34.奇跡の花は予約できません
月白花がハンナの命をつないだという話は、思った以上に早く小ラズマイトの外へ流れた。
半日ほどの距離にあるハルム村へ届き、そこから街道を行き来する者の口へ乗る。
ただし、伝わった話はすでにひとつではなかった。
銀色の薬草が重い病を治したという者もいれば、翼のある男が奇跡を起こしたという者もいる。
古い邪教が復活したのだと顔をしかめる者も、伯爵が人を集めるために作った話だと笑う者もいた。信仰に関わる話を恐れ、そもそも口にすることを避ける者さえいる。
噂だけなら、やがてもっと遠くまで届くだろう。
けれど、小ラズマイトはまだ、噂の真偽を確かめるためだけにわざわざ足を運ぶような土地ではない。
ここまで来るのは、商売や水車の利用といった用事がある者か、あるいは、噂であっても縋らずにはいられない事情を抱えた者たちだった。
そして、アルゼルが翼を隠さないようになって、七日目の朝。
廃教会の前には、病人を乗せた荷車が四台並んでいた。
「……どうして、こうなりましたの?」
礼拝堂の扉から外を眺めながら、イデアは低く呟いた。
荷車の上に横たわる老人。
杖をついた女性。
顔を布で覆った青年。
痩せた子供を抱いた母親。
付き添いまで含めれば、二十人近くいる。
今日は水車の利用日ではない。仮市も開いていない。
それでも彼らは、朝日の昇りきらないうちから小ラズマイトへ集まっていた。
「奇跡の花があると聞けば、病に苦しむ方が来ること自体は不思議ではありません」
隣でアルゼルが答えた。
もう、大きな外套は身につけていない。
二枚の白い翼を背中でゆったりと畳み、普段と変わらない穏やかな顔で立っている。
小ラズマイトの村人たちも、以前ほど露骨にはアルゼルの姿を見なくなった。
もちろん、全員ではない。
アルゼルとすれ違うたび、いまだに一歩だけ余分に距離を取る者もいる。背後へ回ることを避ける者もいれば、彼が翼を動かすたび、仕事の手を止めてしまう者もいた。
けれど、アルゼル自身は正体を明かす前と何も変わらなかった。
朝になればイデアが食事をしたか確認し、水車へ行けば重いものを運び、子供に呼ばれれば返事をし、山羊が柵を壊せば直す。
そして、相変わらず自分の美貌について余計なことを言う。
数日も見ているうちに、警戒していた者たちも少しずつ肩の力を抜き始めていた。
翼が増えたところで、中身まで別人になったわけではない。
そう理解するには、七日もあれば十分だったらしい。
問題は、外から来た者たちである。
廃教会の前へ着いた人々の視線は、なにより先にアルゼルへ向かった。
白い翼を見て、胸元で正教会の印を切った男がいる。
その場へ膝をつこうとして、隣の家族に止められた女もいる。
逆に、教会の敷地へ入ることそのものを躊躇し、荷車から降りようとしない者もいた。
「……本当に天使なのか」
誰かが囁く。
「正教会の天使じゃないって聞いたぞ」
「では、何なんだ」
「知らん」
聞こえている。
アルゼルにも。
当然、イデアにも。
「何かおっしゃらなくてよろしいの?」
「何をです?」
「あなたのことですわ」
「私はアルゼルです」
「それでは何も説明しておりません!」
「聞かれれば答えますよ」
「聞く前に皆様が怯えておりますの!」
そのやり取りを見ていた小ラズマイトの村人が、どこか慣れた様子で笑った。
外から来た者たちが、今度はそちらを不思議そうに見る。
どうやら、翼のある男へ領主が普通に怒鳴り、その領民が笑っている光景の方が理解しづらいらしい。
「それより」
イデアは教会脇へ目を向けた。
「まだふたつの芽しかございませんのよ」
最初の一輪を使った株から、新たに伸びた銀色の芽。
どちらも葉すら開いていない。
「それに、月白花は何でも治す花ではございませんでしょう?」
「ええ」
アルゼルが頷いた。
「月白花そのものが、あらゆる病を消してしまうわけではありません。適した薬草とともに使えば、その働きを大きく助けることがありますが、失った手足を戻すことも、寿命を延ばし続けることもできません」
「皆様、その辺りをご存じなのかしら」
「おそらく『奇跡の花がある』という部分だけでしょうね」
「噂というものは、どうして都合のよいところだけ育ちますの?」
「手入れをしなくても育つからでは?」
「黒穂麦より丈夫ですわね」
イデアは額へ手を当てた。
小ラズマイトには、病人を診るための立派な施設などない。
あるのは、廃教会の側室を掃除し、診療所にしようと決めたばかりの部屋。
寝台代わりの長椅子が二脚。
ハンナの家から運び込んだ薬草の束。
それから、十種類ほどの薬草の種。
水が戻ったことでようやく植え始めたものの、まだ芽を出していない種類の方が多い。
「伯爵様」
背後から、杖が石床を打つ音がした。
振り返ると、ハンナが立っている。
顔色は七日前とは比べものにならないほど戻ったが、身体はまだ痩せ、傷を負った右手には布が巻かれていた。
「なぜ起きておりますの?」
「病人が来てるんだろ」
「あなたも病人ですわ!」
「もう治ったよ」
「一昨日まで昼寝を増やされていた方の台詞ではありません!」
「婆さんは寝てると、余計に腰が悪くなるんだ」
「言い訳しない!」
ハンナは聞く耳を持たず、イデアの横へ並んだ。
その途中、アルゼルの大きな翼がわずかに動く。ハンナは一度だけそちらへ目をやった。
いまでは、その程度だった。
もっとも、最初からこうだったわけではない。
目を覚ました翌朝、初めて外套を脱いだアルゼルを見た時には、さすがのハンナも杖を止めていた。
『……ずいぶん大きいね』
第一声が、それだった。
『感想はそこですか?』
『天使だったってのは聞いたよ』
『驚かれないのですか?』
『驚いてるさ』
そう言いながら、ハンナは翼を上から下まで一度眺めた。
『で、翼があると薬草の煎じ方が変わるのかい?』
『変わりません』
『なら、今まで通りでいいだろ』
そして、その日のうちに薬草の籠をアルゼルへ持たせた。
どうやらハンナにとっては、天使かどうかより、重い籠を問題なく運べることの方が重要だったらしい。
「月白花が欲しい連中ばかりかい」
「そのようですわ」
「なら、最初に諦めさせな」
「諦めさせる?」
「ない花を、あるように期待させるなってことさ」
ハンナは杖の先で石床を一度叩いた。
「治せもしない病に、治ると信じ込ませる方が残酷だ」
イデアは外へ集まった者たちを見る。
彼らは希望を求めてここまで来た。
けれど、まだ咲いてもいない花を渡すことはできない。
「……分かりましたわ」
イデアは背筋を伸ばし、礼拝堂を出た。
◇
「皆様、お聞きくださいませ」
廃教会の前へ立つと、人々の視線が集まった。
正確には、イデアへ半分。
その隣へ出てきたアルゼルへ半分だった。
「わたくしは、小ラズマイト領主、イデア・ラズマイトです」
「伯爵様」
痩せた子供を抱いた女性が、一歩前へ出る。
目の下には濃い隈があり、長い旅と看病の疲れが見て取れた。
「月の光で咲く花があると聞きました。どんな病でも治すと」
「そのような花はございません」
女性の顔から血の気が引いた。
周囲からも動揺の声が上がる。
「嘘だったのか?」
「ハンナという婆さんが助かったと聞いたぞ」
「月白花はあります」
イデアは声を張った。
「ですが、どのような病でも治すわけではありません。そして現在、使える花は一輪もございません」
「隠しているのでは?」
顔を布で覆った青年の付き添いが、疑うような声を上げた。
「金を多く払う者へ売るために」
「隠しておりません」
「なら、畑を見せろ」
「構いませんわ」
イデアは教会脇の一角を指した。
銀色の石で囲まれた中央に、ふたつの月白花の芽がある。
まだ地面へ近い位置で、小さな葉を畳んでいるだけだ。
「あれだけ?」
「ええ」
「いつ咲く」
「分かりません」
答えたのはアルゼルだった。
声を聞いた途端、外から来た者たちの何人かが身を硬くする。
老人の付き添いらしい男などは、アルゼルが一歩動いただけで、その前へ立つように身体をずらした。
アルゼルは気にした様子もない。
「月白花が育つには、土地の状態や神性など、いくつもの条件があります」
「明日か?」
「分かりません」
「数日?」
「数月後かもしれません」
「待っていれば、必ず咲くのか?」
「それも保証できません」
人々の間へ失望が広がった。
期待が大きかった分だけ、すぐには飲み込めないのだろう。
「帰れというのですか」
子供を抱いた女性が尋ねた。
「ここまで来たのに」
「いいえ」
イデアは首を横へ振った。
「花はございませんが、病状は伺います」
「普通の薬で治るなら、とっくに治している!」
老人を連れた男が叫んだ。
「町の薬師にも見せた!」
「でしたら、その時に何を言われ、何を使ったのかも含めて教えてくださいませ」
「花もないのに?」
「月白花でなければ助からないのか、それを決めるのは皆様ではございません」
男の顔が険しくなる。
「伯爵様なら分かると?」
「わたくしには分かりません」
イデアはきっぱり答えた。
「ですが、ハンナには薬草の知識がございます。アルゼルにも、少なくとも人の病とは異なる力や呪いが関わっていないかを確かめることはできます」
ちらりと隣を見る。
白い翼は、アルゼルの背に沿うよう畳まれている。
外から来た者たちも、つられるように見た。
「ただし、アルゼルは治癒を司る天使ではございません」
先に釘を刺した。
「翼があるからといって、触れれば何でも治ると思わないでくださいませ」
「その説明は必要ですね」
「他人事のように言わない! あなたのことですわよ!」
「分かっていますよ」
また、小ラズマイトの者たちが小さく笑う。
外の者たちは笑わない。
けれど、先ほどより表情の硬さは少しだけ薄れていた。
「治せるとは約束いたしません」
イデアは改めて全員を見る。
「けれど、何もせず帰すつもりもございませんわ」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、
「立ってられる者は、まず手を洗ってきな!」
背後からハンナの声が飛んだ。
まだ病み上がりらしく声量は以前ほどではない。それでも命令口調だけは、どの病人より元気だった。
「熱のある者と、咳の出る者を同じところへ集めるんじゃないよ!」
「ハンナ!」
「伯爵様、話を聞く場所を分けるよ。咳の者は外。傷の者は右の部屋。腹を壊してる者は井戸へ近づけすぎるな」
「分かりましたわ」
「それから、あたしが使ってる長椅子をひとつ空ける」
「あなたはどこで休むの?」
「普通の椅子で十分だ」
「駄目です」
「患者がいるんだよ」
「あなたも患者です!」
二人が睨み合った。
ハンナは折れない。
イデアも折れない。
「では、わたくしの寝台も使いなさい」
「伯爵様が石床で寝る気かい」
「必要なら」
「いつもそんなことしてるのかい」
「現在の住環境をご覧になれば、お分かりでしょう?」
外から来た者たちが、一斉に廃教会を見る。
崩れた尖塔。
まだ修理しきれていない屋根。
板や布で塞いだ窓。
「……ここ、領主館なのか?」
誰かが呟いた。
「現在は」
イデアは胸を張った。
「仮の住居ですわ」
言ったところで、豪華になるわけではない。
◇
聞き取りは、午前中いっぱい続いた。
最初に診たのは、痩せた子供だった。名はリト、七歳。
二月ほど前から熱を繰り返し、食事を取ると腹を痛がるという。
「月白花が必要ですか」
母親は、縋るように尋ねた。
ハンナは少年の舌と瞼を確認し、腹へ触れ、これまで食べてきたものを細かく聞いていく。
「普段の食事は?」
「麦粥と、干した豆を少し」
「肉は?」
「冬から食べていません」
「卵や乳は?」
「買えません」
ハンナは少年の細い腕を手に取った。
「病だけの問題じゃないね。身体そのものが弱りきってる」
「ですが、熱が」
「弱れば、普段なら追い払えるものにも負ける」
アルゼルがハンナの邪魔にならない位置へ膝をついた。
少年の胸元へ手を近づける。
何かが光ることもない。
傷が消えるわけでもない。
閉じた瞳のまま、しばらく呼吸と身体の状態を確かめる。
「少なくとも、呪いや強い神性の乱れは感じません」
「なら、治るのですか?」
「それを決めるのは私ではありません」
アルゼルはすぐに答えた。
「ですが、呼吸はまだ大きく損なわれていない。まずはハンナの言う通り、身体を立て直すことが必要でしょう」
「十分な食事と休みだね」
ハンナが引き取った。
「それで様子を見る。花を飲ませる話は、その後だ」
「十分な食事など……」
母親が唇を噛む。
持ってきた袋は小さい。食料まで余裕があるようには見えなかった。
「山羊乳を使いましょう」
イデアが言った。
朝に搾った分を、エスタへ頼んで温めてもらう。
村で得られる乳はまだ多くない。
けれど、少年一人へしばらく回す程度なら、量を調整できる。
「代金は?」
母親が尋ねた。
「後で決めます」
「払えるものがありません」
「では、元気になったあとで」
「何を?」
イデアは母親の手を見た。
指先に、細かな擦れ跡がある。
「縫い物ができますの?」
「少しなら」
「セラが布仕事を始めております。働けるようになった時に、できる分だけ手伝ってくださいませ」
「それで、乳を?」
「対価は働けるようになってからです」
「もし、この子が治らなければ?」
「必ず直せると約束はいたしません。ですが、治ったとしても治らなかったとしても、それを理由に代金を増やしたりはいたしません」
イデアの言葉は正直だった。
それでも、母親の目から涙がこぼれた。
「ありがとうございます」
「まだ何もしておりませんわ」
何度も頭を下げようとする母親を止め、イデアは次の患者へ向かった。
そこでも、外から来た者の視線がアルゼルへ向く。
初めは誰もが彼の翼を気にした。
けれど、一人診るたびに同じことが繰り返される。
アルゼルは病人の前へ出ても、奇跡を見せようとはしない。
治せないことは治せないと言う。
分からないことはハンナへ任せる。
水が必要なら運び、身体を起こせない者がいれば支える。
天使だからと偉そうに振る舞うこともなければ、跪くよう求めることもない。
昼前には、最初に胸元で正教会の印を切っていた男が、普通にアルゼルへ水桶を渡していた。
「これ、そっちへ」
「ありがとうございます」
受け取ったあとで、男は自分が何をしたのか気づいたらしい。
一瞬だけ固まる。
アルゼルは何も言わない。
男も、結局何も言わなかった。
そういう小さなことを繰り返しながら、外から来た者たちの警戒も、ほんの少しずつ形を変えていった。
◇
老人の足は、長年積み重なった関節の傷みだった。
月白花を使ったところで、若い頃と同じように歩ける保証はない。
ハンナは温めた布と薬草を使い、痛みを和らげる方法を教えた。
顔を隠していた青年には、頬から首にかけて古い火傷があった。
命に関わるものではない。
けれど、皮膚は強く引きつれ、首を動かすにも痛みがある。
「花が咲けば、元の顔へ戻れるのか」
青年は低い声で尋ねた。
アルゼルは古い傷跡を確かめた。
「完全に元へ戻せるとは言えません。月白花も、過去をなかったことにする花ではありませんから」
「金なら払う」
「払えるかどうかの問題ではございません」
イデアが答える。
「花が咲いた場合、誰へ使うかは、その時点で必要性を見て決めます」
「俺より先に、金のない奴へ使うと?」
「命の危険があれば」
「なら、俺は永遠に後回しか」
青年の声に怒りが混じった。
「顔を焼かれてから、まともに仕事へも就けない。子供には泣かれる。知らない奴は俺を犯罪者みたいに見る」
イデアは口を閉じた。
命に関わらない。
だから後回し。
それだけで済ませるには、青年が失ったものは大きい。
「傷跡を治したいと願うことを、贅沢だとは申しません」
静かに答える。
「あなたにとって、それが必要な治療なのだということも分かります」
「なら」
「ですが、月白花はいつ咲くかも分からない。その事実は変えられません」
青年は拳を握った。
「順番を約束しろ」
「できません」
「金を積んでも?」
「できませんわ」
「領地は借金まみれだと聞いたぞ」
「そのとおりです」
「なら、金貨を選べ!」
周囲が静まり返った。
青年の付き添いが慌てて腕を掴む。
「やめろ」
「放せ!」
「伯爵様へ何て口を――」
「構いません」
イデアは止めた。
「腹を立てるお気持ちは分かります」
「分かるものか」
「ええ。分からない部分のほうが多いでしょう」
顔に大きな傷があることで、どれほどの視線を浴びてきたのか。
どんな仕事を断られたのか。
どんな言葉を投げられたのか。
イデアには想像することしかできない。
「ですから、あなたの苦しみを分かったふりはいたしません」
青年が、初めて正面からイデアを見た。
「ただ、花を使う相手を金だけで選ばない。それだけは変えられません」
「綺麗事だ」
「ええ」
イデアは胸を張った。
「綺麗事を実行するには、金が必要ですわ」
青年が一瞬、言葉を失う。
「ですから、普通の薬も育てます。仕事も増やします。市場も作ります。月白花一輪へ、この土地のすべてを任せるつもりはございません」
「では、俺はどうすればいい」
「傷そのものを消せなくても」
アルゼルが口を開いた。
「引きつれを弱め、動かしやすくする方法なら、ハンナが何か知っているのでは?」
「あるよ」
ハンナが青年のそばへ寄る。
「時間はかかる。何度も薬を塗る。皮膚も少しずつ動かす。面倒だし、一日二日じゃ何も変わらない」
「それでも?」
「今より口や首が動きやすくなる可能性はある」
「本当に?」
「奇跡じゃないよ」
ハンナはきっぱり告げると、一度杖を鳴らした。
「毎日やる治療だ」
青年は長い間黙っていた。
やがて、顔を覆っていた布を少しだけ下ろす。
「……頼む」
「最初から、そう言いな」
◇
昼前になると、教会前へ、一台の豪華な馬車が到着した。
朝から並んでいた病人の荷車とは明らかに違う。
磨かれた車体。扉には商会の紋章。護衛も二人ついている。
中から降りてきたのは、青い上着を着た中年の男だった。
最初にイデアを探し、次にアルゼルを見た。視線が翼のところで止まる。
「……噂は本当でしたか」
「どの噂です?」
アルゼルが尋ねる。
「いえ」
男は商人らしく、すぐ表情を整えた。
「本日の用件とは関係ございません」
「賢明です」
「あなたは褒められておりませんわよ」
イデアが割り込むと、男は改めて姿勢を正した。
「ラズマイト伯爵閣下でいらっしゃいますか」
「ええ」
「北部で鉱山を営むグラッソン商会の代理人、ベリックと申します」
深く一礼する。
「患者の方は?」
「本日は、商談に」
ベリックは革製の小箱を開いた。
中には、金貨が並んでいる。
「月白花の次の一輪を、予約したく参りました」
「予約?」
「金貨十枚を前払いします」
周囲から息を呑む音がした。
エーミルが示した一輪の目安は、金貨六枚。
それを大きく上回る。
「用途は?」
「商会長の奥方が、長く病を患っておられます」
「病名は?」
「詳しくは存じません」
「では、月白花が必要かどうかも分かりませんわ」
「花をいただければ、王都の医師へ任せます」
「いつ咲くかも分かりません」
「一年待っても構いません」
「咲かなければ?」
「前金は返していただきます」
そこまでは、まだ理解できる。
ベリックは続けた。
「条件を加えます」
「伺いますわ」
「次の三輪まで、我々以外へ売らないこと。治療のために使用する場合も、事前に商会長の許可を得ること」
イデアは金貨を見る。
十枚。
食料が買える。
屋根を直せる。
診療所にも手を入れられる。
王家への返済へ、ようやくまとまった額を回せるかもしれない。
月白花は、まだ咲いていない。
いま金を受け取り、将来咲いた花を渡す。
領地にとって、これほど魅力的な話はない。
しかし。
「お断りします」
イデアは答えた。
ベリックが目を瞬く。聞き間違えたのかとでも思ったのか、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
「金額をお聞きになりましたか?」
「金貨十枚ですわね」
「不足ですか。十二枚までなら」
「金額の問題ではありません」
「では?」
「月白花の使い道を、こちらで決められなくなる条件は受け入れられません」
「商会長の奥方も病人です」
「ええ。必要であれば、花が咲いた時に病状を伺います」
「候補として?」
「ほかに命の危険が迫った方がいれば、そちらを優先する可能性もございます」
ベリックの表情が険しくなる。
「金貨十二枚を払う者より?」
「治療の順番は、金貨の枚数だけでは決めません」
「領民を優先すると?」
「出身地だけでも決めません」
「では、誰を?」
「その時点で、最も月白花を必要とする方です」
「誰が判断するのです」
「ハンナとアルゼル。それから、可能であれば信頼できる医師の意見も聞きます」
「伯爵閣下ご自身は?」
「最後の責任は、わたくしが負います」
ベリックはしばらくイデアを見ていた。
やがて、小箱の蓋を閉じる。
「後悔なさいますよ」
「するでしょうね」
「十枚ですよ」
「惜しいですわ」
「ならば――」
「惜しくても、できない契約はございます」
イデアは月白花の畑を見る。
名残惜しさを滲ませながらも、その目にはもう決めた者の静かな強さが宿っていた。
「一度、金貨を優先する条件を受ければ、次も同じになります。目の前で必要とする方がいても、契約相手へ許可を求めることになる」
「契約とはそういうものです」
「だから結ばないのですわ」
ベリックの眉がわずかに動いた。
「商売には向きませんな」
「よく言われます」
「領地経営にも」
「そちらは、これから証明いたしますわ」
ベリックは不満そうだった。
それでも、これ以上は無駄だと判断したらしい。
「商会長へ報告いたします」
「奥様の病状について、詳しい書面をいただけるなら拝見します」
「予約を断った相手を診ると?」
「花の予約は断りました」
イデアは首を傾けた。
「病人を拒んだ覚えはございませんわ」
ベリックは、初めて返す言葉を失った。




