33.天使の翼は、もう隠せません
ハンナの容体が落ち着いた頃には、仮市の客の多くが帰り支度を始めていた。
それでも、小ラズマイトの村人たちはほとんど帰っていない。
理由は明らかだった。
廃教会の前には、外套を腕へ掛けたままのアルゼルが立っている。
白い翼は大きく畳まれていたが、もはや隠してはいなかった。
その前に、妙な距離ができている。
イデアはアルゼルの隣へ立った。
「……どういたしましょう」
「隠すのは、もう難しいでしょうね」
「そうでしょうね」
「一応、先ほどのものは非常によくできた研究道具だと――」
「無理ですわ」
「まだ最後まで言っていません」
「無理です」
アルゼルが少し残念そうに口を閉じる。
その時。
「アルゼル兄ちゃん!」
人垣の後ろから、ピムが飛び出してきた。
真っ先に止めようとしたセラの手をすり抜け、アルゼルの前まで走る。
アルゼルが顔を向けた。
「何でしょう」
「本物だったの!?」
「何がです?」
「羽!」
「ええ」
ピムは目を輝かせた。
「すごい!」
怖がるどころか、今にも翼の周囲を一周しそうな勢いである。
続いてカイと、仲良しのリナまで駆けてきた。
「アルゼル兄ちゃん、本当に天使なの?」
「そうですよ」
「飛べる?」
「飛べます」
「どのくらい?」
「かなり」
「山より高く?」
「必要なら」
「領主様も乗れる?」
「ちょっとお待ちなさい!」
イデアが割って入った。
「なぜ最後だけ、わたくしが乗る話になりますの!?」
「領主様、飛んでみたくないの?」
カイが不思議そうに尋ねる。
「そういう問題ではございません!」
「抱きかかえて飛ぶことはできますよ」
「アルゼルまで加わらないで!」
子供たちは笑った。
いつもと同じように。
翼が増えたところで、彼らにとってアルゼルはアルゼル兄ちゃんなのだろう。
その様子を見ていた老人たちの緊張が、少し緩んだ。
やがて、杖をついた年配の男が前へ出る。
「天使ってのは、年寄りのところへ迎えに来るもんかと思ってたが」
周囲から小さな笑いが起きた。
アルゼルは少し考えた。
「少なくとも、私にその役目はありません」
「ならいい」
「それでよろしいの?」
あまりにも単純な答えに、イデアが思わず尋ねる。
「迎えに来たんじゃないなら、急いで追い返す理由もなかろう」
「ずいぶん簡単ですわね」
「七十まで生きりゃ、翼がある男の一人くらい見ても驚かん」
「先ほど、かなり驚いておりましたでしょう」
「それと受け入れるかは別だ」
老人は笑った。
その横でミラが腕を組み、改めてアルゼルを上から下まで眺める。白い翼はまだ大きく畳まれているものの、もう外套に隠されてはいない。
「……じゃあ、水路の時のあれも?」
「何のことでしょう」
「水が一気に来た時。あなた、妙な力で押さえたでしょう」
ミラは片手を前へ出し、あの日の水勢を思い出すように眉を寄せた。
「魔術みたいなものだって聞いてたけど」
「似たようなもの、と申し上げました」
「似たようなものって、天使の力だったの?」
「厳密には――」
「細かい説明はいい」
ミラが即座に遮った。
「長くなるでしょう」
「……皆さん、最近その判断が早いですね」
セラが隣で小さく笑った。
ミラはもう一度アルゼルを見る。
翼。閉じた瞳。長い金髪。
何もかもが、これまで「変な研究者だから」で済ませていた時より、妙にひとつへ繋がって見えたらしい。
「まあ……」
「何です?」
「言われてみれば、納得はする」
「何がですの?」
イデアが尋ねる。
「顔」
「顔?」
「顔が良すぎる」
セラまで素直に頷いた。
「ああ。それはちょっと思います」
「待ってくださいませ。天使だと受け入れる根拠が顔?」
「普通の研究者ですって言われるより、天使ですって言われた方が今は納得できます」
「ほら」
アルゼルが満足そうに微笑んだ。
「見る目がありますね」
「あなたは喜ばないで!」
「美しさが人間との相互理解へ役立ちました」
「そのような相互理解は求めておりません!」
女性たちの間から笑いが起きる。
最後まで距離を残したのは、男たちだった。
見知った顔の者たちが並ぶ。
畑仕事をしていた者たちも、少し離れたところでアルゼルを見ている。
怖がっているというより、考えている顔だった。
やがてローデンが口を開く。
「ひとつ聞いても?」
「どうぞ」
「今まで、何かするつもりで隠してたんですか」
「いいえ」
「なら、俺は別に」
あっさりした返事だった。
イデアが目を瞬く。
「それだけ?」
「だって」
ローデンは水車の方を見る。
「あの水車を造る時、ずっと一緒に働いてたでしょう」
「主に私は重要な補助を――」
「丸太も運んだ」
「ええ」
「水門も見た」
「ええ」
「夜に見張りもしてくれた」
「そうですね」
「誰かを殴ったことは?」
「ありません」
トーマが横から言った。
「盗賊は?」
「あれは村へ来る前です」
「じゃあ、ここじゃない」
バルクが短く言う。
「翼があっても、今までと何も変わらん」
イデアはしばらく言葉を失った。
「ひとつ聞いていいか」
今度は、オルドが口を開いた。
「どうぞ」
アルゼルが顔を向ける。
オルドは畳まれた白い翼を見上げ、それから慎重に尋ねた。
「あんたは、正教会の天使なのか?」
「いいえ」
アルゼルは迷わず否定した。
周囲に、わずかなざわめきが走る。
「じゃあ」
オルドが眉を寄せる。
「昔、この土地で祀ってた邪教の方か?」
「その呼び方は、人が後からつけた分類です」
アルゼルの声音は穏やかだった。
「何を正しい信仰と呼び、何を邪教と呼ぶかは、時代や国によって変わりますから」
「なら、違うのか?」
「古い信仰に関わる存在か、と尋ねられるなら」
アルゼルは一度、廃教会へ顔を向けた。
「否定はしません」
オルドはしばらく彼を見ていた。
それから、ふっと肩の力を抜く。
「そうか」
それだけだった。
イデアは少し意外に思った。
「それだけですの?」
「正教会へ祈る者なら、この村にもいる」
オルドは静かな声で続けた。
「わしも、祭日には祈る。昔は旅の司祭が来たこともあった」
「では……」
「だが、この辺りは王都ほど教会の教えが身近じゃない」
オルドは村の向こうへ目を向けた。
水が戻ったとはいえ、長く痩せていた畑には、まだ荒れた跡が残っている。人のいなくなった家も、使われなくなった道も、すぐには元へ戻らない。
「何十年も水は減った。畑は痩せた。冬を越せずに村を出る者もいた」
誰も口を挟まない。
「祈ったさ」
オルドは言った。
「雨が降るように。水が戻るように。病人が助かるように。子供が腹を空かせずに済むように」
その声に、怒りはなかった。
ただ、何年も何十年も積み重なった疲れだけがあった。
「けど、誰も来なかった」
イデアの胸が、わずかに痛んだ。
「正教会の神様に祈っても、司祭がこの村を救いに来たわけじゃない。天から水が降ってきたわけでもない。畑が勝手に実ったわけでもない」
オルドは、そこで初めてアルゼルをまっすぐ見た。
「だから、あんたが正教会の天使でも、そうでなくても、そこだけで有り難がる気はない」
「……神も天使も、信じていないということ?」
イデアが尋ねる。
「そこまで大層な話じゃない」
オルドは首を横へ振った。
「祈る者は祈る。信じる者は信じる。わしだって、祭日には今まで通り祈るさ」
皺の深い顔に、ほんの少し苦い笑みが浮かぶ。
「ただ、翼があるからって、それだけで頭を下げるほど、わしらは神様に世話になってこなかったってだけだ」
イデアは黙った。
その言葉が、妙に自分の中へ入ってきた。
分かる気がする、ではなかった。
よく分かった。
自分も、同じだったからだ。
幼い頃から何度祈っても、不幸は止まらなかった。
母を失っても。
父を失っても。
誰に裏切られても。
正教会の神々は、何も答えなかった。
だから最後には、王都の廃教会で、救いではなく死後の魂まで差し出そうとした。
そして、その祈りへ現れたのがアルゼルだった。
それでもイデアは、彼が天使だと知ったから信じたわけではない。
加護を受けたからでもない。
一緒に歩き。
一緒に暮らし。
危険な時には助けられ。
腹立たしいほど口を出され。
それでも、そばにいた。
そうして少しずつ、アルゼルという一人の存在を知ったのだ。
オルドたちも、きっと同じなのだろう。
「それに」
オルドが少しだけ笑った。
「こいつが何者かなら、もう少し知ってる」
「私ですか?」
「閉じた目で桶を当てる。力は馬鹿みたいにある。斧は最初まともに使えんかった」
「最後の情報は必要ですか?」
「山羊に服を食われる」
「それも必要ありませんね」
「領主様が危なければ助ける」
アルゼルが黙った。
オルドは続ける。
「水路でも働いた。水車でも働いた。子供へ乱暴したこともない。村の食い物を盗ったこともない」
「当然でしょう」
「なら、翼が増えたくらいで、急に別人にはならん」
少しの沈黙。
それから、トーマが肩をすくめた。
「むしろ、あの背中の荷物が何だったのか分かってすっきりした」
「そこですの?」
「ずっと気になってた」
「皆様、もっと早くおっしゃいなさい!」
「聞いたら長そうだったから」
イデアは額を押さえた。
ハルム村の女性にも似たようなことを言われた気がする。
隣ではアルゼルが、自分の翼を一枚だけわずかに持ち上げた。
「つまり、今後は隠さなくてよいのですか?」
村人たちが互いを見る。
最初に答えたのはピムだった。
「いいんじゃない?」
「軽いですわね!」
「だって暑そうだったし」
「非常に窮屈でした」
「あなたもすぐ同意しないで!」
アルゼルの翼が、嬉しそうに揺れる。
けれど。
誰も逃げなかった。
石を投げる者も、祈りながら跪く者も。
化け物だと叫ぶ者もいない。
イデアとアルゼルが考えていたより、ずっと簡単に。
小ラズマイトの者たちは、翼のあるアルゼルを受け入れた。
ただし、仮市へ来ていた外の者たちまで同じとは限らない。
ハルム村から来た者の中には胸元で正教会の印を切る者もおり、荷馬車へ戻りながら何度も振り返る者もいた。
噂は広がるだろう。
それは避けられない。
「これから、面倒になるかもしれませんわね」
イデアが小声で言う。
「後悔していますか?」
「ハンナを助けるためでしょう?」
「ええ」
「でしたら、しておりません」
即答すると、アルゼルが微笑んだ。
白い翼が、夕方の光を受けて淡く金色に染まっていた。
◇
ハンナが目を覚ましたのは、夜明け前だった。
「……ひどい顔だね」
最初の言葉が、それだった。
寝台代わりの長椅子の横で、イデアは目を瞬く。
「誰のことですの?」
「あんただよ、伯爵様」
「一晩中、看病していたのですもの」
「領主が婆さん一人に、何をしてるんだか」
「その婆さんが怪我を隠すからですわ!」
思わず声を上げる。
「ご自分が薬草に詳しいからといって、何でも一人で治せると思わないでくださいませ!」
「怒鳴ると頭に響くよ」
「誰のせいですの!」
ハンナは弱々しく笑った。
顔色はまだ悪い。
けれど危険な熱は下がり、腕へ伸びていた赤い筋もほとんど消えている。
「……何をしたんだい」
ハンナが、まだ掠れた声で尋ねた。
「ずいぶん、身体が軽い」
「月白花を使いましたわ」
「月白花?」
「ええ。昨日、最初の一輪が咲きましたの」
ハンナはしばらく考えるように目を細めた。
「……あんたたちが、大事そうに畑へ植えてた、あの花だね」
「そうですわ」
「あれを、あたしに?」
「そうですわ」
ハンナの表情が止まった。
「売れば、金になったろうに」
「皆様、同じことをおっしゃいますのね」
「借金があるんだろ」
「ございます」
「食料も足りない」
「ええ」
「それでも使ったのかい」
「もう使いました。返せと言われても無理ですわ」
ハンナはしばらく黙った。
やがて、皺のある手が伸びてきて、イデアの手を取った。
「馬鹿な領主だね」
「助けた相手から言われるとは思いませんでしたわ」
「本当に、馬鹿だ」
老女の目に涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
イデアは、そっとその手を握り返した。
「お礼は、元気になってから働いて返してくださいませ」
「病み上がりの老人へ容赦がないね」
「借金がございますので」
ハンナは泣きながら笑った。
「なら、薬草を教えてやるよ」
「薬草?」
「この辺りで育つものさ。熱に使うもの。腹に使うもの。傷へ使うもの。扱いを間違えりゃ毒になるものもある」
ハンナは壁の向こうを指した。
「家の床下に、種をしまってある。昔は村で育ててたんだよ。水がなくなってから、植えられなくなった」
「どのくらい?」
「十種類くらいかね」
イデアの目が見開かれる。
「なぜ今まで黙っていたのです?」
「育てられない種を見せても、腹の足しにはならないだろ」
「水は戻りましたわ」
「ああ」
ハンナは頷いた。
「だから今度は、育てられる」
薬草が育てば、村の治療に使える。
余れば加工できる。
月白花ほど高価でなくとも、安定して育てられる薬草なら、領地の新しい仕事になる。
「それから、この教会の横の部屋」
ハンナが続けた。
「屋根を直せば、病人を寝かせる場所にできる」
「診療所?」
「立派なもんじゃないさ」
「最初は、それで十分です」
水車も。市場も。
最初は小さかった。
「では、元気になったら薬草畑と診療所をお願いしますわ」
「休ませる気があるのかい?」
「治るまでは休んでくださいませ!」
◇
その朝。
ハンナが再び眠りについたのを見届けてから、イデアは外の花壇へ向かった。
最初の株は、青みを帯びた葉を地面へ伏せている。
花も茎も摘み取ったため、細い根元しか残っていなかった。
「枯れましたの?」
「まだ分かりません」
隣へ屈んだアルゼルは、外套を着ていなかった。
もう村人の前で翼を隠す必要はない。
大きな白い翼が朝の光を受け、背中でゆったりと畳まれている。
「神性は弱いですが、完全には消えていません」
「残りの種は?」
九粒を植えた場所には、まだ何も出ていない。
「待つしかありませんね」
「そう」
イデアは土へ触れた。
少し寂しい。
正しい判断をしたと思っている。
それでも、最初の花が消えたことは惜しかった。
「後悔していますか?」
アルゼルが尋ねる。
「金貨のことなら、少し」
「ハンナへ使ったことは?」
「しておりません」
「即答ですね」
「昨日も申し上げたでしょう」
「ええ」
アルゼルは残った株へ顔を向ける。
「あなたは、自分のことになると価値を低く見積もるのに、他人の命だけは高く買いますね」
「何ですの、急に」
「事実です」
「ハンナは村に必要な方です」
「必要でない者なら?」
「助けますわ」
答えてから、イデアは少し考える。
「助けられるなら」
「やはり」
アルゼルが小さく息を吐いた。
「何が不満なの?」
「あなたが、自分を同じように扱わないことです」
「わたくしは元気ですわ」
「昨夜、一睡もしていないのでしょう」
「ハンナの容体が心配でしたもの」
「朝食は?」
「これから」
「食事監督官として確認します」
「まだその役職を続けておりますの?」
「一生必要かもしれませんね」
「大げさですわ!」
「あなたを見ていると、そうは思えません」
アルゼルが立ち上がり、イデアへ手を差し出す。
「行きましょう」
「どちらへ?」
「朝食です」
「先に帳簿へ――」
「食べてから」
「ですが」
「イデア」
細く閉じた瞳のまま、彼は微笑んでいる。
穏やかな表情なのに、なぜか逆らわせない響きがあった。
「……分かりましたわ」
イデアは差し出された手を取る。大きく、暖かな温もりが、イデアの手を包み込んだ。
「今日は素直ですね」
「眠いのです」
「食べたら眠ってください」
「仕事が」
「私が見ています」
「帳簿も?」
「ダリオがいます」
「水車は?」
「ローデンが」
「山羊は?」
「ユーイとエスタがいます」
「市場の片づけは?」
「村人たちが」
アルゼルはイデアの手を引きながら、ひとつずつ答えた。
「領地は、あなた一人で動いているのではありません」
「分かっております」
「本当に?」
「……いま学んでおりますわ」
イデアは、ほんの少しだけ彼の手を握り返した。
こうして任せてもいいのだと、まだ上手くは思えない。
それでも、すべてを自分一人で抱えるより、この手を借りる方がずっと安心できることだけは、もう分かり始めていた。
◇
昼過ぎ。
十分に食べさせられ、数時間眠ったイデアが礼拝堂へ出ると、エーミルが待っていた。
「まだいらしたの?」
「花の商談が終わっておりませんので」
「花はもうございませんわ」
「拝見しました」
イデアは少し身構えた。
「契約前でしたから、違約金はございませんでしょう?」
「もちろんです」
「では?」
エーミルは、朝に持ってきた硝子瓶の箱を指した。
「こちらを置いていきます」
「代金は?」
「次の取引時に」
「何を取引するの?」
「薬草です」
「まだ種すら見ておりませんわよ」
「ですが、育てるのでしょう?」
話が早い。
「最初に商談する機会は、すでにいただいております」
「抜け目がございませんわね」
「商人ですから」
エーミルは微笑んだ。
「それに、月白花を売らなかったことで、小ラズマイトの価値が下がったとは思っておりません」
「花はなくなりましたけれど」
「効能を確かめる機会が生まれました」
「ハンナを商品見本のように扱わないでくださる?」
「そのつもりはありません」
エーミルの表情が真面目になる。
「高価な薬ほど、買う者は不安を抱きます。本物なのか。効くのか。売り手を信用できるのか」
彼は廃教会の花壇がある方角へ目を向けた。
「伯爵閣下が最初の一輪を金貨ではなく病人へ使った。この話も、おそらく広がるでしょう」
「あなたが広めるおつもりで?」
「聞かれれば、事実を」
「わたくしの失敗談ばかり広める商人よりは、ましですわね」
「隕石や泥の話も事実ですが」
「そちらは広めなくて結構です!」
エーミルが笑った。
「次に花が咲いたら、改めて商談を。その時は、今回より高い価格を提示できるかもしれません」
「なぜ?」
「使い道を誤らない領主だと分かりましたから」
「商売人としては、甘いと思いませんの?」
「甘い方は、花を無料で全員へ配ります」
「できるほど咲けば、少しは配りますわ」
「残りは売る?」
「もちろん」
「それでこそ、よい取引相手です」
◇
夕方。
月白花の花壇へ、村人たちが小さな石を持ってきた。
ハンナを助けた花への礼だという。
デガンが削った、淡い銀色の石。
子供が拾った白い小石。
山羊の形に見えなくもない、歪な石。
それらが、花のあった株を囲むように並べられていく。
「フィルネア様、ありがとう」
誰かが口にした。
次の者も。また次の者も。
昨日まで、その名を知る者はほとんどいなかった。
正教会の神とは違う。
教義も、祈り方も、祭日も知らない。
ただ、この土地で育った花によって、ハンナが助かった。
それだけだった。
アルゼルは、少し離れた場所から黙って見ている。
白い翼も、もう隠してはいない。
「これも信仰ですの?」
イデアが尋ねる。
「ええ」
「皆様、教義も儀式も知りませんわ」
「信仰とは、知識の量だけで決まるものではありません」
アルゼルは穏やかに答えた。
「そこにいると知り、受け取ったものへ感謝する。最初は、それで十分です」
銀色の石の中央。
花を摘み取った株が、淡く光った。
「アルゼル」
「分かっています」
伏せていた葉の間から、新しい芽が伸びている。
ひとつ。
その隣に、もうひとつ。
花を咲かせた株は、枯れていなかった。
「ふたつに増えておりますわ」
「姉上は、よほど今回の使い道を気に入ったのでしょう」
「では、最初の花は失われていない?」
「花そのものは戻りません」
アルゼルはふたつの芽へ顔を向ける。
「ですが、次へつながりました」
イデアも、生まれたばかりの小さな芽を見た。
金貨にはならなかった。
借金も減らなかった。
むしろ一晩の看病で、仕事は遅れた。
それでも、ハンナは生きている。
十種類ほどの薬草の種が見つかった。
診療所を作る話が始まった。
エーミルとの次の取引もつながった。
フィルネアという名を呼ぶ者まで増えた。
「今回の収支は?」
アルゼルが尋ねる。
「金貨六枚の損失ですわ」
「厳しいですね」
「ですが」
イデアは小さく笑った。
「それ以上の利益が出る予定です」
「予定?」
「薬草畑と、診療所と、次の月白花で」
「欲張りですね」
「領主ですもの」
その時。
背後から、がさりと音がした。
二人が振り返る。
灰色の山羊が仮の柵へ頭を突っ込み、月白花の花壇へ鼻先を伸ばしていた。
「お待ちなさい!」
イデアが駆け出す。
驚いた山羊が柵を押し倒した。
「アルゼル、捕まえて!」
「私が?」
「高位天使でしょう!」
「山羊の捕獲は権能に含まれていません!」
「食べられてからでは遅いですわ!」
アルゼルが白い翼を大きく広げる。
もう、隠す必要はない。
山羊は真っ白な翼を見るなり方向を変え――なぜかイデアへ向かって突進した。
「どうして、またこちらへ!?」
「親しまれていますね」
「笑っていないで助けなさい!」
夕暮れの空へ、イデアの声が響く。
最初の月白花は、借金を一枚の銅貨分も減らさなかった。
けれどその一輪は、一人の命と、十種類の薬草と、ふたつの新しい芽を残した。
そして、小ラズマイトにはもうひとつ。
外套の下へ隠されていた白い翼が、当たり前に広がるようになった。
帳簿へ記すには、少々複雑な利益だった。
読んでくださりありがとうございます。
少しでも面白さを感じていただけたら嬉しいです。




