閑話 領主様は、知らないことほど調べます
北街道管理所長ベネディクト・ラーヴェルの一行が、小ラズマイトを発った日の夕方。
市場の片づけが始まり、昼間より少しだけ人の声が落ち着いた頃、廃教会の裏手では、なぜか数人の人間が木箱を囲んでいた。
村の若者、トーマ。
山羊飼いの兄妹であるユーイとエスタ。
大工のミラと、ドワーフの青年ボルグ。
そこへ、今日の様子を見ていた商人のエーミルまで加わっている。
誰かが会議を招集したわけではない。仕事を終えた者が一人立ち止まり、もう一人がそこへ混ざり、いつの間にか人数が増えただけだった。
「それで」
ミラが木箱へ腰掛けたまま、トーマを見た。
「本当に全部聞いてたの?」
「全部じゃない」
「どこから?」
「北街道の話になった辺り」
「ほとんど全部じゃない」
「盗み聞きじゃないぞ。扉が少し開いてたんだ」
「それを盗み聞きって言うんじゃない?」
エスタが呆れたように言った。
トーマは不満そうだった。
「俺とユーイは、外の材木を片づけてただけだ」
「俺は途中から聞こえただけです」
ユーイが素直に補足する。
「ほら」
「何の弁明にもなってないよ」
ミラが笑った。
話題になっているのは、昼間のイデアとベネディクトのやり取りだった。
街道使用。
市場権。
修繕費。
王領側との負担。
通行する商人。
これから先、市場が正式に認められた場合の管理。
トーマたちは細かな言葉の意味まで理解できたわけではない。それでも、五十を越えた役人を相手に、イデアが一歩も退かず、自分の領地の事情を説明し、相手の理屈を聞き、その場で条件を組み直していたことくらいは分かった。
「何であんなに話せるんだろうな」
トーマが腕を組む。
「相手、偉い役人だったんだろ」
「北街道管理所長ですよ」
エーミルが答えた。商人だけあって、役所の名前や立場には他の者より詳しい。
「少なくとも、村の揉め事を持ち込む相手ではありませんね」
「なのに領主様、普通に言い返してた」
ユーイが感心したように言う。
「普通どころか、途中から向こうが帳面出してたよね」
ミラも昼間の様子を思い出す。
「道のことなんて、領主様だって最近まで知らなかったでしょう?」
「工事のこともな」
ボルグが低く言った。太い腕を胸の前で組み、少し考えるように顎を引く。
「石の組み方は知らん。水の逃がし方も、地面の硬さを見る方法も知らん。穴を掘らせれば危なっかしい」
——最後は余計ですわよ。
そんな声が聞こえた気がして、一同が一瞬廃教会の方を見る。
誰もいなかった。
「……まだ来てない」
ミラが確認した。
「何で来る前提なんですか」
エスタが尋ねる。
「領主様だから」
「理由になってないよ」
「でも、こういう話してると大体来るよ」
「どこから聞きつけるんだろうな」
トーマが首を捻る。
「たぶん自分の名前だけ聞こえるんだよ」
ユーイが言った。
「山羊かよ」
「山羊より耳がいいんじゃない?」
ミラが笑うと、エスタは眉を寄せる。
「本人がいないところで、そんな好き勝手言っていいの?」
「いいんじゃない?」
「どうして?」
「本当に嫌なら、本人が来るから」
ミラはあっさり答えた。
「来て怒る」
「訂正もする」
トーマが加える。
「帳面まで持ってくる時がある」
ユーイまで言った。
エスタは、そんな領主が本当に存在するのだろうかという顔になった。
小ラズマイトへ来てから、それなりに日数は経っている。
それでも時々、この土地では領主と村人の距離がおかしい。
「でもさ」
ミラは脚をぶらつかせながら言った。
「領主様って、元からこういうこと知ってたのかな」
「こういうこと?」
「役所とか、契約とか、お金とか。誰に許可を取るとか、誰が責任を持つとか」
「貴族なら知ってるんじゃないか?」
「貴族が全員、道の管理所長とあんな話できると思う?」
エーミルが苦笑した。
「少なくとも、私が商売で会った貴族は様々ですよ。帳簿を自分で読む方もいれば、値段すら使用人任せの方もいる」
「じゃあ領主様は、何で?」
ユーイが尋ねても、誰もすぐには答えられなかった。
イデアは、分からないことがあれば人に聞く。
聞いて終わりにはしない。
次に同じ話が出る頃には、前より少し詳しくなっている。
市場を始めた時もそうだった。
税について。
商人の慣習について。
倉庫の管理について。
怪我人が出れば、今度は診療の記録について。
道が崩れれば、修理費の出所について。
分からなければダリオへ聞き、商売ならエーミルやマーサへ聞き、工事ならミラやローデンへ聞き、石や坑道ならドワーフへ聞く。
そして、しばらくすると質問する側だったはずのイデアが、別の誰かへ説明している。
「全部知ってるわけじゃないんだよね」
ミラが言った。
「工事なんて、本当に知らないこと多いし」
「農業もだ」
トーマが頷く。
「最初の頃、畑の土を見て何が分かるんだって顔してたぞ」
「今も分かってないところ、ありますよ」
ユーイが言った。
「山羊のことも」
「山羊は別でしょう」
エスタが兄を見る。
「でも、知らないままにしないんだよな」
トーマがぽつりと言った。
そこへ。
「何をですの?」
全員が振り返った。
赤い裾が、廃教会の角から現れた。イデアである。
片手には紙の束。もう片方には、どう見ても仕事途中の帳面。その後ろから、白い翼を畳んだアルゼルまでついてくる。
「ほら来た」
「本当に来た……」
エスタが呟いた。
「何のお話をしていらしたの?」
イデアは当然のように輪の中へ入ってきた。
「それより領主様」
トーマが訊く。
「おいくつでしたっけ?」
「何ですの、突然」
「いや、今の話でちょっと気になって」
「十八ですわ」
沈黙した。
木箱の周りが、妙に静かになる。市場の向こうで、片づけ中の木板が重なる音だけが聞こえた。
「……十八?」
ミラが最初に聞き返した。
「ええ」
「十八歳?」
「ほかに何の十八がございますの?」
ボルグまでイデアを見た。
「もっと上かと思っていた」
「ボルグ?」
「老けてるとは言ってない」
「では何ですの!?」
「圧だな」
トーマが言った。
「圧」
ユーイも頷いた。
「役人相手に話してる時とか」
「市場で怒ってる時とか」
ミラも続ける。
「帳簿を持って歩いてる時も」
「それは年齢と関係ございませんでしょう!?」
イデアの声が市場へ響く。
少し離れたところで遊んでいたピムが、それを聞きつけて走ってきた。
「領主様、十八なの?」
「そうですわよ」
「僕より十一こ上?」
「そうなりますわね」
ピムが指を使って確認し、それからイデアを見上げた。
「大人だ」
「成人しておりますもの」
「でも、もっと大人かと思ってた」
「ピムまで!?」
アルゼルが隣で口元を押さえている。
「何を笑っておりますの」
「笑っていません」
「肩が動いております!」
「翼では?」
「肩です!」
イデアが睨むと、アルゼルはますます楽しそうになった。
「それで?」
イデアは腰へ手を当て、集まった面々を見回す。
「わたくしの年齢について話すために、皆様ここへ集まったわけではないでしょう?」
「どうして領主様は、あんなに色々知ってるのかって話」
ミラの答えに、イデアが瞬きをする。
「色々?」
「役所のこととか」
「契約とか」
「商売の決まりとか」
「帳簿とか」
それぞれが口を挟む。
「道や工事のことは詳しくないでしょう?」
「当然ですわ。専門家ではございませんもの」
「農業も」
「それも皆様の方が詳しいでしょうね」
「じゃあ、何であんなに色々対応できるの?」
ミラが改めて尋ねると、イデアは少し考えるように首を傾げた。
けれど、答えは驚くほど簡単だった。
「わたくしは元々、公爵家へ嫁ぐ予定でしたもの」
さらりと口から出た。
言ってから、イデア自身が、ほんの少しだけ目を瞬いた。
以前なら、この話題を口にするだけで、胸の奥のどこかが固くなった。
婚約。
公爵家。
元婚約者。
自分の知らないところで進められた書類。
奪われたもの。戻らなかった時間。
それらが一緒になって、喉の奥へ小さな苦さを残した。
けれど、今は。
何もなかった。
傷が消えたわけではない。過去が変わったわけでもない。
ただ、それを口にしたからといって、胸が痛まない。
イデアはそれに気づいて、少しだけ不思議な気持ちになった。
「公爵家に?」
ミラが聞き返す。
「ええ」
「婚約者がいたの?」
「伯爵家の令嬢なら、婚約者くらいいてもおかしくはないでしょう?」
「いや、そうだけど」
ミラの視線が、無意識にイデアの隣へ動く。それにつられて全員が、一斉にアルゼルを見た。
アルゼルは、閉じた瞳のまま穏やかに立っている。
「何でしょう」
「いや」
トーマが視線を逸らした。
「別に」
「何でもない」
ミラも逸らす。
イデアだけが眉を寄せた。
「何ですの、その反応は」
「何でもないって」
「絶対に何かございますでしょう!?」
「公爵って何?」
ピムの声が割り込んだ。全員の視線がそちらへ逃げる。
「偉い人だよ」
トーマが即座に答えた。
「どのくらい?」
「すごく偉い」
「領主様より?」
「……たぶん」
トーマの声が弱くなる。ピムがさらに首を傾げた。
「何で偉いの?」
「爵位が」
そこでトーマが止まった。数秒考える。
そして、イデアへ顔を向けた。
「領主様」
「何ですの?」
「公爵って、どのくらい偉いんだ?」
ミラが吹き出した。
「知らなかったの!?」
「偉いのは知ってる!」
「さっきピムに説明してたでしょう!」
「偉いってところまでは分かる!」
「そこしか分かってないじゃない!」
笑い声が広がる中、ピムだけは真剣だった。
「領主様、公爵って何?」
イデアは額へ手を当てた。
「王国の爵位の中でも、特に高い家格ですわ。王家に近い役目を担う家も多く、広い領地や大きな責任を持つこともございます」
「じゃあ、領主様はそこにお嫁に行くはずだったの?」
「そうですわね」
「何するの?」
「家によりますけれど」
イデアは少し考えた。
「大きな屋敷の使用人をまとめたり、領地や家の支出を把握したり、来客を迎えたり、贈答や式典を取り仕切ったり。夫が不在なら、代わりに判断しなければならないこともございます」
「だから帳簿?」
ユーイが聞いた。
「それもありますわ」
イデアは頷く。
「婚約が決まった頃から、役に立たない妻になるつもりはございませんでしたもの」
教えられたことだけではない。
家の帳簿を読む。過去の支出を見る。
使用人の役目を覚える。
客人を迎える時の席順。
食料の備蓄。衣服や布の管理。
贈答品の相場。
契約書の形式。領地から上がる報告。
税。市場。王都の役所。
貴族同士の書簡。
知らない言葉があれば調べた。
一度気になれば、その前後まで読んだ。
家庭教師に尋ねて答えが足りなければ、別の本を探した。
父の書斎で許された記録も読んだ。もっとも、家の帳簿は巧妙に書き換えられていたものだったが――。
いずれ公爵家へ入った時に、何も知らないまま誰かに任せきりにすることがないように。
けれど。
「元々、わたくしは知りたいと思ったことを、そのままにしておくのが嫌なのです」
イデアは少し肩をすくめた。
「分からないなら調べます。調べても分からなければ、知っている方へ聞きます。それだけですわ」
「それだけって」
ミラが呆れた。
「普通、そこまでやらないよ」
「必要ならやるでしょう?」
「領主様の『普通』は、たまに信用できない」
「どういう意味ですの?」
「褒めてる」
「今のどこが?」
エーミルが小さく笑った。
「ですが、納得はしました」
「何が?」
「伯爵閣下は、商人が使う言葉を最初から全部ご存じだったわけではありません」
「当然でしょう」
「けれど一度説明したことを、次には別の制度と結びつけて質問される」
エーミルは腕を組む。
「市場を始めた頃から、そうでした。知識が多いというより、覚えたものをそのまま置いておかないのでしょうね」
「使えるものなら使いますわ」
「それです」
エーミルが頷いた。
「だから、詳しい者から見ると専門家ではない。ですが、何も知らない人とも話が違う」
「中途半端ということ?」
「つなぐのが上手い、ということです」
思いがけない言葉に、イデアが少し目を瞬いた。
農業は農家の方が知っている。
工事はミラやローデンの方が知っている。
石はドワーフ。
薬はハンナ。
商売は商人。
記録はダリオ。
イデア自身が、そのすべての専門家になることはできない。
けれど。
誰へ聞くべきか。
何を確認すべきか。
誰の負担になるのか。
どの帳簿へ残すのか。
それを考えることならできる。
「公爵家へ嫁いでいたら」
エスタが遠慮がちに言った。
「今みたいなことをしてたの?」
「どうでしょうね」
イデアは少しだけ空を見た。
「もっと大きな屋敷で、もっと大勢の使用人と、もっと面倒な帳簿を相手にしていたかもしれませんわ」
「市場は?」
「作っていないでしょうね」
「山羊は?」
「追いかけておりません」
「坑道は?」
「入っておりません!」
「隕石は?」
「それはどこへ嫁いでも知りませんわよ!」
笑い声がまた広がった。イデアも、今度は普通に笑った。
公爵家。
婚約。
そこへ向かうために学んだ時間。
以前なら、それらすべてを失ったものの側へ数えていた。
けれど、学んだことまで、なくなったわけではなかった。
家政を学んだことも。
帳簿を読んだことも。
契約を疑う癖も。
知らないことを放置しない性格も。
全部、今ここで使っている。
それなら。
あの頃の自分が費やした時間まで、不幸の中へ捨てなくてもいいのかもしれない。
ふと隣を見る。
アルゼルが、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「何ですの?」
「いえ」
「言いたいことがおありでしょう?」
「あなたは昔から、随分と勤勉だったのですね」
「今さら?」
「今も十分知っていますが」
アルゼルは少しだけ顔を傾けた。
「昔のあなたを、私は知りませんから」
イデアの胸が、わずかに動いた。
昔の自分。
公爵家へ嫁ぐために本を開いていた頃の自分。
アルゼルのいない日々。
「では、今のわたくしだけ見ていればよろしいでしょう」
思わず口から出た。
アルゼルが少しだけ黙る。イデアも、言ってから気づいた。
「……今のは」
「はい」
「深い意味はございませんわよ」
「まだ何も言っていませんが」
「その笑顔をやめてくださいませ!」
周囲の視線が、また二人へ集まった。
ミラが口元を押さえる。
ユーイは明後日の方を向く。
エスタだけが、先ほどの話を思い出したように小声で呟いた。
「……本人が来るから大丈夫って、こういうことなんだ」
「そういうこと」
ミラが頷いた。
「全部聞こえておりますわよ!」
イデアの声が、夕方の市場へ響いた。
十八歳。
知らないことは、まだ山ほどある。
土のこと。
石のこと。
水車のこと。
山羊がなぜ白い袖を好むのかも、いまだに分からない。
けれど。
知らないなら聞けばいい。
分からないなら調べればいい。
知っている人がいるなら、その人に任せればいい。
イデアが持っているのは、何でも知っている頭ではなかった。
知らないままでいることを嫌う性格と、一度知ったことを次へ使おうとする癖だった。
それは公爵家の女主人になるために磨かれ、いまでは、小ラズマイトの領主として使われている。
予定していた嫁ぎ先へは、とうとう行かなかった。
けれど、そのために学んだものまで、道を失ったわけではなかった。




