32.最初の月白花は、借金を減らしません
小ラズマイトへ山羊が加わってから、半月近くが経った。
十一頭いた山羊は、いまも十一頭いる。
所有者を名乗り出た者はいない。
代わりに、一頭が柵を越えた。
二頭が縄を噛み切った。
三頭が廃教会の扉を角で押し開けた。
そして大きな雄山羊は、アルゼルの白い衣を二度食べようとした。
「なぜ私の服だけを狙うのでしょう」
朝の庭で、アルゼルは袖口に残った歯形を眺めていた。
「噛み応えがよさそうなのでは?」
「神域の織物ですよ」
「山羊に価値は分かりませんもの」
「見る目のない山羊ですね」
「あなた、その言葉を人間にも馬にも鳥にも使っておりますわね」
アルゼルは答えなかった。
彼にとって、自分の美貌を正しく評価しない存在は、すべて見る目がないらしい。
イデアは呆れながら、廃教会脇に作った小さな花壇へ屈み込んだ。
そこには、ドワーフたちから譲られた銀色の種が植えられている。けれど、種を蒔いてからというもの、土の表面には長い間なんの変化もなかった。
毎朝確認し、水を与え、土の乾き具合を確かめる。
アルゼルも、この土地に残る神性の流れを整えている。
山羊の糞から作った肥料も、根を傷めないよう離れた土へほんの少しだけ混ぜた。
それでも、土は静かなままだった。
「今日はどうでしょうか」
「先ほど見た時には、まだ」
「先ほど?」
「夜明け前に確認しました」
イデアは振り返った。
「あなたも毎日見ておりますの?」
「神性の流れを確かめる必要がありますから」
「わたくしには、急かしても育たないとおっしゃったでしょう」
「私は急かしているのではありません。見守っています」
「同じではなくて?」
「違います」
アルゼルは平然と答える。
「私は落ち着いていますので」
その時だった。
土の表面で、小さな光が瞬いた。
イデアは動きを止める。
「アルゼル」
「ええ」
二人はほとんど同時にしゃがみ込んだ。
黒い土の隙間から、銀色の葉が顔を出している。
一枚。
その隣に、もう一枚。
細く透き通るような茎の先には、硬く閉じた小さな蕾までついていた。
「芽どころか、蕾まで」
イデアは息を潜めた。
「昨日はございませんでしたわよね?」
「ええ」
「一晩で?」
「月白花は、条件が整うまで地中で力を蓄えるようです。芽を出すと決めれば、その後は早いのでしょう」
「今日にも咲きますの?」
「本来なら、日が沈んで月の光を受けてからでしょうね」
最初の月白花。
十粒譲られた種のうち、最初に芽吹いた一株だった。
イデアは思わず指を伸ばし、触れる直前で止める。
「触れても?」
「構いません。ただし、葉を傷つけないように」
指先で銀色の葉へ触れた。
冷たいと思っていた。
けれど、葉には人肌に似た微かな温かさがある。
「生きておりますのね」
「花ですから」
「分かっておりますわ」
それでも、不思議だった。
借金を返す手段のひとつになるかもしれないと持ち帰った種。
ドワーフたちがフィルネアの花と呼び、病に用いてきたもの。
いままでは帳簿へ値段を書くことさえできなかったものが、確かに目の前の土から生えている。
「売れば、いくらになるのかしら」
思わず呟くと、アルゼルがこちらへ顔を向けた。
「最初に考えることが、それですか?」
「借金がございますので」
「病人へ使うという発想は?」
「必要な方がいれば、もちろん使いますわ。ですが、病人がいない時に咲いたものまで眺めているだけでは、誰の役にも立ちませんでしょう?」
「正直ですね」
「神聖だからと箱へしまい込んでいては、薬にも金にもなりませんもの」
イデアは月白花の周囲へ、小さな石を並べ始めた。
人や山羊が踏み込まないための印である。
「特に山羊を近づけてはなりませんわ」
「食べた場合は——」
「どうなりますの?」
「分かりません。三日ほど銀色に光るかもしれませんね」
「絶対に入れないようになさい!」
近くの囲いから、まるで聞こえているとでも言いたげに山羊が鳴いた。
◇
その日は、水車と仮市を開く日だった。
前回から五日。
朝から近隣の村の荷車が集まり、廃教会前の空き地には卵、塩、布、豆、干し魚、木工品が並んでいる。
先日見つかった古い市場の標石については、まだ王領監理局から正式な回答がない。そのため、市はあくまで水車利用日に限って認める一時的な交換場所という扱いだった。
それでも、出店者は前回より増えている。
「パン三つと、山羊乳一杯!」
「干し魚と交換なら、豆をもう少し増やしておくれ!」
「この鋏を直せる者はいないか!」
人の声。
水車の回る音。
荷車を引く馬の鳴き声。
少し離れた囲いからは、山羊まで負けじと鳴いている。
小ラズマイトは、ほんの半月ほど前までとは別の土地のようだった。
「伯爵閣下」
声をかけられ、イデアが振り返る。
荷馬車の横で帽子を上げたのは、エーミルだった。
今回は大きな隊商ではなく、一台だけで来ている。
「またいらしたの?」
「最初の商談機会をいただいておりますので」
「まだ売るものはございませんわよ」
「今日は普通の商売もございます」
エーミルが荷台を示した。
「針、糸、塩。それから、小さな硝子瓶を少々持ってまいりました」
「硝子瓶?」
木箱の蓋を開くと、親指ほどの小瓶が布に包まれて並んでいる。
「薬瓶です。いずれ薬草や加工品を扱うなら、容器も必要になるでしょう」
「先走りすぎではなくて?」
「商人ですので」
エーミルの視線が、教会の庭へ向く。
「それで。例の薬草は?」
「情報が早すぎませんこと?」
「銀色の芽が出たと、子供たちが話していました」
「子供たち……」
口止めをしていなかった。
そもそも、まだ秘密にするとも決めていない。
「見るだけですわよ」
「もちろんです」
イデアはエーミルを花壇へ案内した。
アルゼルもついてくる。
銀色の蕾を目にした途端、エーミルのいつもの商売人らしい笑みが薄れた。
「……本物ですね」
「分かりますの?」
「実物を見るのは初めてですが、古い薬商の記録に似たものがあります。月白花という名で、ごく稀に王都へ持ち込まれていたそうです」
「価格は?」
即座に尋ねたイデアへ、アルゼルが顔を向けた。
「やはりそこですか」
「借金がございますので!」
エーミルは蕾へ触れず、少し離れたところから観察した。
「状態によりますが、完全に開花した一輪なら……王都で金貨六枚前後でしょうか。競売になれば、それ以上も」
「六枚」
イデアは無意識に繰り返した。
金貨六枚。
いまの小ラズマイトなら、かなりの食料を追加で買える。
エーミルへの支払いも進む。
屋根の修理材。
薬。
冬支度。
余れば、ごくわずかでも借金返済へ回せる。
「もちろん、薬としての効果を正式に確認できれば、価値はさらに上がるでしょう」
「でしたら、あなたが買うの?」
「本日、金貨六枚すべてを持ってきているわけではありません」
「商人なのに?」
「金貨六枚を常に持ち歩けるほど、私も裕福ではありません」
「意外ですわね」
「少し傷つきます」
エーミルは笑った。
「二枚なら本日お支払いできます。残りは私が王都へ持ち込み、売却した後に」
「手数料は?」
「二割」
「高いですわ。一割で」
エーミルがわずかに眉を上げた。
「保存容器、護衛、鑑定、王都までの運搬があります。一割五分」
「一割三分」
「……一割四分」
「それなら――」
「待ってください」
返事をするより先に、アルゼルが二人の間へ入った。
イデアは伸ばしかけていた手を止める。
「何ですの?」
「まだ花は咲いていません」
「咲いたら、という条件ですわ」
「だからこそです。開花して、状態を確かめてから決めても遅くはないでしょう」
「ですが、先に条件を決めておく方が――」
「イデア」
アルゼルの声が、わずかに低くなった。
瞳はいつも通り閉じられている。
表情も穏やかなままだ。
それでも、何かを警戒していることだけは分かった。
「何か問題がございますの?」
「まだ分かりません」
「では、なぜ止めるの?」
アルゼルは一度エーミルへ意識を向け、それからイデアの方へわずかに身を寄せた。
商人には届かない程度まで声を落とす。
「……花の中の神性が、少し揺れています」
「枯れそうなの?」
イデアもつられるように声を潜める。
「いいえ。何かを待っているような」
「月を?」
「それだけではない気がします」
少し離れた位置にいるエーミルには、話の内容までは聞き取れない。
だが、交渉の最中まで迷いなく数字を返していたイデアが黙り、アルゼルが彼女だけに聞こえる声で何かを告げた。その二人の視線が、同時に銀色の蕾へ落ちる。
エーミルはそれだけで、いま契約を急ぐ場面ではないと判断したらしい。
差し出しかけていた手を下ろす。
「では、商談は開花を確認してからにいたしましょう」
「よろしいの?」
「高価な品ほど、急いで買うべきではありませんから」
「商人らしいですわね」
「先ほどまで値切っていた方が言いますか?」
◇
昼を過ぎた頃。
初夏の日差しは朝より強くなり、廃教会前の仮市には、荷車の幌や簡単に張られた布の日除けがいくつも並んでいた。
水車の回る音に混じって、商人の呼び声や値段を交わす声が絶えず、焼いたパンと干し魚、山羊乳の匂いまで風に乗って流れてくる。
午前中より人の流れは落ち着いたものの、市そのものの熱気はまだ残っていた。水車を待つ者は木陰や荷車のそばで休み、買い物を終えた者は知り合いと立ち話をし、子供たちは大人の間を縫うように行き来している。
イデアも仮机の帳簿へ売り手と品物を書き込みながら、ときどき顔を上げて人の流れを確かめていた。
その、賑やかなざわめきを切り裂くように。
仮市の中央から、悲鳴に近い声が上がった。
「ハンナ婆さん!」
イデアは帳簿から顔を上げた。
人の輪の向こうで、老女ハンナが地面へ倒れている。
村で薬草の知識を持ち、長い間、病人や怪我人を診てきた女性だ。
今日も市場へ来た者の擦り傷や腹痛を見て回っていた。
「道を空けて!」
イデアは人をかき分け、ハンナのそばへ膝をついた。
顔は赤く、呼吸が浅い。
「ハンナ。聞こえますの?」
返事はない。
触れた額だけ、焼けるように熱かった。
「いつから具合が悪かったの?」
近くにいたミラが、青ざめた顔で答える。
「昨日、少し寒気がするとは言ってました。でも、いつものことだって」
「怪我は?」
「分かりません」
アルゼルもハンナの隣へ屈み込み、片手をかざした。
何かが光ることも、傷が塞がることもない。傍から見れば、ただ容体を確かめるために手を添えているようにしか見えなかった。
けれど、イデアには分かった。
先ほどまで浅く震えていたハンナの呼吸が、ほんのわずかに落ち着いている。目には見えない穏やかな温もりが、弱った身体を内側から支えている。
治しているのではない。
病を消しているのでもない。
ただ、ハンナ自身の身体が病へ抗うための時間を、少しだけつないでいる。
しばらくその状態を確かめていたアルゼルの表情が、次第に険しくなった。
「右手を見せてください」
イデアがハンナの右手を取る。
掌に布が巻かれていた。
外すと、親指の付け根に深い傷がある。
周囲は赤黒く腫れ、その腫れから腕へ向かって細い赤い筋が伸びていた。
「いつの傷ですの?」
ミラが息を呑む。
「牧草地の柵を直した時かも。錆びた釘で切ったって」
「なぜ黙って……」
「自分で薬草を塗ってたんです」
ハンナは、ほかの者の病には気づく。
けれど、自分のことだけは後回しにしたらしい。
アルゼルは静かに言った。
「傷から入った毒が、身体へ回り始めています」
その言葉に、イデアは唇を噛んだ。
アルゼルがいまハンナの身体を支えていることは分かっている。
けれど、それは治療ではない。彼に病そのものを消す力がないことも、イデアはすでに知っていた。
「このまま支えていれば、どのくらい持ちますの?」
「正確には分かりません。ただ、悪化を遅らせることはできます」
「普通の薬草では?」
「ハンナが普段使っているものを煎じれば、何もしないよりはよいでしょう。ですが、この状態では、それだけで間に合うかどうか」
ハンナの浅い呼吸を見つめながら、イデアは次の言葉を急いだ。
「ほかに方法は?」
アルゼルの閉じた瞳が、廃教会の方角へ向く。
銀色の蕾。
イデアの喉が、わずかに鳴った。
「……月白花」
「ええ」
「まだ咲いておりませんわ」
「私が神性を与えれば、本来の時刻より早く咲かせることはできると思います」
「では、すぐに——」
「ただし」
アルゼルは静かに続けた。
「無理に開花させれば、この株は蓄えていた力を使い果たすかもしれません」
「……枯れるの?」
「可能性があります」
「どの程度使えば?」
「ハンナの薬を助けるためなら、今咲く一輪をすべて使った方がよいでしょう。中途半端に残して効果が足りなければ、花も人も失います」
金貨六枚。
食料。
屋根。
薬。
借金。
先ほどまで頭の中で弾いていた数字が、次々と浮かぶ。
最初の一輪。
残る九粒が芽吹く保証はない。
これを使えば、金貨を得る手段はなくなる。
「伯爵閣下」
エーミルの声がした。
少し離れた場所で話を聞いていたらしい。
「私との商談は、まだ成立していません」
「ですが」
「花の使い道を決めるのは、あなたです」
商人なら、売ってほしいはずだ。
それでも彼は、選択を迫らなかった。
「イデア」
アルゼルが呼ぶ。
「決めてください」
ハンナの呼吸が、さらに浅くなった。
迷っている時間はない。
「月白花を使います」
イデアは立ち上がった。
「全部ですわ」
◇
銀色の蕾の前へ、アルゼルが片膝をついた。
仮市にいた者たちも、少し離れて成り行きを見守っている。
イデアがハンナの薬草箱を抱えて戻った時、アルゼルは自分の肩を覆う大きな外套へ手をかけていた。
「アルゼル?」
「ここから先は、隠したままでは難しいです」
その意味を理解して、イデアは一瞬だけ周囲を見た。
仮市には、小ラズマイトの村人だけではない。近隣の村から来た者も、商人もいる。ここで翼を見せれば、もう遠縁の研究者という説明では通らないだろう。
「……よろしいの?」
「あなたこそ」
アルゼルは静かに返した。
「私が何者か知られれば、あなたにも話が及びます。噂も広がるでしょう」
「そうでしょうね」
「隠しておきたいですか?」
イデアは横たわるハンナへ目を向けた。
浅い呼吸。
熱に浮かされた顔。
それから、花壇にある銀色の蕾を見る。
「考えている時間の方が惜しいですわ」
アルゼルの口元が、ほんの少し緩んだ。
「同感です」
二人とも、それ以上は言わなかった。
この先に面倒が待っていることも、いままで通りではいられなくなることも分かっている。
それでも、どちらにも躊躇はなかった。
アルゼルが留め具を外す。
大きな外套が、ゆっくりと肩から落ちた。
その下で窮屈に畳まれていたものが、解放される。
白い翼。
大きく、柔らかく弧を描く二枚の翼が、アルゼルの背中からゆっくりと左右へ広がった。
仮市から音が消えた。
水車だけが、変わらず回っている。
「……翼」
誰かが呟いた。
「本物……?」
「まさか、天使?」
「目を閉じた変人ではなかったのか」
「最後の方、聞こえていますよ」
アルゼルが静かに言った。
こんな時でも、そこだけは訂正したいらしい。
「そちらを気になさる場合ではないでしょう!」
「私の名誉も大切です」
「あとになさい!」
イデアはハンナの薬草箱から、傷や熱に使うための乾燥薬草を取り出した。
ハンナ自身が分類していたものだ。
苦みの強い葉。
熱を和らげる樹皮。
傷が膿むのを防ぐために使うという根。
すぐに湯を沸かすようミラへ頼む。
その間に、アルゼルは月白花へ片手を向けた。
そしてもう一方の手を、イデアへ差し出す。
「私の手へ」
「わたくしも?」
「姉上の花です」
周囲のざわめきも気にせず、アルゼルは続けた。
「誰のために咲かせるのか、あなたから伝えてください」
イデアはアルゼルの手へ、自分の手を重ねた。
温かい。
彼の指が、逃がさないようにそっと握る。
白い翼の羽根が、風もないのに微かに揺れた。
けれど、その瞳は閉じられたままだった。
「名前を」
「……フィルネア様」
イデアは銀色の蕾を見つめた。
「あなたのお花を、お借りします」
蕾が、かすかに震える。
「金貨に換えるためではなく」
ほんの一瞬だけ、胸が痛んだ。
正直に言えば、金貨は欲しい。
喉から手が出るほどに。
「病に苦しむ方の命を、つなぐために」
アルゼルの翼へ、淡い金色の光が走った。
閉じた瞳は、そのまま。
神性だけが、イデアと重ねた手を通り、月白花の周囲へ静かに広がっていく。
同時に。
銀色の光が、土の下から立ち昇った。
蕾がゆっくりと開いていく。
一枚。
また一枚。
月光を固めたような花弁。
中心には、青い宝石に似た光が揺れている。
昼だというのに、月白花の周囲だけが夜の月明かりに包まれたようだった。
「咲きましたわ」
「ええ」
アルゼルの声は低い。
イデアは花から彼へ顔を向ける。
瞳は閉じられている。
いつもと同じはずなのに、重ねた手へ伝わる温度だけが、妙に強く感じられた。
「何ですの?」
「いいえ」
アルゼルは穏やかに微笑んだ。
「あなたは、本当に迷いませんね」
「迷いましたわ」
「そうは見えませんでした」
「金貨六枚ですのよ?」
イデアは花を見る。
「いまも少し惜しいです」
「そこは正直ですね」
「ですが……人を治すために使える花を売って、その方を見殺しにしたなら、何を黒字と呼べばよいのか分かりませんもの」
アルゼルは何も言わなかった。
ただ、イデアの手を握る指へ、ほんの少しだけ力が入った。
◇
ハンナの薬は、普段使っている薬草を煎じるところから作った。
苦い葉と樹皮を湯へ入れ、十分に成分が出たところへ、月白花を少しずつ加えていく。
花弁。
青い葉。
細い茎。
アルゼルは薬そのものを治癒の力へ変えたわけではない。ただ、薬草と月白花の力が乱れないよう、そばで静かに神性を整えていた。
最初の一杯を飲ませても、すぐには変化がなかった。
二杯目。
ハンナの身体が大きく震え、額から汗が滲み始める。
「大丈夫ですわ」
意識がないと分かっていても、イデアは声をかけ続けた。
「あなたがいなくなったら、この村の病人を誰が叱るのです」
三杯目。
荒かった呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
「アルゼル」
「効いています」
「もう一杯?」
「残りを」
最後の薬が、ハンナの口へ入る。
木の器の底には、何も残らなかった。
金貨六枚分。
借金返済へ回せたかもしれない花。
そのすべてが、一人の老女のために使われた。
けれど熱はすぐには下がりきらない。
薬を飲ませたからといって、病が一瞬で消えるわけではなかった。
イデアたちは交代で濡らした布を替え、水を飲ませ、呼吸を確かめた。
日が傾く頃。
腕へ伸びていた赤い筋が、ようやく薄くなり始めた。
そこで初めて、アルゼルが言った。
「峠は越えつつあります」
イデアは長く息を吐いた。




