54.未完成の市場は、完成したふりをしません(下)
ちょうどその時だった。
村入口の方から、木の割れる大きな音が響いた。
ばきっ、と乾いた音。続いて怒鳴り声。
「止めろ!」
「車輪が割れた!」
イデアは反射的に駆け出しかけた。
目の前へ、赤い木札が出る。
「いま!?」
「市場会の担当です」
アルゼルだった。
「事故ですわよ!」
「怪我人の確認はハンナとオルド。設備はミラとローデン」
「ですが――」
「本当に危険なら、私が動きます」
その言葉と同時に、アルゼルの表情から笑みが消えた。閉じた瞳のまま、わずかに顔を村入口へ向ける。
「命に関わる怪我はありません」
「でしたら」
「見に行きましょう」
走ることは許された。ただし、先頭へ出ることは許されなかった。
村入口では、大型の荷車が大きく傾いていた。前輪のひとつが割れ、車軸が土へ食い込んでいる。
荷台には大きな塩樽が八つ。御者と助手は無事だったが、荷車が道を塞いでいた。
「黄色札の区間は、一台ずつだと書いてあるだろう!」
ミラが声を張る。
「前の荷車へ続いただけだ!」
御者が言い返した。
「入口で間を空けてって説明した!」
記録板を抱えたピムまで声を上げる。
「子供の言うことだから――」
「記録係ですわ!」
思わずイデアが口を挟むも、すぐ横でアルゼルの赤札が上がる。
「……市場会へ任せます」
ぐっと堪え、そう言い直した。
ベネディクトは何も言わず、それを見ている。
「荷は?」
ダリオが尋ねた。
「塩樽八つだ」
「申告は六つです」
「ふたつくらい、同じだろう!」
「同じではない」
ガルドンが車輪の横へ屈み込んだ。割れ目を確かめ、さらに車軸へ手を当てる。
「車軸も限界だ。道へ入る前から傷んでいた」
「道が悪いんだ!」
「黄色札の意味は知っているか」
「仮補修だろ」
「なら、なぜ前の荷車へ詰めて入った」
御者が黙った。
「責任の話は後です」
オルドが言う。
「まず道を空ける」
そこからは早かった。
市場会と作業責任者が、それぞれの持ち場へ散る。
塩樽を降ろして荷を軽くする。荷の一部は地下倉庫前の安全な場所へ一時退避。
割れた車輪はミラとローデン。車軸はボルグ。路面はガルドン。
御者と助手に怪我がないかはハンナ。
ダリオは荷と作業内容を記録する。
「塩を全部降ろすのか!」
「軽くしなければ、荷車を上げられません」
ダリオが冷静に答えた。
「倉庫代まで取る気か」
「事故処理のためだけの一時退避には取りません」
「修理は?」
「必要な材料と労働の分だけです」
「高かったら自分で直す!」
「道を塞いだまま?」
「……」
「先に見積もりを出します。その後で決めてください」
誰もイデアを見ていない。
それでも市場は動いている。
「伯爵閣下」
ベネディクトが低い声で呼んだ。
「何でしょう」
「手を出さないのですか」
「出したいですわ……非常に」
「正直ですな」
イデアは、荷車を囲んで動く人々を見る。
「ですが、皆様の仕事です」
「領主の責任では?」
「最終的には」
「ならば」
「責任があることと、すべて自分で動かすことは別ですわ」
少し前に、ようやく身につけ始めた考えだった。
「必要になれば判断します。いまは、担当者が動いておりますもの」
ベネディクトは何も答えなかった。
◇
塩樽を降ろすと、荷車は目に見えて軽くなった。
アルゼルとボルグが左右から車体を支える。
「なぜ私は、また支柱の役目を」
「持てるからだ」
ガルドンが答える。
「最近、その理由ばかりですね」
「能力に応じた分担ですわ。あなたが使った言葉を、そのまま返します」
少し離れた場所からイデアが言うと、アルゼルは荷車を支えたまま笑った。
「便利でしょう? 私は、美しく指揮する役でもよいと思いますが」
「持ち上げて!」
ミラが叫んだ。
「はい」
アルゼルは素直に荷車を持ち上げた。
市場の備えとして用意していた共用の仮輪を差し込む。
割れた元の車輪は、直すにしても時間がかかる。ひとまず仮輪を貸し出し、荷車を道の端まで移動できるようにすることになった。
「仮輪の預り金、銅貨八枚」
ダリオが告げる。
「高い!」
御者が叫んだ。
「返却されれば全額戻ります」
「修理代も取るのに?」
「修理代は修理の対価。こちらは仮輪そのものの預り金です」
「油壺の時に決めた保証金と同じ考え方ですわね」
イデアが言う。
「制度を作っておいてよかったですね」
荷車を支えたままアルゼルが答えた。
「話している余裕があるなら、もう少し上げて!」
「どのくらい?」
「板一枚分!」
「分かりました」
「今回は素直ですわね」
「学習しますので」
仮輪が入った。
荷車が道の端へ移され、塞がれていた通路が開く。
事故が起きてから、まださほど時間は経っていない。
「塩樽八つ」
ダリオが共同秤で確認した荷を記録する。
「申告よりふたつ多い。大型商用荷車の基準へ該当する見込み」
「道路の金まで取るのか」
御者が警戒した。
「まだ正式には決まっておりません」
今度はイデアが答えるべき話だった。
「本日は、虚偽申告によって増えた荷扱いの作業費と、必要な修理費だけですわ」
「虚偽と言うほどか? ふたつだぞ」
「六つと八つは違います」
「たったふたつだ」
「そのふたつ分で、傷んでいた車輪へ最後の負担がかかった可能性はある」
ガルドンが言った。
ドワーフの言葉で、御者はようやく黙った。
◇
「今の荷車ですが」
市場へ戻る途中で、ベネディクトが口を開いた。
「通行料を取っていれば、防げましたかな」
「いいえ」
イデアはすぐ答えた。
「金を払えば、重い荷車が安全になるわけではございませんもの」
「では、何が必要だと?」
「荷の確認。車輪の状態。通行間隔。仮補修区間の表示。荷を分ける場所。それから、規則を守らなかった場合の負担です」
「大型荷車だけに多く負担させる?」
「道へ与える負担が大きいので」
「先ほどの御者は金を嫌がった」
「誰でも嫌がりますわ」
「ならば、別の道へ行くかもしれない」
「それでよい場合もございます」
ベネディクトが足を止めた。
「客を追い返す市場なのか」
「安全に受け入れられない荷車まで、無理に呼び込む市場ではございません」
イデアは、黄色い札の並ぶ道へ目を向けた。
「今の小ラズマイトが受け入れられる量には限界がありますわ」
「収入が欲しいのでしょう」
「欲しいですわ」
「なら、すべて通せばよい」
「道が壊れて、人が怪我をして、修理費が収入を上回れば赤字です」
目先の金を得るために、道そのものを失うわけにはいかない。
「大きすぎる荷は分ける。必要なら倉庫を使う。壊れた車輪には仮輪を貸す。その方が仕事も増え、結果として市場へ金も残ります」
「抜け目がない」
「借金がございますので」
「その話は、本当だったのですな」
「何だと思っておりましたの?」
「評判を和らげるための冗談かと」
「借金の方こそ冗談であってほしかったですわ!」
◇
午後には、市場会と北街道管理所を交えた協議が開かれた。
整理された案は、単純だった。
月に一度は、古い市場権に基づく正式な定期市として申請する。
それ以外の日は、正式な認可が下りるまでは水車や診療所の利用に伴う小規模な取引日に留める。
常設市場への拡大については、正式認可後に改めて申請する。
出店数に上限を設ける。
大型商用荷車は事前に荷を申告する。
仮補修区間へ入る前に、必要なら荷を分ける。
正式認可された場合には、外部利用から得た市場側収入の八分五厘を、接続道路の維持積立へ回す案を王領監理局へ提出する。
徒歩の者や患者を運ぶ荷車、生活のために少量の農産物を運ぶ者からは、道を通るだけの料金を取らない。
「北街道管理所としては」
ベネディクトが案を読みながら言った。
「大型商用荷車へ、最低限の市場施設利用料を設けるべきだと考えます」
「道を通るだけではなく?」
「市場へ入る場合のみです」
「何を利用した対価ですの?」
「入口での荷の確認。必要な場合の荷分け場。仮輪や引き上げ道具の準備。大型荷車を誘導するための人員」
つまり、通行そのものではない。
大型荷車を安全に市場へ入れるための設備と作業への料金である。
「その条件でしたら、検討いたします」
「銅貨三枚」
「高いですわ」
「大型荷車一台です」
「荷分けも修理も必要なかった場合は?」
「確認には人手を使う」
「銅貨一枚」
「二枚」
「一枚。それに、荷分け場を実際に使った場合だけ追加一枚」
「一枚では、管理所側の道路負担が」
「道路維持には八分五厘の積立案が別にございます」
「施設と道路は別です」
「でしたら、施設料は設備を用意する小ラズマイトへ。道路維持積立は共同管理する道へ」
ベネディクトの眉が上がる。
「管理所へ直接は入らない?」
「こちらが人を置き、設備も揃えますもの」
「管理所側も基準作成に関わる」
「基準は共同で。設備の費用は使う側へ」
そこからは、細かな条件のすり合わせになった。
大型商用荷車の施設利用料は銅貨二枚という案から始まり、イデアは一枚を主張する。
道路維持積立は外部利用収入の八分五厘。
荷分け場を実際に使った場合は、さらに銅貨一枚を追加。
仮輪は、返却を前提とした預り金とする。
また、市場施設利用料については、患者を運ぶ荷車や生活用の荷車を対象外とする。
机の上を言葉の応酬が飛び交い、ひとつずつ数字と条件を詰めていくうち、協議は二刻ほど続いた。
最終的にまとまったのは、あくまで王領監理局へ提出する試行案だった。
市場が正式に認可された場合、大型商用荷車の市場施設利用料は銅貨一枚。
荷分け場を使った場合は追加一枚。
修理、倉庫などを実際に使えば、その費用は別。
道路維持積立は、対象となる外部利用収入の八分五厘。
まずひと月試し、実際の通行量、事故、修繕費を見て再検討する。
「ひと月」
イデアが呟いた。
「何か?」
ベネディクトが見る。
「最近、何でも試すところから始まりますわね」
「最初から完璧な制度が作れると?」
「……作りたい気持ちはございます」
「それで三枚目の紙が増えるのでしょう」
言い返せなかった。
◇
「反対意見そのものは、取り下げません」
協議の最後、ベネディクトは明確にそう言った。
市場会の空気が少し張り詰める。
「王領監理局の現地確認前ですからな」
「ええ」
イデアも頷いた。
「ただし」
彼は続ける。
「北街道管理所としての意見を、無条件の不認可要求から、条件を付けた試行を認めるべきだという提案へ変更します」
完全な認可ではない。勝利とも言えない。
けれど、最初から潰すべき市場ではなく、条件を整えて試す価値のある市場として見てもらえた。
「理由を伺っても?」
「未完成だからです」
予想外の答えだった。
「未完成だから?」
「完成したふりをしていない」
ベネディクトは、市場のあちこちに立つ黄色と赤の札を見る。
「道は悪い。屋根も足りない。古い権利がどこまで現在使えるかも曖昧だ。収入も、まだ小さい」
「散々ですわね」
「事実です」
「……ええ」
「しかし、どこが悪いのかを記録している。事故を隠さず、対応も残す。責任を一人へ集めず、かといって誰も負わない状態にもしていない」
ベネディクトの視線が、市場会の者たちへ移った。
「そして今日、現場は領主の顔を見なくても動いた」
イデアの胸の奥に、ほんの少し誇らしい熱が生まれた。
「伯爵閣下」
「何でしょう」
「あなたは、善人だから市場を開いているのではないのでしょうな」
「善人のつもりはございませんわ」
「では?」
「借金を返したいのです」
「それだけで、病人から通行料を取らない?」
「銅貨を払えず診療所へ来られなくなったら、診療所を作った意味がございませんもの」
「ドワーフへ余計な負担を求めない?」
「品物を持って来なくなれば、市場が損をします」
「働いた者へ賃金を払う?」
「次も働いていただきたいですもの」
ベネディクトが、初めてわずかに口元を上げた。
「善人というより、長く利益を見ている商人の考え方ですな」
「褒めております?」
「管理所長としては」
彼は書類を畳んだ。
「善意だけより信用できます」
それはたぶん、かなりの褒め言葉だった。
◇
北街道管理所の一行が帰る頃。
市場入口へ、灰色の山羊が一頭現れた。共有山羊群の雌山羊である。
どこから抜けてきたのか、その口には立入禁止を示す赤い木札が咥えられていた。
「それは食べ物ではございません!」
イデアが叫ぶが、山羊は立ち止まり、しれっとした様子で赤札を噛む。
「噛んでもいけません!」
さらに噛む。
ベネディクトが山羊を見た。
「この山羊は?」
「共有山羊群の一頭です」
ダリオが答える。
「市場会の構成員か」
「議決権はございません」
その場にいた者たちの声が、見事に重なった。
ベネディクトが、初めてはっきり笑った。
「その規則も記録しておきなさい」
「すでに議事録へあります」
ダリオが答える。
「なぜ!?」
イデアの声が響いた。
その隙だった。
赤札を落とした山羊が、今度はイデアの深緑の袖へ鼻先を伸ばす。
「こちらも食べ物では――きゃっ!」
袖を引かれ、身体が前へ傾く。
すぐにアルゼルの腕が腰を支える。
「本日も最後に起きましたね」
「何が?」
「衣服を汚す災難が」
「まだ汚れておりません!」
山羊の脚が、ぬかるみを踏んだ。
泥が跳ねた。
深緑の長衣へ、見事な茶色の斑点が散る。
「……セラに謝りますわ」
「私も一緒に」
「なぜ?」
「隣にいたのに防げなかったので」
「でしたら、謝る前に山羊を止めてくださる!?」
市場入口に笑い声が広がる。
北街道管理所の一行は、その声を背に村を出ていった。
◇
その夜。
イデアは、協議記録と試行案を帳簿へ綴じていた。
本日の市場収入は、通常利用分の地下倉庫料。
事故車両の修理作業費と、その他の小口収入。
事故車両へ貸した仮輪の預り金は、返却時に返す金なので収入へは入れない。
支出には、作業者の食事、仮輪の摩耗見込み、そして赤札一本の交換費。
「山羊が噛んだ分ですね」
アルゼルが言った。
「共有山羊群の管理費から半分。残り半分は市場設備の維持費からだそうですわ」
「なぜ半分?」
「山羊が届く高さへ札を立てた市場側にも責任がある、と」
「市場会の判断ですか」
「ええ」
「あなたが決めなかった?」
「報告を受けただけですわ」
口にしてから、イデア自身が少し驚いた。
少し前なら、赤札一本の交換費であっても、自分が決めずに処理されることへ落ち着かなさを感じていたはずだ。
今は。
そんなことまで全部、自分が悩まなくてもよいのだと思うと、少しだけ肩が軽い。
「管理所長の反対は残りました」
「しかし、無条件の反対ではなくなりました」
「正式な認可ではございませんわ」
「現地確認はまだ先です」
「残り九日」
「間に合いますか?」
「全部は無理ですわ」
アルゼルが少しだけ顔を向けた。
「珍しい答えですね」
「終わらない仕事を、終わったふりはいたしません」
「成長しましたね」
「褒め方が腹立たしいですわ」
イデアは壁に吊られた三枚の掲示紙を見た。
必ず終える仕事。
終われば望ましい仕事。
十二日では絶対に終わらない仕事。
三日が過ぎて、いくつかの項目は終わった。
いくつかは、まだ途中。
最初から手をつけないと決めたものも残っている。
「アルゼル」
「何でしょう」
「今日、事故が起きた時」
「はい」
「わたくしを止めましたわね」
「市場会の担当でしたので」
「皆様が動けなかったら?」
「私が動きました」
「わたくしではなく?」
「あなたも動いたでしょう」
アルゼルは穏やかに答える。
「ですが、今日は必要なかった」
「必要ないのは、少し寂しいですわ」
「また?」
「以前よりは、少しだけです」
「では、どのくらい?」
「四分の一ほど」
「随分減りましたね」
「実績を確認しましたので」
イデアは羽根ペンを置いた。
「あなたも、皆様が動くと分かっていたから、今回は手を出さなかったの?」
「ええ」
「わたくしを助ける時は、すぐ動きますのに」
「市場の荷車と、あなたは違います」
「何が?」
「荷車なら、人間たちが直せます」
「わたくしだって直せますわよ」
「あなた自身を?」
問われて、言葉に詰まった。
「……努力はいたします」
「信用できません」
「即答しないでくださる?」
「ですから」
アルゼルが机越しに手を伸ばした。
泥を落としても薄く残った、イデアの袖の染み。そこへ指先がそっと触れる。
白檀に似た香りが、ふと近くなる。
「本当に必要な時は、私を見てください」
「見なくても、勝手に来るでしょう?」
「ええ」
アルゼルは微笑んだ。
「あなたのそばには」
胸が一度、強く鳴った。
イデアはその意味を考えるより早く、帳簿へ視線を落とした。
「……本日の収支を計算しますわ」
「話を逸らしましたね」
「領主の仕事です!」
現金だけを見れば、その日の利益は銅貨数枚にすぎなかった。
王家への借金は、まだ一枚も減っていない。
市場の正式認可も得ていない。
道は未完成。屋根も不揃い。黄色の札も、赤い札も残っている。
それでも。
無条件の反対は、条件付きで試すべきだという意見へ変わった。
北街道管理所と共同で、道にかかる費用を記録することになった。
大型荷車を安全に受け入れる仕組みも、形になり始めた。
未完成の市場は、完成したふりをしなかったからこそ。
どこを直し、誰と負担し、何を守らなければならないのかを、見せることができた。
その日の黒字はまだ、何も問題のない緑色ではない。
注意しながら。
ひとつずつ確かめながら。
それでも先へ進める。
そんな、黄色い木札の色をしていた。




