47.領主が見張らなくても、市場は回ります
雨の日にも仮市を開き、わずかながら現金の黒字を出した翌朝。
イデアは朝食を終えるより先に、アルゼルから四枚の木札を見せられた。
「……何ですの、これは?」
「本日、あなたが市場へ様子を見に行ける回数です」
大きな掌へ載せられた木札には、一から四まで数字が刻まれている。
イデアは木札を見てから、もう一度アルゼルを見た。
「わたくしの領地ですわよ?」
「ええ」
「市場も、わたくしの管理下です」
「本日からは、仮市場会の管理下でもあります」
「だからといって、領主の出入りを制限なさるの?」
「制限ではありません。目安です」
「木札まで作って?」
「あなたは、目安だけでは守らないでしょうから」
アルゼルはいつも通り穏やかに微笑んでいたが、差し出した手を引っ込める様子はない。
礼拝堂に置いた仮机には、王領監理局による現地確認へ備えた書類が積み上がっている。
市場規則、共同秤の記録、道路や排水設備の修繕状況、出店者名簿、水車の利用記録、診療所の患者受入手順。それにドワーフたちとの取り決めや、昨日新しく作った仮市場会の権限まで、整理しなければならないものはまだ多い。
市場を任せると決めたのは、自分だ。
分かっている。
分かってはいるのだが。
「一度の定義を確認いたします」
「教会から出て、市場へ入ったら一度です」
「入口から様子を見るだけなら?」
「一度です」
「窓から?」
「一度です」
「市場側から呼ばれた場合は?」
「内容によります」
「緊急事態なら?」
「数えません」
「では毎回、緊急事態と判断すれば――」
「私も同行します」
「それは監視ではなくて?」
「保護です」
「響きを変えただけでしょう!」
アルゼルは四枚の木札を机へ並べた。
「昨日、あなたは市場の細かな判断を仮市場会へ任せ、今日は書類を進めると約束しました」
「……たしかに申しましたが」
「ならば、任せてください」
「確認は必要ですわ」
「四度まで」
「六度!」
「三度」
「減りましたわよ!?」
「交渉するなら、こちらも条件を変えます」
「……では五度」
「四度です」
結局、最初と同じだった。
イデアは不満を隠さず一枚目の木札をつまむ。
「……分かりましたわ。一枚ずつ使えばよいのね」
「市場へ行くたび、私へ渡してください」
「なぜ?」
「残りを紛失したと言い張らないためです」
「そこまで信用がございませんの!?」
「領地を経営する能力は信用しています」
「でしたら――」
「自分を休ませる能力は、まったく」
返す言葉がなかった。
「では書類を一枚――」
「先に朝食を」
「……まだ朝食前でしたわね」
「木札の交渉を始めたのは、あなたでしょう」
「原因はその木札ですわ!」
どうやら本日も、食事監督官の権限だけは市場会へ移譲されないらしい。
◇
朝食を終えたイデアは、現地確認用の書類へ向かった。
昨日までに決めたことを記録へ落とし込み、不足している項目へ印をつけていく。共同秤については正式な照合を待つ必要があり、飲食物の衛生、患者用通路、雨水の排水などは昨日の実地運用で改善点が出た。
そして、まだ不十分なのが防火だった。
「火が出た場合……」
イデアは羽根ペンを止める。
地下の貯水槽はある。桶もある。火を使う店と燃え移りやすい荷を離す必要があることも分かっている。
だが、実際に火事が起きた時、誰が何をするのか。
「市場会で決めるのでは?」
向かいの長椅子へ座っていたアルゼルが言った。
彼は古い宗教記録の断片を手にしているが、読書のためだけにそこへいるとは思えない。イデアが市場へ脱走しないか見張っているのだろう。
「市場会が決めた内容を、わたくしが書類へまとめなければ」
「報告が来ますよ」
「先に確認した方が早いですわ」
立ち上がりかける。
すっと、アルゼルの手が差し出された。
「何ですの?」
「木札を一枚」
「まだ市場へ行くとは申しておりません」
「立ちました」
「腰を伸ばしただけです」
「扉を見ました」
「扉は視界へ入りますわ!」
「市場の方へ身体が向いています」
「細かすぎませんこと!?」
イデアは渋々椅子へ戻った。
その直後だった。
外から、硬い金属を叩く音が三度響いた。
かん、かん、かん。
続いて、人々の声。
「水を!」
「通路を空けろ!」
「子供を下がらせて!」
イデアは勢いよく立ち上がった。
「緊急事態ですわ!」
「待ってください」
「火事かもしれません!」
「煙の匂いはしませんが」
「あなたには分かるでしょうけれど、わたくしには分かりません!」
イデアは机の木札へ手を伸ばしかけ――途中で止めた。
「……緊急事態なら、木札は使わなくてよろしいのでしたわね?」
「本当に緊急事態なら」
「確認しなければ、緊急事態かどうか分かりません」
「つまり?」
「確認へ行くまでは、緊急事態として扱いますわ」
「都合のよい解釈ですね」
「合理的な解釈です!」
木札には触れないまま、イデアは礼拝堂を飛び出した。
◇
市場の中央では、ピムが赤い布を振っていた。
「火事だー!」
「水桶、こちらへ!」
オルドが声を張り、村人たちは地下の貯水槽から水を汲んで二列へ分かれている。満水の桶を火元へ運ぶ列と、空の桶を戻す列。
ミラとネッサは布屋根の留め具を確認し、ダリオは合図用の鉄板を手にしていた。
ハンナは診療所前で、子供や老人を市場の外へ誘導している。
しかし、火はどこにもない。
「……何をしておりますの?」
イデアが声を上げると、全員が振り返った。
ピムだけは元気よく赤い布を振り続けている。
「火事だよ!」
「燃えておりませんわ!」
「燃えたつもりだ」
オルドが答えた。
「防火訓練です」
ダリオが記録板を持って近づいてくる。
「仮市場会で、今朝実施すると決めました」
「わたくし、聞いておりませんけれど」
「お知らせすれば、領主様も最初から参加なさったでしょう」
「当然ですわ」
「そして、すべて指示なさる」
「必要なら」
「それでは、仮市場会だけでどこまで動けるのか試せません」
正しい。
正しいからこそ、少々腹が立つ。
「わたくしがいない状態を試したの?」
「はい」
「それで、うまく動きまして?」
オルドたちは顔を見合わせる。
「桶の列は一度詰まった」
「満水の桶と空の桶が同じ道を通りました」
ミラが続ける。
「患者を逃がす方向も、市場の客と重なってるよ」
ハンナも診療所側を示す。
「屋根を外す縄も、どれを引けばいいか分かりにくい」
ネッサが留め具を指先で弾いた。
失敗している。
しかし、自分たちで見つけてもいる。
「では、水桶の列を――」
「領主様」
ダリオに遮られた。
「何ですの?」
「本日は、まず見学を」
「見学?」
「市場会の訓練ですので」
「わたくしは領主ですわよ」
「だからこそ」
オルドが穏やかに言った。
「わしらが、どこまでできるか見ていてほしい」
「途中で危険を見つけたら?」
「本当に危険なら止めてください。ただし、直せるところは先にこちらで直します」
イデアは言葉を飲み込んだ。
確かに、先ほど問題だと思った桶の列についても、すでに改善方法を相談している。
「見学者はこちらへ」
横からアルゼルが市場の端を示した。
「どうして、あなたまで市場会の味方なの?」
「私は市場会の構成員ではありません」
「でしたら、わたくしの味方を」
「あなたが仕事を任せることの味方です」
妙に綺麗な言い方をされた。
「……見ておりますわ」
イデアは市場の端へ移動して腕を組んだ。
「不満そうですね」
「ございません」
「そうですか」
「ございませんわ!」
◇
次の訓練では、先ほど見つかった問題が早速修正された。
水桶を運ぶ列は外側へ回し、患者は教会裏へ避難させる。
火元に近い布屋根だけを素早く下げられるよう、ネッサが留め金を調整し、どの縄を使うか分かる印も付けた。
それでも、実際に動かしてみれば新しい不足が見つかる。
貯水槽を開ける者が決まっていない。
桶の数を毎朝確認していない。
料理用の火鉢と布屋根の距離も曖昧。
風向きによっては、同じ配置でも危険になる。
「火を使う店を一か所へ集めます?」
訓練終了後、ようやく意見を求められたイデアは、配置図を覗き込んだ。
「いいえ。一か所へ集めて、そこから燃え広がる方が危険ですわ。二か所に分けましょう。どちらも水へ近く、診療所や布を扱う店からは離す」
「風が強い時は?」
ローデンが尋ねる。
「屋根へ小さな旗を付けて、朝に風向きを確認します。危険なら片方の火を使う区画を閉める」
「閉められた店は?」
「火を使わず売れる品なら別の区画へ。それが無理なら、その日は屋根の維持分など、使えなかった設備の負担はいただきません」
仮市へ何度か店を出し、外部出店者側の代表となったハルム村のマーサをはじめ、ミラやネッサからも次々と質問が出る。
イデアは答えながら、ふと気づいた。
以前なら、問題を見つけるところから答えを出すところまで、すべて自分で抱えようとしていた。
今は違う。
誰かが問題を見つけ、別の誰かが方法を考え。
イデアは、それらをつないでいる。
「もう一度やるぞ」
オルドが声をかけた。
「まだなさいますの?」
「今度は、領主にも参加してもらう」
「指示を?」
「いいや」
差し出されたのは、水桶だった。
「桶運びで」
「わたくしが?」
「働ける者は列へ入る。それも今日決めた」
領主だからといって、指揮だけをしていればよいわけではないらしい。
「分かりましたわ」
イデアが桶を受け取ると、アルゼルも隣で首を傾げた。
「私は?」
「貯水槽から列の先まで、水を運べ」
ガルドンが三つの桶を差し出した。
「なぜ私だけ三つなのです?」
「持てるからだ」
「平等ではありませんね」
「能力に応じた分担ですわ」
イデアが言う。
「便利に使われている気がします」
「重要な労働力ですもの」
「天使として?」
「アルゼルとして」
口にしてから、イデアは一瞬だけ黙った。
別に、おかしなことを言ったつもりはない。彼は天使である前に、ここで働いているアルゼルなのだから。
それなのに、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着かない。
アルゼルも一瞬言葉を止めたが、やがて口元を柔らかく緩めた。
「では、働きましょう」
アルゼルは三つの水桶を、いとも簡単に持ち上げた。
「本当に、一度に全部運びますの?」
「そのための三つでしょう」
「そうですけれど、無理はなさらないで」
「能力に応じた分担では?」
「わたくしの言葉を便利に使わないでくださる?」
◇
訓練が始まった。
イデアは桶の列の中ほどへ入り、前から渡される水を次へ送る。
重い。
縁からこぼれた冷たい水が袖を濡らす。
「次!」
満水の桶が、イデアのいる列を火元へ送られていく。隣では、使い終えた空桶が反対方向へ戻っていた。
ここからでは市場全体は見えない。
屋根を動かす者も、患者を避難させる者も、通路を空ける者も、一部しか見えなかった。
それでも。
「西側、空いた!」
「貯水槽、まだ余裕あり!」
「屋根を下げる!」
「子供、全員確認!」
声が聞こえる。
市場は動いていた。イデアが指示しなくても。
最後の桶が渡り、ピムが火元を示していた赤い布を地面へ伏せる。
「消えたー!」
「今度はよかったな」
オルドが息を吐いた。
イデアも濡れた袖を絞りながら笑う。
「もう一度くらい――」
「まだやるのですか?」
三つの空桶を抱えたアルゼルが呆れた声を出した。
「訓練は多い方が――」
その時だった。
雨の名残を含むような風が吹いた。
料理区画の端に置かれていた小さな火鉢から、赤い火の粉がひとつ舞い上がる。
ほんの小さなものだった。
だが、風に乗った火の粉は、布屋根の端に残っていた乾いた麻糸へ触れた。
じゅっ、と細い煙が上がる。
そして瞬く間に、小さな炎が立った。
「……本当に燃えておりますわ!」
一瞬。
誰も動かなかった。
訓練が終わったばかりだったからだ。
「火事!」
最初に叫んだのはネッサだった。
「東側、本物!」
ダリオが鉄板を叩く。
先ほどまでと同じ音なのに、今度は市場の空気が変わった。
「客を外へ!」
「診療所側へ近づけないで!」
「貯水槽を開けろ!」
「布を下げる!」
声が次々と飛ぶ。
ネッサが布屋根の留め金へ槌を入れたが、一度では外れなかった。
「縄が水を吸って膨らんでる!」
ミラが支柱へ駆け寄る。
炎はまだ小さい。
けれど麻糸を伝い、ゆっくり横へ広がろうとしている。
イデアは水桶を掴んだ。
「列を――」
言いかけて、止めた。
もう、できている。村人たちは訓練と同じ位置へ並び、満水の桶がこちらへ向かってきていた。
隣にはアルゼルがいる。
彼なら、おそらくもっと簡単に止められる。
けれど、白い翼を畳んだまま、まだ動こうとはしない。
「任せるのですか」
イデアが尋ねる。
「危険になれば私が止めます」
「今は?」
「彼らが止められます」
迷いのない声だった。
満水の桶が届く。イデアは受け取り、次へ送った。
「水!」
一杯目。
二杯目。
火が弱くなる。
「留め金、外れた!」
ネッサが槌を振り下ろすと、布屋根の片側が下がる。
その瞬間、支柱が大きく揺れた。下がった布の端と木材が、避難途中の子供へ向かう。
「危ない!」
白いものが視界を横切った。
アルゼルが一歩で距離を詰め、広げた翼を子供と支柱の間へ差し入れる。
木材が白い羽根へ当たり、鈍い音を立てた。
「アルゼル!」
「問題ありません」
彼はすぐに子供を抱き上げ、市場の外へ下ろした。
「走らないでください」
「うん」
「泣いていませんね。偉いですよ」
「アルゼル兄ちゃんの羽、大丈夫?」
「問題ありません」
普段と変わらない調子だった。
その間にも桶は渡り続ける。
最後にボルグが乾いた砂を火元へかけ、白い煙が立ち上った。
「残り火を確認!」
ハンナの声で、ミラとネッサが濡れた布を棒で持ち上げる。
赤い光はない。煙も薄れていく。
「消えた」
ガルドンがほっとしたように言った。
そこでようやく、市場全体から長い息が漏れた。
◇
被害は小さかった。
布屋根の端が焦げ、支柱一本に傷が入り、水桶の柄がひとつ外れた。
怪我人はいない。アルゼルが庇った子供も、驚いただけで済んだ。
「本当に火が出るとは思いませんでしたわ」
イデアは焦げた布を見上げた。
「訓練中でよかった」
オルドが言う。
「人も水も近くにいたからな」
「訓練へ本物の火を使ったこと自体、問題だったかもしれません」
ダリオが記録板を見ながら眉を寄せる。
「火を使う店の想定なんだから、火なしでは気づけないこともあるよ」
ハンナが答えた。
「じゃあ、誰が悪いの?」
ピムの問いに、大人たちが黙った。
イデアも焦げ跡を見る。
「一人の責任にはいたしません」
やがて、そう答えた。
「火鉢の位置。屋根との距離。風向き。濡れた縄。支柱の倒れる方向。いくつも重なっていますもの」
「領主様」
ミラが口を開いた。
「訓練を決めたのは市場会です」
「ええ」
「火鉢の場所も、こちらで決めました」
「そうですわね」
「なら、今回は『最終的に領主の責任』とは言わないのですか」
イデアは一瞬、言葉に詰まった。
以前なら、自分が領主なのだから、最後は自分が負うと言ったかもしれない。
だが今日は、訓練をすることすら知らなかった。
火鉢の位置も、屋根の留め金も、仮市場会が自分たちに与えられた権限で決めた。
「市場会が決めたことへの責任は、市場会にあります」
ゆっくりと言葉にする。
「ですが、その市場会を作り、判断する権限を渡した責任は、わたくしにございます」
「結局、領主様も背負うんだね」
「全部ではありません」
そう言うのは、少し怖かった。
けれどオルドが頷く。
「それでいい」
「本当に?」
「全部を領主様の責任にされたら、わしらは何も決められん」
ミラも頷いた。
「失敗したら、直します」
ネッサはすでに焦げた留め金を外している。
「次は濡れても外しやすい形にする」
「ただし、勝手に外れないものへ」
ダリオが書き加える。
「支柱も、倒れるなら通路と反対へ」
「火を使う店の屋根は、古い麻布を減らしましょう」
「火鉢の下へ石を敷く」
「風が強ければ火を止める」
次々と改善案が出てきた。
誰も、責任から逃げてはいない。
イデアはそれを聞き終えると、ダリオの記録板へ視線を落とした。
「事故報告書を作ります」
「監理局へも提出しますか?」
「ええ」
「認可前に火災が起きたと書けば、不利になる可能性もあります」
「隠して、現地確認で焦げ跡を見つけられる方がよほど不利ですわ」
「小さな火でしたが」
「小さくても火事です」
イデアは焦げた布へ触れた。
「原因。対応。被害。そして改善した内容まで、すべて残します。一度も失敗しない市場だと主張するより、失敗した時に直せる市場だと示す方がよろしいでしょう」
共同秤の不正な分銅を見つけた時と同じだ。
問題が存在しないと装うことより、問題へどう向き合ったか。
その記録の方が、ずっと信用になる。
「ただし、この報告書は領主だけのものにはいたしません」
イデアは仮市場会の者たちを見回した。
「本日の訓練と事故について、判断に関わった方は全員、内容を確認してくださいませ」
「領主様の名前は?」
「最後です」
「最後なのですか?」
アルゼルが尋ねた。
「本日、わたくしは途中まで見学者で、その後は桶運びの一人でした」
「領主ではなく?」
「最終確認はします」
イデアは答えた。
「ですが、火を消したのは、わたくし一人ではございませんもの」
◇
礼拝堂へ戻ると、机の上には朝とほとんど変わらない量の書類が残っていた。
イデアは一枚目の木札をアルゼルへ差し出す。
「どうぞ」
「途中から本当に火事になったので、数えなくてもよいのでは?」
「最初は訓練でした」
「半分にしますか?」
「木札を割るのは資源の無駄ですわ」
「では一枚」
残り三枚。
イデアは椅子へ座った。
「本日は、もう市場へ参りません」
「本当に?」
「事故報告書を書きます」
「留め金の作り直しも、支柱の補修も、気になるでしょう?」
「気になりますわ。それでも、報告を待ちます」
口にすると、胸の内側が少しざわついた。
自分で見た方が早い。間違いも少ない。思いついたことを、その場ですぐ言える。
けれど礼拝堂の外からは、すでに槌の音が聞こえている。ネッサたちが金具を直し、ミラが支柱を確かめ、ダリオが材料を記録し、オルドが人を動かしているのだろう。
「アルゼル」
「何でしょう」
「わたくしがいなくても、市場は回りましたわね」
「ええ」
即答だった。
分かっていたことなのに、胸の奥へ小さな棘が刺さったような気がした。
「……そうですわよね」
「ですが」
アルゼルが続ける。
イデアは顔を上げた。
「あなたがいなくても動くことと、あなたがいなくてよいことは違います」
羽根ペンが止まった。
「何が違いますの?」
「今日、市場会が動けたのは、あなたが権限を渡したからです」
「皆様が優秀だったからでしょう」
「その者たちを信じて任せ、どこまで判断してよいかを決めたのは?」
「……わたくしです」
「ならば、あなたが作った仕組みでもあります」
アルゼルは机の向こうから、閉じた瞳のままイデアへ顔を向けた。
「領主が一歩離れただけで止まる市場より、領主が別の仕事をしていても動く市場の方がよいでしょう」
「そのうち、領主などいなくてもよいということには?」
「なりません」
返事は思ったより早かった。
「あなたが不要になるために仕事を分けるのではありません」
「では?」
「あなたが、本当にあなたでなければならない場所へ行けるようにするためです」
小さな揉め事が起こるたび。
縄が緩むたび。
桶がひとつ足りないたび。
そのすべてへイデアが走っていたら、本当に領主として決めなければならないことへ手が届かなくなる。
「それに」
アルゼルの声が少しだけ柔らかくなる。
「少なくとも私は、あなたがいなくてよいとは思いません」
胸の奥に刺さっていた小さな棘が、別の熱へ変わった。
なぜ、と。
聞こうと思えば聞けた。
けれど、イデアは口を開かなかった。
その先は、まだ聞かないと決めている。
「……そういうことを、平然とおっしゃるのね」
「事実ですから」
アルゼルが笑う。
イデアは少しだけ頬が熱い気がして、事故報告書へ視線を戻した。
「続きを書きますわ」
「どうぞ」
「見張らないでくださいませ」
「あなたが市場へ行こうとしなければ」
「やはり見張っておりますわね!」
◇
夕方、ダリオが仮市場会からの報告を持って戻ってきた。
「改善項目のうち、今日中にできるものはほぼ終わりました」
「もう?」
「ネッサが留め金を変更。ミラが支柱の倒れる向きを調整。ローデンが火を使う区画の排水を確認しています。壊れた桶も修理済みです」
「火鉢の下へ敷く石は?」
「ガルドンが余り石を削っています」
「焦げた布は?」
「セラが傷んだ部分を切り、当て布を」
「費用は?」
「市場維持費から。帳簿にも記録済みです」
イデアは何度か瞬きをした。
自分が一度も見に行かないうちに、もう直っている。
悔しいわけではない。
どちらかといえば、安心している。
それでも少しだけ、置いていかれたような感覚がある。
「まだ残っているところは?」
「次の市場までに対応します」
「……分かりましたわ」
「見に来ますか?」
ダリオが尋ねた。
机の端には、まだ三枚の木札が残っている。
イデアはそれを見てから、首を横へ振った。
「報告だけで結構です」
ダリオが目を瞬く。
「本当に?」
「皆様、どうして毎回驚くの?」
「珍しいので」
「失礼ですわね!」
ダリオはわずかに口元を緩め、完成した事故報告書を受け取った。
「市場会へ回して、全員に確認してもらいます」
「一人でも異論があれば戻してくださいませ」
「承知しました」
◇
夜。
戻ってきた報告書には、仮市場会の者たちの署名や印が並んでいた。
それぞれが、自分の担当した部分を確認している。
最後に、イデアはその下へ、自分の名を書いた。
「領主の署名が最後ですね」
隣にいたアルゼルが言う。
「市場会の報告ですもの」
「不満は?」
「……少しだけ」
「何に?」
「わたくしが知らないうちに、皆様が仕事を終えてしまいました」
「よいことでは?」
「ええ」
イデアは素直に頷いた。
「非常によいことですわ」
小ラズマイトは、イデア一人が両手で抱えていなければ崩れてしまう土地ではなくなり始めている。
彼女が帳簿を書いている間にも。
食事をしている間にも。
眠っている間にも。
水車は回る。
山羊は育つ。
道は直される。
市場では誰かが問題を見つけ、別の誰かが直していく。
「それでも」
イデアは報告書を閉じた。
「少し寂しいですわね」
口にした直後、自分で驚いた。
仕事を取られたようで落ち着かない、と言うつもりだった。
けれど、出てきた言葉は違った。
アルゼルは笑わなかった。
「当然でしょう」
「当然?」
「自分が必要とされなくなるのではないかと、少し思ったのでしょう」
また胸の奥を見透かされた気がする。
「……半分ほど」
「残り半分は?」
「仕事を取られたようで落ち着きません」
「それは領主としての習性ですね」
「病のように言わないでくださる?」
「治るには時間がかかりそうです」
「あなたが治すの?」
「まず食事と睡眠から」
「結局そこへ戻りますのね」
アルゼルは笑いながら、机の端へ温かい木の器を置いた。
山羊乳へ、ほんの少し蜂蜜を溶かしたものだった。
「蜂蜜?」
「今日の防火訓練へ参加した分だそうです」
「わたくしに?」
「桶運びの分として」
「領主へ賃金を払いますの?」
「今日は桶運びの一人だったのでしょう?」
昼間、自分で言った言葉を返された。
イデアは少し迷い、それから器を受け取った。
「……では、いただきますわ」
「素直ですね」
「仮市場会が決めたのでしょう?」
「ええ」
「でしたら、領主が勝手に覆すわけにはまいりませんもの」
「便利ですね、市場会」
「わたくしの逃げ道を塞ぐために作ったのではございません!」
蜂蜜は、ほんの少しだけ甘かった。
今日、市場の収入はない。仮市を開いていないのだから当然である。
焦げた布や壊れた桶の補修には手間も材料もかかった。
帳簿の数字だけなら、利益など出ていない。
それでも。
火事の時に誰が動くのかを知った。
逃げ道を作った。
貯水槽が本当に役立つと分かった。
仮市場会は、領主の指示を待たずに動いた。
そして失敗した後も、誰一人として責任をイデアへ投げ返さなかった。
領主が見張らなくても、市場は回る。それは、イデアが必要なくなったという意味ではない。
イデアが一人で支え続けなくてもよい場所へ、小ラズマイトが少しずつ変わっているということだった。
その変化に、まだ少しだけ寂しさを覚える。
けれど、少なくとも一人。
自分がいなくてよいとは思わない、と言ってくれる者がいる。
イデアはその言葉の理由を、今夜も尋ねなかった。
ただ、蜂蜜の甘さと一緒に、胸の奥へ残しておくことにした。




