43.山羊一頭の価値は、秤では決まりません(下)
話し合いの末、北牧草地の山羊群は、少なくとも群れが安定するまでは個々へ値段をつけ、勝手に切り分けて扱わないことになった。
冬を越すために必要な頭数。
繁殖に必要な雄と雌。
乳を取れる山羊。
これから生まれる子。
それらを確認し、群れとして十分に立て直せるまでは、むやみに売ったり減らしたりしない。
「得た利益は?」
オルドが尋ねる。
「最初に飼育費を差し引きます」
イデアは帳面へ順番に記した。
「餌。柵。薬。冬小屋の修繕。それから、管理する方の働きへの取り分」
ユーイが少し驚いた顔をする。
「俺たちにも?」
「働いておりますもの」
「でも、山羊そのものは俺たちの物じゃない」
「所有者であることと、世話をする方へ対価を払うことは別ですわ」
ヒルダがイデアを見た。
「細かいね」
「借金がございますので」
「その言葉で何でも説明するのかい」
「大抵は」
最終的には、乳などから得た利益は、まず飼育に必要な費用へ回す。
その後の余剰は、北牧草地の共有財産として積み立てる分、管理を担うユーイとエスタの取り分、現在確認できている旧権利者であるヒルダの家へ渡す分に分けることにした。
所在不明の旧権利者や、その継承者が後から名乗り出た場合には、記録を確認した上で改めて話し合う。
「伯爵家の取り分は?」
ヒルダが尋ねる。
「ございません」
「土地を使ってるだろう」
「荒れた牧草地を整備していただいております。それ自体が領地の利益ですわ」
「市場で乳や乳酪を売れば?」
「通常の市場規則に従っていただきます。ただし食料品の出店料は、今の仮市ではいただいておりません」
「本当に、一枚も山羊から取らないのか」
「共有分から柵や冬小屋を整えれば、村の財産が残ります。山羊が健康なら乳も肥料も続く。ユーイとエスタの仕事にもなります」
直接、硬貨を取り上げなくてもいい。土地に利益が残る方法は、それだけではない。
ヒルダはしばらくイデアを見つめていたが、やがて頷いた。
「分かった。その条件なら、あたしの名を書いていい」
「最初から書くつもりでしたわ」
「勝手だね」
「権利者ですもの」
イデアは新しい帳簿へ、ヒルダ・フォルクの名を記した。
旧北牧草地、共有山羊群権利者代表。
その下には、ユーイとエスタが飼育管理者として。
十一頭についても、一頭ずつ特徴を書き足していく。
灰色の雌。
右耳の欠けた若い雄。
額の白い小柄な山羊。
そして、白い布を好んで噛む、大きな雄。
「最後の特徴は必要ですか?」
アルゼルが尋ねる。
「個体識別ですわ」
「私への被害記録に見えますが」
「非常に分かりやすい特徴でしょう?」
「ほかの白い布も噛むかもしれません」
「試します?」
「嫌です」
◇
話がようやくまとまりかけた頃。
外から、低く落ち着かない山羊の声が響いた。
エスタの表情が変わる。
「さっきの雌です」
「妊娠している山羊?」
イデアも立ち上がった。
一同が山羊小屋へ向かう。
先ほどまで秤へ乗っていた雌山羊は、囲いの隅で何度も立ったり座ったりしていた。地面を前脚で掻き、尻尾を上げ、時折苦しそうに腹へ力を入れている。
ヒルダが一目見て、牧杖を柵へ立てかけた。
「始まったね」
「もうですの!?」
「騒ぐんじゃない」
大きな声ではない。
それでも全員が口を閉じた。
「雌を不安にさせるよ」
ヒルダは山羊へ近づき、首筋をゆっくり撫でる。耳元で低く何かを話しかけると、荒かった呼吸がほんの少し落ち着いた。
「エスタ。乾いた藁」
「はい」
「ユーイ。ほかの山羊を向こうへ移して」
「分かった」
「ハンナ。清潔な布と湯を頼めるかい」
「人の出産と同じに扱うつもりかい?」
「必要なものは似てる」
「分かったよ」
ヒルダの指示で、それまで戸惑っていた人々が一斉に動き始めた。
イデアも柵の中へ入ろうとする。
「伯爵様は外」
「何かお手伝いを」
「山羊を落ち着かせる自信がある?」
「……ございません」
「なら、湯を運んで」
「分かりましたわ」
適材適所である。
イデアは桶を持って井戸へ向かった。
「私も」
アルゼルが続こうとする。
「あなたは残ってくださいませ」
「なぜ?」
「明かりと、必要なら身体を冷やさないための温め役です」
「高位天使の職務が、ついに山羊の産婆補助へ」
「神聖な出産を助ける仕事ですわ」
「言い方を変えましたね」
「重要なのは本当でしょう?」
「ええ」
今度は、アルゼルも文句を言わなかった。
◇
最初の子山羊が生まれたのは、日が傾き始めた頃だった。
小さな身体はまだ濡れている。
ヒルダがすぐに鼻と口を布で拭う。
子山羊が一度震えた。
そして、
「めえ」
弱い声が上がった。
「生きておりますわ……」
柵の外から見守っていたイデアの肩から、力が抜ける。
「まだ終わってないよ」
ヒルダが言う。
「もう一頭いる」
「双子ですの?」
「そうだね」
二頭目は、すぐには出てこなかった。母山羊の呼吸が次第に荒くなる。
エスタが不安そうにヒルダを見た。
「位置が悪い」
ヒルダの声が低くなった。
「前脚が片方、引っかかってる」
「助けられる?」
ユーイが尋ねる。
「やるしかない」
イデアは無意識に柵を握った。
自分が中へ入っても役には立たない。むしろ邪魔になる。
分かっている。
それでも、目の前で苦しむ命を何もせずに見ている時間は、ひどく長く感じられた。
「イデア」
隣から、アルゼルの声がした。
柵を握ったままの手へ、彼の指先がそっと触れる。
「大丈夫です」
「分かりますの?」
「命の光は、まだ弱っていません」
アルゼルは落ち着いていた。
瞳を閉じたまま、柵の中へ意識を向けている。
「必要になれば、手を貸します。ですが、今は」
ヒルダ。
ユーイとエスタ。
長く山羊を見てきた者たちがいる。
「彼女たちを信じましょう」
イデアは柵を握っていた手から、ゆっくり力を抜いた。
「……ええ」
やがて、エスタが声を上げる。
「脚が出ました!」
「引っ張るんじゃない。母親が力を入れるのに合わせるよ」
ヒルダが支える。
母山羊が、最後に大きく身体を縮めた。
二頭目の子山羊が生まれる。
けれど、鳴かない。
「息を……?」
イデアの声が小さく震えた。
「待ちな」
ヒルダが口元を拭う。
身体を擦る。
エスタも背を撫でる。
「アルゼル」
「はい」
それだけで十分だった。
アルゼルは柵の中へ入り、白い翼をゆっくり広げた。
光で子山羊を直接包み込むことはしない。翼の内側へ、穏やかな温かさだけを作る。
「熱くしすぎないで」
ヒルダが言う。
「分かっています」
「……天使へ普通に指示しておりますわね」
イデアが思わず呟くと、近くにいたガルドンが答えた。
「出産の場じゃ、経験のある者が上だ」
アルゼルも反論しなかった。
白い羽根に囲まれた子山羊の身体が、ほんのわずかに動く。
一度。
少ししてから、もう一度。
「め……」
小さな音がした、次の瞬間。
「めえっ」
今度は、はっきりと鳴いた。
その場にいた全員が、ほとんど同時に息を吐いた。
「鳴きましたわ」
イデアは笑った。気づけば、目元まで少し熱くなっている。
アルゼルが子山羊を母親のそばへ戻すと、雌山羊はすぐにその身体を舐め始めた。
「二頭とも雌ですね」
エスタが言う。
「雌?」
「育てば乳を出します」
ユーイも、ようやく安心したように笑う。
「その先には、また子も増やせる」
ヒルダが二頭を見下ろし、深く息を吐いた。
「群れが増えたね」
「十一頭から、十三頭ですわ!」
イデアは反射的に帳面を探そうとした。
ハンナが呆れたように言う。
「いま帳簿かい?」
「出生記録は必要です!」
「まず母親へ水」
「それも記録してから――」
「イデア」
アルゼルが呼んだ。
「何です?」
「帳簿は逃げません」
白い翼の先へ、生まれたばかりの二頭目が鼻先を寄せている。
「今は、見ていてもよいのでは?」
イデアは動きを止めた。
生まれたばかりの子山羊が、細い脚へ力を込める。
立ち上がって、すぐ転ぶ。
それでも、もう一度立とうとする。
「……そうですわね」
帳簿を取りに走るのをやめ、イデアは柵の前へ屈んだ。
◇
二頭が無事に母山羊の乳を飲み始めたあと、ヒルダは仮囲いの外へ腰を下ろした。
「ユーイ」
「はい」
「生まれたら最初に何を見る?」
「母親が子を舐めるか。子が息をしているか」
「その次」
「立てるか。乳を飲めるか」
「腹だけ見るんじゃないよ。口と鼻、脚も見る」
「分かりました」
「エスタ」
「はい」
「二頭目の位置がおかしいことに、よく気づいたね」
エスタの顔が明るくなる。
「でも、わたしには直せませんでした」
「最初から全部できる者なんていないよ」
「……教えてくれますか」
ヒルダは少し黙った。それから、山羊小屋を見渡す。
まだ新しい柵。
集められた干し草。
世話をする兄妹。
生まれたばかりの二頭。
「あたしが覚えてる分ならね」
ユーイとエスタが揃って頭を下げた。
「お願いします」
「ひとまず、市場の役人が来る頃まではここにいるよ」
イデアが顔を上げる。
「現地確認が済む頃まで?」
「ああ。その間に冬へ向けた餌の取り方と、出産に使える場所を整える。それで、この二人へ群れを任せられるかも見る」
「その後は?」
エスタが尋ねる。
「その時に決める」
ガルドンが髭を撫でた。
「悪くない」
「皆様、仮の約束がお好きですわね」
イデアが言う。
「最初から一生なんて言うより、信用できるよ」
ヒルダは山羊たちを見ながら答えた。
「一生と言った者が、翌日にいなくなることだってある」
その言葉に、イデアはほんの一瞬だけ返事を失った。
婚約。
家族。
屋敷。
失ったものの中には、自分が終わると思っていなかったものも多い。
「……そうですわね」
だからこそ、今日守れる約束をして、明日もまた守る。
それを積み重ねていく方が、信用できることもあるのかもしれなかった。
◇
夜。
イデアは廃教会の仮机で、ようやく二頭の出生を帳簿へ記していた。
母山羊。
雌二頭。
一頭目は額に白い毛。
二頭目は右の前脚に灰色の斑。
健康状態は、しばらく要観察。
「名前は?」
隣にいるアルゼルが尋ねた。
「まだ決めておりません」
「帳簿へ空欄を残すのですか?」
「ピムたちが候補を考えております」
「どのような?」
「ハカリとブンドウ」
アルゼルが黙った。
「本日、山羊を量ったからだそうです」
「もう少し美しい名がよいと思います」
「では、あなたが考えます?」
「一頭はセレネ」
「月という意味?」
「ええ」
「もう一頭は?」
「アルゼリア」
「ご自分の名前を入れないでくださる?」
「私の翼で温めました」
「恩を名前で回収するおつもり?」
「美しい名でしょう」
「却下です」
名前の欄は空けたまま、次の記録へ移る。
旧ラズマイト家は、北牧草地共有山羊群への所有権を主張しない。
旧権利者と現在の管理者による共同管理。
旧権利者代表、ヒルダ・フォルク。
飼育管理、ユーイ、エスタ。
飼育顧問については、当面ヒルダが務める。
「今日の収支は?」
アルゼルが尋ねた。
「帳簿の上では、ラズマイト家の山羊十一頭を失いました」
「もともと、正当に得たものではありません」
「それでも帳簿上は財産でしたわ」
「代わりに?」
「北牧草地の共有山羊群、十三頭」
「二頭増えていますね」
「ただし、わたくしのものではございません」
「不満ですか?」
「いいえ」
イデアは迷わず首を横へ振った。
「誰のものか分からないまま、わたくしの財産として抱え込む方が嫌ですもの」
「あなたらしいですね」
「何ですの、その言い方」
「褒めていますよ」
アルゼルは仮机へ片手を置いた。
昼間、子山羊を包んでいた翼は今は静かに畳まれている。
「今日のあなたを見て、少し思ったことがあります」
「何を?」
「そばにあるものを、自分の所有物にすることと、そばにいてもらうことを、あなたはきちんと分けるのですね」
「当然でしょう?」
「ええ」
「山羊も、人も、物ではございませんもの」
「では、安心しました」
「なぜ?」
「私も、あなたの所有物ではありませんから」
「当たり前ですわ!」
即答したあと、イデアは少しだけ眉を寄せた。
「そもそも、なぜ今あなたの話になるの?」
「そばにおりますので」
「理由になっておりません」
「では、別の言い方をしましょうか」
アルゼルの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「所有されていなくても、そばにいることはできます」
羽根ペンの先が止まった。
ほんの昨日。
共同秤の前で交わした会話が、胸の奥へ戻ってくる。
――答えは、まだ結構ですわ。
――なかったことには、なさらないで。
イデアはゆっくりとアルゼルを見る。
彼は瞳を閉じたまま、いつもの穏やかな顔をしていた。
けれど、その先に続く言葉があることくらいは、もう分かってしまう。
「……その先は」
イデアが先に口を開いた。
「まだ、言わなくて結構ですわ」
アルゼルは少しだけ黙った。
それから、穏やかに微笑む。
「承知しています」
「昨日、そう申し上げましたもの」
「ええ」
「忘れておりませんのね?」
「もちろん」
迷いのない返事だった。
「あなたとの約束ですから」
胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなる。
答えを聞きたいわけではない。
少なくとも、今は。
けれど。
昨日、自分が「忘れないで」と頼んだ言葉を、彼が今日も覚えている。
それだけでよかった。
「……でしたら、よろしいですわ」
イデアは帳簿へ視線を戻した。
その時。
礼拝堂の入口から、か細い鳴き声が聞こえた。
「めえ」
二人が同時に振り返る。
扉の隙間から、生まれたばかりの子山羊が一頭、顔を覗かせていた。
「どうしてこちらへ!?」
後ろからエスタが駆けてくる。
「囲いの隙間を抜けました!」
「生まれた初日に?」
「小さいので!」
子山羊は細い脚で礼拝堂へ入ってくる。
一度転び、すぐに立ち上がり、まっすぐアルゼルの方へ歩いていった。
「私の神々しさを理解したようですね」
アルゼルが満足そうに言う。
「まだ生まれて半日も経っておりませんわよ」
「本能は侮れません」
子山羊が白い衣の裾へ鼻先を寄せる。
「ほら」
アルゼルが得意げに言った、次の瞬間。
子山羊は、その裾へ噛みついた。
「……」
「……」
「この群れには、教育が必要ですね」
「あなたの衣服を食べ物だと認識する伝統ができているのでは?」
「誰が始めた伝統ですか」
「山羊ですわ」
「廃止を要求します」
イデアは笑いながら、先ほど書き終えた出生記録へ一行を付け加えた。
――白い衣へ、強い関心あり。
「消してください」
「個体識別に必要ですわ」
「生まれた日に私を噛んだことが、生涯の特徴になるのですか?」
「今後の観察次第です」
「では二度と噛ませません」
「山羊と本気で争わないでくださる?」
小ラズマイトの山羊は、十一頭から十三頭へ増えた。
同時に。
ラズマイト家の財産とされていた群れは、誰かから奪われた過去を認め、これから皆で守っていく共有財産へと変わった。
共同秤は、山羊の身体の重さを量ることができる。
乳も、餌も、きっと数字にできる。
けれど。
一頭の山羊がこれから生む子。
人へ与える仕事。
十二年残った記憶。
そして、奪われた者がようやく取り戻したものまで。
すべてを分銅で量ることはできない。
今日の黒字もまた、帳簿の数字だけでは、少しばかり足りなかった。




