45.不揃いな布でも、雨を受け止めます
布屋根作りは、その日のうちに始まった。
セラを中心に、古い穀物袋を解く。村人が家から持ってきた端布も加わった。
茶色、灰色、色褪せた赤。
昔の商会名が途中まで残る布に、補修跡ばかりの麻袋。
「これも使っておくれ」
仮市へ来ていた商人が、自分の荷を包んでいた古布を一枚差し出した。
「その代わり、うちの店の上へ」
「それを認めると、布を出せない方から先に濡れます」
「なら寄付だ」
「よろしいの?」
「市場が雨のたび閉まれば、俺も困る」
別の者も一枚。
水車を使いに来た農家が、穴の開いた袋を二枚。
エーミルも、売り物にはならない荷覆い布を一枚追加した。
ドワーフたちは固定金具と滑車を作り、ミラとローデンが支柱の長さを揃える。ピムをはじめとする子供たちは、セラの邪魔にならない場所で糸巻きを手伝った。
少しずつ、ばらばらだった布が大きくなる。
王都の市場に張られる、美しく同色で揃えた天幕とは比べられない。
けれど、一枚ずつに持ち主がいる。
「どれを誰から受け取ったか、記録してくださいませ」
イデアがダリオへ言う。
「布まで?」
「借りたものと寄付されたものを混ぜたら、後で返せなくなります」
「共同財産へしてよいと言われたものは?」
「それも別に」
借用品。
寄付。
市場共同財産への移管。
一枚ごと、裏へ小さな印を縫い付ける。
ネッサが呆れたように言った。
「布にも帳簿がある」
「持ち主を忘れないためですわ」
「破れたら?」
「通常の使用で破れたなら共同の修繕費から。誰かが不注意で破いたなら、その方と話し合います」
「風で飛んだら?」
「市場側です」
「細かい」
「あなた方が釘を長さと太さと重さまで分けるのと同じです」
ネッサは少し考えた。
「同じかもしれない」
「納得するのですか?」
「記録は大事」
どうやら、ドワーフの職人気質とは相性がよかった。
◇
最初に屋根を張ったのは廃教会の入口だった。
患者を荷車から降ろす時に濡らさず済むよう、建物の外側へ少し張り出させる。
地面へ支柱を差し、金具で固定し、滑車へ縄を通す。
縫い合わせた布を地面へ広げ、要所へ蝋引き布を重ねる。
「合図で引きます」
ローデンが声を上げた。
イデアも縄を握る。向かいにはミラ。ほかの者たちも、それぞれ自分の縄についた。
「イデア」
アルゼルが隣へ来る。
「何ですの?」
「私が代わります」
「縄を引くだけです」
「あなたがそう言った仕事ほど心配なのですが」
「本日は、まだ何も壊しておりませんわ」
アルゼルが空を見上げた。
「一日が終わるまでは分かりません」
「不吉なことを言わないで!」
「ならば、せめて隣にいます」
「縄は?」
「持ちません」
「よろしい」
「あなたが滑ったら支えます」
「滑りません!」
「始めるよ!」
ミラの声が飛び、言い争いはそこで打ち切られた。
合図に合わせ、一斉に縄を引く。
雨を吸った布は重い。滑車が回り、支柱の上へ少しずつ持ち上がっていく。継ぎ合わせた端が風に揺れた。
「もう少し!」
イデアが体重をかけた、その時だった。
足元から小さな声がした。
「めえ」
「え?」
外套の下から、白い額の子山羊がひょこりと顔を出した。
「どうしてこちらへ!?」
どうやら、地下室に親子の様子を見に行ったエスタの隙をつき、抜け出してきたようだ。雨を嫌って人の足元へ潜り込み、そのままイデアの外套の陰へ収まっていた。
踏む。
そう思ったイデアは、反射的に片足を横へずらした。
濡れた石の上で、靴底が滑る。
「あっ」
「イデア」
アルゼルの腕が背後から腰を支えた。
だが、イデアの手から縄が離れた。
片側だけ張力が抜ける。持ち上がりかけた布が、大きく傾いた。
「縄を放すな!」
ガルドンが叫ぶ。
アルゼルが片手で落ちた縄を掴む。
もう片方の腕は、イデアの腰を支えたままだ。
「子山羊を!」
「はい!」
駆けつけたエスタが子山羊を抱き上げる。
「続けます!」
アルゼルが縄を引いた途端、布が一気に持ち上がる。
「強すぎる!」
ローデンが叫んだ。
「緩めて!」
「どの程度?」
「少し!」
「少しでは分かりません」
「指二本くらい!」
「誰の指です?」
「人間のです!」
「人によって違います」
「面倒な天使ですわね!」
「あなたを支えながら作業しておりますが!」
「領主様、先に立って!」
ミラに怒鳴られ、イデアは慌てて自分の足で立つ。
結局、騒ぎながらも布は無事に支柱へ収まった。
留め金を固定し、縄を結ぶ。雨粒が新しい屋根へ当たり、細かな音を立てた。
水は中央へ溜まらず、斜めに流れ、修復した排水溝へ落ちていく。
「……成功ですわ」
イデアが息を吐く。
「危うく失敗するところでした」
「子山羊がおりましたのよ!」
「足元を見てください」
「外套の下へ入られるとは思わないでしょう!」
エスタに抱かれた子山羊が、何も知らない顔で鳴く。
「めえ」
「領主様が好きなのかも」
エスタが笑った。
「好かれるのは嬉しいのですけれど」
「山羊から人気ですね」
アルゼルが言う。
イデアは彼の白い長衣を見る。
「あなたよりは健全な好かれ方ですわ」
「私の場合は布を狙われていますから」
「そこは自覚なさるのね」
◇
廃教会前の屋根が完成すると、同じ仕組みを使って市場にも布を張った。
一日ですべては無理だった。
まず食料。
次に薬や布。雨で傷みやすい木工品。
金物は多少濡れてもすぐに拭けるため、その次。
「俺たちが後か」
ボルグが言う。
「鉄は錆びる」
「濡れたままなら」
ネッサが答えた。
「布は一度濡れたら売れない。食べ物は傷む。順番は正しい」
「分かっている」
「なら、なぜ言ったの?」
「言いたかった」
ボルグは不満そうに金具を締め直した。ドワーフも、正論だけで感情まで消えるわけではないらしい。
同時に、古い市場の排水設備も確認された。
布屋根へ落ちた水を石の溝へ流す。そこから一部を、地下の古い貯水槽へ。
飲み水にはしない。火災時や清掃、道具を洗う際に使うものだ。
「用途を木札へ」
「読めない者には?」
ダリオが尋ねた。
小ラズマイトでは、大人でも文字を十分に読めない者は珍しくない。名前や数字は分かっても、文章となれば難しい者も多かった。
「炎と桶の絵を描きましょう」
「飲料禁止は?」
「杯に線を引いて」
「子供が面白がって開けるかもしれないよ」
ハンナが指摘する。
「鍵は?」
「火事の時に手間取る」
ガルドンが却下する。
緊急時にすぐ使えなければ、貯水槽を用意しておく意味がない。普段は勝手に開けられず、それでいて必要な時には迷わず使える仕組みでなければならなかった。
「では、簡単に外せる留め金と封印札」
「勝手に開けた者は?」
「清掃当番を一回追加ですわ」
ガルドンが笑った。
「実務的な罰だな」
「牢へ入れるほどではございませんもの」
「そもそも牢がないだろう。作るか?」
「いまのところ、牢屋より屋根が先ですわ」
今日の優先順位は、誰にも異論がなかった。
◇
夕方になる頃には、雨脚が少し弱まった。
教会前には、大小さまざまな布屋根が並んでいる。
高さも、色も、形も、何ひとつ揃っていない。
茶色い穀物袋の横へ、色褪せた赤い布。その隣には古い商会印が半分だけ残っている。継ぎ目から一滴二滴落ちる箇所はあるものの、その下へ並べた荷は濡れない。
次の仮市は、雨でも開ける。
診療所へ患者が来ても、荷車から入口まで濡らさず運べる。
村の共同倉庫と薬房には蝋引き布を優先して使い、山羊小屋も吹き込みの強い側だけ補強した。
地下室では、二頭の子山羊が母親の腹へ寄り添って眠っている。
残ったのは、
「領主様の寝室です」
ミラが言った。
「本当にやるの?」
「朝、記録したでしょう」
渋るイデアに、ダリオが帳面を見せる。
「最後に、と申しましたわ」
「今が本日の最後です」
「廃教会全体の修繕は終わっておりません」
「寝室の話です」
逃げ道がなかった。
ミラとローデンが屋根へ上がり、朝に雨水が溜まっていた箇所を確認する。
原因は、一枚の布だけではなかった。
古い瓦の下で雨を受ける板が傷み、そこへ風で雨が入り込んでいる。以前の補修で見える穴は塞いだものの、その下まで完全には直せていなかったらしい。
「瓦を何枚か替える」
ミラが言う。
「その下へ蝋引き布の端を入れる。今日はそこまで」
「完全には?」
「無理だ」
「でしたら材料をほかへ」
「ここへ使う」
「診療所の予備に」
「そっちは二重にした」
「倉庫へ」
「もう直した」
「市場へ」
「今日張る分は終わった」
ミラは腕を組んだ。
「領主様。もう、ほかは終わってます」
「皆様、こういう時だけ仕事が早くありません?」
「普段も早いです」
「……でしたわね」
横からセラも入ってきた。
腕には、何枚もの布を縫い合わせた厚い布を抱えている。
「これは?」
「村の家から集めました」
古い服の袖。
子供が着られなくなった上着。
擦り切れた毛布の端。
袋の底。
新品は一枚もない。けれど、すべて洗われ、乾かされ、縫い合わされていた。
「屋根の下へもう一枚張っておけば、少し漏れても寝台へ直接落ちにくくなります」
「では、使わせていただいた分は、後でお返ししますわ」
「寄付です」
「ですが」
「帳簿へ名前を書いて構わないそうです」
イデアは布を見る。
「これだけの布を、小ラズマイトで『使わないもの』とは呼べないでしょう」
「使わないからではありません」
セラが微笑んだ。
「イデア様へ使いたいから出したんです」
その呼び方に。
イデアは、ほんの少し言葉を失った。
伯爵様ではない。
領主様でもない。
ただ、イデアとして。
「……どうして、そこまで」
「雨の日も一緒に濡れているからでしょうね」
セラが答える。
「昔の役人なら、今日みたいな日は来なかった」
オルドも後ろから言った。
「道が悪い。服が汚れる。そう言ってな」
「領主様は逆だ」
ミラが屋根から顔を出す。
「雨が降ると、余計に外へ出る」
「出ないと被害が分かりませんもの」
「出てほしくない時まで出る」
「最後は余計ですわ」
「事実です」
セラが布を差し出した。
「これは税ではありません」
「では?」
「イデア様が眠る場所へ使う布です」
胸の奥へ、何かが静かに詰まる。
税なら。
義務なら。
受け取れる。
対価があれば帳簿へ書ける。
けれど、自分のために差し出されたものは、どう記録すればよいのか。
少し考えた末、イデアは布へ手を伸ばした。
「……お借りしますわ」
「寄付です」
「では、領主寝室の修繕用として、寄付を受けたことを記録しますわ」
「はい」
「どなたからいただいたかも残します」
「それで構いません」
それなら、受け取れる。
◇
日が暮れる前に、寝室の屋根はもう一度補修された。
傷んだ瓦を外し、使えるものへ交換する。板の隙間へ蝋引き布を入れ、寝台の上には、村人たちの端布を縫い合わせた小さな内張りを張る。
完全な修繕ではない。
傷んだ梁もまだ残っている。
強い風を伴う雨が続けば、別の場所から漏れる可能性もある。
それでも、今朝よりはずっとましだった。
「完成」
ミラが最後の金具を確かめる。
「仮ですけど」
「十分です。ありがとうございます」
「雨が長く続けば、また漏れるかも」
「その時は、ひとまず桶を置きますわ」
「先に呼んでください」
アルゼルが横から言った。
「また翼を?」
「修理できる人を」
「そちら?」
「私は屋根ではありませんので」
「随分と根に持ちますわね」
そもそも今朝、自分から翼を広げて雨を防いでいたのは誰だったか。
イデアは少々納得のいかない顔でアルゼルを見上げた。
◇
作業を終えた者たちが帰り、寝室へイデアとアルゼルだけが残った。
雨はまだ降っている。屋根を打つ音はする。
けれど、毛布へ水は落ちてこない。
「王都の屋敷にあった天蓋とは、比べものになりませんわね」
そう口にして、イデアは頭上の布を見上げた。
刺繍入りの天蓋も、柔らかな寝台も、色を揃えた壁掛けも、こちらとは比べるまでもない。
それでも、不揃いな布を眺めていると、なぜか王都の寝室よりも温かく感じられた。
「……不思議ですわ。こちらの方が落ち着くだなんて」
アルゼルも頭上へ顔を向ける。
「私も、この布は美しいと思います」
「あなたが?」
「何です?」
「美について、珍しくまともなことを」
「私は常に、美の本質を理解しております」
「ご自分以外も?」
「当然です」
アルゼルは布の一角へ手を伸ばした。
灰色の麻。擦れた赤。小さな青い継ぎ布。
「これは、誰かがあなたを濡らさないために出した布でしょう」
「……ええ」
「ならば、十分に美しい」
からかう調子ではなかった。
イデアは、しばらく頭上を見つめる。
「わたくしは、皆様にここまでしていただけるようなことをしたのかしら」
「井戸を戻しました」
「皆様と一緒にです」
「水路を直した」
「それも皆様と」
「市場を作っている。病人が来られる場所を作った。村のために、毎日走り回っています」
「一人でしたことではございません」
「だからでしょう」
イデアが彼を見る。
「何が?」
「一人で得たものではないから、皆も自分のものとして返せるのでは?」
アルゼルは穏やかに続ける。
「これは、あなたが一人で積み上げた恩の返済ではありません。一緒に作っている場所から、あなたへ戻ってきたものです」
加護の見返りとは違う。
災難に対する補償でもない。
誰かが命じたものでもなければ、徴収したものでもない。
イデアが選び、村人たちも選び、その結果として頭の上にある。
「……黒字ですの?」
「大幅な」
「金貨にはなりませんわ」
「今夜、あなたが眠れます」
アルゼルは当然のように答えた。
「私にとっては、それだけでもかなりの価値があります」
胸の奥が、わずかに騒ぐ。
昨日までなら、その言葉の「なぜ」を尋ねていたかもしれない。
今のイデアは、少し視線を逸らすだけ。
「……その先は、まだ聞きませんわ」
アルゼルも、何のことか聞き返さなかった。
「ええ」
「ですが、今の言葉は覚えておきます」
「どうぞ」
「あとで否定なさらないで」
「いたしません」
迷いなく返ってきた答えに、イデアはそれ以上何も言わなかった。
ただ、胸の奥に残った温かさごと、帳簿を開いた。
◇
その夜、イデアは補修された寝室で、本日の記録をまとめた。
購入した蝋引き布。
金具、縄、油。
作業者へ出した食事。
市場布屋根へ寄付された布。
貸与された布。
共同財産となった布。
仮市の帳簿とは別に、支払予定も記す。
本日の支出は増えた。王家への借金は、一枚も減っていない。
それでも。
診療所前には雨除けができた。
市場にも複数の布屋根が張られた。
薬と食料を濡らさずに済む。
雨水を火災用の貯水槽へ流す仕組みも戻った。
生まれたばかりの子山羊たちは、乾いた藁の上で眠っている。
そして、領主寝室。
——再補修。村人より端布の寄付。
イデアはそこまで書いて、羽根ペンを止めた。
「どうしました?」
寝室の隅で翼を整えていたアルゼルが尋ねる。
「何が?」
「筆が止まりました」
「最後の一行を考えております」
「どのような?」
イデアは少し迷ってから書いた。
――返済不要。
そこまでで一度止まり。
もう一行。
――ただし、誰から受け取ったかは忘れないこと。
「帳簿の文言としては珍しいですね」
「わたくしの帳簿ですもの」
雨音が続いている。
礼拝堂のどこかでは、今も桶へ水の落ちる音がしていた。
完全な屋根など、まだ小ラズマイトにはほとんどない。イデアの寝室だって、今日の補修で終わりではない。
でも今夜、彼女の毛布へ雨粒は落ちなかった。
市場の屋根は、天使の翼だけでは足りない。
一人の奇跡へ頼るには、守るべき場所が増えすぎた。
だから、人間とドワーフと商人が。
古い布を出し、木を削り。
金具を打ち、縄を引き。
一枚では足りない屋根を、何枚にも分けて張った。
その日の帳簿だけを見れば、確かに支出の方が多い。
それでも小ラズマイトには、雨の日にも人と品物を守れる場所が残った。
利益には、硬貨へ換えられないものもある。
今夜の黒字は、イデアの頭上で、十七枚の不揃いな布を縫い合わせたような色をしていた。




