52.無料の道ほど、修理代がかかります(下)
「まず、現地を見ます」
話し合いの末、ヴァイゼが立ち上がった。
「市場より、道路を」
「ご案内しますわ」
イデアも立つ。
「あなたが?」
アルゼルの声がすぐ横から飛んだ。
「領地境界の話ですもの」
「道は滑ります」
「もう雨は止んでおりますわ」
「あなたの場合、足を滑らせるだけでは済まないので」
「あなたが同行なさるのでしたら、問題ございません」
「それは私が助ける前提ですね」
「信頼です」
「都合のよい言葉を覚えましたね」
ヴァイゼが二人を交互に見る。
村へ到着した時にも、一度だけアルゼルの白い翼へ視線を向けていた。あの時は何も尋ねなかったが、どうやら気にはなっていたらしい。
ここまで普通に会話へ加わり、当然のようにイデアの隣へ立っているのを見て、ようやく疑問を口にした。
「こちらの方は――」
「天使です」
アルゼルが答えた。
「……お噂はかねがね」
いったい、どのような噂なのだろう。イデアは額を押さえたくなった。アルゼルは気にした様子もなく、平然と立っている。
ヴァイゼは白い翼へ一度だけ視線をやり、それから真顔でダリオへ向き直った。
「書類上の役職は?」
「アルゼル。姓なし。防火訓練参加者」
ダリオが淡々と読み上げる。
「ほかに夜番、診療補助、食事監督」
「最後は公的役職ではありません!」
「最も実績があります」
アルゼルがなぜか誇らしげだった。
ヴァイゼは、それ以上追及するのをやめた。
◇
北街道西支線は、小ラズマイトからしばらく歩いた先にある。
王領の主要街道ほど広くはなく、それでも荷車二台なら慎重にすれ違える程度の幅がある。雨上がりの土には深い轍が残り、斜面側の草からはまだ雫が落ちていた。
「こちらです」
ヴァイゼが道端を示す。
斜面側の土が流れ、道幅の三分の一ほどが削られている。崩れた側には木杭と縄が張られ、荷車が近づかないよう応急の印が設けられていた。
「危険ですわね」
「小ラズマイトへ向かう荷車が増えたことも一因です」
「何台通ったかは?」
「不明です」
「荷車がなくても、この雨で崩れた可能性は?」
「あります」
「でしたら、市場が原因と断定はできませんわね」
「一因と申しました」
ヴァイゼはそこを譲らない。
測量用の鎖を取り出し、道幅と崩れた範囲を測る。その間に、ガルドンとミラが斜面側へしゃがみ込んだ。
「下に水が回っている」
ガルドンが言った。
「斜面から流れた雨水が、道の下へ入ってる」
「排水溝は?」
ミラが土を手で掻く。
「埋まってる」
「いつから?」
イデアがヴァイゼを見る。彼は管理記録を開き、少し間を置いた。
「最後の清掃は、昨年秋です」
「ずいぶん前ですわね」
「冬期は凍結のため作業を止めます」
「春は?」
「人員不足です」
「では、荷車が増える前から詰まり始めていた可能性も?」
「あります」
ヴァイゼは、そこも否定しなかった。
「ですが、重い荷車が通れば崩れやすくなる」
結局、どちらか一方だけの責任ではない。
雨、それにより詰まった排水。
増えた荷車と古くなった道。
複数の原因が重なっている。
「領地境界は、この辺りですか?」
イデアが周囲を見る。
「古い地図では、あの大岩から南へ二十六歩」
ヴァイゼが斜面の苔むした岩を指した。
イデアは早速、大岩の手前へ立つ。
一歩、二歩、三歩——。
「領主様」
歩き出したイデアに、ミラが声をかける。
「道端を歩かないで」
「境界を数えております」
「中央で数えて」
「荷車の邪魔に――」
「今は来てない」
二十二、二十三。
あと三歩。
次の一歩を踏み出した瞬間、イデアの靴が柔らかな土へずぶりと沈んだ。
「……あら」
「止まってください」
アルゼルの声が飛ぶ。
「まだ足首までですわ」
「なぜ深さを報告するのです」
片足を抜こうと、反対側へ体重を移す。
そちらまで沈んだ。
「二十四」
「数え続けなくて結構です」
白い翼が揺れ、次の瞬間にはアルゼルの腕がイデアの両脇を支えていた。そのまま身体だけを固い道へ持ち上げられる。
そして、靴が一足だけ、泥の中へ残った。
「……靴が」
「またですね」
「今回は道の方が悪いですわ!」
「靴を失う実績が増えました」
「感心しないでくださる?」
ミラが泥へ棒を差し込む。
「轍にしては深い」
「掘り出しますわ」
イデアが屈もうとすると、ガルドンが太い腕を伸ばして止めた。
「待て」
代わりに石槌の柄を泥へ差し込み、少しずつ探る。
やがて、こつ、と硬い音がした。
「石だ」
「道の基礎?」
「違う」
周囲の泥を少しずつ退ける。
現れたのは、平たい石の上部だった。表面には、車輪と槌、そして二本の道が交わる印。
「境界標です」
ヴァイゼの目が細くなる。
「埋まっていたの?」
「大岩から二十六歩目ではなく、こちらが本来の標かもしれません」
側面には、さらに古い文字が刻まれていた。
アルゼルが屈み、泥を指先で払う。
「この排水路を、北道守とラズマイト市場守の双方で管理するとあります」
イデアはヴァイゼを見る。彼も険しい顔で文字を確かめていた。
「古い取り決めです」
「現在も有効?」
「そのまま有効とは言えません」
「ええ」
イデアもそこは同意する。
古いものが見つかったからといって、現行の制度へそのまま戻るわけではない。
「ですが」
ヴァイゼは石標を見下ろした。
「少なくとも、過去に双方でこの区間を管理していた証拠にはなります」
「北街道管理所の前身と、ラズマイトの市場側が?」
「おそらく」
「でしたら」
イデアは片足だけ靴を履いた姿のまま、胸を張った。
「今回も共同で管理する案は、不自然ではございませんわね」
「片足で交渉を続けるのですか」
アルゼルが尋ねる。
「靴を返してくださいませ!」
「まだ泥の中です」
ガルドンが槌の柄へ靴を引っかけ、そのまま持ち上げた。
完全に泥まみれである。
「履きます?」
「履きますわ」
「中まで泥です」
「裸足よりましです」
「私が運びましょうか」
「結構です!」
少し離れたところで、ヴァイゼの口元がほんのわずかに動いた。
「笑いました?」
「いいえ」
「今、確かに」
「事前調査を続けます」
ヴァイゼの逃げ方は、いかにも公務員らしかった。
◇
境界標から少し離れた場所には、古い排水溝の出口も残っていた。
北側の管理区間から流れる水。小ラズマイト側の暗渠へ入る溝。
どちらか一方が詰まれば、逃げ場をなくした雨水が道の下へ回る構造になっている。
「片方だけ直しても、また崩れます」
ミラが言った。
「ここは共同で修繕しないと駄目」
「費用は?」
ヴァイゼが尋ねる。
「実際に必要な作業量で分けましょう」
イデアが答える。
「境界そのものも確認し直す必要がありますもの。古い地図だけで半分と決める方が危険です」
「人員は?」
「小ラズマイトからも出します。ただし、無償ではございません」
「領民へ賃金を?」
「ええ」
イデアは泥水を含んだ自分の靴を見下ろした。
「以前、この土地の方々は必要だからという理由だけで、無償の仕事をいくつも押しつけられておりました。その結果、畑も家も荒れています。市場のための道なら、市場の利益から人件費を出します」
「管理所側の修繕費は、通行収入から出ています」
「でしたら、管理所が受け持つ部分には管理所の収入を」
「小ラズマイト側は?」
「市場収入と、水車の外部利用料から」
「足りなければ?」
「優先順位をつけますわ」
「通行料を取った方が早い」
「早くても、来る人を減らせば市場収入そのものが減りますでしょう」
「減らない程度なら?」
「その額を決めるためにも、まず調査ですわ」
イデアはヴァイゼをまっすぐ見た。
「最初から北門と同額ではなく」
ヴァイゼはしばらく黙った。
やがて、懐から小さな記録帳を出す。
「十二日間、通行記録へ管理所から一人立ち会わせます」
「承知しました」
「大型商用荷車の基準も、共同で作る」
「ええ」
「それと、市場から接続道路へ回す維持積立の割合ですが」
こちらも本題らしい。
「市場認可後、外部利用収入の一割」
「七分」
「一割」
「八分」
「……九分」
「八分五厘」
ヴァイゼが黙った。
「細かい」
「借金がございますので」
「その噂は聞いています」
「どの噂?」
「隕石伯爵、と」
「誰ですの、広めたのは!」
少し後ろにいたエーミルが、静かに視線を逸らした。
「あなたですわね!?」
「商人の間で自然に」
「自然に隕石は降っても、呼び名は広まりません!」
「覚えやすい名です」
「嬉しくありません!」
ヴァイゼが咳払いをした。
「割合は、九分で仮置きします」
「八分五厘」
「そこは譲らないのですか」
「半分譲りましたわ」
「五厘です」
「積み重なれば大きいです」
再び沈黙。
「……八分五厘」
北街道管理所副管理官は、少し疲れた顔で頷いた。
◇
仮の合意は、その場で簡単な文書へまとめられた。
現地確認まで、北街道管理所と小ラズマイトは通行量を共同で調べる。
大型商用荷車については、車輪幅、積載量、用途をもとに道路負担の目安を作る。
現地確認までは新たな通行税を設けない。
市場が正式に認可された場合、外部利用者から得た水車使用料や倉庫料などの八分五厘を、接続道路維持積立へ回す仮基準とする。
実際の修理費が大きく異なる場合は再協議する。
そして、古い市場権による免税範囲については、王領監理局の判断に従う。
「小ラズマイト側の道路修繕へ、管理所の収入を無制限に求めない」
ヴァイゼが加える。
「当然ですわ。でしたら、北街道側の修繕へ市場収入を無制限に求めないことも」
「当然です」
双方が署名する。
立会人として、村人からも数名選ばれた。
「私も?」
アルゼルが尋ねる。
「境界標を読んだでしょう?」
「では、天使アルゼルと」
「アルゼルで結構です!」
「公文書として肩書きが必要では?」
「姓がないのでしょう!」
「では、食事監督――」
「道路協議の文書ですわよ!?」
結局。
——古文字読解立会人 アルゼル。
そう記された。
「少し格好がよいですね」
「満足なさった?」
「ええ」
◇
村へ戻る頃には、初夏の長い日もようやく傾き始めていた。
雨上がりの雲の切れ目から薄い夕日が差し、濡れた草の先だけが明るく光っている。けれどイデアの片方の靴は、歩くたびに中から泥水を押し出し、ぬちゃりと嫌な音を立てていた。
「脱いだ方がよいのでは?」
隣を歩くアルゼルが尋ねる。
「片足だけ裸足になります」
「私が運びます」
「歩けますわ」
「足を冷やします」
「村まで、あと少しですもの」
「イデア」
声が少し低くなった。
からかう時の声音ではない。
食事を抜こうとした時や、怪我を隠そうとした時と同じ、本気で心配している時の声だった。
イデアは一瞬だけ黙る。
「……では、肩を貸してくださいませ」
「抱き上げても」
「肩で結構です!」
差し出された腕へ掴まる。
アルゼルはそれ以上言わず、イデアの歩幅へ合わせてゆっくり歩き始めた。濡れた土と草の匂いの中に、彼から漂う白檀の香りがわずかに混じる。
「今日の交渉は、成功でしょうか」
しばらくして、イデアが尋ねた。
「新しい通行税は、ひとまず避けました」
「代わりに道路維持費が増えましたわ」
「もともと必要だった費用です」
「北街道管理所の収入が減ったことは、変わりません」
「市場を作れば、誰の利益も減らないと思っていましたか?」
「そこまで楽観的ではございません」
「では?」
イデアは濡れた道へ視線を落とした。
「……少し怖いのです」
「何が?」
「わたくしがこの土地を立て直すことで、別の誰かから何かを奪うことが」
言葉にしてから、自分でも少し驚いた。
家督を取り戻した日。
継母と義妹の手から、ラズマイト家の地位も財産も取り戻した。
正当な権利だった。
それでも、自分が何かを得る時には、必ず誰かが失うのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。
「市場が栄えれば、別の町の客が減る。水車が回れば、ほかの粉挽き小屋へ行く人も減るかもしれませんわ」
「そうかもしれません」
「すべての方を、同時に黒字へすることはできないのかしら」
「できません」
アルゼルはあっさり答えた。
「もう少し慰めてくださる?」
「嘘を言う方がよいですか?」
「よくありませんけれど」
「何かが変われば、得る者と失う者は出ます」
彼はイデアの身体を支えながら、足元のぬかるみを避けるよう歩く。
「あなたの仕事は、誰にも損失を出さないことではありません」
「では?」
「損失を見えなくしないことです」
北街道管理所の収入が減った。
道が傷んだ。
排水の手入れが遅れていた。
小ラズマイトへ来る荷車も増えた。
どれかひとつだけを都合よく隠せば、責任は簡単に誰かへ押しつけられる。
「必要な負担を、声の弱い者へまとめて背負わせない」
「ええ」
「何かを得たなら、どこへ返せるか考える」
「……ええ」
「今日、あなたはそうしたでしょう」
イデアは小さく息を吐いた。
「八分五厘だけですわ」
「五厘まで値切りましたね」
「積み重なれば大きいですもの」
「その細かさが、あなたらしい」
「褒めております?」
「もちろん」
アルゼルの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
イデアは、その顔を長く見ないように前を向いた。
◇
廃教会へ戻ると、礼拝堂の仮机のそばに北街道管理所からの使者が待っていた。
「ヴァイゼ副管理官でしたら、先ほどまで一緒でしたけれど」
イデアが言う。
「別件です」
使者は封のされた小さな書状を差し出した。
「管理所長から、ヴァイゼ様へ。ご到着前でしたので、こちらへ預けるよう申しつかっております」
「管理所長?」
宛名はロルフ・ヴァイゼ。
当然、イデアが勝手に開くわけにはいかない。
だが表書きの下には、小さく「ラズマイト伯爵へ伝達可」と追記されていた。
「ヴァイゼ様は、今夜は?」
ダリオが尋ねる。
「北街道の仮詰所へ戻られるそうですわ。書状はそちらへ届けてくださいませ」
「承知しました。ただ、内容の要点については伯爵閣下にも伝えるよう命じられております」
使者は覚えてきた文言を読み上げた。
「北街道管理所長ベネディクト・ラーヴェルは、現地確認に先立ち、三日後に小ラズマイトへ赴く」
「三日後?」
十二日後ではない。
「クラウス・ハルフェン様の到着前に、街道側の意見をまとめるためとのことです」
イデアは礼拝堂に吊られた三枚の掲示紙を見た。
十二日で必ず終える仕事。
終われば望ましい仕事。
十二日では絶対に終わらない仕事。
「三日では?」
アルゼルが尋ねる。
「絶対に終わりませんわね」
「どうします?」
「終わったふりはいたしません」
イデアは一枚目の前へ立ち、いくつかの項目を外していった。
管理所長の視察に備えて、見栄えを整えるだけの仕事は今やる必要がない。
それらを三枚目へ移す。
「管理所長へ見せるのは、完成した小ラズマイトではございません。どこまで直っているか。どこが足りないか。誰が何を担当しているか」
そして机の上へ、今日作った通行調査の記録を置く。
その隣にはヴァイゼとの仮合意書と、泥の下から見つかった、共同管理を示す境界標の写し。
「それから、問題が起きた時に、どう話し合うかです」
「三日で示せますか?」
「本日すでに、半分は示しましたわ」
最初から反対側にいた北街道管理所と、小ラズマイト。
完全ではない。まだ数字も足りない。
それでも、互いの主張を消さずに仮の合意までは作れた。
「残り半分は?」
アルゼルが尋ねる。
イデアは泥まみれの靴を脱ぎ、入口へ置いた。
「三日後、実際に見ていただきます」
「ずいぶん潔くなりましたね」
「十二日でできないものを、三日で完成させる方法などございませんもの」
「以前なら、徹夜で試していたでしょう?」
「……否定しづらいですわね」
アルゼルが楽しそうに笑った。
現地確認までは、あと十二日。
だが、その前に、三日後には北街道管理所長がやって来る。
市場の認可を量る秤へ載せるものは、古い権利だけでは足りない。
新しい収入だけでも、綺麗に直した道だけでもなかった。
誰が道を使い。
誰が利益を得て。
誰が直し。
誰が修理代を負担するのか。
無料の道ほど、その費用は見えにくい。
だから小ラズマイトは、その見えない分まで帳簿へ載せることにした。
もっとも。
その日の夜、最初の通行調査箱を確認したところ、荷車の数と籠の中の石がどうしても合わなかった。
調べてみれば、ピムが山羊の分として三つ追加していたためである。
「山羊も道を使ったよ!」
という主張だけは、誰にも否定できなかった。




