55.役人が泊まれば、寝床も帳簿に載ります(上)
北街道管理所長ベネディクト・ラーヴェルの一行が小ラズマイトを去ってから、二日が過ぎた。
現地確認まで、残り七日。
その間も通行調査は続き、黄色い木札の立つ道では仮補修が進み、市場会はベネディクトとの協議でまとまった試行案を王領監理局へ提出するための形へ整えていた。
無条件の不認可を求めていた北街道管理所の意見が、条件を付けた試行を認めるべきだというものへ変わっただけでも前進ではある。
だからといって、現地確認そのものがなくなったわけではない。
むしろ、その朝クラウス・ハルフェンから届いた書状には、イデアが新しく頭を抱えるには十分な内容が記されていた。
「……九名?」
礼拝堂の仮机に両手をつき、イデアは書状の最後をもう一度読み直した。
「九名ですね」
向かいに座るアルゼルが穏やかに答える。
「読めておりますわ!」
「確認なさったのかと」
「なぜ九名もいらっしゃいますの?」
書状には、現地確認が予定どおり七日後に行われることと、共同秤の正式な照合に用いる王家公認の基準分銅を持参すること、そして現地確認の一行が九名になることが記されていた。
クラウス本人のほか、王領監理局の上級書記官、計量検査官、衛生を担当する官吏。北街道管理所からは副管理官ヴァイゼと書記一名。それに護衛二名。
そこまでは分かる。
問題は、最後の一人だった。
「礼務院書記?」
イデアが聞き慣れない肩書きを指先で叩く。
「宗教施設や祭礼、古い祭祀に関する記録を扱う役所でしょう」
アルゼルが答えた。
「なぜ市場の現地確認へ来るのです?」
「ここが古い市場であるだけでなく、廃教会と古い祭祀の痕跡が残る土地だからではありませんか」
そこでアルゼルは、少しだけ首を傾けた。
「それと、私のこともあるかもしれませんね」
イデアの指が止まる。
「……翼の噂?」
「すでに近隣へは広がっていますので」
「どこまで?」
「かなり」
「曖昧ですわね」
「私の美しさについての噂まで含めますか?」
「含めなくて結構です!」
ハンナを助けた一件以来、アルゼルが翼を持つ人ならざる存在であることは、もう村の中だけの秘密ではない。商人も旅人も見ているのだから、北街道を通じて噂が広がるのは当然だった。
廃教会。
この土地に残る古い信仰の痕跡。
病人の治療に関わった出来事。
そして、領主の隣を当然のように歩く、白い翼を持った男。
礼務院が何を確かめに来るのかは、まだ書状からは読み取れない。
「問題が増えましたわ……」
「まずは、もっと差し迫った問題がありますよ」
「何ですの?」
「九人を、どこへ寝かせるのですか」
イデアは目を見開いた。
「そうでしたわ!」
危うく九人の役人を、宗教問題より先に石床へ寝かせるところだった。
◇
小ラズマイトには、まだ正式な宿屋がない。
旅人が泊まる場合は、空いている家へ入るか、村人の家で寝床を借りるか、事情によっては廃教会を使う。市場が大きくなってからは外から来る商人も増えているが、夜を越すほど遠方から来る者はまだ多くなかった。
しかし、今回やって来るのは九人である。それも二泊の予定だった。
「わたくしの寝台を――」
「駄目です」
市場会を集めた礼拝堂で、イデアが言い終えるより早くアルゼルが答えた。
「まだ何も申しておりませんわ」
「ご自分の寝台を一人へ譲るつもりでしょう」
「屋根もございますし、一人は眠れますわ」
「駄目です」
「二度言わなくても聞こえております!」
「重要なので」
「二泊くらいなら、わたくしは布屋根の下で――」
「駄目です」
「三度目!」
村人たちが直してくれた自室の屋根と寝台に関することになると、アルゼルは妙に譲らない。
イデアは眉を寄せたあと、別の案へ切り替えた。
「では、あなたが普段いらっしゃる場所を」
「私は眠りませんが、寝台も持っていませんよ」
「だからこそ空いておりますでしょう?」
「椅子一脚分です」
「若い方なら、座って一晩くらい」
「二晩です」
「護衛の方なら」
「護衛も人間です」
「分かっておりますわ!」
そこでオルドが大きく咳払いをした。
「村の家へ分けて泊めるしかないでしょうな」
「受け入れてくださる家はございます?」
イデアが尋ねる。
だが、すぐには手が上がらなかった。
先ほどまで寝床の数を相談していた者たちの顔に、わずかな硬さが宿る。
「伯爵様」
やがてオルドが口を開いた。
「昔、王都や町から役人が来た時には、村の家へ勝手に泊まることがありました」
「勝手に?」
「一番広い家を選んでな。家族を納屋へ移して、自分たちが寝台を使った」
ハンナも険しい顔で続ける。
「食事も酒も出させたよ。冬の干し肉まで持っていかれた家もあった」
「代金は?」
誰も答えなかった。
答えを聞くまでもなかった。
「領主や王家の役人を泊めるのは村の義務だと言われました」
ダリオが淡々と補足する。
「拒めば、隠している財産があるのではないかと家を調べられることもあったそうです」
イデアはしばらく何も言えなかった。
自分にとっては、九人をどこへ寝かせるかというだけの問題だった。
だが、村人にとって役人を家へ入れるということは、過去に受けた無断の徴収や家探しまで思い出させる話なのだ。
「分かりました」
イデアは新しい紙を一枚取り出した。
「村の家へ、こちらの都合だけで泊めることはいたしません」
「では、どこへ?」
「希望者を募ります。それで足りなければ、空き家と教会へ寝床を用意しますわ」
「七日で?」
ミラが尋ねる。
「作れる数だけです」
「材料は?」
「市場の現金から――」
言いかけて、イデアは止まった。
市場維持費は市場設備を保つためのものだ。王領監理局の現地確認へ来る役人を泊める費用まで、当然のようにそこから出すのは違う。
「……費用負担については、あとで分けます。それより、今回だけの話にする必要はございませんわ」
「今回だけではない?」
「市場へ人が来るようになれば、今後も泊まる場所は必要になりますもの」
宿屋を一軒建てる余裕はない。
ならば、村に散らばっている空き部屋や使われていない寝台を、希望者だけが提供できる仕組みにすればいい。
「村全体で、小さな宿のようにするのです」
「規則が必要ですね」
ダリオがすぐに記録板を開いた。
「ええ」
イデアは紙へ書き始める。
家主の同意なく、客を割り当てない。
家主は理由を問われず、宿泊を断ることができる。
寝床、食事、馬の餌はそれぞれ料金を分けて記録する。
客は家主の許可なく、納屋、地下室、戸棚へ入らない。家財を壊した場合は弁償する。
反対に、家主も客の荷物を勝手に調べない。
そして、家族の部屋、とりわけ女性や子供が使う部屋へ無断で入らない。
「……当たり前のことばかりですわね」
書き終えたイデアが呟く。
「当たり前が守られなかったから、書く必要がある」
ガルドンが低く答えた。
その言葉に、礼拝堂の空気が少しだけ静まった。
「ドワーフが泊まる場合も同じ条件にしてくれ」
ネッサが言う。
「もちろんですわ」
「背が低いから寝床代を半分にしろ、と言われたら?」
「寝床をひとつ使うのでしたら、同じです」
「二人で寝られる」
「寝ますの?」
「寝ない」
「では、なぜ確認したの!?」
「規則は先に穴を探すものだ」
ドワーフは細かい。
「アルゼル兄ちゃんは?」
近くで話を聞いていたピムが尋ねた。
「寝ないなら、宿代はいらないの?」
「私は宿泊者ではありません」
アルゼルが答える。
「でも教会にいるよ?」
「居住者です」
「家賃は?」
礼拝堂が静かになった。
ピムは純粋に尋ねている。
「……わたくしも払っておりませんわ」
イデアが言った。
「領主所有の建物ですもの」
「では私も、あなたが所有する建物への居住費を――」
「なぜ、あなたから家賃を取る話になっておりますの!?」
「居住についての話では」
「その話は後です!」
何か制度を作るたびに、アルゼルという存在だけ分類からはみ出す。
◇
仮宿の料金は、寝床ひとつにつき銅貨二枚を基本とすることになった。
夕食と朝食まで家主が用意する場合は、さらに銅貨二枚。馬一頭の餌と場所には銅貨一枚。
肉や酒など、基本の食事を越えるものを求める場合は別料金である。
「役人が高い食事を求めた場合は?」
セラが尋ねる。
「本人に払っていただきます」
「王家の役人でも?」
「旅費くらい出ているでしょう?」
「出ていなかったら?」
イデアは黙った。そういえば、確認していない。
「……王領監理局へ請求いたしますわ」
「先に聞いた方がいいのでは」
「到着まで七日ですもの。返事が間に合わなければ、とりあえず領主会計で――」
「また手元の金が減りますね」
ダリオが冷静に指摘する。
屋根。道。診療所。市場設備。
必要な支出だらけで、ただでさえ手元の現金は薄い。
「それでも、村人へ無償で出させるよりはましですわ。王領監理局が支払わないのでしたら、その後クラウス様へ請求書を送り続けます」
「毎月?」
「払わないのであれば」
どこか遠くで、まだ到着してもいないクラウスが頭痛を覚えそうな話だった。
「金を払うなら」
ミラが最初に手を上げた。
「うちで一人までなら泊めてもいいよ。使っていない部屋がある」
「本当に?」
「勝手に戸棚を開けないなら」
「家主と宿泊者、双方に規則へ署名していただきますわ」
「そこまでしてくれるならね」
それをきっかけに、少しずつ受け入れ先が決まっていった。
ミラが一人。ローデンの家で二人。使える空き家へ四人。
残る二人は、ひとまず教会で受け入れる。
「誰を教会へ?」
アルゼルが尋ねた。
「クラウス様ですわ」
「本人の同意は?」
「以前もここへ来ていますもの」
「泊まることへの同意ではありません」
「では到着してから伺います」
「断られたら?」
イデアは静かに地下室へと続く扉を見た。
「……何ですか、その視線は」
「何でもございませんわ」
「クラウスが可哀想なので、やめてください」
◇
泊める場所の次に見つかった問題は、寝床だった。
空き家に残っていた古い寝台が四つ。そのうちふたつは長く使われておらず、見た目だけでは安全かどうか分からない。
「まず強度を確かめます」
ミラが寝台の脚を叩きながら言った。
「どうやって?」
「人を乗せる」
「誰を?」
「できれば重い方が」
自然と、全員の視線がガルドンとボルグへ向いた。
「俺は嫌だぞ」
ガルドンが即答する。
「なぜですの?」
「人間の寝台は長いが、狭い」
「横にならず、座るだけでも」
「壊れたら俺が壊したことにされる」
「寝台が悪ければ、そのように記録いたしますわ」
「本当に?」
「もちろん」
ガルドンが少し考え、ようやく一歩前へ出ようとした時だった。
「私が行いましょう」
アルゼルが横から進み出る。
「あなた、それほど重くありませんでしょう?」
「翼を含めれば、それなりに」
「翼は重いの?」
「神聖です」
「重さを聞いております!」
「測り方によりますね」
「では共同秤へ――」
「寝台の試験では?」
秤へ話が移った途端、アルゼルの返事が早くなった。
彼は古い寝台の端へ腰を下ろした。きし、と木が鳴る。
「もう少し中央へ」
ミラが脚を見ながら指示する。
「こうですか?」
アルゼルが身体をずらした。
ぎし。
乾いた音が、寝台の下からさらに響いた。
「動かないで!」
「私は動いていません」
ぱきっ、と板が割れる。
次の瞬間、中央の床板が完全に折れ、アルゼルの身体が寝台ごと沈んだ。
「……」
金髪の天使が、折れた木枠の中へ妙に綺麗に収まっている。
「アルゼル!」
イデアがすぐに駆け寄った。
「怪我は?」
「ありません」
「翼は?」
「無事です」
「よかった……」
「笑っていますね」
「笑っておりませんわ」
「口元が」
「怪我がなかったので安心しただけです!」
「寝台へ嵌まった私を見て?」
「少々珍しいお姿ではございましたけれど」
アルゼルが木枠を押し退けて立ち上がる。白い衣へ細かな木屑がついていた。
「寝台ひとつ、使用不可」
ダリオが記録する。
「私の尊厳は?」
「宿泊設備の記録には不要です」
「扱いが軽くありませんか?」
その横でミラは、折れた板の断面を確かめていた。
「中が腐ってる」
「外からは綺麗でしたわよ?」
「虫に食われたあと、湿気で弱ったんだと思う」
残る三つも調べ直した結果、もう一台にも内部の腐食が見つかった。
「役人が眠ったあとで壊れなくてよかったな」
オルドが言う。
「アルゼルのおかげで事故を防げましたわ」
「私への見返りは?」
「怪我をなさらなかったこと」
「それは見返りではありません」
「では……わたくしの笑顔?」
口にしてから、イデアは止まった。
以前、アルゼルが彼女の笑顔を自分にとっての利益だと言ったことがある。
アルゼルも覚えていたらしい。一瞬だけ黙ったあと、その口元に浮かんだ笑みが、先ほどまでより柔らかくなる。
「それなら、十分な黒字ですね」
「……冗談ですわよ」
「私は本気ですが」
「寝台を直します!」
イデアは素早く顔を背けた。
耳が熱いことには、気づかなかったことにした。




