50.無料の道ほど、修理代がかかります(上)
現地確認まで、残り十二日。
その事実を告げる書状が届いた翌朝、夜明け前から降り始めた細い雨が、廃教会の古い屋根を絶え間なく叩いていた。
寝室の雨漏りは以前の補修でずいぶん減ったものの、礼拝堂の隅では相変わらず桶がひとつ置かれ、一定の間隔で水滴を受け止めている。
そんな湿った朝の礼拝堂には、使いかけの紙を継ぎ合わせて作った三枚の大きな掲示紙が吊られていた。
一枚目には、太い字で『必ず終える仕事』
二枚目には『終われば望ましい仕事』
そして三枚目には、『十二日では絶対に終わらない仕事』
「最後の一枚は必要ですの?」
机の前に立ったイデアが、いかにも不満そうに尋ねる。
「必要だ」
答えたのはオルドだった。六十年近く畑と村の事情を見てきた男は、三枚目の紙を指で叩きながら、少しも悪びれない。
「なければ、伯爵様が全部を一枚目へ書く」
「そこまで無計画ではございませんわ」
「昨日、教会の屋根全体と、北牧草地の冬小屋と、道の完全修復を一枚目へ書こうとしていました」
残った利き手で記録板を支えたダリオが、いつもの変わらない顔で事実を読み上げた。
「すべて必要でしょう?」
「十二日では終わらない」
ミラが即答する。短く切った赤褐色の髪の先には、朝から木材を運んでいたらしい細かな木屑がついていた。
「でしたら、人手を増やせば」
「どこから?」
「近隣の村へ賃金を提示して――」
「その賃金は?」
「市場の将来収入から」
「また借りを増やす気か」
市場会そのものの一員ではないものの、道路や石工の話になると欠かせないガルドンが、太い腕を組んだ。白みの混じり始めた髭の奥から向けられる視線は、石壁の亀裂を見る時と同じくらい容赦がない。
「必要な投資ですわ」
「返せる計算は?」
「市場が認可されれば」
「認可されなければ?」
「……返済計画を作り直します」
「つまり、今はないのだな」
「これから作るのです!」
市場会の七人に、道路関係の職人まで加わった面々が、一斉にため息をついた。
「皆様、息が揃いすぎではなくて?」
口を尖らせるイデアの隣で、アルゼルが机の上へ小さな木箱を置いた。
白い翼はいつものように背へ大きく畳まれ、箱を置く動きにも羽根の先が紙へ触れないよう、さりげなく角度を変えている。
「それは何ですの?」
「仕事札です」
箱の中には、赤、黄、白に塗り分けられた小さな木札が何枚も入っていた。
赤い札には領主権限を示す印、黄色には七人の人影、白には槌と鍬が簡単な線で彫られている。
「赤は、領主にしか決められない仕事。黄は市場会。白は各作業責任者です」
「誰が作りましたの?」
「ピムが絵を描き、ミラが彫りました」
「わたくしの知らないところで、また管理制度が増えておりますわね」
「市場会が回っている証拠です」
アルゼルはそう言ったものの、妙に満足そうだった。
イデアは目を細める。
「あなたが仕組んだのでは?」
「少しだけ」
「やはり!」
昨夜、明日の木札は不要だと言っていた男が、代わりに別の札を増やしていたらしい。
「では、始めます」
ダリオが一枚目の掲示紙へ向き直った。
「現地確認までに必要な項目を、権限と担当で分けます」
正規の計量器。
取引記録。
市場規則。
防火設備。
衛生管理。
安全な通路。
古い市場権の資料。
ドワーフとの仮協定。
水車の管理記録。
ひとつずつ確認し、札を置いていく。
「共同秤の現行基準との正式な照合は、クラウス様が到着してからです。それまでに分銅と修理記録を揃えます」
ダリオが黄色の札を置いた。
「市場会ですわね」
「道の安全確認は、作業側」
ミラが白い札を取る。
「村入口から市場まで。全部を造り直すんじゃなくて、危ないところへ印をつけて、通れるように応急補修する」
「北側の道は?」
イデアが尋ねると、ガルドンが無言で項目を三枚目へ移した。
「十二日では絶対に終わらない」
「ですが、将来の交易路に――」
「だからこそ、現地確認へ間に合わせるためだけに中途半端に触るな」
それを言われると反論できない。
イデアは少々不満を残しながらも、三枚目へ移された文字をそのままにした。
「防火訓練の事故報告」
オルドが黄色の札を持つ。
「市場会」
「北街道管理所からの異議への対応」
ダリオが読み上げる。
今度は、全員の視線がイデアへ向いた。
「……赤ですわね」
イデアは王冠代わりの印が彫られた赤札を取り、項目の横へ置いた。
「何を回答するんだい?」
マーサが尋ねる。仮市へ何度も店を出し、今では外部出店者側の意見をまとめる役を任されているだけあって、こういう話では遠慮がない。
「まだ分かりません」
「分からない?」
「相手が何を根拠に、どの程度の負担を問題にしているのか、こちらには正式な資料がございませんもの」
クラウスの書状で分かっているのは、北街道管理所がふたつの問題を指摘しているということだけだった。
小ラズマイトへ客が流れれば、これまで別の道で得ていた通行収入が減るかもしれない。
一方で、人や荷車が増えれば、接続する街道の傷みは増える。
理屈は分かる。
だが、何台の荷車がどの道から移ってきたのか。どれほど収入が減り、どの区間の修繕費が増えているのか。そこまでの数字は何もない。
「こちらで予想して反論書を作れば?」
オルドの問いに、イデアは首を横へ振った。
「相手の主張と違えば、十二日しかない時間を使って、存在しない問題と戦うことになります」
「なら、待つのか」
「いいえ」
イデアは新しい紙を一枚取り、一枚目の掲示へ項目を書き加えた。
——市場へ来る荷車の通行調査。
「相手の数字が届くまでに、こちらはこちらの数字を集めます。どこから来たか。どの道を使ったか。荷物は何か。帰りはどちらへ向かうか」
指を折りながら数え、最後に少し考える。
「それから、以前はどの市場へ行き、道中でどのような費用を払っていたか」
「客へ、そこまで聞くのですか」
礼拝堂の入口から声がした。
振り返ると、濡れた外套の肩を払いながら、エーミル・ベルンが立っていた。乾物や穀物、日用品を扱う商人で、小ラズマイトへ何度も足を運ぶようになった男である。
「また、いつの間に」
「市場会の会議へ勝手に入るわけにはいきませんので、外で待っておりました」
「聞き耳は立てていたのね」
「情報は利益です」
悪びれもしない。
エーミルは礼拝堂へ入り、掲示紙を眺めた。
「ですが、質問が多すぎれば商人は嫌がります。急いでいる者なら、なおさらです」
「では、最低限に絞りましょう」
出発地と入ってきた道。
荷の種類と荷車の大きさ。
市場で何を利用したか。
そこまで書いて、イデアは筆先を止める。
「小ラズマイトで使った金だけを調べても足りませんわね」
「と申しますと?」
「ここへ来る途中で干し草を買った。馬へ水を飲ませた。帰りに隣村で食事をした。市場ができて人の流れが変われば、小ラズマイト以外でも金が動きます」
エーミルがわずかに目を見開いた。
「伯爵閣下」
「何です?」
「商人になりませんか」
「領主ですわ!」
「向いております」
「借金があるからでしょう?」
「それもあります」
横からアルゼルまで楽しそうに加わった。
「あなたまで!」
朝の礼拝堂へ、小さな笑いが広がった。
◇
通行調査は、その日のうちに始めることになった。
村の入口。
北の街道へ続く分岐。
東の畑道。
人が常に立てる場所を中心に記録係を置き、通行の方向と荷車の種類を数える。
「文字を書ける者が足りません」
ダリオが言うと、イデアは入口に集まっていた子供たちを見た。
「数だけなら、子供たちにも手伝っていただけますわ」
「どうやって?」
「石を入れてもらいます」
出身方向ごとに籠を分ける。
北から来た荷車なら黒い札の籠。東なら白。南からなら赤札の籠。
さらに荷物の種類は、穂、糸巻き、釘などの絵を刻んだ小さな木片で分ける。
「ぼくもやる!」
ピムが目を輝かせた。
「数を間違えませんの?」
「十までなら!」
「十を超えたら?」
「リナに渡す!」
リナはピムより二つ年上で、普段からよく一緒に遊んでいる女の子だ。
自分で数えきれなくなったら彼女へ任せるところまで、子供たちなりに役割分担はできているらしい。
「ただし、道へ飛び出してはなりません」
「分かってる!」
「荷車へ乗っても」
「乗らない!」
「山羊を連れてきては――」
「山羊は数える?」
「数えません!」
ピムは露骨に残念そうな顔をした。
「家畜を連れた荷車としてなら記録します」
ダリオが補足すると、ピムの顔が明るくなる。
「やぎも数える!」
「議決権はございませんけれど」
イデアが念のため言う。
「知ってる」
真剣な返事だった。
昨日の市場会の決定は、当の提案者にもきちんと伝わっているらしい。
◇
最初に問題になったのは、荷車の大きさをどう分けるかだった。
一台ずつ止めて細かく測っていては、市場へ入るだけで列ができる。
「車輪と轍を見れば、大まかな違いは分かります」
ローデンがしゃがみ込み、道に残った跡を太い指でなぞった。
「狭いもの、普通のもの、幅広のもの。見本を入口へ置いておけばいい」
「重さは?」
「全部を量るのは無理だ」
ガルドンが答える。
「共同秤へ荷車ごと載せられませんの?」
「壊れる」
即答だった。
「では、車輪を片方ずつ――」
「やるな」
「まだ何もしておりませんわ!」
「顔で分かる」
最近、周囲の者がイデアの思いつきを口にする前から止めるようになっている。
信用がないのか、実績があるのか。
それについては、考えないようにする。
「大型の荷は荷主の申告と袋数で確認します」
ダリオが話を戻した。
「必要なら、積み荷の一部を共同秤で抜き取り確認する。それで十分でしょう」
「虚偽があった場合は?」
「その時は取引記録へ残します」
「よろしいですわ」
完全な重量を出すためではない。
どの程度の荷車が、どの道をどれほど使っているかを知るための調査だ。
目的を忘れなければ、精密さにも限度をつけられる。




