40.共同秤は、嘘まで量ります(上)
仮協定を結んでから、数日後。
小ラズマイトの市場へ、初めてドワーフの店が並んだ。
売られているのは、光り輝く宝飾品でも、伝説に出てくるような武器でもない。
釘に蝶番、留め金。
包丁や鎌の刃。
鍋の取っ手。
どれも、毎日の暮らしで使う小さな金物ばかりだった。
「もっと、こう……光り輝く剣などをお持ちになると思っておりましたわ」
イデアは敷物の上へ整然と並べられた釘を眺めた。長さごとに分けられ、十本ずつ麻紐で束ねられている。
「剣で屋根は直らん」
ガルドンが答えた。
「畑も耕せませんものね」
「人間は、やたらと武器を欲しがる」
「ドワーフは欲しがりませんの?」
「必要な分は自分で作る」
「少々、羨ましいですわ」
小ラズマイトには、剣どころかまともな包丁すら足りていない。
刃の欠けた鎌。柄へ布を巻いて使い続けている鍬。何度も伸ばしては打ち直された釘。
使える物を最後まで使うのは大切だが、壊れかけた道具を無理に使えば、仕事そのものに余計な時間がかかる。
「ガルドン。こちらの釘は、おいくら?」
「十本で銅貨一枚」
「随分と、良心的ですのね」
「最初の品だからな。試し値だ」
「今後は?」
「鉄の値と手間が変われば、値も変える」
「分かりやすくて結構ですわ」
「ただし」
ガルドンは太い指で釘束を持ち上げた。
「人間の商人が大量に買って、別の町で三倍にして売るようなら、次から卸値を変える」
「そこまで分かるの?」
「同じ顔が何十束も買えばな」
抜け目がない。
「店番は、こちらのお二人?」
台の奥に、二人の若いドワーフが立っていた。
一人は黒髪を四本の細い三つ編みにした女性、ネッサ。ガルドンの姪で、細かな金具や針を得意とする職人らしい。
もう一人は、赤茶けた髭を短く刈った青年、ボルグ。太い腕で、先ほどから黙々と鎌の刃を磨いている。
「人間との取引は初めてですの?」
イデアの問いに答えたのは、ネッサだった。
「子供の頃に一度。父と町へ出た。石を買い叩かれて、それきり行ってない」
「今回は?」
「ガルドンが、お前の市場ならしばらく試してもいいと」
「でしたら、こちらも約束どおり、ほかの出店者と同じ条件で扱いますわ」
「特別扱いは?」
「いたしません」
「値引きを求められたら?」
「交渉はご自由に。ただし、種族を理由に値切る方は、わたくしが追い出します」
ネッサの口元が少しだけ上がった。
「気に入った」
「まだ何も売れておりませんわよ」
「領主の言葉を買った」
「代金は?」
「約束を守るのを見てから払う」
「そちらも、信用払いですのね」
◇
市場を開く前に、まず確認しなければならないものがあった。
共同秤である。
地下から現れた古い秤は、ガルドンたちの手でひとまず使えるところまで修理されていた。
イデアの肩を越すほどの石柱。その上からは、大人が二人並んで腕を広げても届かないほど長い金属の梁が左右へ伸び、大きな皿が吊られている。
穀物袋や鉱石籠を、そのまま量るための市場設備だ。
梁の中央には、翼と王冠、槌と花を組み合わせた古い印が刻まれていた。
市場を訪れた人々も、珍しそうに周囲を取り囲んでいる。
もっとも、いまの小ラズマイトで最も人目を引くものは、古い共同秤ではなかった。
村人たちはすでに、白い翼を広げたアルゼルが道を直し、荷物を運び、山羊に服を噛まれている姿にも慣れつつある。
だが、市場へやって来る外の者たちはそうではない。
秤を見に来たはずなのに、いつの間にか視線がアルゼルの背中へ移り、翼がわずかに動くだけで足を止める者もいた。
当の本人だけは、そんな視線など当然のものとして気にも留めていないようだった。
「最初に量る品は、約束どおり俺たちの釘だ」
ガルドンが、釘の詰まった木箱を片方の皿へ載せる。
「分銅は?」
イデアが尋ねた。
「地下に残っていた物を使う」
「お待ちください」
背後から声をかけたのは、エーミルだった。
今日は塩や糸、灯り用の油、それから手頃な布を荷馬車へ積んできている。
「古い分銅が、現在の王国の基準と同じとは限りません」
「確かに」
イデアは頷いた。
地下室から見つかったものは、何百年も前に使われていた道具だ。形が整っているからといって、いまの取引にそのまま使えるとは限らない。
「エーミルは、正規の分銅をお持ち?」
「もちろんです」
エーミルは荷馬車から鍵のついた木箱を運ばせた。
蓋を開くと、中には大きさの異なる金属製の分銅が収められている。どれにも王家の検定印が刻まれていた。
「一斤から、二十斤までございます」
「本物ですの?」
「そう言われると思いまして、検定証も持ってきました」
「用意がよろしいですわね」
「商人ですので」
エーミルの正規分銅と、地下から見つかった古い分銅を左右の皿へ載せてみる。
どちらも一斤。見た目の大きさも、ほとんど変わらない。
しかし、梁はわずかに傾いた。
「古い方が重いですね」
ダリオが記録しながら言う。
「どの程度ですの?」
エーミルがさらに小さな分銅を加え、梁が水平になるところまで調整する。
「現在の一斤より、ほんの少し重いですね」
「それくらいなら、問題ないのでは?」
「少しだからこそ、気づきにくい」
ガルドンが割って入った。
「一斤ではわずかでも、十斤、二十斤と積み重なれば差は膨らむ」
小さな違い。
けれど、一日に何度も、何年も取引すれば、それは決して小さな損得ではなくなる。
「では、この分銅は使えませんのね」
「削れば合わせられる」
「歴史のある物でしょう?」
「道具は使ってこそだ」
「でしたら、すべて削る必要はございません」
イデアは少し考えた。
「一組は、昔の市場で使われていた物として保存します。ほかの一組だけ、現在の基準へ合わせてくださいませ」
「同じ重さの物が、いくつかあるのか」
「ええ」
「なら、それでいい」
「王家の検定印は?」
ダリオが尋ねる。
「クラウスが現地確認へいらした時、正式に確かめていただきますわ」
それまでは、エーミルの正規分銅を基準として使う。
イデアは帳面へ手順を書き込んだ。
「検査が済むまでは、共同秤を使った取引には仮確認と記録します」
「面倒だな」
ガルドンが短く息を吐く。
「面倒を省いて、あとから全部やり直す方がもっと面倒ですわ」
「細かい領主だ」
「褒め言葉として受け取ります」
古い分銅を皿から下ろそうと、イデアが手を伸ばす。
「私が持ちます」
アルゼルが言った。
「一斤程度、自分で持てますわ」
「あなたがそう言ったあとは、大抵何か起こります」
「今日は起こりません」
イデアは分銅を持ち上げた。
思ったより重い。
手に力を入れ直した瞬間、秤の皿がわずかに揺れた。
「あっ」
分銅が指先から滑る。
落ちる、その寸前でアルゼルの片手が受け止めた。
「ほら」
「……まだ落としておりませんわ」
「私が受け止めました」
「結果としては無事です」
「私が以前使った言葉を、都合よく利用していますね」
周囲から笑い声が上がった。
ガルドンは呆れた顔で釘の木箱を秤へ戻す。
「金髪。分銅を持て」
「アルゼルです」
「今日は秤の重り役だ」
「私を道具として扱うことへ、迷いがなくなりましたね」
「便利ですもの」
イデアが即答すると、
「あなたまで」
アルゼルの声には、明らかに苦い響きが混じっていた。
◇
共同秤で最初に量られたのは、百本の釘だった。
太さと長さを揃えた釘を木箱へ詰め、その重さを記録する。今後、同じ品を作る時の基準になるという。
「釘は本数で売るのでしょう?」
「本数だけ合わせても、鉄を減らして細く作る奴がいる」
ガルドンが一本をイデアへ差し出す。
「長さ、太さ、重さ。全部揃って、同じ品だ」
「随分と厳密ですのね」
「正しくない物は、美しくない」
いかにもフィルネアの信徒らしい言葉だった。
ミラが釘を受け取り、近くの木材へ打ち込んでみる。何度か打ってみたが、釘は曲がることなく真っ直ぐ木へ入った。
「硬い」
「曲がっていなければ、抜いてまた使える」
ネッサが答える。
「一度打った釘でも、そのまま?」
「何度でもとは言わない。でも、すぐには曲がらない」
小ラズマイトでは、古い釘を伸ばして使い回している。最初から丈夫な釘があれば、それだけ修理の手間も減るだろう。
「十束、いただきますわ」
イデアが言った。
「領主が買うのか」
「教会の屋根と診療所へ使います」
「支払いは?」
「銅貨を半分。残りを粉と山羊乳ではいかが?」
ネッサとボルグが顔を見合わせた。
「乳は日持ちしない」
「固めた乳なら?」
セラが口を挟んだ。
山羊乳へ塩を加え、水分を抜いて作った小さな乳酪を試作しているという。まだ形は不揃いだが、生乳よりずっと長く持つ。
ネッサが一片を受け取り、匂いを確かめてから口へ入れた。
「悪くない」
「本当に?」
「少し塩が多い」
「次は減らします」
セラが真剣な顔で頷いた。
「なら、銅貨で半分。残りは粉と乳酪」
ネッサが決めた。
小ラズマイトの山羊乳から作った品が、初めてドワーフとの取引に使われることになった。
「帳簿へ」
イデアがダリオへ言う。
「釘百本、銅貨十枚相当。支払いは現金五枚、残り五枚分を粉と乳酪で」
「承知しました」
少し離れたところで、エーミルが笑った。
「釘の代金まで随分と細かいですね」
「銅貨一枚でも、残せるお金は大切ですもの」
「すべて借金へつながりますか」
「ええ。すべてつながりますわ」
◇
ドワーフの店は、予想以上の人気になった。
農具の刃。鍋の補修金具。丈夫な縫い針。扉用の蝶番。
どれも高価な品ではない。
だが、わざわざ町まで買いに行かずに済む。しかもドワーフ製である。
「この鎌、本当に刃が欠けないのか?」
「石を刈れば欠ける」
ボルグが素っ気なく答える。
「麦なら?」
「手入れ次第で長く使える」
「早く折れたら?」
「持ってこい。使い方を見る」
「無料で直すのか?」
「作りが悪ければ。使い方が悪ければ、金を取る」
ボルグの説明には、愛想というものがほとんどない。それがかえって信用できると思ったのか、農民たちは真剣に頷いていた。
ネッサの縫い針も次々と売れる。セラが一本を布へ通し、滑らかな使い心地を周囲へ見せていた。
「細いのに曲がりにくい」
「服だけじゃなく、革にも使える」
「目が小さいねえ」
「細い糸を使え」
「見えないよ」
「なら、こっちの大きい針を使え」
客の用途を聞いて、合う物を選ぶ。
値段を下げるために品質そのものを落とすことは、決してしない。それがドワーフの商売らしかった。
「私の周囲より、人が集まっていますね」
アルゼルが、少し離れたところから店を眺めていた。
今では大きな翼も隠していない。それでも村人たちは、釘や針の方を熱心に見ている。
「本日は農具を買いに来た方が多いですもの」
「私を見るためではなく?」
「水車と市場の日ですわ」
「以前は、女性が多く集まりました」
「今日は皆様、針を見ておりますわね」
「実用品に敗北しました」
「ここでは、よくあることですわ」
アルゼルは、どうにも納得していない顔をしていた。
◇
問題が起きたのは、昼前だった。
「この市場では、商人を疑っても許されるのか!」
共同秤の前で、男の怒鳴り声が響いた。
市場の通路を見回っていたイデアは、足を止める。
声を上げているのは、見覚えのない行商人だった。名はマルテン。今朝、塩と灯り用の油を扱う店として届け出たばかりの男だ。
その前では、塩袋を抱えた女性が困ったように立っている。
「何がございましたの?」
イデアが近づくと、女性が小さな袋を差し出した。
「一斤買ったんですけど、家から持ってきた一斤袋より、随分軽い気がして……」
「それで共同秤へ持ってきてもらいました」
ダリオが説明する。
「すると、こちらの商人が声を荒げまして」
「当然だ!」
マルテンが吠える。
「私の分銅は、町の市場でも使っている正規品だ。こんな古い秤で勝手に量り直されては商売にならん!」
「共同秤そのものは、現在の正規分銅を使って確認しております」
イデアが答える。
「まだ王家の検定前だろう!」
「ええ。ですから、仮確認です」
「なら信用できん!」
「でしたら、エーミルの分銅でもう一度確認いたしましょう」
マルテンの表情が、わずかに固まった。
「なぜ、そこまで」
「お客様が量へ疑問を持っておりますもの」
「田舎者の勘違いだ!」
女性の肩が縮こまる。
イデアの声が、少し低くなった。
「量に問題がなければ、それを示せば済むことでしょう?」
「私を疑うのか」
「確認するのです」
「ドワーフの品は確認せず、私だけ?」
「ドワーフの釘は、先ほど共同秤へ載せましたわ」
ガルドンが腕を組んで前へ出る。
「百本。長さも太さも重さも記録した」
「身内で勝手に決めた数字だろう!」
「俺たちを、この領主の身内と呼ぶのか?」
ガルドンの声まで低くなる。
仮協定を結んだとはいえ、ドワーフたちはイデアの家臣ではない。
「言葉を選べ、人間」
ボルグが一歩前へ出た。
「何だ、その態度は」
マルテンも退かなかった。
「人間の市場へ置いてもらっているくせに」
周囲の空気が一気に張りつめた。
ボルグの太い手が、拳の形へ変わる。
「ボルグ」
ガルドンが名を呼ぶ。
だが、若いドワーフはマルテンを睨んだままだ。
「この市場は、人間だけのものではございません」
イデアが二人の間へ入った。
「下がってくださいませ」
「領主様」
ボルグが言う。
「先に侮辱したのは、こいつだ」
「聞いておりました」
「なら――」
「だからといって、殴ってよい理由にはなりません」
「まだ殴ってない」
「殴る前に止めております」
イデアは、マルテンへ向き直る。
「そして、あなたもです。種族を理由に、認められた出店者の権利を否定することは許しません」
「事実を言っただけだ」
「ここは小ラズマイトの市場です。出店を認められた方は、同じ規則に従い、同じ保護を受けます」
「まだ正式な市場ですらない!」
「正式な定期市の認可は、まだです」
イデアはそこを否定しなかった。
「ですが、ここはラズマイト家の管理地です。敷地内の取引規則を定める権限は、わたくしにございます」
「借金まみれの女が、偉そうに」
周囲が静まり返った。
少し離れた場所にいたアルゼルが、ゆっくりと顔を上げる。
瞳は閉じたまま。
それでも、その場の空気が一段と張りつめたように感じられた。
だが、マルテンを怯ませたのはアルゼルだけではない。
イデアの大きなエメラルドの瞳が、まっすぐマルテンを射抜く。整った顔立ちは笑みを消しただけで一気に鋭さを増し、細い身体からは想像しにくいほど強い圧があった。
マルテンが、ほんのわずかに息を呑む。
イデアは彼が口を開くより先に言った。
「借金と、塩の重さは関係ございません」
「……何?」
「共同秤へ載せてくださいませ」
◇
女性の買った塩袋を、共同秤へ載せる。反対側には、エーミルの正規分銅を一斤。
梁は、はっきりと傾いた。
塩の方が軽い。
「どれほど足りませんの?」
イデアが尋ねると、エーミルが細かな分銅を足しながら確かめた。
「五分の一近く足りません」
周囲にどよめきが広がった。
「五分の一?」
「そんなにか……」
「一斤分、払ったんだろう?」
マルテンの顔が赤くなる。
「その女が、途中で塩を抜いたのだ!」
「購入した直後です」
ダリオが言う。
「ここまで私が一緒に来ています」
「袋に穴が開いていたのかもしれん!」
「ございませんわ」
イデアは袋の縫い目を確認した。糸は緩んでいない。
「では、あなたがお使いになった分銅を見せてくださいませ」
「断る」
「なぜ?」
「私の道具だ!」
「市場で使用しないのでしたら、お持ち帰りいただいて結構です」
「使用しない?」
「確認を拒むのであれば、本日は重量による販売を続けさせません」
マルテンが周囲を見渡す。客たちは、疑いの目で彼の店を見ていた。
ここで拒否すれば、どちらにしても商売にならない。
「……分かった」
乱暴な足取りで店へ戻り、一斤と刻まれた分銅を持ってくる。
「これだ」
「私が」
イデアの横から、アルゼルの手が伸びた。
「一斤程度ですわ」
「先ほども落としかけました」
「今度は落としません」
イデアは分銅を受け取る。
表面には、町の市場で使われる検定印によく似た刻印があった。見た目だけなら、エーミルの物とほとんど変わらない。
「……軽い気がいたしますわ」
「気のせいだ」
マルテンが即座に答える。
イデアは共同秤へ載せようと、一歩踏み出した。
そこには先ほど量った塩が、ほんの少しだけこぼれていた。
靴底が滑る。
「あっ」
傾いた身体を、すぐにアルゼルが支えたおかげで、イデアは倒れなかった。
代わりに、手の中の分銅だけが石畳へ落ちる。
硬い金属音――ではなく。
ぱきん、と、妙に軽い音がした。
分銅の底が割れ、内部から黄色い蝋と小さな石がこぼれ出した。
誰も声を出さない。
「……これは?」
イデアが尋ねた。
マルテンの顔から、見る間に血の気が引いていく。
ガルドンが割れた分銅を拾った。
「外だけ金属だ。中を蝋と小石で埋めて、重さを減らしてある」
「一斤と刻まれておりますけれど」
「実際は、それより軽い」
「軽い分銅で一斤の塩を量れば」
ダリオが言う。
「客へ渡す塩は、その分だけ少なくなります」
目の前の女性だけではない。
今日この店で品を買った者。これまでマルテンから塩や油を買った者。
同じ分銅を使っていたなら、誰もが本来より少ない量を渡されていた可能性がある。
「わざとではない!」
マルテンが叫んだ。
「仕入れた時から、この分銅だった!」
「どこで?」
「それは……」
「店名と、仕入れた時期を」
「覚えていない」
「先ほどは、正規品だとおっしゃいましたわね」
「町の市場で使っていたからだ」
「検定証は?」
「……ない」
言葉を重ねるほど、逃げ道が狭くなっていく。
「今回の災難は、小さいですね」
アルゼルが隣で囁いた。
「少し滑っただけですもの」
「見返りは、不正の証拠」
「市場全体としては黒字?」
「ええ」
イデアは自分の靴を見る。
「わたくしの靴底は、塩まみれですけれど」
「必要経費です」
「またそれですのね」
◇
「マルテン」
イデアは、割れた分銅を机の上へ置いた。
「本日の取引を停止します」
「待ってくれ!」
「この分銅を使って販売した塩と油について、確認いたします」
「もう売った物を、どうやって!」
「出店者の記録はございます。それに、騒ぎを聞いて、今日こちらで買われた方も集まっておりますわ」
すべての購入者を初めから記録していたわけではない。
それでも、その日の販売についてなら確認できる。
「不足分を返してくださいませ」
「塩は残っていない!」
「店に袋がございますでしょう」
「これは、これから売る分だ!」
「では、そちらから」
「私が損をする!」
「不足分を渡されなかったお客様は、すでに損をしております」
マルテンが拳を握る。
「領主権限で、私の商品を奪うのか」
「奪いません」
イデアはきっぱり答えた。
「不足分だけを、購入者へ返していただきます。残りの商品は正しい重さを確認したうえで、持ち帰ってください」
「市場には?」
「当面、出店を認めません」
「いつまでだ!」
「少なくとも、今回の件を整理し、王領監理局へ報告したうえで再申請ができる状態になるまでは」
「長すぎる!」
「では、不正な分銅と取引記録をそのまま役所へ送り、すべての判断を委ねましょうか?」
マルテンが黙った。
中身を細工した分銅。
王家の検定印へ似せた刻印。
小ラズマイトの市場内で済ませられる話なのかどうか、それ自体が確認を必要とする。
「本日確認できる不足分は返す」
イデアは言った。
「残った品は持ち帰る。再び出店を望むなら、正規の分銅と検定証を用意し、改めて申請してくださいませ」
「永久に追い出さないのか」
オルドが尋ねた。
「今回確認できた被害を弁償し、その後も規則に従うのであれば」
「また不正をしたら?」
「次は、こちらで処理せず役所へ任せます」
マルテンは長く黙ったあと、悔しそうに頷いた。
「……分かった」
「それから」
イデアはボルグを見る。
若いドワーフは、まだ険しい顔をしていた。
「あなたにも、責任を取っていただきます」
「俺は殴ってない」
「市場の支柱を壊しましたわね」
ボルグの後ろ。
彼が怒りを堪えるために握ったらしい木柱には、深い亀裂が入っている。
「人間を殴る代わりだ」
「だからといって、市場の備品なら殴ってよいことにはなりません」
「弁償する」
「銅貨で?」
「鉄の留め金を作る」
「では、それと支柱の交換を手伝ってくださいませ」
「分かった」
ボルグは意外なほど素直に頷いた。
「あいつが先に侮辱したのに?」
ネッサが尋ねる。
眉はわずかに寄ったままで、まだ完全には納得していないらしい。
「侮辱したことと、物を壊したことは別ですわ」
イデアは答えた。
「マルテンには取引停止と不足分の弁償。ボルグには壊した支柱の修繕。それぞれ、ご自分の行為に対して責任を負っていただきます」
ガルドンが髭を撫でる。
「ドワーフだから見逃す、とは言わんのだな」
「人間でも同じです」
「人間の領主でも?」
「わたくしが支柱を壊したなら、もちろん直しますわ」
「直せるのか?」
「……アルゼルにも手伝っていただきます」
「なぜ私が?」
「高位天使でしょう?」
「責任の分配がおかしいですね」
そのやりとりで、張りつめていた市場の空気が、少しだけ緩んだ。




