
「その可能性が高い」
イデアも中を覗こうとした。
「伯爵閣下は下がってください」
「なぜ?」
「袖が入りそうです」
「入りませんわ」
そう言いながら腕を引いた、その時だった。
深緑の袖口が、外して仮置きされていた金属板の角へ引っかかった。
「あら」
板がわずかに動く。
その上に置かれていた、ごく小さな調整用の基準分銅が跳ねた。
「分銅!」
クラウスの声が響いた。
銀色の小さな塊は石柱の隙間へ入り、内部の金属へ当たりながら、からん、からん、と音を立てて落ちていく。
「届きます!」
イデアが反射的に腕を入れようとした瞬間、腰へ腕が回った。
「届きません」
「アルゼル、離してくださる!?」
「あなたまで石柱へ入ります」
「肩から先しか入りませんわ!」
「それで十分危険です」
最後に、こつん、と小さな音がした。
分銅がどこかで止まったらしい。
静まり返った市場で、クラウスがゆっくりとイデアを見る。
「王家公認の基準分銅です」
「……分かっております」
「なくした場合、再検定と記録と――」
「拾いますわ!」
「伯爵閣下は、今度こそ下がってください」
「なぜ、わたくしだけ?」
「原因ですので」
きっぱり言われ、さすがのイデアも反省する。
「……申し訳ございません」
「私なら位置は分かりますよ」
アルゼルが石柱を覗き込む。
「ではお願いします」
「ただし、無理に力を使って内部を動かせば、古い軸を傷める可能性があります」
「強い力は使うな。軸が歪む」
ガルドンがアルゼルを止めると、石柱の下部を指した。そこには、外せる金属板がもう一枚残っている。
「下から開ける。落ちた場所が分かってるなら、その方が早い」
工具を手に膝をついたところで、クラウスが止めた。
「その前に、落下の経緯を記録します」
「まだ書くのか」
「基準分銅がどのように落ち、どう回収したかは必要です」
「原因は伯爵の袖」
ガルドンが端的に言う。
「簡潔すぎますわ!」
イデアが抗議する間に、エルクはすでに記録板へ書いていた。
◇
石柱の下部をさらに開くと、落ちた基準分銅は縦軸の横に設けられた浅い受け皿の中で見つかった。
傷はない。
クラウスが確認してようやく息を吐いたあと、ガルドンが受け皿の中へ指を入れる。
「微調整用の重りを置く場所だ」
そこには基準分銅のほか、泥や錆の欠片、それに小さく折れた金属片がいくつか落ちていた。
「これが左側の動きを邪魔していたんだろう」
金属片を取り除き、泥を拭い、縦軸へ薄く油を差す。
するとそのさらに奥から、細長い銅板が一枚見つかった。
指二本ほどの長さしかない。
表面には、細かな古い文字が刻まれている。
「アルゼル」
「はい」
イデアが呼ぶと、アルゼルは銅板を受け取った。瞳はいつもどおり閉じたままだが、表面の文字を確かめると、すぐに読み始める。
「『王の斤をもって商いを量り、翼花の斤をもって欠けを満たす』」
「二種類の斤?」
クラウスが聞き返した。
「続きがあります」
アルゼルがさらに文字を追う。
「『売る者と買う者の争いには王斤を。旅人、病人、幼子へ与える穀には、三十に一を添えよ』」
「三十に一……」
イデアは、以前地下倉庫から発見された古い分銅へ目を向けた。
同じ「一斤」と刻まれているのに、現在の基準よりわずかに重かった分銅があった。その時は古い時代の単位が違うのだと思っていた。
だが、クラウスが改めて並べてみると、細かな印が違う。
一方には王冠と車輪。
もう一方には翼と花。
長い間泥と錆に覆われていたため、これまでは同じ種類だと考えていたのだ。
「王冠と車輪が、通常の商取引用で——」
イデアが言う。
「翼と花が、旅人や病人へ渡すためのもの?」
「その読み方が自然でしょう」
クラウスが答えた。
「売買そのものへ余分な量を強制していたわけではないらしいですね」
「困っている者へ共同で食料を渡す時だけ、少し多く量っていた」
ダリオが整理する。
「三十に一」
「ほんの少しですわね」
「一人ならな」
ガルドンが翼と花の印を持つ古い分銅を見た。
「毎日、何年もやれば大きい」
そして、その花の意匠を見つめたあと、低く言った。
「フィルネア様の印に見える」
「姉上らしいですね」
アルゼルが微笑む。
「不足を美しく――」
こん、と小さな錆片が支柱から落ちた。
アルゼルの金髪へ当たる。
「……姉上」
「何か余計なことをおっしゃろうとなさった?」
「まだ何も」
「神性を感じた」
ガルドンが真顔で断言する。
「私も少しだけ、その可能性を感じましたわ」
「偶然です」
アルゼルだけは認めなかった。
◇
内部の清掃と調整を終え、共同秤をもう一度組み直した。
左右へ同じ王家基準の分銅を載せる。
梁が揺れ、右へ、左へと振れながら徐々に動きを小さくし、やがて中央で止まった。
「水平です」
エルクが指針を確かめる。
クラウスはさらに軽い調整分銅を片側へ置き、その反応も確認した。
「十分に動きます。今日の予備照合としては問題ありません」
「では正式に使えますの?」
「正式検定ではありません」
やはりクラウスは慎重だった。
「現地確認当日に計量検査官がもう一度確認し、合格すれば正式な検定記録へ入ります」
「今日は?」
「基準分銅との照合下で、使用できる状態にあると記録します」
「つまり、黄色ですわね」
イデアが言う。
「緑ではなく?」
アルゼルが尋ねる。
「正式な確認前ですもの」
「すっかり色札に慣れましたね」
「分かりやすい制度ですわ」
共同秤には、黄色い札がつけられた。
——予備照合済み。正式検定前。基準分銅との照合下で使用可。
文字の読めない者にも分かるよう、横には黄色い秤の絵をつけることになった。
ダリオが試しに描いてみる。
「鳥?」
マーサが首を傾げた。
「秤です」
「翼が折れた鳥に見えるよ」
ダリオは無言で木札を伏せた。
「……ピムへ頼みましょう」
記録係にも得意不得意はある。




