48.赤い布を食べた山羊に、議決権はありません(上)
火災訓練に使った赤い布は、翌朝、半分ほどなくなっていた。
「……なぜですの?」
初夏の朝日がまだ市場の屋根を斜めに照らしている中、イデアは棒の先から細長く垂れ下がった布の残骸を見下ろした。
昨日までは、火元を遠くからでも知らせられるよう鮮やかな赤い布を結びつけていたはずなのに、今は端が無惨に裂け、大きな歯形がいくつも残っている。
そして、そのすぐそばでは。
一頭の灰色の雌山羊が、口の端から赤い糸を一本垂らしていた。
「吐き出しなさい!」
イデアが手を伸ばすと、山羊は警戒するように一歩下がった。口がもぐもぐと動き、赤い糸がさらに短くなる。
「食べ物ではございませんわ! 聞いておりますの!?」
「聞こえてはいると思います」
追いかけてきたエスタが、山羊の首へ縄をかけながら答えた。
「従うかは別ですけど」
「以前も同じことを聞きましたわ!」
この土地へ来てから、山羊を相手に同じ結論へ何度たどり着いたことだろう。
エスタが干し草を鼻先へ差し出すと、山羊はようやく赤い糸を離した。すぐに口の中まで確認し、飲み込んだ量が多くないことを確かめてから、困ったように眉を下げる。
「少し飲み込んでます。しばらく様子を見ますね」
「火災用の布を食べて山羊が腹を壊したら、いったい何と帳簿へ書けばよろしいのかしら」
「災害用備品の、家畜による消費でしょうか」
後ろから記録板を抱えたダリオが言った。
「消費ではなく損壊ですわ」
「山羊側から見れば消費ですが」
「山羊側の帳簿はございません!」
朝から議論する内容ではない。
少し離れたところでは、アルゼルが白い外衣の裾を片手で押さえ、灰色の雌山羊を眺めていた。翼まで強く畳み、いつでも距離を取れる姿勢である。
「赤い布まで食べるのでしたら、私の衣服だけを好んでいるわけではなかったのですね」
「安心なさったの?」
「少し」
「競争相手は火災用の布ですわよ」
「勝った気はしませんね」
灰色の山羊が、その言葉に反応したかのようにアルゼルへ顔を向けた。白い裾へ鼻先を伸ばした瞬間、アルゼルが滑らかに一歩下がる。
「それは駄目です」
「今朝一番、聞き分けのない相手へ熱心に話しかけているのはあなたですわね」
「教育を諦めてはなりません」
「まず食べられない距離を覚えた方がよろしくてよ」
教育の成果が出るより先に、灰色の雌山羊はエスタに連れられて囲いへ戻された。ユーイが留め金を確かめると、昨夜の風で古い金具が少し緩んでいたらしい。
つまり、山羊だけを叱って終わる話でもなかった。
そして。
昨日までなら、そこでイデアが帳面を開いていた。
今日は違った。
赤い布の残骸を抱えたダリオが、何事もなかったように告げる。
「では、仮市場会で扱います」
「……わたくしは?」
「決定事項をご報告します」
「わたくしの市場ですわよ?」
「仮市場会へ任せたのも、領主様です」
昨日、自分で署名したばかりの仕組みに反論する言葉はなかった。
◇
仮市場会が、イデアを交えずに正式な話し合いを開くのは、これが初めてだった。
村側の調整を担うオルド、記録と計量のダリオ、設備のミラ、衛生と診療を担当するハンナ。
ドワーフ側の窓口であるネッサ、水車関係のローデン。
そして、継続して仮市へ出店する外部商人たちの意見をまとめるマーサ。
七人が、布屋根の下へ置いた机を囲んでいる。
一方イデアは。
「では、参りますわ」
「どこへ?」
礼拝堂の長椅子から立ち上がったところで、アルゼルに止められた。
「市場会です」
「呼ばれていませんよ」
「領主ですもの」
「市場会だけでどこまで決められるか、試すのでしょう?」
「昨日も十分試しましたわ」
「昨日は火事になりましたからね」
「思い出させないでくださる?」
机の上には、昨日使わずに残った三枚の木札が並んでいる。
イデアはそれを見た。
嫌な予感しかしなかった。
「……なぜ昨日の木札が、まだここにございますの?」
「捨てる理由がありませんので」
「本日も使うおつもり?」
「市場会から正式に呼ばれるまでは、見学三回でいかがでしょう」
「昨日は四回でしたわ!」
「一度しか使いませんでした」
「使わなかった分まで翌日の制限へ反映なさらないで!」
「実績に基づく調整です」
また、それらしい言葉を使う。
イデアは三枚の木札を睨みつけたが、その向こうでは会議が始まる気配がしている。
「……一度目ですわ」
「どうぞ」
「まだ出ていませんけれど」
「では使わずに済みますね」
イデアは一枚を取ると、アルゼルの手へ押しつけ、そのまま廃教会の扉を細く開けた。
布屋根の下では、食べられた赤い布が机の中央へ置かれていた。
事件の証拠品にしか見えない。
「最初に確認します」
ダリオが記録板を開いた。
「山羊に議決権はありません」
「当然だろう」
オルドが即答する。
「誰も与えるとは言っていない」
「ピムから、山羊も当事者なのだから会議へ参加させるべきだと要望がありました」
「入れたら残りの布まで食われる」
ネッサが真顔で言った。
「だから最初に確認したのかい?」
マーサが呆れたように尋ねる。
「後で、なぜ山羊を呼ばなかったのかと聞かれた場合に備えて」
「誰が聞くんだ」
「ピムです」
それなら仕方がない。
イデアも扉の陰で頷きかけ、慌てて止めた。
「それより火災の合図だよ」
ハンナが話を本題へ戻した。
「また布にするのかい?」
「赤い板はどうだ?」
真っ先に答えたのはミラだった。
木工を得意とする彼女にとって、壊れた布の代わりを考えるなら、まず板が浮かぶらしい。視線はすでに赤い布ではなく、近くに積まれた端材へ向いていた。
「布よりは食われにくい」
「山羊は木も噛みます」
ローデンが言うと、全員が一度黙った。
「金属にする?」
「重くなる」
「薄くすればいい」
「落ちた時が危ない」
「なら木板の端だけ金属で巻く」
意見が重なる。
イデアは扉へ手をかけたまま、つい口を開きそうになった。
色だけでは足りない。屋根の陰から見えない場所もある。客が多ければ視界も塞がれる。夜やひどい雨なら、なおさらだ。
「色だけでは見えない場所があります」
ダリオが言った。
イデアの口が、そのまま閉じる。
「昨日と同じ鉄板の音も使いましょう。火事は三回。それに、火元の区画を声で知らせる」
「印と音と声か」
ローデンが頷いた。
「ひとつ見落としても、ほかで分かる」
「板は火の形にすれば、字が読めない者にも伝わる」
ミラが紙へ簡単な形を描く。
それで決まった。
イデアが考えていたことより、ひとつ多かった。
彼女は何も言わず、扉の陰でほんの少し口元を緩める。
「次。赤い布の損壊について」
ダリオが議題を進める。
いつも冷静で、滅多なことでは表情を動かさない男だ。市場の不正も、火事も、山羊が布を食べた話も同じ顔で記録するので、ときどき本気なのか冗談なのか分からない。
「山羊が食べたのだから、山羊側で払うんじゃないのかい?」
マーサが言ったが、オルドはすぐには頷かなかった。
「囲いから出たのは留め金が緩んだからだ」
「今朝、ユーイが報告しております」
ダリオが記録を見る。
「昨夜の風で古い金具がずれた可能性が高いそうです」
「備品の置き場所も近すぎた」
ローデンが赤い布の棒を持ち上げる。
水車と木材を相手にしてきた太い手は節張り、指先には細かな傷がいくつも残っていた。
「山羊小屋の近くへ置く必要はなかった」
「つまり」
ハンナが腕を組む。
「山羊が食べたのは事実だけど、山羊だけの責任でもないってことだね」
七人は原因をひとつずつ分けていった。
囲いの留め金。
夜間の確認。
災害用備品の保管場所。
そして、それを口へ入れた山羊。
一人の失敗へまとめてしまうより、その方がずっと正確だった。
「新しい火災標識は市場設備です。作り直しは市場維持費から」
ダリオが、残った利き手で迷いなく記していく。片腕を失っていても、その筆運びには少しの淀みもなかった。
「ユーイとエスタには、夜の留め金確認も管理項目へ加えてもらう」
オルドが続けた。
「仕事が増えるなら、その分は?」
ネッサが尋ねる。
「山羊管理の取り分を決める時に、作業として数える」
「罰ではなく?」
「必要な仕事だからな」
ネッサが頷くと、四つに編んだ黒髪を飾る小さな金具が、かすかに触れ合って揺れた。
「それがいい。無料で責任だけ増やすのは正しくない」
イデアは扉の陰で、ゆっくり息を吐いた。
昨日、自分は市場会へ権限を渡した。
だが、任せるというのは、単に自分が決めなくなることではないらしい。
自分一人で決めていた頃よりも、多くの人間がそれぞれの立場から問題を見る。その結果として、自分より細かく原因を分けることさえある。
「イデア」
すぐ後ろから声がした。
「ひゃっ!」
肩が跳ねた。
振り返れば、アルゼルが白い翼を畳み、すぐそばに立っている。
「驚かせないでくださる!?」
「一度目は終わりです」
「一度とは、扉を開けて見てから、閉じるまででしょう」
「その解釈をなさると思いましたので、時間を決めました」
「規則を後から足さないで!」
市場会の七人が揃ってこちらを見た。
イデアは無言で扉を閉めた。
◇
二度目の木札を使った時には、会議そのものは終わっていた。
市場では、決まった内容をさっそく形にしている。
ミラが火の形へ切り出した木板へ赤い顔料を塗り、ネッサが縁へ薄い金属を巻いて補強する。その隣では、ダリオが合図用の鉄板のそばへ木札を掛け、火事は三回、争いは二回、急病人や患者を運ぶ荷車は一回と、音の回数を記録していた。
文字を読めない者のため、炎、握った拳、寝台の絵も添えてある。
市場会が新しい火災標識を作り始めてしばらくして、アルゼルは廃教会脇の花壇の様子を見るため、礼拝堂を出ていった。
その背中が扉の向こうへ消えるのを見届けてから、イデアはそっと窓へ近づく。
少しだけ。
本当に、少しだけ確認するだけだ。
「拳が少し芋に見えますわね……」
窓枠へ手をつき、外を覗きながら呟く。
「それでも、何を示しているかは分かるでしょう」
窓の向こうから、アルゼルの声がした。
イデアの肩が跳ねる。
「どうして毎回、すぐ見つけますの!?」
「金色の髪が窓から出ています」
慌てて頭を引っ込める。
「窓の内側から見ていただけですわ」
「鼻から上は外でした」
「細かい!」
窓の外で、アルゼルが楽しそうに笑った。
「二度目です」
窓枠の向こうから差し出された手へ、イデアは不満たっぷりに木札を置いた。
残り一枚。
これ以上は使わない。
そう決めた直後だった。
◇
「この油を屋根の下へ置けないとは、どういうことだ!」
市場の入口から、大声が響いた。イデアは反射的に立ち上がる。
「争いですわ!」
「合図は?」
アルゼルが尋ねた直後。
外から、鉄板を叩く硬い音が二度響いた。
「本当に争いですね」
「参ります!」
「木札を」
「まだ呼ばれておりませんけれど!」
「だからこそ見学です」
最後の一枚をアルゼルへ押しつけ、イデアは礼拝堂の外へ出た。
市場の入口には、大きな荷車が止まっている。荷台には栓をした陶器の壺が十二ほど積まれ、油を示す札が下げられていた。
その前で、腹の出た中年の商人がオルドと向かい合っている。
「銀貨を払うと言っている!」
「金の問題ではない」
オルドは落ち着いていた。
「その壺を火を使う店のそばへ並べることは認められん」
「屋根のないところへ置いて、途中で雨が降ったらどうする!」
「予備は地下倉庫へ入れられる」
「出し入れに金を取るのだろう!」
「人手を使うからな」
「なら屋根の下を広く貸せ!」
「屋根は競売では決めない」
先日、イデアが決めた規則が、そのまま使われている。
マーサが荷台を覗き込んだ。
「十二壺全部を店へ出す必要があるのかい?」
「売れるかもしれん!」
「これまで一日に、何壺くらい売ってきた?」
ダリオが尋ねると、商人は一瞬黙った。
「……ふたつか三つだ」
「なら店へ一壺。売れたら次を倉庫から出す」
「重い油を何度も運べというのか!」
「十二壺並べて、客の通路を塞ぐよりましだよ」
マーサも一歩も退かない。
「田舎の市場が商人へ指図するのか!」
「その田舎の市場へ売りに来たのは、そちらだろう?」
商人の顔が赤くなった。
「領主を呼べ!」
イデアの足が半歩前へ出た。
その瞬間、外套の背が軽く引かれる。
振り返らなくても分かった。
「呼ばれましたわ」
「市場会へ言っています」
「わたくしが領主なのだけれど」
「まだ市場会が対応中です」
「あなた、楽しんでおりますわね?」
「少し」
認めた。
腹立たしい。
その間にも、市場会は話を続けていた。ネッサが壺のひとつを眺め、眉を寄せる。
「その栓、少し緩い」
「触るな!」
「触っていない」
「漏れてもいない!」
「今はね」
ハンナが険しい顔で壺を見る。
「もし倒れて油が流れ、火を使う区画まで届けば厄介だよ。昨日、本当に火が出たばかりなんだからね」
「倒さなければいい!」
「倒れる可能性があるから決めるんだ」
ミラが言った。
「壺は石床へ置く。下には砂を敷いた浅い箱を使えば、少しくらい漏れても広がりにくい」
「箱まで作るのか」
「今後、油を売る者が来るなら使える」
ローデンが頷いた。
そこでダリオの羽根ペンが止まった。
「ただし、新しい設備が必要になります」
市場設備として作るなら、材料費と手間がかかる。
油だけではない。大量の酒や染料など、倒れたり漏れたりした時に、通常の商品より清掃や修繕の負担が大きくなる品はほかにもあるだろう。
マーサが腕を組んだ。
「何も起きなければ返す金を、先に預かるのは?」
「預り金?」
「壺を割らず、油もこぼさず、設備も傷めなければ全部返す。何かあった時だけ、実際にかかった清掃や修理へ使う」
ダリオが少し考え、記録板へ書く。
「保証金ですね」
「また金を取るのか!」
商人が声を上げた。
「返す金だよ」
「信用できるか!」
「帳簿へ残す」
「そんなもの――」
商人は言いかけて、周囲を見た。
共同秤。
倉庫の利用札。
市場維持費の帳面。
昨日作った事故報告書。
この市場では、何かを受け取れば記録する。何かを払えば、それも記録する。
そのことを知る者は、すでに増えていた。
「問題があります」
ダリオが言った。
イデアは思わず身を乗り出す。
「保証金を新設する権限は、仮市場会へ渡されておりません」
「そうでしょうとも!」
イデアは胸を張って姿を現した。七人の視線が一斉に向く。
オルドが深く息を吐いた。
「最初からそこにいたのか」
「最後の木札を使いましたわ」
「何の話だ?」
油商人が怪訝な顔をする。
「市場会の内規です」
アルゼルが答えた。
商人はそこで初めて、イデアの隣に立つ男をまともに見たらしい。金の髪から、白い衣、その背で大きく畳まれた翼へと視線が移り、目が見開かれた。
「……その、翼は」
声までわずかに裏返る。
けれど、周囲を見れば、オルドもダリオもマーサも、誰一人としてアルゼルの姿を気に留めていない。今さら翼を見上げる者すらいなかった。
自分だけが取り乱すのも癪だったのだろう。商人は一度咳払いをすると、無理に表情を戻した。
「……領主が隠れて見ていたのか」
「見学です」
アルゼルが訂正した。
商人は、翼を持つ男があまりにも当たり前の顔で会話へ加わってくることに、また僅かに狼狽えた。
「余計な説明は不要ですわ!」
イデアは咳払いをし、商人と市場会の間へ立った。
ここからは、自分の仕事である。




