56.役人が泊まれば、寝床も帳簿に載ります(下)
ローデンが提案したのは、寝台の木枠へ太い縄を縦横に張る方法だった。
「板より使う木が少なくて済みます。縄を何本も交差させれば、荷重も分かれます」
「切れませんの?」
「山羊毛を混ぜた太い縄が残っています」
セラが保管していたものを持ってくると、ネッサが接合部分を確かめる。
木枠には倒木の残材を使い、角をドワーフ製の釘と留め金で補強する。そこへ縄を縦横に張り、最後に藁を詰めた厚い布袋を載せた。
豪華さはない。
だが、石床へ直接横になるよりはずっといい。
「完成ですわね」
イデアが満足げに寝台を見下ろした。
「試す人は?」
ミラが尋ねる。
今度は誰も迷わず、全員がアルゼルを見る。
「なぜ私なのです?」
「先ほどと同じ人なら比較できます」
ローデンが真面目に答えた。
「条件を揃えるのは大切ですわ」
イデアまで頷く。
「私を試験用の分銅のように扱っていませんか?」
「共同秤へ載せるよりはよろしいでしょう?」
「どちらも嫌ですね」
そう言いながらも、アルゼルは新しい縄寝台へ腰を下ろした。
縄がかすかに軋み、少し沈む。
壊れない。
そのまま横向きで寝そべると、波打つ長い金髪が粗い布の上へ広がった。大きな白い翼は寝台に沿わせて流しているものの、さすがに木枠へすべて収まらず、羽根の先が少し外へはみ出している。
「どうですの?」
「悪くありません」
「人間が眠れそう?」
「翼が無いなら快適かと」
横からピムが寝台の端を押した。
「アルゼル兄ちゃん、寝てる!」
「寝ていません」
「目、閉じてる!」
「普段からです」
「起きてー!」
「起きていますよ」
子供に揺らされても、縄寝台は壊れなかった。
「あと何台作れます?」
「縄が足りれば三台ほど」
ローデンが答える。
「費用は?」
「釘と縄を合わせて、一台あたり銅貨二枚ほどだと思います」
「作りましょう」
「現地確認だけのために?」
「いいえ。今後、泊まりの商人が増えれば使えます。診療所で一時的に寝床が足りなくなった時にも回せますもの」
「単独で貸すなら、一泊銅貨一枚くらいは取れそうだね」
マーサの言葉に、イデアの目が輝く。
「仮宿の寝床として使う時は宿泊料へ含めて、それ以外で寝台だけ貸し出す場合は銅貨一枚――」
「もう回収計算をしていますね」
アルゼルが起き上がった。
「設備投資ですわ」
「患者からも?」
「患者は別です!」
「安心しました」
「わたくしを何だと思っておりますの?」
「借金のある領主です」
「否定できませんわ!」
◇
仮宿の規則と寝床作りが一段落し始めた夕方。
村入口の鉄板が一度鳴った。来客を知らせる合図である。
「現地確認まで、まだ七日ございますわよね?」
イデアが礼拝堂を出ると、一台の小さな馬車が石畳を進んでくるところだった。
車体は道中の泥に汚れている。
だが、側面には王領監理局の印。御者台にいる茶色い髪の男にも見覚えがあった。
「……クラウス?」
馬車が止まり、クラウス・ハルフェンが降りてくる。
以前より少し疲れた顔。泥の跳ねた外套。そして片手には、封印された頑丈な箱を抱えていた。
「お久しぶりです、ラズマイト伯爵閣下」
「現地確認は七日後でしょう?」
「私は準備確認のために先行しました。現地確認まで残りますが、先行滞在分も、もちろん旅費から支払います」
「連絡は?」
「昨日、使者を出しました」
「また使者より先に着いておりますわよ!?」
「北街道西支線で、使者の荷車が車輪を壊しました」
「その道、呪われておりませんこと?」
「整備不足です」
冷静に言い切られた。否定できないところが悔しい。
「その箱は?」
「王家公認の基準分銅一式です」
イデアの表情が一気に明るくなる。
「では、共同秤を確認できますのね!」
「明日、予備照合を行います。正式な確認は、計量検査官が到着してからです」
「今から予備照合だけでも」
「日が暮れます」
「灯りがございます」
「封印を解くには立会人が必要です」
「ダリオと市場会を呼びますわ」
「私にも食事と睡眠が必要です」
クラウスは静かに言った。
「人間ですので」
後ろからついてきたアルゼルが満足そうに頷いた。
「正しい判断です」
「なぜあなたが満足するのです?」
「食事監督ですので」
「まだその役職を名乗っているのですか」
「最重要です」
クラウスはアルゼルからイデアへ視線を移した。
「伯爵閣下には必要な役職のようですね」
「味方をなさってくださるのでは?」
「行政官は、健康な当事者を好みます」
「心配ではなく事務上の都合ですのね」
「結果は同じです」
彼は相変わらずだった。
◇
「ちょうどよろしいですわ」
礼拝堂へ戻ったイデアは、完成したばかりの仮宿規則をクラウスへ差し出した。
「こちらをお読みになって、署名を」
「私も?」
「宿泊者全員です」
クラウスが規則へ目を通す。
家主の許可なく家財を調べない。
寝床、食事、馬の餌には料金を支払う。
破損時には弁償する。
家主の同意なく滞在を延長しない。
「当然の内容ですね」
「過去には、その当然が守られなかったそうです」
クラウスの表情がわずかに硬くなる。
「王領官吏による無償宿泊の話ですか」
「ご存じですの?」
「記録が残っている例はあります」
「合法だったの?」
「緊急時の一時的な徴用権はあります。しかし通常の巡回や徴税で、民家を無償で占有する権限はありません」
近くにいたオルドたちが静かになった。
「では、昔ここで行われたことは」
「伺った内容どおりであれば、正当な権限によるものとは言えません」
クラウスは曖昧にせず答えた。
「いまから返してもらえるのか」
オルドが尋ねる。
「当時の損害を補償できるかは別問題です。年月も経っていますし、責任者がすでに異動や死亡している場合もあるでしょう」
「なら、記録して何になる?」
「同じ行為を『昔からそうしていた』という理由だけで、今後正当化しにくくなります」
起きたことを、起きなかったことにはしない。
金がすぐ戻らなくても、記録には意味がある。
「では、あとで皆様から証言を――」
「現地確認が終わってからにしてください」
クラウスが即座に遮った。
「なぜ?」
「今夜から始める顔をなさったので」
「顔で分かるの?」
「以前より分かりやすくなりました」
「皆様、わたくしの考えを読む技術ばかり上達しておりませんこと?」
「実績がありますので」
アルゼルが横から言う。
「あなたは黙っていて!」
◇
結局、クラウスの宿泊先は教会ではなく、オルドの家になった。
「わしの家でよければ」
オルドが申し出たのだ。
「先ほど、役人を家へ入れたくないとおっしゃっていたでしょう?」
「伯爵様が作った規則へ署名する役人なら、話は別だ」
クラウスは規則へ署名し、寝床代、食事代、馬の餌代について確認したあと、ごく普通に言った。
「旅費から支払います」
イデアが瞬きをする。
「同行者全員?」
「全員に旅費と宿泊費が支給されます」
「では、わたくしが立て替える必要は」
「ありません」
礼拝堂が静かになった。
イデアは、仮宿規則の横へ用意していた領主会計の財布を見た。
「……先に教えてくだされば」
「通常、官吏が自分の宿泊費を領主へ負担させるとは考えません」
「過去の例がございましたので!」
「今後は、現地確認の人数だけでなく、費用負担も事前に書状で確認なさってください」
「それも規則へ加えますわ」
「また増えましたね」
「当たり前が守られなかったから、書くのです!」
先ほどのガルドンの言葉をそのまま使うと、ドワーフの長が満足そうに頷いた。
「ところで」
クラウスは礼拝堂の隅に並んだ新しい縄寝台へ目を向ける。
「これは?」
「仮宿用の寝台ですわ。本日作りました」
「強度は?」
「アルゼルで確認済みです」
「単位のように言わないでください」
「いちアルゼルまで大丈夫!」
ピムが元気よく言った。
「新しい単位を作らないで!」
クラウスは冗談として流さず、接合部と縄を真面目に確かめた。
「ドワーフ製の金具に、山羊毛を混ぜた縄ですか。悪くありませんね」
「今後、宿泊者にも使います」
「使用する寝台は番号で管理した方がよいでしょう」
「番号?」
「壊れた場合、どの寝台を誰が使っていたのか分からなければ、修繕記録と結びつきません」
イデアの大きなエメラルドの瞳が輝いた。
「寝台番号」
「嬉しそうですね」
「管理できますわ!」
「寝台まで帳簿へ載せるのですか」
アルゼルが尋ねる。
「もちろんです」
第一号から第四号まで、寝台にはその場で小さな木札が用意された。
「私は第一号で試しました」
アルゼルが言う。
「最初に壊した方は古い寝台でしょう」
「新しい第一号にも横になりました」
「では試験記録へ、アルゼル一名、異常なし」
「もう少し格好よく書けませんか」
「高位天使一柱、異常なし?」
「それで」
「公的な設備帳簿へは書きませんわよ」
◇
日が完全に暮れる前。
クラウスは、七日後の現地確認に関する追加資料をイデアへ渡した。
「礼務院から来る方について、何か分かります?」
「セシリア・ノール。礼務院の地方祭祀調査を担当する書記官です」
「地方祭祀……」
「古い祭祀の記録、宗教施設の利用状況、それに無許可の宗教活動が行われていないかを確認する役目です」
イデアは資料をめくる。
「その方も、七日後に皆様と一緒に?」
「いいえ。セシリア書記は礼務院側の確認を先に始めるため、本隊より早く入る予定です」
「いつですの?」
「二日後です」
イデアは指を折った。
現地確認まで残り五日。その朝には、今度は礼務院の役人が来ることになる。
「クラウス様に続いて、また先行ですのね」
「確認する内容が別ですから。古い祭祀や宗教施設については、一日で済むとは限りません」
「そのまま現地確認まで残るの?」
「その予定です。宿泊費は礼務院側から支給されます」
「そこまで先に教えてくださるのは助かりますわ」
「先ほど、費用負担は事前に確認するよう申し上げましたので」
「即座に実践なさるのね……」
イデアはひとまず資料を閉じると、礼拝堂を見回した。
初めてここへ来た頃に比べれば、廃教会の中はずいぶん人の暮らす場所らしくなっている。
傷んでいた屋根や壁は使える範囲から修繕され、礼拝堂には直した長椅子と仮机が置かれ、帳簿や市場会の資料も日常的に広げられていた。
一角はハンナが病人を診る場所として使われ、薬草や包帯、患者用の寝台が並んでいる。
かつて祈りのためだけに使われていたらしい建物には、いまでは人が集まり、話し合い、治療を受け、時には寝泊まりまでしていた。
古い教会であることに変わりはない。
けれど、もう誰にも使われていない廃墟とも言えなかった。
「ここでは廃教会を住居にも、集会場所にも使っていますわ」
「その利用自体が直ちに問題になるわけではありません」
「アルゼルのことは?」
「確認されるでしょう」
クラウスの返事は早かった。
「翼を持つ男が天使を名乗り、領主のそばに常駐している。近隣にも噂が広がっていますから」
「名乗っているのではなく、本物です」
アルゼルが訂正する。
「それを公的にどう説明するか、という話です」
「翼があります」
「翼を作る技術が絶対にないとは言えません」
「では神性を」
「それが魔術や別の現象とどう違うのか、説明できますか」
アルゼルが少し考える。
「父を呼びますか?」
「絶対にやめてくださいませ!」
イデアの声が礼拝堂へ響いた。
市場の認可を得るための現地確認へ、アルゼルの父である神そのものを呼ぶなど、問題の規模が違いすぎる。
クラウスも眉間を押さえた。
「礼務院書記の前では、聞かれたことへだけ答えてください」
「私が説明した方が早いでしょう」
「聞かれたことだけです」
「ですが」
「聞かれたことだけに」
今度はイデアとクラウスの声が綺麗に重なった。
アルゼルが少しだけ不満そうに見える。
「私への信頼が低いですね」
「神性ではなく、発言への信頼です」
クラウスが答えた。
「完全に同意ですわ」
◇
クラウスをオルドの家へ送り、馬を共同の厩へ入れ、基準分銅の箱を地下倉庫の鍵付き区画へ保管してから、イデアたちは礼拝堂へ戻った。
そこで。
「……どうして?」
イデアは入口で立ち止まった。
新しく作った縄寝台の第一号。
その中央に、一頭の灰色の雌山羊が横たわっている。
四本の脚を身体の下へ折り、藁袋へ顎まで載せて、完全に寛いでいた。
「山羊小屋の留め金は?」
「閉まってるよ!」
近くから駆けてきたカイが答えた。
「さっきユーイ兄ちゃんたちが確認してた!」
「では、この山羊は?」
「昼から市場にいたやつ! 戻すの忘れてた!」
灰色の山羊が、寝台の縄を少し噛んだ。
「噛んではいけません!」
イデアが近づいても山羊は動かない。
「そこは役人用ですわ!」
「山羊に役人は分からないよ」
リナもあとからやって来る。
「市場会の議決権だけでなく」
ダリオまで記録板を持って現れた。
「仮宿の利用権も、ございませんな」
「議事録へ書かないでくださいませよ!」
「ピムから要望が出る前に?」
「先回りしなくて結構です!」
アルゼルが山羊の鼻先へ干し草を差し出した。
「下りなさい」
山羊は干し草を見る。
次に、アルゼルの白い袖を見る。
「こちらではありません」
首が伸びる。
「干し草です」
さらに伸びる。
「なぜ、毎回こちらを」
「人気ですわね」
「食料としての人気は求めておりません」
最後はリナとカイが両側から誘導し、どうにか寝台から下ろした。
縄には浅い歯形が一本残っている。
「第一号、軽微な損傷」
ダリオが告げた。
「まだ役人が一人も使っておりませんのに!」
「山羊一頭が横たわっても壊れなかった」
ローデンは縄を引いて確かめる。
「強度試験としては成功だな」
「では黒字?」
「歯形はあります」
「赤字?」
「壊れてはいません」
イデアは寝台を見下ろした。
「……黒字と赤字が同時にございますわね」
「小ラズマイトらしいですね」
アルゼルが楽しそうに答えた。
◇
その夜。
礼拝堂の仮机へ座ったイデアは、一日の支出を帳簿へ記していた。
縄寝台。釘と留め金。縄と藁袋。
仮宿用の木札。
作業した者たちの食事。
今日のところ、それらが生んだ収入はない。
「完全な赤字ですわ」
「将来は宿泊料を生みますよ」
アルゼルが隣へ温かな山羊乳を置いた。
「また?」
「夕食のあと、ほとんど何も飲んでいないでしょう」
「水は飲みましたわ」
「身体が冷えています」
「触ってもいないのに?」
「顔色で分かります」
最近は、イデアが何を考えているかだけでなく、疲れているかどうかまで先回りされるようになっている。
少々腹立たしい。
だが、湯気の立つ山羊乳には手を伸ばした。
「役人の宿泊費は、王領監理局から出る」
「ええ」
「寝台は、今後商人にも使える」
「診療所の臨時寝台にもできます」
「でしたら、今日の赤字は将来の黒字ですわね」
「あなたらしい結論です」
イデアは帳簿の最後へ、新しく作った規則を書き加えた。
仮宿は任意参加。
家主と宿泊者の双方が規則を確認する。
役人であっても、寝床と食事を無償で使わない。
「本当に、当たり前のことですわね」
「だからこそ、決めておく価値があるのでしょう」
アルゼルの声が、静かな礼拝堂へ落ちる。
「当たり前のことほど、誰も書かなくなれば簡単に崩れますから」
「天界でも?」
「父が突然、兄弟の宮殿へ泊まりに来ることはあります」
「宿泊費は?」
「払いません」
「最悪ですわね!」
「神ですので」
「神でも払いなさい!」
アルゼルが笑う。
イデアも呆れながら山羊乳をもう一口飲み、それから机の端へ置かれた資料へ目を向けた。
礼務院書記、セシリア・ノール。
「……この方にもあなたのことを聞かれるのですわね」
「そうでしょうね」
「面倒になりませんこと?」
「なるかもしれません」
「随分あっさりしておりますのね」
「聞かれたことへ、事実を答えるだけですから」
アルゼルはいつもどおり瞳を閉じたまま、少しだけイデアの方へ顔を向けた。
「翼があることも。天使であることも。あなたに加護を与えていることも、隠す必要はありません」
「それで納得してくださればよろしいのですけれど」
「納得しなければ、説明します」
「聞かれたことだけに、ですわよ」
「覚えています」
「本当に?」
「努力します」
「そこは即答なさい!」
アルゼルの笑い声が、また小さく響いた。
現地確認まで、残り七日。
共同秤も、道も、防火も衛生も、まだ確認しなければならないことが残っている。市場権の扱いを整理し、仮宿の準備も進めなければならない。
そのうえ今度は、古い祭祀やアルゼルの存在について確認する礼務院書記まで加わった。
やるべきことは、まだ山ほどある。
けれど、役人が九人泊まるという新しい問題から、小ラズマイトには四台の縄寝台と、家主の権利を守る仮宿の規則が生まれた。
寝床を使えば、その対価を払う。
食事を出してもらえば、その代金を払う。
馬に餌を与えてもらえば、それも帳簿へ載せる。
領主でも、役人でも。誰かの家と食料を、肩書だけで無料にしてよいわけではない。
今日の帳簿だけを見れば、まだ一枚の銅貨も増えていない。
それでも。
誰かを泊めるために、別の誰かが自分の家から追い出されない。
その日の黒字は、そんな小さく、当たり前の形をしていた。




