閑話 領主様と研究者は、本人たち以外には分かりやすい
小ラズマイトの廃教会には、以前よりずっと人の気配が増えていた。
領主であるイデアが寝起きする小部屋がひとつ。帳簿や書類を置き、日中は執務室代わりに使っている部屋がひとつ。そして礼拝堂の一角には、ローデンたち七人の仮住まいがある。
最初は布を吊るして区切っただけだった場所も、二週間近く暮らすうちに少しずつ形を変えていた。
水車大工のローデンが倒木から取った板材を組み、セラが持っていた古布を縫い合わせて目隠しを作り、石工のデガンは杖を脇へ置いて、歩くたびにつまずきそうだった石床の欠けを埋めた。古い棚は荷物置きへ変わり、余った木材からは簡素な寝台まで作られている。
立派な家とは、とても呼べない。
けれど、雨風を避け、夜に安心して身体を横たえるには十分だった。
少なくとも、二歳のリルが冷たい石床へ毛布を敷いて眠る必要はなくなっている。
そんな廃教会で、ある夜。
ピムは喉の渇きで目を覚ました。
隣では母のセラがリルを抱くようにして眠り、その向こうではローデンが寝息を立てている。昼間は水車を見ていることの多い父も、さすがに夜はよく眠っていた。
礼拝堂の中は暗い。
仕切りの向こうから、古い窓を通した月明かりだけが細く差し込み、石床へ青白い筋を作っている。
ピムは父親を起こさないよう、そっと寝台から下りた。
水差しは礼拝堂の隅だ。
足音を立てないよう布の仕切りをめくり、冷たい石床を慎重に歩いていく。
そして。
「……?」
足が止まった。
祭壇の近くに、アルゼルがいる。
昼間はいつも身につけている大きな外套を脱いでいた。
それだけなら、別におかしくない。
不思議なのは、その背中だった。
白いものが、ふたつ。
アルゼルの身体よりもずっと大きな何かが、月明かりの中でゆっくりと左右へ広がっている。
片方が伸びる。
重なり合っていた白い羽根が、一枚ずつ空気を含むようにほどけていった。
続いて、もう片方。
長い間狭いところへ押し込められていた身体を伸ばすように大きく開き、最後に、ふるりと羽根の先が震えた。
「アルゼル兄ちゃん」
翼が止まった。
アルゼルも止まった。
普段なら何を聞かれてもすぐ答える男が、ほんの一瞬だけ完全に沈黙した。
「……はい」
「それ、なに?」
ピムは遠慮なく指を差した。
アルゼルは閉じた瞳のまま、自分の背後へ少しだけ顔を向ける。どう答えるべきか考えているらしく、その間にも大きな白いものは、誤魔化しようもなく彼の背中へつながっていた。
「羽毛です」
「見れば分かるよ」
「非常に上質な羽毛です」
「背中から生えてる」
「……」
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
アルゼルは何事もなかったような顔で、ゆっくりと翼を畳み始めた。
「夜中ですから、見間違いでは?」
「動いたよ」
「風でしょう」
「窓、閉まってるよ」
「……よく見ていますね」
褒められた。
ピムは少し胸を張った。
「本物?」
「何のことでしょう」
「羽」
「羽毛なのは本物ですよ」
「そうじゃなくて」
七歳児は誤魔化されなかった。
アルゼルはしばらくピムへ顔を向けていたが、やがて諦めたように人差し指を口元へ当てた。
「今は、秘密にしていただけますか?」
「どうして?」
「説明すると、イデアが非常に疲れます」
「領主様が?」
「ええ」
ピムは真剣に考えた。
領主様はいつも忙しい。
朝から帳簿をつけて。
畑へ行って。
水車を見て。
誰かが困っていれば話を聞いて。
最近では仮市の日になると、外の村から来た者の相手までしている。
そのうえ、アルゼル兄ちゃんとよく言い争っている。
これ以上疲れさせるのは、たしかによくない。
「分かった」
「ありがとうございます」
「でも、触っていい?」
「それは別問題です」
「駄目なの?」
「起きている時に、改めて交渉しましょう」
「分かった」
ピムは素直に頷いた。
水を飲み、寝床へ戻る。その途中で一度だけ振り返ると、アルゼルはまだこちらを向いていた。
背後では、先ほどまで大きく広がっていた白いものが、今度は彼の身体へ沿うようにきれいに畳まれている。
やっぱり、動いていた。
そう思いながらも、ピムは約束通り何も言わず、布の仕切りの向こうへ戻った。
◇
翌朝。
「母ちゃん」
「何?」
セラは寝起きで跳ねたリルの髪を指先で梳き、持ち前の器用さで手早く紐を結びながら答えた。縫い物や布仕事を得意とするだけあって、二歳児が首を振ろうが逃げようが、その手は慣れたものである。
「昨日、アルゼル兄ちゃんの背中から――」
こほん、と。
少し離れた場所から、妙に上品な咳払いが聞こえた。
ピムはそちらを見る。
アルゼルが立っていた。
いつもの大きな外套姿。
細く閉じられた瞳。
何事もなかったような穏やかな微笑み。
そして、ほんの少しだけ首を横へ振っている。
「……何でもない」
「何でもない?」
「うん」
アルゼルが満足そうに頷く。
セラは息子を見る。
次にアルゼルを見る。
もう一度、息子を見る。
子供二人を育てる母親の目は、そう簡単には誤魔化されない。
「何を隠してるの?」
「何も」
「本当に?」
「うん」
「アルゼルさん」
「何でしょう」
「ピムへ何か言いました?」
「子供との信頼関係については、お答えを控えさせていただきます」
セラは、リルの頭へ最後の紐を結んだまま数秒黙った。
アルゼルも微笑んだまま動かない。
「……まあ、いいです」
聞けば長くなる。
そう判断して、セラは追及をやめた。
小ラズマイトの住民たちは、アルゼルと付き合ううちに、その判断だけはずいぶん早くできるようになっていた。
◇
その日の夕方。
仕事を終えた者たちが、廃教会の前で簡単な夕食を取っていた。
薄い豆の煮込み。
焼いた平たいパン。
そして、最近ようやく少しずつ口にできるようになった山羊乳。
以前なら食事が終わればそれぞれ家へ戻っていた者たちも、最近では少しだけその場へ残るようになっていた。
水が戻った。
水車ができた。
外から人まで来るようになった。
小ラズマイトには、話すことが増えたのだ。
「領主様、今日も水車にいたな」
トーマがパンをちぎりながら言った。
若く、身軽で、普段は山や林へ入って獲物や食べられるものを探している男である。持ち前の観察眼も鋭く、人の仕草や、ほかの者なら見過ごすような小さな変化にもよく気づいた。
「領主なんだから、いるだろ」
その隣で、バルクが返事をした。
口数の少ない男で、壊れた農具や道具を黙々と直していることが多い。今日も食事の傍ら、柄の緩んだ小さな木槌を膝へ乗せ、指先で具合を確かめている。
「普通、領主は水車小屋で粉まみれにはならないと思う」
向かい側では、ミラが肩を竦めた。
木材を運ばせれば誰より手際がよく、簡単な建物や柵なら自分で直してしまう。手の甲には細かな傷が絶えないが、本人はほとんど気にしていなかった。
「普通の領主を知っておりますの?」
少し離れた仮机から声が飛んできた。
イデアだった。
帳簿へ何かを書き込みながら、こちらを見てもいない。
「聞こえてたんですか」
「聞こえる距離で話しているでしょう!」
「領主様、耳がいい」
「あなた方の声が大きいのです!」
ミラは悪びれず笑い、隣のトーマも肩を揺らした。
イデアは一度だけ鋭い目を向けたものの、本気で怒ってはいないらしい。すぐ帳簿へ顔を戻す。
その隣にはアルゼルがいた。
今日も当然のように立ったまま、イデアの手元を覗き込んでいる。
「夕食は?」
「あとでいただきますわ」
「先ほども同じことを聞きました」
「仕事が終わってからと申し上げたでしょう」
「いつ終わります?」
「もう少しです」
「その『もう少し』を信用しないことにしています」
アルゼルが穏やかな笑みを保ったまま、書類の端へ指先を置く。
イデアはそれを追い払うように羽ペンを持った手を振った。
「あなた、最近ずいぶん図々しくなりましたわね」
「食事監督官としての責任がありますので」
「認めていない役職です!」
村人たちは、しばらく黙って二人を見る。
もはや珍しい光景ではない。
だからこそ、かえって気になる。
「……あれ、いつもやってるよな」
トーマが、口の端へパンを残したまま呟いた。
「やってるね」
ミラも当然のように頷く。
少し離れたところでは、ローデンが自分で作った木椀を両手で持ちながら苦笑していた。水車のことなら歯車一枚の音まで気にする男だが、人間同士の機微にはそこまで鋭くないらしい。
「最初に来た頃から、ああだったんですか?」
ローデンが、古くから村をまとめてきたオルドへ尋ねる。
オルドは煮込みを一口すすり、皺の寄った目元を細めた。
「知らん。わしが会った時には、もうああだった」
「王都からずっと一緒なんでしょう?」
セラが、リルへ小さくちぎったパンを渡しながら口を挟む。
「そうらしい」
「夫婦じゃないんですよね?」
「違います!」
今度はイデアが即座に顔を上げた。
反応が速い。
アルゼルもゆっくりとこちらへ顔を向ける。
「現在は」
「余計な言葉を足さないで!」
廃教会の前に笑いが起きた。
「ほら」
ミラが、いかにも納得したという顔で頷く。
「何が、ほらですの!?」
「何でもありません」
「絶対に何かございますわね!」
イデアは疑わしそうにミラを睨んだが、仕事を放り出してまで追及するつもりはないらしい。再び帳簿へ顔を戻した。
その様子を見送ってから、セラが口元へ手を添えて声を落とす。
「領主様、分かりやすいですね」
「何が?」
ローデンが素直に聞き返した。
セラは夫を一度見た。
「いろいろです」
「いろいろ?」
「あなたは分からなくていいです」
「なぜ俺だけ?」
「父ちゃん、鈍いの?」
足元でパンを食べていたピムが尋ねた。
「どこで覚えた、その言葉」
「母ちゃん」
ローデンが妻を見る。
セラは何も聞こえなかったような顔で、リルの口元についた豆を布で拭っていた。
◇
「俺は」
少し離れた場所で山羊乳を飲んでいたユーイが、椀を膝へ置いた。
「領主様より、あの研究者の方が気になる」
「アルゼル?」
「うん」
「顔か?」
トーマが尋ねる。
ユーイは眉を寄せた。妹のエスタとともに村へ来て以来、山羊の世話を引き受けることが増え、最近では朝から夕方まで囲いと牧草地を行き来している。そのためか、肌は薄っすらと焼けていた。
「なんで男の俺が顔を気にするんだ」
「顔は気になるだろ。あれだけ整ってたら」
「それはそうだけど」
「そうなのか」
ローデンが妙な顔をする。
ユーイは、話が横道へ逸れそうになるのを止めるように首を振った。
「そうじゃなくて、背中」
何人かの視線が、同時にアルゼルへ向いた。
背中だけが妙に膨らんでいる、大きな外套。
小ラズマイトへ来てから毎日のように目にしているため、最初ほどいちいち振り返る者はいなくなった。けれど、見慣れたことと、不思議に思わなくなったことは別である。
相変わらず、その中に何を背負っているのかは分からない。
本人は一貫して「研究のために使う羽毛です」と言い張っているが、なぜ研究用の羽毛を毎日そこまで大事そうに背負っているのかまで、納得している者はほとんどいなかった。
しかも、たまに邪魔だった。
狭い戸口では妙な膨らみがつかえそうになり、背もたれのある椅子には座れない。人の多いところでは、後ろを通ろうとした者が外套を避けて一歩遠回りすることもある。水車小屋のような狭い場所では、本人より周囲の方が気を遣っていた。
「研究道具だろ?」
誰かが言った。
「その研究道具、動くぞ」
ユーイの言葉に、数人の手が止まった。
「……動く?」
ミラが片眉を上げる。
「何度か見た」
ユーイは自分の背後へ両手を回し、大きな何かが内側でもぞつく様子を再現した。
「こう……外套の中で、もぞもぞって」
「山羊でも入ってるんじゃない?」
「十一頭もいるのに、十二頭目を背負う理由がないだろ」
「それも研究用かもしれない」
「山羊研究はしてないだろ」
「羽毛研究もしてるし、魔術も古い宗教も研究してる」
「最近、何を研究してても驚かなくなってきた」
皆が少し考える。
確かに。
アルゼルの研究分野は、話を聞くたびに広がっている気がする。
「俺も見たことある」
今度はトーマが口を開いた。
「何を?」
「外套の裾から、白い羽が出てるところ」
ミラは首を傾げた。
「そりゃ見えるでしょう。水路を直した時、装着式の羽毛だって聞いたじゃない」
バルクも、膝の上の木槌を直す手を止めて小さく頷いた。
「あれだけ背中が膨らんでるんだ。裾から一本や二本はみ出してても、おかしくない」
「違うんだよ」
トーマがパンを持った手を軽く振る。
その声色が変わったため、ユーイも身を乗り出した。
「何が?」
「動いてた」
「歩いた拍子じゃなくて?」
「違う」
トーマは記憶を探すように目を細めてから、自分の指先をふわりと持ち上げてみせた。
「領主様があいつを褒めた時だった。外套の裾から出てた羽が、こう……ぴくっと上がった」
ミラの笑みが消える。
バルクも木槌へ落としていた視線を上げた。
「……風?」
「なかった」
「服が引っ張られたとか」
「そのあと、もう一回動いた」
「二回も?」
「今度は、ふわっと」
ユーイが勢いよく頷いた。
「それ! 俺が見たのもそうなんだ。背中の中でも、左右で別々にもぞもぞ動くんだよ」
ミラは顎へ手を当て、少し離れたアルゼルを改めて観察した。
木材の歪みや建物の傾きなら見ただけである程度分かる彼女でも、大きな外套の中身までは見抜けない。
「……装着式って、そんなに自由に動くもの?」
「だから気になってるんだって」
「魔術仕掛け?」
「研究者だし、あり得るか」
「それで納得するのもどうなんだ」
バルクが、また木槌へ視線を戻しながらぼそりと言った。
「それなら、逆も見ましたよ」
セラが口を挟んだ。
「逆とは?」
「領主様に怒られた時」
「いつ?」
「何度もありますので、どれだったか……」
「確かに」
「皆さん」
離れたところから、アルゼルの穏やかな声が飛んできた。
「聞こえていますよ」
「聞かせているから」
ミラが平然と返す。
「随分イデアに似てきましたね」
「それは褒め言葉?」
「もちろん」
「なら、ありがとうございます」
ミラが胸を張る。
アルゼルも満足そうに微笑んだ。
そのやり取りを聞いていたイデアが、帳簿から顔を上げる。
「ミラはよく働いてくださいますもの。頼りにしておりますわ」
その瞬間。
アルゼルの外套の下が、ほんの少しだけ動いた。
もぞ。
ユーイの目が見開かれる。
「ほら!」
「何です?」
「今、動いた!」
一斉に視線が集まる。
アルゼルは、何事もなかったように直立している。
「何のことでしょう」
「背中です!」
「背中は通常、多少動くものですよ」
「今のは普通じゃない」
「呼吸では?」
「呼吸で左右に分かれて動くか?」
アルゼルが沈黙した。
その横で、ピムだけが妙に真剣な顔をしてパンを食べ続けている。
「ピム」
トーマが目ざとく呼んだ。
「何?」
「お前、アルゼルと一緒に教会で暮らしてるんだろ」
「うん」
「何か知らないか?」
「知らない」
即答だった。
あまりにも早い。
その反応に、今度はユーイが目を細める。
「今、答えるの早くなかった?」
「知らないって」
「本当に?」
「本当」
少し離れた場所で、アルゼルが静かに頷いた。
その動きをユーイは見逃さなかった。
「……今、アルゼルさん頷かなかった?」
「見ない方がいいよ」
ピムが真顔で言う。
「なんで?」
「説明すると領主様が疲れるから」
今度は、全員が一斉にイデアを見る。
「何のお話ですの?」
視線を感じたらしいイデアが、ようやく帳簿から顔を上げた。
「何でもありません」
アルゼルが即座に答える。
イデアは眉を寄せた。
「あなたが答えると余計に怪しいのですけれど」
「信頼してください」
「その言葉を言われるたびに信用が減りますわ」
外套の裾から覗いていた白い羽毛が、一枚だけわずかに下がった。
ユーイが指を差す。
「今度は落ち込んだ!」
「気のせいです」
「絶対違う!」
◇
話題は、いつの間にかイデアへ戻っていた。
「でも」
ミラが煮込みの残った椀を膝へ置き、教会の壁へ軽く背を預ける。
「最初に来た時は、もっと早く帰ると思ってた」
その言葉に、何人かが頷いた。
「俺は三日」
トーマが指を三本立てる。
「七日」
畑仕事を終えて混じっていた別の男が続く。
「最初の雨で」
ミラが手を上げて正直に答えた。
「でも、屋根が落ちても残ったね」
「倒木まで降ってきた」
「泥にも落ちた」
「山羊にも追われた」
「皆様」
イデアが、低い声で呼んだ。
羽ペンの先が止まっている。
「なぜ、わたくしの災難だけ次々思い出しておりますの?」
「印象に残ってるから」
「忘れなさい!」
「無理です」
きっぱり答えたのはダリオだった。
帳簿や税の記録を任されることが増えた男は、片方の前腕を途中で失っているものの、残った手で数字を扱う時には誰より几帳面である。今も食事の横に小さな記録板を置いていた。
イデアが信じられないものを見るように振り返る。
「ダリオまで?」
「記録官補佐として、重要な出来事は記憶しておく必要がございますので」
「泥へ落ちたことは重要事項ではありません!」
「石臼発見の経緯です」
「そこだけ記憶から切り離しなさい!」
また笑いが起きる。
オルドは、その賑やかなやり取りを少し離れたところから眺めていた。
村の長として長く人々の揉め事や税の取りまとめをしてきた老人だけあって、若者たちほど大声では笑わない。ただ、深く刻まれた目尻の皺だけが少し増えていた。
「最初は」
やがて、低い声で言う。
「秋税を取らないと言われても、信用してなかった」
笑い声が、自然と小さくなる。
イデアも帳簿から顔を上げた。
「当然でしょうね」
「領主が来ると言われれば、何を持っていかれるか考えた」
春に税を取られたばかりだった。
しかも、本来より多く。
誰も村の暮らしなど見なかった。
水が足りなくても。
畑が痩せても。
食べ物が足りなくても。
税を取り立てる者だけは来た。
「だから、若い娘が来て、今年は取らんと言ったところで、信じられるわけがなかった」
「ええ」
「その娘が翌日から斧を振るとは、もっと思わなかった」
「そこは少し反省しておりますわ。最初は下手でしたので」
「今も上手いとは言わん」
「そこは褒めるところではなくて!?」
「木より先に自分の足を切られちゃ困る」
「気をつけております!」
「水路へ入った」
「入りましたわね」
「泥も運んだ」
「ええ」
「飯が足りなければ、自分の分を減らそうとする」
イデアが、ほんの少しだけ目を逸らした。
「それは……」
「だから、そこの研究者に怒られる」
「怒ってはいません」
アルゼルがすぐ口を挟む。
オルドは面倒そうに彼を見る。
「監督しています」
「同じだろう」
「違います」
「どっちでもいい」
オルドは一言で切り捨てた。
その口元は、わずかに緩んでいる。
「まだ来てひと月くらいしか経ってない」
「そうですわね」
「なのに、水が戻った。水車が回った。人が増えた。外から荷車が来るようになった」
イデアは、もう何も挟まずに聞いている。
「全部、領主様一人でやったわけじゃない」
「もちろんです」
「だが、最初に『やる』と言ったのはあんただ」
それだけだった。
大げさな感謝でもない。忠誠を誓う言葉でもない。
けれど、イデアはしばらく何も答えなかった。
「……ありがとうございます」
やがて、少しだけ照れたように視線を落とす。
「まだ何も終わっておりませんけれど」
「知ってる」
「借金も、一枚の銅貨すら減っておりません」
「それも聞いてる」
「食料も足りません」
「それも知ってる」
「屋根もまだ穴だらけです」
「毎日見てる」
「でしたら、もう少し希望のあるところを――」
「でも」
オルドが遮った。
遠くでは水車が、今日最後の粉を挽きながら一定の音を刻んでいる。
「前よりは、来年の話ができる」
イデアの表情が止まった。
隣のミラも。
ローデンも。
セラも。
誰も茶化さなかった。
「それで十分だ」
イデアはしばらく俯いていた。
そして、ゆっくり顔を上げると、小さく笑った。
「では、来年にはもっとましな話をいたしましょう」
「頼む」
その瞬間。
ユーイがまた何かに気づいた。
アルゼルの外套。
裾から覗いている白い羽毛が、今度は先ほどより大きく、ふわりと持ち上がっている。
「……また動いてる」
「見ないでください」
アルゼルが言った。
「今度は何で?」
「何でもありません」
「領主様が褒められたから?」
「何でもありません」
「自分が褒められてなくても動くんだな」
「観察しすぎでは?」
「気になるんですって!」
イデアが二人を交互に見る。
「先ほどから、何のお話をしておりますの?」
「研究上の秘密です」
アルゼルが涼しい顔で答える。
「また研究が増えましたの?」
「増えてはいません」
「では何?」
「いずれ分かるかもしれません」
「その言い方が一番気になりますわ!」
◇
食事が終わり、人々がそれぞれ片づけを始める。
ピムたちは小さな皿を重ねて運び。
ローデンは職人らしく、食事のあとでも気になるらしい水車の音を確かめに向かう。
セラは使った布を畳みながら、リルが転ばないよう片目で追っている。
ダリオは今日の使用量を忘れないうちに記録し、バルクは直し終えた木槌を持ち主へ戻した。
ユーイは、夕方の餌を求めて騒ぎ始めた山羊たちの囲いへ向かっていった。
その途中。
「まあ」
ミラが、改めてアルゼルの背中を見る。
「あれが何でも、今さらだけどね」
「何が?」
トーマが振り返る。
「背中の荷物」
「ああ」
「変なものなのは間違いない」
「本人が一番変だからな」
「聞こえていますよ」
また、少し離れたところから声が飛んだ。
トーマが一瞬だけ肩をすくめる。
「聞こえるように言ってる」
「本当にイデアに似ましたね」
「褒め言葉として受け取ります」
ミラは愉快そうに笑った。
それから今度は、本当にアルゼルへ届かないくらいまで声を落とす。
「でも」
水車へ向かうローデンの背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「何が入ってても、あの人はあの人でしょう」
聞こえていたローデンが足を止め、振り返って頷く。
「水車では働いてくれた」
「領主様が危なければ、必ず助ける」
セラも布を抱えながら続けた。
「子供にも優しい」
ピムが大きく頷く。
「自分の顔の話は多い」
トーマが付け加える。
「そこは欠点ですか?」
セラが笑いを堪えながら尋ねた。
「かなり」
「聞こえています」
「どうしてそこだけ耳がいいの!?」
再び笑い声が上がった。
オルドは片づけられていく食器と、明日のことを話しながら動く村人たちを眺め、小さく息を吐いた。
「背中から何が出てきても、今さら驚かんかもしれんな」
「さすがに何かによりますよ」
ローデンが言う。
「山羊なら驚く」
トーマが真顔で答えた。
「十二頭目ですか?」
セラが尋ねる。
「だから背負わないって!」
少し遠くから、ユーイの声が飛んできた。
笑いが広がる。
その会話を聞きながら、ピムだけは何も言わなかった。
昨夜、見た。
月明かりの中で広がった、大きな白い羽。
あれが何なのか、本当のところはまだ知らない。
けれど。
アルゼル兄ちゃんは今日も領主様へ朝食を食べさせようとして。
水車へ行って。
山羊に袖を噛まれて。
誰かが重いものを運んでいれば手を貸して。
村の誰かが困れば、いつもの穏やかな顔でそばへ行く。
ならば。
背中に羽が生えていても、別に構わないような気がした。
「ピム?」
セラが呼ぶ。
ピムは顔を上げた。
「何笑ってるの?」
「秘密」
「また?」
「うん」
ピムは楽しそうに笑った。
少し離れたところでは、ようやく帳簿を閉じたイデアが立ち上がっている。
「アルゼル」
「はい」
「先ほどから村の方々が、あなたの背中ばかり見ておりますわよ」
「私の後ろ姿まで美しいのでしょう」
アルゼルは、ごく自然に答えた。
イデアが呆れたように眉を寄せる。
「その自信はどこから出てくるの?」
「私自身からです」
「答えになっておりません!」
大きな外套の下で。
白い翼が、楽しそうにふわりと動いた。




