49.赤い布を食べた山羊に、議決権はありません(下)
新しく決めるのは、油や大量の酒、染料など、事故が起きた場合に通常より大きな清掃や修繕を必要とする品の扱いだった。
出店時に少額の保証金を預かり、問題がなければ市場終了時に全額返す。何かを壊したり、商品をこぼして清掃が必要になった場合だけ実費を差し引き、何にいくら使ったのかを本人の前で帳簿へ残す。
「量が違えば、危険も違いますわね」
イデアは十二の油壺を見ながら言った。
「一壺持ってきた方と、荷車いっぱいに持ってきた方から、同じ額を預かるのも不自然です」
「では?」
ダリオが羽根ペンを構える。
「三つまでなら銅貨二枚。四つから十までなら三枚。それより多ければ五枚でいかがかしら」
「細かいな」
油商人が言う。
「事故が起きた時の負担も違いますもの」
「私は十二壺だから五枚?」
「ええ」
「全部返るのだな」
「何もなければ、一枚残らず」
「帳簿へ?」
「もちろんです」
商人はしばらくイデアを睨んでいたが、やがて懐から銅貨を五枚取り出した。
「一枚でも勝手に減らしたら、次は来ないぞ」
「不当に減らしたのでしたら、来ていただかなくて結構ですわ」
「商売を分かっていないな」
「正当な理由で差し引いた場合は?」
イデアが尋ねると、商人は答えなかった。
結局、売り場へ出した油壺はひとつだけになった。
火を使う区画や布を扱う店から離し、防火用の貯水槽へも近い石床へ置く。その下には砂を敷いた浅箱を置き、残りの壺は古い市場の地下倉庫へ運んだ。
売り場には、赤い炎へ斜線を引いた札も立てる。
「これは分かりやすいですわね」
「ピムの絵です」
ダリオが答えた。
「市場会員ではありませんでしょう?」
「絵の担当として頼みました」
「また役職が増えておりません?」
「正式な役職ではありません」
「でしたら安心――」
「本人は『市場絵係』と名乗っています」
「増えておりますわね!」
アルゼルの食事監督官に続き、ピムの市場絵係。この村では時々、イデアの知らない役職が勝手に増える。
◇
昼までには、赤い布に代わる新しい火災標識も完成した。
赤く塗った火の形の木板。その縁を薄い金属で補強し、火事の時には板を掲げるだけでなく、鉄板を三度叩き、火元となった区画を声で知らせる。
使わない時は、山羊の届かない場所へしまう。
というより。
「災害用備品の保管場所へ、家畜を入れない」
ダリオが議事録を読み上げた。
「最初からそうなさい!」
「これまでは、山羊が災害用備品を食べる想定がありませんでした」
「すでにアルゼルの服まで何度も狙っておりますでしょう?」
「私の衣服は災害用備品ではありません」
横からアルゼルが訂正する。
「そこではございません!」
「今後は想定へ入れます」
ダリオは何事もなかったように続けた。
「最後に。山羊に議決権は与えない」
「本当に書きましたの?」
「ピムから要望がありましたので、回答も残します」
「要望?」
差し出された木板には、炭で丸い山羊が描かれていた。
その下に、覚えたばかりらしい文字で、
『やぎもはなしをきく』
と書かれている。
イデアはしばらく木板を見た。
「……聞いてはいるのかもしれませんわね」
「従うかは別ですけど」
たまたま近くを通ったエスタが言った。
「でしたら議決権なしで正解ですわ」
その判断についてだけは、仮市場会と領主の意見が完全に一致した。
◇
午後、油商人の店では四壺が売れた。
一壺売れるたび、地下倉庫から次を運ぶ。手間はかかるものの、十二壺すべてを市場へ並べる必要はなく、通路も塞がなかった。
市場が閉じる頃には、砂箱にも油は漏れていない。石床も汚れず、壺も割れていなかった。
イデアは預かっていた銅貨五枚を、商人の前で一枚ずつ数えて返した。
「本当に全部返すのだな」
「そのための保証金ですもの」
「一枚くらい手数料にすると思った」
「保証金と利用料を混ぜません」
「倉庫代は取ったくせに」
「倉庫は利用なさったでしょう?」
「……まあな」
男は銅貨を袋へ戻しながら、荷車を見た。
「次は六壺にする」
「なぜ?」
「十二も要らん。一日で四つしか売れなかった」
市場の規則へ従わせた結果、商人自身が運ぶ量を見直したらしい。
「六壺でしたら、次回の保証金は銅貨三枚ですわね」
「それでも取るのか」
「返ります」
「分かっている」
男は最後まで不満そうな顔をしていた。
けれど、二度と来ないとは言わなかった。
◇
その日の仮市場運営帳簿は、差し引き銅貨九枚の黒字になった。
火災標識の板と顔料。
金属の補強。
油壺を置くための砂箱。
そこから市場の通常収入や倉庫利用料、屋根の維持負担などを合わせた結果である。
「保証金は?」
イデアが尋ねると、ダリオは帳簿から目を上げた。
「全額返しておりますので、収入には含めません」
その答えに、ネッサも当然だというように頷く。
「返す金を利益へ入れれば、帳簿が嘘になる」
「結構ですわ」
イデアは二人の確認が一致しているのを見て、満足げに頷いた。
もっとも、この銅貨九枚も、まだ正式な定期市として認められた収入ではない。
王家への借金返済へそのまま算入できる金ではなく、当面は仮市場を回し、設備を直すための現金である。
それでも、昨日の火事で減った分を、自分たちの運営で少しずつ戻せたことに意味はあった。
そして何より、机の上には、仮市場会が自分たちで作った最初の議事録が置かれていた。
火災標識。
備品の管理。
山羊小屋の確認。
危険な品の配置。
保証金制度の提案と、領主による承認。
七人の印が並び、その最後にイデアの署名欄だけが空いている。
イデアは最初から最後まで読み直した。
「異論は?」
オルドが尋ねる。
「ひとつだけ」
七人の顔に、わずかな緊張が走った。
「火災標識を、もう一枚作ってくださいませ」
「予備か?」
「ええ。山羊に食べられなくても、雨や火で壊れる可能性はございますもの」
「費用は?」
「市場維持費から」
ダリオが記録へ加える。
それを確認してから、イデアは署名した。
「ほかは?」
ミラが尋ねた。
「ございません」
「本当に?」
「皆様、わたくしが何か書き換えると思っていたの?」
「少し」
マーサが答えた。
「半分ほど」
ネッサも続ける。
「残り半分は?」
「全部書き換えると思っていた」
「増えておりますわよ!?」
市場会の者たちが笑った。イデアも、少し遅れて笑った。
◇
市場のざわめきが消えたあと、廃教会の周囲には初夏の虫の声だけが残っていた。窓から入る風には、昼間より少し冷えた土と草の匂いが混じっている。
静かになった礼拝堂の仮机では、現地確認へ向けた書類が今日も積み上がっていた。
イデアは市場会の議事録をその一番上へ置く。
「三回でしたね」
向かいにいたアルゼルが言った。
「何が?」
「見学です。一度目は会議。二度目は設備。三度目は油商人」
「すべて必要でしたわ」
「ええ」
反論されなかったことに、かえってイデアが目を瞬いた。
「珍しいですわね」
「今日は三度とも、最初から口を出しませんでしたから」
昨日、市場が自分なしで動くのを見た時には、胸の奥へ小さな寂しさが残った。
今日は、それほどではなかった。
「皆様、わたくしが以前決めた規則を覚えていました」
「ええ」
「その上で、わたくしが考える前に新しいやり方まで決めましたわ」
「よいことですね」
「少し悔しいですけれど」
「それだけ、よい人を集めたということです」
イデアは羽根ペンを止めた。
「わたくしが?」
「あなたが」
アルゼルはごく普通のことを答えるように言った。
イデアは何も返さず、もう一度書類へ視線を戻した。
以前なら、人へ任せることは、自分の手から何かを奪われることに似ている気がしていた。
今は少し違う。自分が決めなくてもよいことが増えれば、自分にしか決められないことへ時間を使える。
今日、その意味を昨日より少しだけ理解できた気がする。
その時だった。
礼拝堂の扉が叩かれた。
「夜分に失礼いたします!」
外から聞こえた声に、イデアとアルゼルが顔を上げる。
扉を開けると、王領監理局の印を付けた騎手が立っていた。
「ラズマイト伯爵閣下へ。クラウス・ハルフェン様からの書状です」
「現地確認について?」
「はい」
胸の内に嫌な予感が走った。
受け取った書状の封を切り、イデアはその場で読み始める。
数行進んだところで、眉が寄った。
「どうしました?」
アルゼルがすぐそばから尋ねる。
「現地確認の日程が早まりました」
「どの程度?」
イデアは書状を持つ指へ力を込めた。
「十二日後ですわ」
もとの予定なら、まだ二十日あまり準備の時間が残されていた。
突然、それが半分ほどになったことになる。
「理由は?」
「北街道管理所から、正式な異議が出ています」
書状には、その内容も記されていた。
小ラズマイトに残る古い市場権。その中には、この市場を利用するために通る者から、単に街道を通過するだけの税を取らないという古い免除がある。
それをそのまま認めれば、小ラズマイトを経由する荷車が増え、周辺の街道で得ていた収入が減る可能性がある。
一方で、人や荷車が増えれば道路は傷む。
つまり北街道管理所からすれば、収入が減るかもしれないのに、維持する道の負担だけは増えることになる。
「なるほど」
アルゼルが静かに言った。
「歓迎されない理由はありますね」
「ええ。相手からすれば当然の主張ですわ」
だからこそ、無視はできない。
王領監理局は現地確認を前倒しし、クラウスだけでなく、異議を出した北街道管理所の担当官も同行させるという。
「市場を認めさせたくない方も、いらっしゃるのですね」
「少なくとも、こちらの希望どおり無条件で認める気はございませんでしょう」
イデアは机へ戻り、積み上がった書類を見る。整えなければならないことは、まだ山ほどある。
「十二日……」
「間に合いますか?」
アルゼルが尋ねる。
「間に合わせます」
「一人で?」
「それは——」
答えかけて、イデアは止まった。
開いた扉の向こうを見る。
夜になる前に終えきれなかったのだろう。市場の片隅では、まだ数人が明かりの下で予備の火災標識を作っていた。
ミラが板の縁を削っている。
ネッサが金具を合わせる。
ダリオは今日の議事録へ追記し、オルドは明日の作業についてローデンと話していた。
マーサも、帰る商人へ何かを伝えている。
昨日までなら、十二日しかないと聞いた瞬間、必要な仕事をすべて自分の帳面へ書き込んでいたかもしれない。
イデアは書状を机へ置いた。
「いいえ」
アルゼルへ向き直る。
「市場会を招集します」
「今度は会議へ参加するのですか?」
「当然ですわ。領主の権限が必要な話ですもの」
「木札は?」
「わたくしが招集をかけるのですから不要です!」
「残念ですね」
「何が?」
「明日の分を用意する必要がなくなりました」
「最初から用意しないでくださる!?」
アルゼルが楽しそうに笑った。
結局、赤い布を食べた山羊に、議決権はなかった。
けれど、その一口から始まった一日の終わりには、仮市場会が自分たちだけで問題を見つけ、考え、決められることがはっきりと証明されていた。
領主がいなくても動く。
けれど、領主の権限が必要なら、きちんと呼ぶ。
小ラズマイトの市場は、少しずつ、一人の判断だけでは傾かない秤になり始めている。
そして十二日後。
今度は、その秤へ市場そのものの価値を載せなければならない。
反対側の皿には、最初から異議を携えた役人まで乗せたうえで。




