44.市場の屋根は、天使の翼では足りません
雨粒が、イデアの額へ落ちた。
一滴、二滴。
三滴目が鼻の先へ当たる。
「……雨ですわね」
目を開ける。
地下室ではない。
イデアはすでに、廃教会の一室を自分の寝室として使っていた。壁や床はひとまず人が暮らせる程度まで直してあるものの、古い建物だけに、すべての補修が終わったわけではない。特に屋根には、傷んだ梁や瓦をまだ交換できていない箇所が残っていた。
昨夜から降り続く雨は、どうやらその弱いところを見逃してくれなかったらしい。
応急処置として張られていたボロ布の中央へ雨水が溜まり、重みで大きく垂れ下がっている。
「雨ですね」
すぐ近くからアルゼルの声がした。
彼はイデアの寝床の横へ座り、片方の翼を広げていた。
白い羽根が、毛布の半分を覆っている。
「……何をしておりますの?」
「雨除けです」
「起こしてくださいませ」
「まだ夜明け前でしたので」
「いつから?」
「雨が降り始めてから」
小さな窓の外は、すでに薄明るい。
雨水の溜まり具合を見れば、短い時間でないことが分かった。
「ずっと翼を広げていたの?」
「ええ」
「疲れませんこと?」
「多少は」
「なら、起こしなさい!」
イデアは毛布から起き上がった。
その瞬間、頭上で布が大きくたわむ。
「イデア、動かないで」
すぐそばから低い声が落ちて、イデアは動きを止めた。
雨の湿った匂いに混じって、白檀に似た香りがふわりと届く。
その距離を意識するより早く、溜まっていた雨水が布の端から一気に流れ落ちた。
ばしゃっ。
アルゼルの広げた翼へ、まともに降りかかる。白い羽根が水を弾き、細かな飛沫が寝室へ広がった。
イデアには一滴もかからない。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
アルゼルは翼を振るい、水滴を落とした。
「ですが」
「何でしょう」
「屋根として使うには、少々効率が悪いですね」
「ようやくお気づきになりましたの?」
「一人分なら十分です」
「市場には何十人も集まりますわ」
「私の翼を、市場の屋根として使うつもりですか?」
「まさか。天使が一日中、屋根になっている市場など運営できませんわ」
「信仰は集まりそうですが」
「あなたは、見世物ではありません」
イデアは寝台から下り、外套を羽織った。
寝室の床には、すでに何か所か水が落ちている。寝台そのものはアルゼルの翼のおかげで濡れていないが、壁際へ置いた小箱のそばには細い水筋ができていた。
この程度なら、桶を置けば済む。
だが。
診療所は。
薬房は。
共同倉庫は。
昨日生まれた子山羊たちは。
そして今日は、仮市を開く日でもある。
雨そのものは止められない。ならば、降っていても困らないようにするしかない。
「まず外を確認します」
「朝食は?」
「後ですわ」
「先に少しでも」
「屋根から水が落ちておりますのよ!」
「あなたの腹も空いています」
「どちらが先か、考えなくても分かるでしょう!」
「私には、どちらも修繕が必要に見えます」
「わたくしのお腹を建物と同じに扱わないでくださる!?」
◇
外へ出ると、雨は思っていた以上に強かった。
初夏に入ってから乾いた日が続いていたせいか、空はまとめて帳尻を合わせるつもりらしい。灰色の雲から落ちる雨は途切れる気配がなく、教会前の石畳を濡らし、修復した排水溝へ絶えず水を流し込んでいる。
畑にとっては恵みだった。
黒穂麦の若い葉は雨を受けて色を濃くし、水路にも豊かな流れが戻っている。
けれど、屋根の足りない小ラズマイトでは、恵みはそのまま別の問題を連れてきた。
「そっちの板へ布を!」
市場の空き地では、ミラとローデンが資材の山を守っていた。
市場用の支柱、水車の替え部品、診療所の補修に使う板。濡れてすぐ駄目になるわけではないが、このまま雨ざらしにすれば反りや腐りの原因になる。
セラはほかの女性たちと薬草の籠を抱え、診療所へ駆け込んでいた。
「乾燥中の薬草へ雨を当てるんじゃないよ!」
ハンナの声が飛ぶ。
杖をつきながら外まで出てきた彼女を見つけ、イデアはすぐに叫び返した。
「ハンナは中へ!」
「薬草が濡れる!」
「あなたが濡れておりますわ!」
「少しくらい平気だよ!」
「寝込まれたら患者全員が困ります!」
「領主様が雨の中にいるだろう!」
「わたくしは若いです!」
「若けりゃ風邪を引かないと思ってるのかい!」
互いに雨音へ負けない声で怒鳴り合った末、ハンナはセラに背中を押され、診療所の中へ戻された。
「勝ちましたわ」
「何にです?」
隣のアルゼルが尋ねる。
「健康管理です」
「では次は、あなたですね」
「聞こえませんわ」
「かなり近くで話していますが」
イデアは無視して、ほかの場所も確認する。
廃教会の地下室は、先日生まれた二頭の子山羊と母山羊の一時的な居場所にしていた。ユーイとエスタが朝早くから様子を見ており、ヒルダもすでに来ている。もともと荷を保管するための場所だけあって雨は入らず、床へ厚く藁を敷けば、地上の仮囲いよりよほど落ち着いて過ごせる場所になっていた。
「ここは、このままでいいね」
ヒルダが母山羊の乳を飲む子山羊を見ながら言う。
「外が乾くまで、無理に出す必要はないよ」
「数日使っても?」
「構わない。換気だけ忘れなければね」
「では、しばらく地下室は子山羊たちへ」
イデアは即座に帳面へ書こうとした。
「領主様」
エスタが呼び止める。
「何ですの?」
「地下まで帳面を持ってきたんですか?」
「必要になると思いまして」
少女の頬へ、小さなえくぼが浮かんだ。
「領主様って、どこへ行くにも帳面を持ってるんですね」
「何か起きてから取りに戻る方が面倒でしょう?」
「子山羊が生まれた時は、取りに行こうとして止められてましたけど」
「それは忘れなさい」
横でユーイが笑いを堪えている。
地下室は問題なし。
しかし地上へ戻れば、そうはいかなかった。
荷受け場は屋根の端から少量の水が入り、木箱や布包みを中央へ寄せている。薬房は通気口から吹き込む雨が問題になり、診療所前では患者を荷車から降ろす場所にまったく屋根がない。
そして市場には、そもそも、雨の日に店を守るものがほとんどなかった。
◇
「つまり」
午前のうちに主な被害を確認したイデアは、廃教会の礼拝堂へ関係者を集めた。
「屋根が足りませんわ」
「見れば分かる」
オルドが答えた。
話し合いには、オルドやミラをはじめ、村の主だった者たちと山羊の世話をする兄妹、さらにガルドンたちドワーフ側の面々まで集まっていた。
そして、水滴を落とし終えた翼を丁寧に畳んでいるアルゼル。
人数に対して椅子は足りず、木箱や石、古い祭壇の段まで座る場所として使われていた。
「使える木材は?」
イデアが尋ねると、ミラが資材帳を開いた。
「倒木から取った板はまだある。細い梁も残ってる。ただ、全部を屋根へ回すとほかの修繕が止まる」
「瓦は?」
「教会裏に使えそうなのがあるが、診療所と倉庫を全部直すには足りない」
「市場まで含めれば?」
「全然足りない」
即答だった。
「では、優先順位を決めます」
イデアは新しい紙を広げる。
「診療所」
ハンナが真っ先に言った。
「患者を濡らすわけにはいかないよ」
「薬房も」
セラが続ける。
「濡れた薬草を乾かし直すのは難しいものがあります」
「村の共同倉庫」
オルドが言う。
「食料が駄目になれば、村全体へ響く」
「道の排水も見ておいた方がいい」
ローデンが加えた。
「せっかく直した古道が、詰まった水でまた崩れたら元も子もない」
「市場の屋根も必要です」
ダリオが記録を取りながら言う。
「雨天のたびに仮市を止めれば、出店者が定着しません。現地確認でも、雨天時の運営は見られる可能性があります」
正式な定期市として認められるかどうかは、まだ先だ。
だからこそ、晴天の日だけ偶然開ける市場では困る。
「子山羊たちは、地下室で当面しのげる」
ヒルダが言った。
「母親と子は、今はあそこが一番安全だよ。ほかの山羊は今の小屋でいい。雨が横から吹き込む部分だけ塞いでくれればね」
「では山羊小屋は応急補修」
イデアが書く。
「診療所と薬房。共同倉庫。市場。排水。それから――」
「領主の寝室」
アルゼルが言った。
全員の視線が彼へ向く。
「それは最後ですわ」
イデアは即座に却下した。
「すでにまた、雨漏りしています」
「わたくし一人が少し濡れるだけです」
「今朝は私がいたから濡れなかったのでしょう」
「でしたら今夜も」
「お断りします」
珍しく、返事が早かった。
周囲の村人たちも、わずかに目を見開く。アルゼルがイデアを守るためなら多少の無理も受け入れることは、もう皆が知っていた。
それだけに、今回は迷いなく断ったことが意外だったのだ。
「なぜですの?」
「私は屋根ではありません」
「今朝はご自分からなっていたでしょう」
「一時的に守ることと、雨の度に私の翼が必要な寝室を放置することは別です」
礼拝堂がふっと静かになる。
アルゼルは閉じた瞳のまま、まっすぐイデアへ顔を向けていた。
「あなたが眠る場所にも、雨の入らない屋根は必要です」
「……ほかが終わってからですわ」
「必ず?」
「必ず」
「記録してください」
「そこまで?」
「あなたに学びました」
ダリオがすでに羽根ペンを動かしている。
「領主寝室、屋根再補修。ほかの緊急箇所終了後に着手、と」
「勝手に記録が進んでおりますわね」
「領主様が『必ず』とおっしゃいましたので」
逃げ道が消えた。
「では、それで結構です」
イデアは自分の紙にも書き加える。
診療所と薬房。市場と共同倉庫。排水に、山羊小屋の応急補修。
そして最後に、領主寝室。
「これで満足?」
「ひとまず」
アルゼルは、それ以上何も言わずに小さく頷いた。
◇
問題は、材料だった。
木と瓦だけで全部を覆うことはできない。
「空き家から取れば?」
誰かが提案したが、イデアは首を横へ振った。
「住める家を減らしたくありません」
「今は誰も住んでませんよ」
「ローデンたちと同じように、住む場所を求めて来る方がいるかもしれません」
セードル村から移住した七人も、今では村に残っていた空き家を自分たちで修繕し、そちらへ住まいを移している。
今後も、同じように行き場を求めて小ラズマイトを訪れる者がいないとは限らない。
その時に、屋根を剥がされた家ばかり残っていては意味がなかった。
「崩れてもう住めない家の瓦なら?」
「所有者や権利者を確認してからです」
「また確認か」
オルドが呟く。
「先日、山羊の帳簿を見たばかりでしょう?」
イデアは答えた。
「誰も使っていないように見えるからといって、勝手に持っていけばよいことにはなりませんわ」
ヒルダが何も言わずにイデアを見る。
以前とは違う。見定めるための鋭さが、ほんの少しだけ和らいでいた。
「布ならどうでしょう」
セラが、自分の膝へ置いていた古い麻袋を広げた。
「市場の屋根は、木や瓦でなくてもいいのでは?」
「丈夫な布が足りません」
「古い穀物袋を解きます」
「雨が抜けませんこと?」
「油か蝋を使えば多少は防げます。ただし、重くなります」
「なら支柱も強くしないと」
ローデンのあとに続き、
「支柱は作れる」
ミラがそう答えた。
「むしろ問題は、布を固定する金具だ」
一同の視線が、自然とドワーフたちへ向いた。ガルドンが腕を組む。
「できる」
「まだ何も頼んでおりませんわ」
「顔に書いてある」
「アルゼルと同じことを言わないでくださる?」
「分かりやすい顔をするからだ」
反論しにくい。
「ところで、古い市場には雨除けがなかったのです?」
イデアが尋ねると、ガルドンは少し考えてから言った。
「知らん」
「あなたでも?」
「俺は人間より長く生きているが、この市場が使われていた頃を知っているわけじゃない」
ガルドンは濡れた石畳へ目を向ける。
「共同秤も初めて見た。昔、人間とドワーフがここで取引していたことは知っているが、市場の造りまでは伝わっていない」
その言葉で、イデアは午前中に市場を見回った時の光景を思い出した。
石畳の端に沿って並んでいた、用途の分からない四角い窪み。
「そういえば……石畳には妙な窪みが並んでいましたわね。あれも市場の設備ではありませんの?」
「深さが揃っていて、向こう側にも同じ並びがあった」
ミラも、午前中に確かめた様子を思い返しながら答えた。その隣でローデンが、床へ指で簡単な位置関係を描く。
「店の区画に合わせてるようにも見えたな」
「では、そこへ支柱を立てて、布を張ることはできます?」
イデアが尋ねると、ガルドンは先ほどまでの話を頭の中で組み合わせるように考えた。
「昔もそうしていたかは分からん。だが、その穴は使えそうだ」
「必要なものは?」
「丈夫な布。支柱。縄。固定する金具。それと、上げ下ろしを楽にするなら滑車だ」
ガルドンは仮机に広げられた紙を指した。
「ただし、布を一枚で大きく張るな」
「なぜですの?」
「一か所破れれば、全部が落ちる。店ごとに分けた方が直しやすい」
「市場全体へ一枚ではなく、小さな屋根をいくつも」
「その方が直すのも楽だ」
ダリオが尋ねる。
「火が出た場合は?」
「一枚を切り離せる。全部つながっているより燃え広がりにくい」
ミラはすぐに図を書き始め、店の区画と通路、支柱の位置、それに雨水を排水溝へ流すための傾斜まで、簡単に書き込んでいった。
「やはり問題は、布ですわね」
「それならあります」
礼拝堂の入口から声がした。
雨除けの外套を脱ぎながら入ってきたのは、エーミルだった。
「今日は早いですわね」
「雨で道が悪くなると思って、昨日のうちに近くまで来ていました」
「それで、布があると?」
「蝋引きした麻布を何巻か。油もあります」
イデアの目が細くなる。
「お高い?」
「その顔をされる前に言いたかったのですが、安くはありません」
「では帰っていただいても?」
「まだ値段も申し上げていませんが」
「商人が自分から『安くない』と言う時は、本当に高いのです」
「経験を積みましたね」
「積みたくなかった経験ですわ」
◇
エーミルの荷車には、厚い蝋引き布が積まれていた。
普通の麻布より重い。
だが、水をかければ表面を伝って流れ、すぐには染み込まない。
「旅商人の荷覆いや、長く外へ置く荷物にも使います」
エーミルが説明する。
「必要なだけ買えば、今後の食料購入に響きますわね……」
「では何巻ほど?」
「二巻」
「少ないのでは」
「診療所と薬房へ優先して使います。市場は古い布を継ぎ、その上へ部分的に蝋引き布を重ねます」
「継ぎ目から漏れますよ」
「漏れる場所を確認して補修します」
「色も厚さもばらばらになる」
「屋根は、雨を防げばまず合格です」
「見栄えも市場の価値ですが」
「正式な市場になって利益が出てから揃えますわ」
エーミルは少し考えた。
「三巻なら、一部を後払いでも構いません。代わりに、私の店を一番雨の当たらない場所へ」
「全店、当たらないようにするための屋根ですわよ」
「入口に近い場所」
「荷量と取扱商品で決めます」
「相変わらず、特別扱いはしていただけませんね」
「布を買うことと、市場の区画は別ですもの」
何かを提供したからといって、別の基準まで曲げる理由にはならない。
「では、三巻すべて買いますわ」
「まとめて引き取っていただけるなら、こちらも助かります」
「値引きはございます?」
「……一割なら」
「三巻まとめて買うのですから、一割五分」
「後払いまで認めるのです。一割二分で」
イデアとエーミルはしばらく互いの顔を見た。
「一割三分」
最後にイデアが言うと、エーミルは小さく笑って頷いた。
「やはり細かい」
蝋引き布、三巻。
代金は全体から一割三分引き。その場で払う分と後へ回す分を分ける。
ダリオが支払い予定日まで記録する。市場の場所について特別扱いはなし。今後の出店も通常の仮市規則へ従う。
「また支払い予定が増えましたね」
ダリオが言った。
「屋根も増えますわ」
「王家への借金は?」
「一枚も減っておりません」
「赤字ですね」
「今日だけ切り取れば」
イデアは蝋引き布を見た。
「ですが、雨の日にも店を開けるなら、無駄にはいたしません」




