31.土地にも記憶は残ります
昼を過ぎた頃、一台の大きな荷馬車が村へ入ってきた。
ほかの農家の荷車とは違う。
幌があり、側面には商会の印が描かれている。
後ろにはさらに二台。
荷台に積まれているのは、塩、乾燥豆、安価な大麦、干した魚、布、針、鉄製品。
旅商人の隊商だった。
「ご無沙汰しております、伯爵閣下」
先頭の馬車から降りてきた男が、帽子を取った。
三十代半ばほど。
日に焼けた顔に、人当たりのよい笑みを浮かべている。
イデアは、その顔に見覚えがあった。
「以前、街道でお会いしましたわね?」
「覚えていていただけましたか」
小ラズマイトへ向かう旅の途中、荷車が泥から抜け出したばかりの頃に出会った、あの隊商の商人だった。
「エーミル・ベルンと申します」
「イデア・ラズマイトです。改めて、よろしくお願いいたしますわ」
「こちらこそ。まさか、あのあと荷車ごと橋から落ちたとは思いませんでしたが」
「その話まで広まっておりますの!?」
「商人は道の噂に敏いもので」
エーミルは水車と、教会前にできた仮市を見回した。
「隕石伯爵が、今度は水車を造ったと聞きまして」
「その呼び方を広めたのは、どなたですの?」
「複数の方から聞いたので、出どころまでは」
「見つけたら使用料を取りますわ」
「呼び名にも?」
「わたくしの災難ですもの!」
エーミルが声を上げて笑った。
「お元気そうで何よりです」
「商売にいらしたの?」
「ええ」
彼は荷馬車の幌を開いた。
積まれた大麦の袋を見た瞬間、イデアの表情が変わる。
食料。
小ラズマイトが、いま最も必要としているものだ。
「どの程度、お持ちですの?」
「大麦が二十五袋。乾燥豆が六袋。干し芋が三袋」
「価格は?」
提示された数字へ、イデアの眉が寄る。
王都にいた頃なら、驚くほどではなかった。
だが今の小ラズマイトには高い。
「先日買い入れた価格より、一割以上高いですわ」
「よく把握していらっしゃる」
「帳簿をつけておりますので」
「南側の街道で橋がひとつ壊れました。迂回と護衛にかかる費用が上乗せされています」
「橋」
イデアの眉が動く。
「伯爵閣下が落ちた橋とは別です」
「確認しなくて結構です!」
「今年は周辺の収穫が悪い。今後、さらに値が上がる可能性もあります」
脅しではなさそうだった。
商人として、今ある事情を説明しているのだろう。
「すべて買った場合、どの程度持ちますの?」
イデアが尋ねる。
アルゼルが荷を確かめ、少し考えた。
「現在の人数へ今と同じ配給を続けるなら、二十日あまりは増やせるでしょう」
「いまの備蓄と合わせれば?」
「五十日を超えます。ただ、収穫時期まで十分な余裕があるとは言えません」
「それでも、かなり違いますわね」
少なくとも、今日明日の飢えだけを見ながら働く状態からは一歩離れられる。
「全額を、すぐお支払いすることはできません」
イデアは正直に言った。
「承知しています」
「ご存じで来たの?」
「大きな借金を抱えた伯爵が、現金だけは潤沢に持っているとは考えません」
「もう少し言葉を選んでくださる?」
「事実を隠す商人は信用されませんので」
エーミルは穏やかな笑みを崩さない。
「現金以外でも構いません」
「何をお望み?」
「水車の優先利用権」
「どの程度?」
「隊商が穀物を持ち込んだ際、一般利用者より先に挽いていただく」
「病人や子供の分よりも?」
「商売としては、そう願いたいところです」
「却下です」
イデアは即答した。
「では、通常の外部利用者より先に」
「一日に挽ける量へ上限を設けますわ」
「なら、五袋では」
「三袋」
「四袋」
イデアは少し考えた。
「……分かりましたわ。四袋で」
「ありがとうございます」
エーミルが満足そうに頷く。
「期間は三月」
「半年」
「……四月ですわ」
今度はエーミルが少し考えた。
「では、四月で」
「決まりですわね」
「それから、水車の使用料は通常の半分で」
「八割ですわ」
「六割」
「八割」
「少しは譲ってください」
「すでに優先利用権を認めておりますもの。これ以上下げれば、ほかの利用者へ説明がつきませんわ」
「……七割では?」
「……それでしたら」
「分かりました。七割で」
エーミルは苦笑しながら頷いた。
「伯爵閣下は、思ったより手強いですね」
「借金がございますので、値切れるところは値切りますわ」
イデアは、クラウスが残していった契約書用の羊皮紙を取り出す。
「ほかには?」
「今後、小ラズマイトで薬草や加工品を売る際、最初に商談する機会をいただきたい」
「独占権ではなく?」
「最初に価格を提示できる権利だけで結構です」
「ほかの商人へ売ることを妨げない?」
「ええ」
イデアはそこで、わずかに目を細めた。
小ラズマイトには、いまのところ外へ売れるほどの薬草はない。加工品に至っては、検討すらしていない段階だ。
それなのにエーミルは、あえてそのふたつを条件へ入れた。
思い当たるものが、ひとつだけある。
「……月白花のことを、どこでお聞きになりましたの?」
「何のことでしょう」
エーミルは笑みを崩さない。
「とぼけても無駄ですわ。まだ売り物になる薬草も加工品もない小ラズマイトで、わざわざそのふたつを指定なさったのでしょう?」
「商人は噂に敏いと申し上げました」
「やはり、ご存じなのですね」
エーミルは否定も肯定もしなかった。
「月白花は、まだ芽すら出ておりません。薬になるかどうかも、今の段階で売買の約束はできませんわ」
「承知しています。ですから、月白花とは申し上げておりません。薬草や加工品、とだけです」
抜け目がない。
月白花そのものを押さえるのではなく、もし将来それが何かの商品へつながった時、真っ先に商談の席へ着ける権利だけを求めているのだ。
だが、無理に秘密を暴こうとも、独占しようともしていない。
「最初の商談機会だけなら認めます。ただし、ドワーフの方々の許可が必要なものについては、そちらの条件を優先します」
「それで結構です」
イデアは一度頷き、今度は荷馬車へ積まれた食料へ視線を戻した。
「では、今回買い付ける食料の代金について。支払い期限は?」
「半額を本日。残りは二月後」
「残額に利息は?」
「硬貨で払う場合は一割」
「高すぎますわ」
「二月の間、こちらの運転資金を失いますので」
「品物や仕事で支払う場合は?」
「水車の利用料、木工品、修繕、将来の粉や豆。内容次第で無利息」
「土地や収穫物を勝手に差し押さえる条項は?」
「入れません」
「支払いが遅れた場合でも?」
「再交渉します。私は土地を荷馬車へ積んで持ち帰れませんので」
イデアはエーミルの顔を見た。
「なぜ、そこまで条件を譲るの?」
「譲ってはいません」
エーミルは、回っている水車を指した。
「ここには、人が集まり始めています」
荷車。
麦。
卵。
塩。
木工品。
敷物の上へ並んだ、小さな仮市。
「今日の利益だけではなく、今後の取引先へ投資しているのです」
「わたくしと同じことをおっしゃいますのね」
「商人ですから」
「信用してよろしいのかしら」
「帳簿へ記録し、契約書を二通作り、証人を置いてください」
「信用ではなく、仕組みで守れと?」
「その方が長く付き合えます」
イデアは少し考えたあと、手を差し出した。
「では、契約いたします」
エーミルがその手を握る。
「今後とも、よいお取引を」
「最初に申し上げておきますけれど」
「何でしょう」
「不正な升を使ったら、水車へ二度と近づけませんわ」
「評判どおり、計量には厳しい」
「どのような評判が広まっておりますの!?」
◇
食料を降ろすため、仮市にいた者たちも手を貸した。
大麦、豆、干し芋、塩。
袋が共同倉庫へ積まれていく。
村人たちは喜びながらも、不安そうにその様子を見ていた。
食料が増えた。
同時に、支払うものも増えた。
もともと借金のある領地が、さらに商人へ支払い義務を負ったのだ。
「これで、本当によかったのでしょうか」
オルドが倉庫の前で尋ねた。
「現金をすべて使ったわけではありません」
イデアは答える。
「残りは薬、屋根、種、それから緊急時のために残します」
「二月後に払えなければ?」
「水車の利用料と、これから作る品で返します」
「作れなければ?」
「その時は、わたくしが王都で働きますわ」
「領主様が?」
「家庭教師でも、帳簿係でも。斧よりは羽根ペンの方が得意ですもの」
オルドは何とも言えない顔になった。
「領主が出稼ぎに行く土地は、聞いたことがない」
「新しい領地経営の形ですわね」
「冗談でしょう」
「半分は」
「半分は本気なのか」
「最後まで諦めないという意味です」
イデアは倉庫へ積まれた袋を見る。
「ですが、その前に、ここで稼ぎます」
水車。
仮市。
黒穂麦と山豆。
木工や修繕。
これから芽吹くかもしれない月白花。
使えるものは、すべて使う。
もちろん、人を使い潰すつもりはない。
◇
午後になると、仮市はさらに大きくなった。
エーミルが荷台の一部を店として開いたことで、布や針、塩を求める者たちが集まる。水車を待つ者同士の交換も続いていた。
昼の日差しが強くなると、商人や村人たちは荷車の幌や持ってきた布を使い、空き地の何か所かへ簡単な日除けを作り始めた。杭や支柱へ縄を渡し、その上へ布を張っただけの仮設の屋根だが、品物や食べ物を日差しから守るには十分だった。
ただ、人が増えるにつれて、敷物も荷物も布屋根も好きな場所へ広がり始めている。このままでは、どこを歩けばよいのか分からなくなりそうだった。
イデアは、空き地の中央へ縄を張り、歩く場所と店を出す場所を分けることにした。
「ここへ柱を立てます」
ミラへ頼み、倒木から細い杭を作ってもらう。
「領主様、その辺りは石が多いです」
「少しずらしましょうか」
「こちらなら」
「では、ここへ」
イデアは木槌を受け取った。
何度か振り下ろしたところで、杭は途中で止まった。
「石ですわね」
「抜いて別の場所へ」
「もう少し叩けば、横へずれるかもしれません」
「領主様」
「大丈夫ですわ」
四度目。
杭の頭を狙ったはずだった。
だが木槌が少し滑る。杭が斜めに傾き、すでに張っていた縄を強く引いた。
「あら?」
その縄は、すぐ隣の日除けを支える縄とも結ばれていた。
ぴんと張っていた縄が引かれ、一本の支柱が傾く。
続いて、その支柱へ張られていた布屋根が大きく沈んだ。
「イデア!」
アルゼルが駆けてくる。
次の瞬間、布と支柱が二人の上へ崩れ落ちた。
視界が暗くなる。
周囲から悲鳴が上がった。
「領主様!」
「大丈夫ですわ!」
イデアは布の下から答えた。
アルゼルの腕が腰へ回っている。
もう片方の手では、倒れてきた支柱を受け止めていた。
「怪我は?」
「ありません」
「頭は?」
「打っておりません」
「本当に?」
「ええ」
支えられた途端、また胸が妙に速くなる。
けれど今度は、それを振り払うために離れようとはしなかった。
これは自分の災難だ。
そして、こういう時に守るのはアルゼルの領分。
そう決めたのだから、素直に任せてしまえばよい。
「なぜ杭一本を打つだけで、屋根を落とすのです」
「わたくしに聞かないでくださる!?」
「あなた以外、誰に?」
「杭が悪いのです!」
「橋の時に私を責めた際と、よく似た主張ですね」
「いま持ち出すの!?」
布の外から、村人たちが支柱を持ち上げる。
アルゼルはイデアの腰を支えたまま、空いた隙間へ身体を向けた。
「足元に縄があります。手を」
差し出される。
イデアは一瞬も迷わなかった。
「ええ」
自分からその手を握る。
アルゼルが少しだけ動きを止めた気がした。
「何ですの?」
「いいえ」
手を握ったまま、倒れた支柱を跨ぐ。
足場が安全なところへ出てから、アルゼルはようやく手を離した。
これならいい。
自分で歩く。
危ないところだけ、手を借りる。
それで何も問題はない。
問題があるとすれば、手を離されたあとに少しだけ惜しいと思ってしまったことくらいだ。
もちろん、それについては考えない。
「杭を確認してください!」
イデアは誤魔化すように声を張った。
ミラが斜めになった杭を引き抜こうとする。
だが途中で何かに引っかかり、動かない。
「下に大きな石があります」
「掘りましょう」
周囲の土を退ける。
やがて現れたのは、自然の石ではなかった。
平たい石板。
表面には、古い文字と紋章が刻まれている。
土を払い落とすと、翼を広げた複数の人影と、王冠を思わせる印が現れた。
「古い神殿に関係するものですね」
アルゼルが石板の前へ屈み込む。
瞳は閉じたままだ。
それでも刻まれた文字を確かめるように、表面へそっと指を這わせた。
「読めますの?」
「かなり古い形式ですが」
アルゼルは文字を追う。
「市を開くための標石のようです」
「市の標石?」
「ええ。この神殿の境内では――」
「神殿って、この廃教会のこと?」
「ええ。今は教会として残っていますが、もともとは神を祀る場所ですから」
アルゼルは石板へ刻まれた古い文字を指先でなぞった。
「決められた日に、巡礼者と周辺住民の取引を認める。身分や出身を問わず、神殿の守護下で売買できる――そういった内容ですね」
さらにその下へ刻まれた文字を見る。
「当時の市場税と街道税を免除する、という記載もあります」
「免税?」
近くにいたエーミルが、すぐに反応した。
「古い王家の印らしきものもありますわね」
イデアは石板へ刻まれた王冠を見る。
「まだ有効なのかしら」
「何百年も前のものです。現行の制度でどのように扱われるかは、確認しなければ分かりません」
アルゼルが答える。
「ですが、過去に正式な市が開かれていた証拠にはなるでしょう」
「クラウスへ写しを送りましょう」
ダリオに紙を持ってきてもらい、読める範囲の文字と紋章を書き写す。
王領監理局が認めれば、小ラズマイトには正式な市を開くうえで役立つ古い権利か記録が残っているかもしれない。
「見返りですね」
アルゼルが言った。
「布屋根が崩れたことへの?」
「古い市場の記録が見つかりました」
「まだ現行の権利として使えるか分かりませんわ」
「少なくとも、昔はこの場所へ人が集まっていたことは分かりました」
アルゼルは周囲へ顔を向けた。
水車。
廃教会。
そして、その前に広がる仮市。
何百年も前にも、同じ場所へ人が集まり、品物を交換していたのだ。
「土地にも、昔の使われ方が残ることがあります」
「この土地が覚えていたのかしら」
「そう考えるのも、悪くはありませんね」
信仰が忘れられても。
市が失われても。
水路が埋まっても。
もう一度人が集まれば、同じ場所で取引が始まる。
「では、この石板は立て直しましょう」
イデアは言った。
「有効かどうか確認するまでは、何かの権利を主張することはできません。ですが壊す理由もございませんもの」
「杭は?」
ミラが尋ねた。
「別の場所へ」
「領主様は打たない方がよいかと」
「一度失敗しただけでしょう!」
「屋根が落ちました」
「それは! 申し訳ございませんでした!」
◇
日が沈む頃には、水車の利用を終えた者たちから帰り始めていた。
荷車には挽いた粉。
交換した卵。
塩や布。
木製の道具。
来た時にはなかった品々が積まれている。
「次の水車日は、五日後です!」
ダリオが新しく用意した掲示板へ予定を書いていた。
文字を読めない者のため、横には水車と月の簡単な絵も添える。
「市も開くのか?」
帰り支度をしていた男が尋ねた。
「仮市は、水車の利用日に限り認めます」
イデアが答える。
「販売する品は、到着時に届け出てくださいませ」
「場所代は?」
「食料や生活用品は、今年は無料です」
「来年は取るのか」
「その頃まで人が集まるようなら、清掃や警備にかかる費用として少額いただきます」
「分かった」
男は頷き、荷車へ乗った。
「また来る」
「お待ちしておりますわ」
自然に口から出た。
また来る。
それは、水車を利用するだけではない。
人が小ラズマイトへ戻ってくるということだ。
イデアは、遠ざかっていく荷車を見送った。
「本日の収支です」
ダリオが帳面を持ってくる。
水車使用料。
——麦、四袋と升三杯。
仮市で徴収した酒類の販売料。
——銅貨九枚。
エーミルから購入した食料。
本日支払った硬貨と、二月後に支払う残額。
「収入より支出が多いですわね」
「大幅に」
ダリオは正直に答えた。
「ですが、食料は増えました」
「はい」
「水車の次回予約は、すでに十二件」
「それから、仮市へ出たいという方が八人」
「将来の収入まで帳簿へ入れられます?」
「確定していないものは別欄でしょうな」
「そうしてくださいませ」
黒字ではない。
硬貨だけを見れば、大赤字だ。
だが、食料は大きく増えた。
人が集まる日も決まった。
商人との道もつながった。
古い市場の記録まで見つかった。
「今回の災難は?」
アルゼルが尋ねた。
「布屋根が落ちました」
「怪我はなし」
「あなたに助けられ、皆様に見られました」
「それは損失なのですか?」
「精神的には」
「私には利益でした」
「収支へ加えないでくださる!?」
ダリオは何も聞かなかったふりをして、帳簿へ視線を落とした。
◇
夜になると、イデアは廃教会脇の花壇と、裏手に作った小さな試験畑へ向かった。
月白花の種を植えた花壇には、まだ変化がない。
畑では、黒穂麦の芽が夜風に揺れていた。
最初に十九本を数えたうち、五本は山羊の腹へ消えてしまった。それでも残った芽は無事に育ち、土から顔を出したばかりだった細い葉も、今では少しだけ背を伸ばしている。
さらにその隣。
セードル村から持ってきた山豆を植えた区画は、まだほとんど土のままだった。
「こちらは、まだですわね」
イデアは土の前へ屈み込んだ。
「黒穂麦より少し遅いのかもしれません」
アルゼルが隣へ立つ。
「急かしても早くは育ちませんよ」
「分かっております」
「毎晩見に来ていますね」
「確認しているだけですわ」
「昨日と同じ場所を?」
「今日、芽が出ているかもしれないでしょう」
イデアは土へ顔を近づけた。
暗い。
アルゼルが指先へ小さな金色の光を灯す。
「ありがとうございます」
「もっと近くへ?」
「この程度で十分です」
見えてくるのは土と小石。
細い枯れ草。
変化はないように見える。
イデアが少し身体をずらした時だった。
「待ってください」
アルゼルが言った。
「何ですの?」
彼は片膝をつき、土の一角を指差す。
ごく小さな緑。
針より細い芽が、土の割れ目から顔を出していた。
「芽ですわ」
「ええ」
「山豆?」
「おそらく」
イデアは思わず手を伸ばしかけ、触れる直前で止めた。
弱々しい。
少し強い風でも吹けば、折れてしまいそうだ。
けれど確かに生きている。
「育ちますのね」
「まだ、ひとつ出ただけですよ」
「最初はそれで十分ですわ」
井戸へ戻った最初の水も。
水車から得た最初の利益も。
市場へ集まった人も。
すべて、最初は小さかった。
「今日、たくさんのものが増えました」
イデアは芽を見ながら言った。
「人も。品物も。食料も。支払いも」
「最後だけ嬉しくありませんね」
「ええ」
「後悔していますか?」
イデアは首を横へ振った。
「いいえ」
借金そのものが増えたわけではない。
けれど二月後には、エーミルへ支払わなければならない代金がある。
働かなければならない理由が、またひとつ増えた。
「返しますわ」
「何を?」
「エーミルへの代金も。王家への借金も。それから」
イデアは小さな芽を見る。
「この土地が失ってきたものも、できる限り」
「すべては無理かもしれません」
「分かっております」
過去は戻らない。
ここを離れた者。
枯れた畑。
忘れられた信仰。
取り戻せないものだってある。
「それでも、戻せるものから」
「ひとつずつ?」
「ええ」
アルゼルが静かに微笑んだ。
その肩へ、イデアの頭がわずかに触れた。
屈み込んだまま芽を見ようとして、距離を誤っただけだ。
イデアはすぐ離れようとした。
けれど、アルゼルは動かなかった。
「近いですわね」
「あなたから近づいたのですが」
「芽を見ていたのです」
「分かっています」
声が、いつもより柔らかい。
「では、もう少しこのままでも構いませんね」
「……なぜ、そうなりますの?」
「私は嫌ではありませんので」
イデアは顔を上げた。
アルゼルの瞳は閉じられている。
いつもの穏やかな微笑み。
けれど、ただからかっているだけには見えなかった。
胸が、少し落ち着かない。
今日一日で何度目だろう。
倒れた屋根の下で抱き寄せられた時。
こうして近くにいる時。
アルゼルがそばにいると安心する。
そのくせ、近ければ近いほど別のところが落ち着かなくなる。
「……芽がひとつ出ただけで、随分と機嫌がよろしいのね」
「あなたが嬉しそうですから」
「わたくしが?」
「ええ」
アルゼルは当然のように答える。
「あなたが得たものは、私にとっても黒字です」
イデアは何も返せなかった。
土の上では、小さな山豆の芽が夜風にかすかに揺れている。
水車の行列から生まれた、まだ名もない仮市。
古い石板に残されていた、市場の記録。
新たに結ばれた商人との契約。
そして乾いた土地から出た、新しい作物の最初の芽。
その日の帳簿は、大きな赤字だった。
けれど小ラズマイトには、昨日までなかった未来が、いくつも書き加えられていた。




