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46.屋根の下は、先着順ではございません


 翌朝も、雨は降っていた。

 けれどイデアが目を覚ました時、毛布にも額にも雨粒は落ちてこなかった。

 昨夜張られた不揃いな内張りの向こうでは、屋根を叩く雨音が途切れず続いている。完全な修繕にはほど遠い。

 それでも寝台の周囲は乾いており、村人たちが持ち寄った布は、雨だけでなく夜の冷えた空気までいくらか防いでくれたらしい。

 久しぶりによく眠れた気がする。

 ただし、静かな朝ではなかった。


「屋根の下は、うちが先だ!」

「何を言ってる、夜明け前に来たのはこちらだぞ!」

「その荷車で入口を塞ぐんじゃないよ!」

「布を濡らしたら売り物にならないんだ!」


 窓の向こうから、雨音に負けない怒鳴り声が届いてくる。

 イデアは目を閉じ直した。

 眠っている間に、問題が夢へ戻ってくれるかもしれない。


「起きていますね」


 寝室の入口から、アルゼルの声がした。


「寝ておりますわ」

「返事をしています」

「寝言です」

「では、朝食はここへ置いておきます」


 香ばしい匂いが漂ってきた。

 水車で挽いた麦の薄焼きパンと、山羊乳を使った温かい粥らしい。空腹だった身体が正直に反応し、イデアは仕方なく目を開けた。


「……何を入れましたの?」

「山豆と乾燥玉葱を少し。ハンナの指示です。働く人間には塩と豆も必要だと」

「粥へ?」

「ピムは二杯食べました」

「判断材料として信用してよろしいのかしら」

「三杯目を止めました」

「それなら、美味しいのでしょうね」


 イデアは起き上がり、外套を肩へ掛けた。すぐに市場へ行きたいところだが、昨日朝食を抜いてから、アルゼルが妙に食事へうるさい。

 いや、以前からうるさかった気もするが、このところ遠慮がなくなっている。


「いただきますわ」

「今日は素直ですね」

「外の声が聞こえておりますもの。ここであなたと争っている時間が惜しいだけです」

「食べずに出れば、私が止めると学びましたか?」

「時間を節約しております」

「理由はともかく、進歩です」


 粥を急いで口へ入れた。

 熱かった。


「熱い!」

「急いで食べるからです」

「急がせているのは外の方々でしょう!」


 その時、市場からひときわ大きな声が響いた。


「金なら払う! 場所を空けろ!」


 イデアは器を置こうとするも、アルゼルの手が、その器を押し戻す。


「あと三口」

「聞こえておりませんの?」

「聞こえています」

「争いになっておりますわ」

「オルドもミラもいます。三口で市場は滅びません」

「どうして三口?」

「器に残っている量です」

「ではひと口を大きく――」

「飲み込むまで見ています」

「食事監督官の権限が強すぎませんこと!?」


 ◇


 昨日までに市場へ張れた布屋根は、まだ一部だけだった。

 仮市へ並ぶ店すべてを覆うには足りず、雨に弱い布や粉、卵、乾燥薬草などを扱う商人たちが、朝から少ない屋根を巡って揉めていた。

 一方、ドワーフたちの金物は獣皮の覆いを自前で用意しているため、多少の雨ならしのげる。

 イデアが市場へ足を踏み入れるなり、何人もの声が飛んできた。


「伯爵様、聞いてください!」

「こちらが先に来たんだ!」

「銀貨を払うと言ってるのに譲らない!」

「薬草が濡れたら困るんです!」

「静かに!」


 声を張ったものの、雨音と荷車の軋み、人々の声に半分ほど飲まれる。

 イデアは隣を見た。


「アルゼル」

「私が?」

「美しく、静かにさせてくださいませ」

「評価を込めましたね」


 満足そうに一歩前へ出たアルゼルが、閉じた瞳のまま口を開く。


「――お静かに」


 澄んだ声が、市場全体へ通った。

 人々が一斉に黙る。馬まで顔を上げた。

 その静けさの中で、今日初めて小ラズマイトを訪れた商人たちが、ようやくアルゼルの姿をまともに見たらしい。白い翼を大きく畳んだ金髪の男を前に、何人かが息を呑み、ひとりは露骨に目を見開いた。

 噂だけは耳にしていたのだろうが、実際に目の前へ立たれるのとは話が違う。

 対して、村人たちは誰一人として驚かない。

 アルゼルが翼を持っていることも、閉じた瞳のまま周囲を見ていることも、今ではすっかり日常の一部だった。

 静かになったところで、イデアは集まった者たちを見回した。


「まず確認いたします。屋根の使用場所は、到着順では決めません」


 すぐに不満が出かけたが、アルゼルが微笑んだだけで口が閉じた。


「濡れることで、人や品物が大きな損害を受けるものを優先します。乾燥薬草、小麦粉、布、卵などは屋根の下へ。ただし、荷物をすべて並べることは認めません。売る分だけを店へ出し、予備は地下倉庫へ入れてくださいませ」

「倉庫代を取る気か」

「保管と出し入れには人手が必要ですので、利用した分はいただきます」

「なら屋根も金を払った者が使えばいいだろう」

「いいえ」


 即答すると、青い外套の布商人が眉を寄せた。


「銀貨を払うと言っている!」

「屋根の下は競売ではございません」

「商売だぞ」

「だからですわ」


 イデアは男の荷車を見た。大きな箱がいくつも積まれている。


「あなたは何箱もの布をお持ちですが、すべてを店へ並べる必要はありませんでしょう。見本を置き、必要な品だけ倉庫から運びなさい」

「手間がかかる」

「その手間を惜しんで、ほかの方を雨へ出す理由にはなりません」


 男は納得していない顔をした。


「金を多く出す者を優先しなければ、市場は儲からない」

「今日一日だけなら、そうかもしれませんわ」


 イデアは、雨の向こうに並ぶ店を見渡した。


「ですが、毎回、金を持たない者から濡れて品を失う市場へ、その方々が来年も出店すると思いまして? 一人が払う銀貨より、十人が何度も持ってくる銅貨の方が多くなることもございます」


 商人はしばらく黙り、やがて渋々自分の荷を減らし始めた。

 屋根を使う者には、修繕用の縄や油、釘などを維持するためのわずかな負担を求めることにもした。ただし、銅貨を払えない者は市場終了後の清掃や布を畳む作業で代えられる。

 到着順でもない。

 声の大きさでもない。

 払える金額でもない。

 まず、濡れることで失われるものが大きい場所から守る。

 決めてしまえば単純だったが、実際に人を配置するとなれば、それだけでは終わらなかった。


 ◇


 雨の市場は、予想以上に賑わった。

 近隣で予定されていた小さな市が雨で流れ、そこへ向かうはずだった農民や行商人の一部が、水車と屋根のある小ラズマイトへ回ってきたのだ。

 布屋根を叩く雨音の下に、温かい豆の汁の湯気が立ち、客が品物を覗き込む。山羊乳から作った乳酪もよく売れ、セラたちは次に作る分から大きさを揃えようと、ネッサと小型の秤について相談している。

 晴れの日より狭い。

 それでも、店は開いていた。

 昨日までただの出費だった屋根が、今日は人を呼んでいる。

 昼前、その価値は商売以外でも示された。


「診療所はどこだ!」


 市場の入口へ、一台の荷車が入ってきた。

 荷台には毛布へ包まれた少女が横たわっている。付き添っていた男の声を聞くと、市場の通路がすぐに空けられた。

 患者を運ぶ荷車は、商品の搬入より優先する。

 すでに決めていた規則だ。


「こちらです!」


 ダリオが廃教会前の屋根を示す。

 荷車が布屋根の下へ入ったため、少女を降ろしている間も雨に濡らさずに済んだ。

 ハンナが杖をつきながら出てくる。


「症状は?」

「昨夜から熱が出て、朝には身体へ赤い斑が」

「咳は?」

「少し」


 ハンナの顔が険しくなる。


「ほかの子供へ近づけるんじゃないよ。奥の小部屋を空けな」

「感染する病ですの?」


 イデアが尋ねる。


「まだ分からない。だから分けるんだ」


 アルゼルも少女のそばへ立ち、身体の状態を確かめた。彼に病を治す力があるわけではないが、神性や強い毒など、人の医術とは別の異常なら分かる。


「命へ直結するような毒や呪いではありません。ただ、熱は高いですね」


 それだけでも、父親らしい男の肩からわずかに力が抜けた。


「治せるのか」

「調べる」


 ハンナが短く答えた。


「治るとは約束しない。だが、雨の中へ連れ帰る必要もない」


 少女が廃教会内にある診療所へ運び込まれていく。

 イデアは、その頭上に張られた布を見上げた。

 昨日買った蝋引き布。

 村人たちが縫った古布。

 金具と縄。

 増えた支払い。

 そのすべてが、今は一人の少女を雨から守っている。


「黒字ですね」


 隣でアルゼルが言った。


「まだ治っておりませんわ」

「屋根の話です」

「……ええ」


 少なくとも、作った意味はあった。


 ◇


 ところが午後になると、新しい問題が見つかった。

 屋根の下ではない。

 屋根から落ちた水だった。


「伯爵様、こっちへ水が流れてくるよ!」


 市場の端から声が飛ぶ。

 駆けつけると、何枚もの布屋根から落ちた雨水が石畳の排水溝へ入らず、低くなった場所へ集まっていた。その先では、木の匙や籠を売っていた店主の足元がすっかり水に浸かっている。


「なぜ排水溝へ流れませんの?」


 ローデンが石畳と支柱を見比べた。


「最後に張った屋根の傾斜が逆です」

「逆?」

「水が溝ではなく、外側へ落ちてます。ここは地面も低いから、水が集まったんだ」


 イデアは黙って水溜まりを見る。

 雨に弱い品を屋根の下へ入れた。

 考え方そのものは間違っていない。

 しかし、そこから押し出した雨水が、屋根を使えなかった者の足元へ集まることまでは考えていなかった。


「こちらの店を移動します。商品は一度地下倉庫へ。仮の台は、廃教会横へ作ってくださいませ」

「屋根の優先順位じゃ、俺の木工品は後だっただろう?」


 店主が尋ねた。


「今は足元が水へ浸かっております」

「規則を変えるのか」

「規則どおりにして、人も品物も駄目にしたら意味がございませんわ」


 言い切ってから、イデアはもう一度水面を見た。


「わたくしの見落としですわ……。同じ規則でも、立つ場所によって負担が違うのですね」

「領主様が謝ることでは――」


 ミラが言ったが、


「決めたのは、わたくしです」


 イデアは首を横へ振った。


「屋根を作ることばかりで、そのあとのことを考えておりませんでしたもの」

「今さら気づきましたか?」


 アルゼルが横から言った。


「厳しいですわね」

「雨に弱い品を優先したことは、間違っていません。ただ、何かを変えるなら、その結果まで考えなければならないということでしょう」


 アルゼルは、水の溜まった地面へ顔を向けた。


「屋根は雨を防ぎますが、降った雨そのものを消してはくれませんので」

「……それはそうですわね」


 悔しいが、その通りだった。

 イデアはすぐに顔を上げる。


「屋根の傾斜を直します。それから仮の樋を追加して、水は石畳の排水溝へ」


 薄い板を組み、継ぎ目には油を含ませた布を挟む。恒久的な設備ではないが、今日の雨なら持つ。

 ミラとローデンが梯子を使って位置を調整し、イデアは少し離れた場所から水の流れを確認した。


「もう少し右へ!」


 樋の先が動き、屋根を伝った雨水が板の中を走る。最初は継ぎ目から少し漏れたものの、布を追加して縄を締め直すと、今度はまっすぐ石の溝へ流れ込んだ。


「入りましたわ!」


 水は修復した排水路を通り、古い貯水槽へ向かっていく。

 市場の端に溜まった水も少しずつ減り始めた。


「次から、屋根を増やす時は落ちる水の行き先まで図面へ入れます」

「記録しておきます」


 ダリオが帳面へ書き加える。

 イデアはため息をついた。


「また決まりが増えますわね」

「人が増えれば、決まりも増えます」


 アルゼルが答えた。


「その言葉を便利に使いすぎではなくて?」

「事実ですから」


 ◇


 市場が終わる頃には、雨はようやく細くなっていた。

 屋根の利用者から集まったのは、銅貨だけではない。

 補修用の布に油、縄。

 清掃や片づけの手伝い。

 それぞれを帳簿へ分けて記録し、その日の仮市の運営収支を計算すると、手元の現金だけなら銅貨十六枚ほど残った。


「黒字ですな」


 ダリオが数字を示す。

 王家への借金へそのまま充てられる収入とは別の帳簿であり、昨日買った布や今後の支払いまで含めれば、屋根そのものの費用を一日で回収したわけでもない。

 それでも。


「雨でも店を開けた結果ですわね」

「雨だったから、ほかから客が来た面もある」


 オルドが言う。


「屋根がなければ、こちらも休みになっていました」


 イデアは帳簿へ視線を落とした。


「つまり、屋根が利益を生みましたのね」

「あなたが眠る屋根も?」


 アルゼルが横から尋ねる。


「そちらは収入を生みません」

「あなたが眠って、翌日働けます」

「すべてを利益へ結びつけますのね」

「あなたから学びました」


 しかし、問題はまだ山ほど残っていた。

 今日だけでも、屋根の配置、排水、倉庫、患者の通路、入口の混雑、荷車の待機位置など、改善点が次々に見つかっている。


「次の仮市までに、すべて直しますわ」

「全部は無理だ」


 オルドが即座に答えた。


「ですが——」

「市場だけが仕事じゃない」


 ミラも続ける。

 道の修繕もある。

 診療所の補修も終わっていない。

 山羊の小屋も必要になる。

 水車や古道の手入れもある。

 そして、正式な市場として認めてもらうための記録や書類もまとめなければならない。


「市場の細かな問題を、領主様が全部決め続けるのは無理です」


 ダリオが言った。


「領主ですもの」

「領主でも、目はふたつしかない」


 オルドが返す。


「わたくしの目は開いておりますわ」

「私への当てつけですか?」


 アルゼルが反応した。


「違います!」


 話が逸れた。

 オルドが咳払いをする。


「市場の日ごとに領主様が屋根と道と店の間を走り回っていたら、正式許可の準備が進まない。細かな判断をする者を決めた方がいい」


 イデアは黙った。

 誰かへ任せる。その言葉には、まだわずかな抵抗がある。

 自分が知らないところで財産を動かされ、帳簿を書き換えられ、最後には家そのものを失いかけた記憶が消えたわけではない。

 けれど、小ラズマイトへ来てからを思えば。

 水車はローデンが動かしている。

 道や建物はミラたちが見ている。

 薬はハンナ。

 山羊には山羊を知る者がついた。

 ドワーフたちにも、自分たちの仕事と判断がある。

 すでにここは、イデア一人の手だけでは動いていない。


「……分かりましたわ」


 イデアは新しい紙を取り出した。


「仮市場会を作ります」

「名前が堅いな」

「帳簿へ書くのですもの」


 村側の調整はオルド。

 記録と計量はダリオ。

 設備はミラ。

 衛生と診療についてはハンナ。

 ドワーフ側の出店に関する窓口はネッサ。

 水車に関わる問題はローデン。

 外から来る商人についても、継続して出店する者の中から意見をまとめる者を置くことにした。

 ただし、仮市場会が自由に何でも決めてよいわけではない。

 日々の店の配置。

 屋根や倉庫の順番。

 清掃。

 軽い規則違反。

 少額の弁償。

 そうした現場で処理できる範囲は任せる。

 一方、料金そのものの変更、大きな損害、暴力、詐欺、市場からの追放などはイデアへ報告する。


「任せる範囲まで決めるのですね」


 アルゼルが言った。


「全部を任せて、あとから『知りませんでした』とは申せませんもの」

「よいことです」

「何が?」

「あなたが、責任を手放さずに仕事を分ける方法を覚えたことです」

「これまでも任せております」

「任せた後も、隣で全部見ていました」

「確認ですわ」

「監視でしょう」

「違います!」


 否定したものの、完全には違わない気もした。


 ◇


 夜。

 イデアは補修した寝室で、その日の市場記録を書き直していた。

 今日一日で増えた決まりは多い。

 それでも、今後は細かな判断のたびにイデアを呼びに来る必要はない。正式な市場として認めてもらうための記録作りや、領地全体の仕事へ使える時間も増えるはずだった。


「一日で随分増えましたね」


 アルゼルが温かい木の器を持ってくる。


「それは何ですの?」

「山羊乳と豆の汁です」

「食事はいただきました」

「市場で薄焼きパンを半枚」

「見ておりましたの?」

「食事監督官ですので」

「市場全体を見なさい」

「市場会ができました」

「早速利用するのね」


 文句を言いながらも、器は受け取った。

 冷えていた指へ温かさが染みる。


「昼の少女は?」

「熱は少し下がったそうです。ハンナは、今のところ急に広がるような病ではなさそうだと」

「よかった」

「まだ様子は見ますが」

「ええ」


 イデアは豆を一粒口へ運び、それから帳簿を見た。


「今日の屋根の決め方……間違っておりましたかしら」

「いいえ」

「ですが、水の流れを見落としました」

「最初に作った規則で、すべてを見通せる者はいません」

「あなたでも?」

「私は天使ですので、人間よりは多く見えます」

「でしたら、先に気づいてくださればよかったでしょう」

「市場を作っているのは、人間とドワーフですから」

「逃げましたわね」


 アルゼルは少し笑った。


「それに、失敗しないことだけが大事ではありません。気づいた後にどう直すかまで含めて、その規則の価値でしょう」

「わたくしは、どうでした?」

「見落としを認め、店を移し、屋根の傾斜を直しました」

「一人で担えることには、限りがございますのね」

「そのための市場会なのでしょう」

「……ええ」

「責任を捨てるのではなく、見る目を増やすために」


 イデアは器を両手で包んだ。


「わたくしの目だけでは足りないことが、多くなりましたわね」

「ふたつしかありませんから」

「開いておりますけれど」

「また私へ?」

「今回は少し」


 アルゼルの口元が緩む。


「では、私の目もお貸ししましょう」

「開けますの?」


 思わず尋ねてから、イデアはわずかに息を止めた。

 なぜだろう。

 ただの軽口だったはずなのに、その言葉だけが妙に胸へ残った。

 アルゼルはいつもと変わらず瞼を閉じたまま、少し考えるように首を傾けた。


「必要な時には」

「普段は?」

「私の瞼は優美な――」

「その話は結構ですわ」


 すぐに遮ったものの、先ほどの感覚までは消えなかった。

 アルゼルの瞳は、美しい金色だった。

 もし今、あの瞳を目の前で見たなら、自分はいったいどんな気持ちになるのだろう。

 イデアは胸の奥が騒ぐのを誤魔化すように、帳簿へ目を戻す。

 今日の仮市は、わずかながら現金の黒字。

 屋根の補修費をすべて取り戻したわけではない。

 王家への借金が減ったわけでもない。

 それでも、雨の日にも市場を開けた。

 患者を濡らさず運べた。

 新しい問題を見つけ、直した。

 そして、自分一人で抱えていた仕事を、ほんの少しだけ人へ渡した。


「明日は、市場の細かいところは仮市場会へ任せて、正式許可のための書類を進めますわ」

「本当に?」

「疑っておりますの?」

「途中で様子を見に行く回数を予想しています」

「一度くらいは参ります」

「それだけ?」

「……三度」

「五度は行くでしょうね」

「では、四度にいたしますわ」

「交渉になっていませんか」


 アルゼルが呆れたように笑う。

 窓の外では、まだ雨が降っていた。

 けれど、今夜もイデアの寝台へ雨粒は落ちてこない。

 市場の屋根から流れた水も、新しく付けた樋を通り、排水溝へ収まっている。

 雨そのものは止められない。

 すべての者を、同じ屋根の下へ入れることもできない。

 ならば、誰が濡れているのかを見る。

 守った場所から押し出した水が、別の誰かへ流れていないかを見る。

 そして、一人の目で足りなければ、見る者を増やせばいい。

 小ラズマイトの市場は今日、屋根だけではなく。

 領主一人でなくとも動いていける、小さな仕組みをひとつ手に入れたのだった。


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