42.山羊一頭の価値は、秤では決まりません(上)
翌朝。
初夏の朝日が市場の石畳を照らし始めた頃、共同秤の左側の皿には、一頭の灰色の山羊が乗っていた。
「……何をしておりますの?」
市場へ出てきたイデアは、その光景を前に足を止めた。
共同秤の皿は、もともと穀物袋や鉱石籠を載せるために作られたものである。少なくとも、山羊が四本の脚を折り畳み、朝のひなたぼっこをするための寝台ではない。
それにもかかわらず、灰色の雌山羊は中央へすっかり収まり、昨日マルテンが撒き散らした塩の名残でも探しているのか、時折皿の表面を舐めながら満足そうに鼻を鳴らしている。
「重さを量ってほしいんじゃない?」
近くで眺めていたピムが言った。
「山羊が自分から?」
「市場へ来たら、最初に道具を調べる決まりだから」
「山羊は出店者ではありませんわ」
「乳は売るよ」
「売るのは山羊自身ではございません!」
反対側の皿は空のまま高く持ち上がっている。
イデアが近づいても、山羊は動こうとしなかった。
「下りなさい」
命じると、灰色の耳だけがぴくりと動く。
「聞こえておりますの?」
「聞こえてはいると思います」
山羊小屋から駆けつけたエスタが、少し息を切らしながら答えた。
「従うかは別ですけど」
「領主の命令ですわよ」
「山羊に爵位は分かりませんから」
「教育が必要ですわね」
「そこからですか?」
エスタが困ったように笑う。
兄のユーイに似た素朴な顔立ちだが、笑うと頬に小さなえくぼができ、まだ少女らしい可愛らしさがのぞく。
イデアが皿へ手を伸ばしたところで、山羊はようやく身を起こした。下りる気になったのかと思った次の瞬間、前脚を皿の縁へかける。
秤全体が大きく揺れた。
「あっ――」
灰色の頭が額へぶつかりそうになり、イデアの肩を背後から伸びた腕が素早く引いた。
「近づきすぎです」
白い翼を大きく畳んだアルゼルが、すぐ後ろに立っていた。
「山羊一頭でしょう?」
「これまで何度、山羊に突かれかけましたか?」
「二度ほどですわ」
「私が数えているだけでも三度あります」
「わたくしの事故記録を更新し続けないでくださる?」
山羊は次にアルゼルへ興味を移したらしく、白い袖へ鼻先を寄せる。
高位天使はすぐに腕を遠ざけた。
「これは食べ物ではありません」
山羊が首を伸ばす。
「諦めなさい」
さらに伸びる。
「見る目だけでなく、聞き分けもありませんね」
「袖を少し差し出せば、皿から誘導できるのでは?」
イデアが提案すると、アルゼルがゆっくり顔を向けた。
「私の衣服を餌に?」
「食べさせはいたしません。追いかけさせるだけです」
「高位天使へ頼む仕事でしょうか」
「山羊を秤から下ろす方が、いまはあなたの尊厳より重要ですわ」
「私の職務領域が、家畜へ侵食され続けていますね」
文句を言いながらも、アルゼルは袖口を山羊の鼻先へ近づけた。
山羊が食いつこうとする。
袖が逃げる。
山羊が身を乗り出す。
「そのままですわ」
「私は、なぜ山羊と駆け引きをしているのでしょう」
「あと少し」
アルゼルが一歩下がると、つられるように山羊も皿から跳び下りた。
成功した、と思った直後。
山羊はそのまま長い白衣の裾へ噛みついた。
「離しなさい」
山羊が引く。
「その布は――」
さらに引く。
アルゼルの身体が、わずかに前へ傾いた。
周囲にいた子供たちから笑い声が上がる。
「人気ですわね」
「笑っていないで、助けていただけますか?」
「高位天使なのでしょう?」
「袖を破かずに解決したいのです」
結局、エスタが干し草を差し出すと、山羊はあっさりとアルゼルを解放した。
袖口には、くっきりと歯形が残っている。
「またひとつ、見る目のない生き物が増えました」
「同じ山羊ですわよ」
◇
山羊を秤から下ろしたあと、イデアは空になった皿を見つめた。
「せっかく乗ったのですから、量っておけばよかったですわね」
「何を?」
通りかかったオルドが尋ねる。
「山羊の重さです」
「食べるわけでもないのに?」
「健康状態の確認になりますでしょう?」
イデアは市場用の帳面を開いた。
小ラズマイトで共同管理している山羊は、現在十一頭。
乳を出す雌もいれば、身体の大きな雄もいる。若い山羊も、まだ十分に育っていないものもいる。これまで帳簿へ記していたのは頭数と毛色、耳や角など、見分けるための特徴が中心だった。
「痩せていることなら、見れば分かります」
兄のユーイとともに山羊小屋へ戻ろうとしていたエスタが言った。
「ですが、どれほど回復したかは、目で見るだけでは比べにくいでしょう?」
イデアが尋ねると、ユーイが山羊の背へ手を当てながら頷いた。
「同じ個体を何度か量るなら、役には立つと思います。餌を増やした後に身体が戻っているか分かる」
「冬までに必要な餌の量も、身体の大きさで変わりますわね」
「乳の量と合わせて記録してもいいですね」
エスタの顔が少し明るくなる。
「どの餌を食べた時に、身体と乳の両方が戻りやすいかも分かるかもしれません」
「では、十一頭すべて量ってみましょう」
「全部?」
「せっかく共同秤がございますもの」
話を聞いていたガルドンが、秤の皿を槌の柄で軽く叩いた。
「そのまま乗せるな。蹄で傷む」
「布か板を敷きます」
ミラがすぐに答える。
「滑り止めも要るな」
「倒木の端材が残っておりますわね。低い囲いを作れません?」
「逃げない程度なら」
「重くしすぎないでくださいませ。囲いまで山羊の重さへ入りましたら困ります」
イデアは囲いだけを先に量り、その分を差し引くことにした。
オルドが呆れたように見る。
「そこまで正確にやるのか」
「共同秤ですもの」
「山羊の重さを帳簿へ載せる領主は初めて見た」
「わたくしも、山羊を帳簿へ載せるのは初めてですわ」
「紙の上なら、ずいぶん軽いでしょうね」
アルゼルが言った。
イデアは彼を見る。
「あなたも載せてみます?」
「秤へ?」
「自尊心がどの程度の重さか、確認できますわ」
「測定範囲を超えるでしょうね」
「ご自分でおっしゃるのね」
◇
最初の数頭は、思ったより素直だった。
板で作った低い囲いを皿へ置き、中へ干し草を入れる。ユーイとエスタが山羊を誘導し、入ったところで入口を塞ぐ。反対側へ分銅を載せ、梁が水平になったところでダリオが記録する。
「灰色の雌。成獣。左の前脚に白い斑。右耳の先が欠けている」
「重さは?」
イデアが尋ねると、ユーイが数字を確かめた。
「成獣としては、まだ少し軽いですね。最初に見つけた時よりは、ずいぶん肉が戻っていますけど」
「でしたら、しばらくしてからもう一度量りましょう」
「分かりました」
次は若い雄。
こちらは干し草だけ食べると、すぐに囲いから出ようとした。
その次の小柄な山羊は、反対側の皿へ飛び移ろうとして秤全体を揺らした。
「待ちなさい!」
イデアが支柱へ手を伸ばす。
「触れないでください」
アルゼルが先に梁を押さえた。
「わたくしは支えようとしただけですわ」
「あなたが触れると、また別の仕掛けが動きそうです」
「共同秤から、これ以上何が出るというの?」
「地下から山羊専用の秤が」
「ございませんわよ!」
イデアが即座に言った。
ガルドンは少し考えたあと、
「……おそらくな」
と付け加えた。
「なぜ断言してくださらないの!?」
「古い市場だからな」
この村では、地面を掘れば水路が出て、道が出て、坑道が出て、地下室まで出た。
誰も完全には否定できなかった。
四頭目。
五頭目。
記録は順調に増えていった。
問題は、身体の大きな雄山羊である。
仮囲いの前で、四本の脚を踏ん張ったまま動こうとしない。
「ほら。入れ」
ユーイが縄を引くも、動かない。
エスタが干し草を見せる。
鼻は動いた。
けれど、身体は動かない。
「白い布なら?」
イデアがアルゼルを見る。
「嫌です」
「まだ何も申し上げておりませんわ」
「顔で分かります」
「目を閉じておりますのに?」
「あなたの考えくらい、最近は分かります」
何でもないことのように言われ、イデアは一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、目の前には動かない山羊がいる。
「やはり、少し袖を」
「お断りします」
その時、雄山羊が二人の会話を聞いていたかのようにアルゼルへ顔を向けた。
初夏の風が吹き、白い外衣の裾が揺れる。
雄山羊の前脚が、一歩動いた。
「ほら」
「私が餌のようではありませんか」
「実際、よく噛まれておりますもの」
「高位天使の尊厳について、あとで話し合いが必要ですね」
「山羊の計量が先です」
アルゼルは深く息を吐き、袖を少しだけ差し出して囲いの反対側へ立った。
「こちらへ」
雄山羊が進む。
「そうです」
前脚が囲いへ入る。
「美しいものへ近づこうとする判断だけは評価しましょう」
「調子に乗らないで」
雄山羊が完全に入ったところで、エスタが素早く入口を閉じた。
「入りました!」
「分銅を!」
イデアが声を上げる。
だが、閉じ込められたことに気づいた雄山羊が身体を反転させた。
囲いが大きく軋む。
「暴れるぞ!」
ガルドンが支柱を押さえ、ユーイも反対側から板を支える。雄山羊は角を板へかけ、そのまま持ち上げようとした。
「アルゼル!」
「分かっています」
アルゼルが片手を伸ばして囲いを押さえる。
雄山羊が押す。
天使が止める。
板一枚を挟み、天使と山羊の力比べが始まった。
「なぜ、このようなことに」
「あなたが一番適任ですわ」
「もっと神聖な形で頼っていただきたいのですが」
「そのまま動かさないで!」
「動いているのは山羊です!」
ようやく分銅が揃い、梁が水平になる。
「記録しました!」
ダリオの声が飛んだ。
「もう出して構いません!」
囲いを開くと、雄山羊は勢いよく飛び出し、そのままアルゼルへ突進した。
アルゼルは片手で角を受け止める。
「計量は終わりましたよ」
山羊が押す。
「離れなさい」
さらに押す。
アルゼルの足元の土が、ほんのわずかに削れた。
「……随分と重かった理由が分かりました」
「力まで帳簿へ書きます?」
「危険性として記録してください」
◇
八頭目を量った時だった。
その雌山羊が妊娠していることは、山羊飼いの兄妹も前から分かっていた。
「この雌、やっぱり近いかもしれない」
囲いから出した雌山羊を見ながら、エスタが言った。
「出産が?」
「はい。子がいるのは前から分かってました。でも、いつ種がついたのか分からないから、日にちまでは読めなくて」
ユーイも雌山羊のそばへ屈み、腹ではなく腰から尾の付け根、張り始めた乳房の様子を確かめる。
「思ってたより近そうだな」
「どのくらいですの?」
「そこまでは……。数日かもしれないし、もしかしたら早まることも」
イデアの顔色が変わった。
「出産用の囲いは?」
「まだです」
「では、すぐに――」
「今から慌てて移す方が落ち着かないかもしれません」
エスタが雌山羊を見ながら言う。
「まず、今いる場所を使えるようにした方がいいと思います」
ユーイが続ける。
「餌も少し増やしたいです。乳を取る量も減らします」
「記録しますわ」
イデアは帳面へ書き込んだ。
仕事が、またひとつ増えた。
けれど、顔を上げれば、エスタが雌山羊の腹を優しく撫でている。
「子山羊が増えるのですね」
「無事に生まれれば」
「一頭?」
「二頭のこともあります」
「二頭でしたら、十一頭が十三頭に」
「食べる草も増えるぞ」
オルドがすぐに現実を持ち込んだ。
「草でしょう? 増やせますわ」
「冬は干し草が要る」
「牧草地の整備を急ぎましょう」
「市場の道もまだ途中だ」
「分かっております」
「教会の屋根も」
「それも分かっております!」
子山羊が増えるのは嬉しい。
ただし、嬉しいことには決まって仕事がついてくる。
餌、囲い、冬支度。
他にもやるべきことはまだまだ残っている。
考えることの多さに、イデアは帳面を見下ろしたまま、思わずため息をついた。
「黒字は、なぜ必ず仕事を増やしますの?」
「利益を維持するためですよ」
アルゼルが答える。
「金貨なら、袋へ入れておくだけですのに」
「盗まれますよ」
「世の中は不便ですわね」
◇
最後の一頭を量り終えた頃。
村の入口から、一人の女性が歩いてきた。
六十に近いだろう。白いものが混じり始めた黒髪を一本の太い三つ編みにし、日に焼けた顔には細かな皺が刻まれている。肩には使い込まれた古い外套をまとい、手には長い牧杖。背負い袋ひとつだけの軽装だったが、ここまで歩いてきたとは思えないほど足取りはしっかりしていた。
「ここに、北牧草地の山羊がいると聞いた」
女性は共同秤と、その周囲に集められた山羊を見た。
オルドの表情が変わる。
「ヒルダ」
「久しぶりだね、オルド」
二人は知り合いらしい。
「どなたですの?」
イデアが尋ねると、女性はまっすぐ彼女へ顔を向けた。
「ヒルダ・フォルク」
深く頭を下げはしなかった。
ただ牧杖を地面へ立て、エメラルドの瞳を正面から見返す。
「昔、北牧草地で山羊を飼っていた者だ」
周囲が静かになる。
ユーイとエスタが、自然と山羊たちの近くへ寄った。
「所有者を探していると聞いて来た」
ヒルダは背負い袋を下ろし、中から一枚の古びた紙を取り出した。
「その山羊たちは、もとはうちらの群れだ」
◇
廃教会の仮机へ、古い紙が広げられた。
端は擦り切れ、雨に濡れた跡も残っている。
それでも、ラズマイト家がかつて使っていた印章は読み取れた。
「徴収証……」
「十二年前の春だ」
ヒルダが答える。
「北牧草地に住んでいた四世帯から、山羊十一頭を滞納税として徴収したと書いてある」
「十一頭」
現在の群れと同じ数だった。
「本当に連れていかれましたの?」
「連れていく途中で嵐が来た」
ヒルダの声は淡々としている。
「徴税人は山羊を道へ置いて逃げた。何頭かは、自分で牧草地へ戻ったよ。けど役人は、全部を徴収済みとして扱った」
「戻ってきた山羊も、返していただけなかった?」
「伯爵家の所有物になったと言われた」
オルドが低い声で続ける。
「その後、北の水場が枯れた。柵を直す金もなくなった。狼も出るようになって、住んでいた家々は少しずつ村を離れた」
「山羊たちは?」
「捕まえられる分だけでも連れていきたかったさ」
ヒルダが初めて視線を伏せた。
「だが、首へ伯爵家の印がついた札をつけられていた。持ち出せば、領主の家畜を盗んだことになると脅された」
イデアの指が、紙の上で止まる。
十一頭を見つけた時、山羊の首には古い銅札が残されていた。
北牧草地を示す印。
ただの土地の印ではなかった。
徴収された財産であることを示す印でもあったのだ。
「それで、十二年も?」
「何度か戻ったよ」
ヒルダは答えた。
「遠くから群れを見た。減った年もあったし、子が増えた年もあった。それでも、連れていけば盗人になる。あたしらには、領主の印へ逆らう力なんてなかった」
「では、なぜ今になって?」
「新しいラズマイト伯爵が、持ち主を探していると聞いた」
ヒルダがイデアを見る。
その目は厳しかったが、責めるというより、目の前の若い領主がどんな人間なのかを見定めようとしていた。
「確かめに来たんだ」
「何を?」
「昔の役人が取り上げた山羊を、新しい領主も伯爵家の財産だと言うのか」
礼拝堂の空気が静まった。
厳しい言葉だった。
だが、イデアは腹を立てなかった。
むしろ、腹を立てる資格が自分にあるとも思わなかった。
書類だけを見れば、山羊はラズマイト家が税として徴収した財産である。現在の当主である自分が、その所有権を引き継いだと言い張ることもできる。
けれど。
「呼びません」
イデアは答えた。
ヒルダの眉がわずかに動く。
「では返すのか」
「その前に、この徴収そのものを確認します」
ダリオに古い帳簿を持ってきてもらう。
十二年前の税。
当時の世帯。
収穫。
家畜。
北牧草地の記録は、虫食いと水染みの間にかろうじて残っていた。
「徴収理由は、穀物税の不足」
「水が減って、麦がほとんど取れなかった年だ」
「山羊十一頭の評価額は……」
イデアの眉が寄った。
「通常の三分の一にも届いておりませんわ」
山羊を極端に安く評価し、それだけでは滞納分を払い切れなかったことにしている。
家畜を奪われても、借りだけが残る仕組みだった。
「それだけではありません」
帳簿を確認していたダリオが、別の欄を示した。
「徴収後、飼育費と運搬費が北牧草地の債務へ加算されています」
「実際には、領主館まで運んでおりませんのに?」
「書類では、運搬済みとなっております」
イデアの声が低くなる。
「……不正な記録ですわね」
山羊を徴収したことにした。
実際には途中で放置した。
それでも運搬費を請求し、異常に低い評価額で税の不足まで残した。
イデアは帳簿を閉じず、そのままヒルダを見た。
「ラズマイト家は、この山羊たちへの所有権を主張いたしません」
ヒルダが黙る。
ユーイとエスタも、息を詰めたように二人を見ていた。
「返すということかい」
「正当に徴収した財産として扱うことをやめます」
「全部、今日連れていけと?」
「それも違います」
イデアは首を横へ振った。
「所有権を正すことと、十三――いえ、いまはまだ十一頭ですわね。山羊を今日すべて移動させることは別の話です」
「……十三?」
「子山羊が生まれそうですの」
ヒルダの顔つきが変わった。
「どれだい」
エスタが先ほどの雌を示す。
ヒルダはすぐに山羊のところへ行き、腹や背、乳房を手早く確かめた。
「これは……今日かもしれないね」
「今日!?」
その一言に、イデアの頭へ、先ほど考えた出産場所の準備が一気に蘇った。
「囲いを急がせますわ!」
「騒がせすぎるんじゃないよ。まず話を終わらせな」
イデアは、立ち上がりかけた身体を止めた。
山羊のことなら、今の自分よりヒルダの判断を信じるべきだろう。そう納得して、もう一度席へ腰を戻す。
「それで」
今度はイデアから尋ねた。
「十一頭すべてを、現在のお住まいへ連れて帰れますの?」
「無理だね」
ヒルダの答えは早かった。
「いまは娘夫婦の家へ世話になってる。畑も狭い。山羊一頭や二頭ならともかく、群れを養える場所じゃない」
「では、何を求めていらしたの?」
「返してもらえるのかを知りたかった」
ヒルダは古い徴収証へ手を置いた。
「十二年前は、誰も聞かなかった。山羊が誰のものだったか。あたしたちが、それを失えばどうなるか」
十一頭すべてが欲しいわけではない。
おそらく、最初からそうだった。
奪われたものが、書類一枚で正しい財産に変えられたままにならないこと。
自分たちの群れだったと、誰かが認めること。
ヒルダは、ただそれを知りたかったのだ。
イデアは新しい頁を開いた。
「では、記録を訂正します」
羽根ペンを取る。
「旧北牧草地共有山羊群。旧ラズマイト伯爵家による徴収記録には、不当な評価と実施されていない運搬費が含まれるため、現ラズマイト家は所有権を主張しない」
「それで、誰の物になる?」
「そこを確認いたします。北牧草地にいた四世帯のうち、ほかの方々は?」
「二家は血筋が絶えた。一家は、どこへ行ったか分からない」
「ヒルダのご家族は?」
「娘が一人」
「でしたら、現在確認できる旧権利者は、あなたの家だけですわね」
「全部をあたしの物にする気はないよ」
ヒルダは即座に首を横へ振った。
「なぜ?」
「山羊は四家で育てたんだ。あたしの家だけで作った群れじゃない」
イデアは羽根ペンを止めた。
しばらく考える。
「では、群れそのものを北牧草地の共有財産として扱いましょう」
「共有財産?」
「現在の飼育場所と管理主体は小ラズマイト。実際の飼育を担当するのは、ユーイとエスタ」
名を呼ばれた兄妹が顔を上げた。
「そしてヒルダには、旧権利者の代表として記録へ入っていただきます。それから――」
「まだあるのかい」
「山羊の飼育顧問をお願いできません?」
「顧問?」
「このお二人へ、あなたの知っていることを教えていただきたいのです」
ヒルダが兄妹を見る。
ユーイとエスタも、少し緊張した様子で彼女を見返した。
「腕を見てからだね」
「厳しいですわね」
「山羊を任せるんだ。顔だけで決めるものか」
「正しい」
礼拝堂の端からガルドンが口を挟んだ。
「なぜ、まだいらっしゃるの?」
「共有財産の扱いは、先日の協定にも関わる」
「市場のお店は?」
「ネッサに任せた」
このところ、小ラズマイトでは誰もが少しずつ仕事を他人へ任せるようになっていた。
「利益の扱いはいかがいたしますか?」
ダリオが尋ねる。
「乳。毛。子山羊。肥料。それぞれ価値が異なります」
「秤で量ればよい」
ガルドンが共同秤の方角を顎で示す。
「量れるものはね」
ヒルダが答えた。
「乳の量。毛の重さ。身体の大きさ。それは量れる。でも、群れの値打ちは、それだけじゃない」
「では、何で決まりますの?」
「子をよく育てる雌。群れを守る雄。乳をよく出す山羊。病に強い山羊。人へ慣れる山羊」
ヒルダは指を折っていく。
「若い山羊には先がある。年を取った山羊は、群れの歩き方を知ってる。重いから高いとは限らないよ」
「人間と同じですわね」
「人間より山羊の方が分かりやすい」
「その評価は、人間に少々失礼では?」
「山羊は税の帳簿を偽造しない」
「……反論できませんわ」
イデアは僅かに視線を落とすと、そっと額を押さえた。




