30.行列ができれば、市が立ちます
小ラズマイトで最も早起きなのは、山羊である。
次が農民。
その次が、水車大工のローデン。
そして領主であるイデアは、できれば農民より少し遅く起きたかった。
「領主様!」
まだ夜が明けきらないうちに、廃教会の扉が激しく叩かれた。
「領主様、起きてください!」
「起きておりますわ!」
正確には、たったいま起こされた。
修繕した小部屋の寝台から起き上がり、急いで上着を羽織る。屋根も壁も応急処置を重ねたおかげで、最初の頃のように雨が降るたび地下へ避難する必要はなくなったが、伯爵が暮らす部屋としては相変わらず簡素だった。
「何がございましたの?」
髪を手早くまとめながら礼拝堂へ出る。
アルゼルはすでにそこにいた。
当然のように長い金髪にも衣服にも乱れはなく、大きな外套の下へ翼を畳み、祭壇の近くで穏やかに立っている。
「おはようございます」
「なぜ、あなたは毎朝完璧な姿なの?」
「朝だからといって、私の美しさが損なわれる理由はありませんので」
「非常に腹立たしい返答ですわね」
入口の向こうから、もう一度扉が叩かれた。
「領主様!」
「いま参ります!」
イデアが扉を開くと、外に立っていたのはトーマだった。
息を切らしながら、村の奥へ続く道を指差している。
「大変です」
「盗賊?」
「違います」
「水路が壊れた?」
「それも違います」
「山羊がまた畑へ?」
「今日はまだ入ってません」
「では何ですの?」
トーマは一度息を整えた。
「水車に、行列ができてます」
「……行列?」
イデアは瞬きをした。
「村の外まで続いてます」
◇
水車へ続く道には、十一台の荷車が並んでいた。
一台ごとに麦袋が積まれている。
ハルム村から来た者だけではない。北の丘にある小さな集落、東側で羊を飼っている者たち、街道沿いの農家。見覚えのない人々が、水車の周囲へ集まっていた。
「本当に行列ですわね……」
イデアは呆然と呟いた。
「先日の利用者が話を広めたようです」
後から来たアルゼルが、どこか面白そうに人の列を眺める。
「小ラズマイトには、よく回る水車がある。使用料も安く、領主への余計な贈り物も要求されない、と」
「そこまで評判になりますの?」
「重要なのでしょう」
実際、朝日が昇り始める中、すでにあちこちから言い争う声が聞こえていた。
「うちが先だ!」
「夜中に来て道を塞いでいたのは、並んだうちに入らない!」
「麦を湿らせたくないんだ、早くしてくれ!」
「こっちには病人がいる!」
水車小屋の前では、ローデンが必死に人々を宥めている。
「一度に挽ける量には限りがあります! 順番に――」
「いつまで待てばいい!」
「日が暮れる前に帰れるのか!」
「領主様!」
ローデンはイデアを見つけると、露骨に安堵した顔をした。
領主が来れば何でも解決すると期待されているらしい。
そんな便利な力はない。
それを持っているとすれば、隣にいる方だろう。
「何人いらっしゃるの?」
イデアはローデンへ尋ねた。
「確認できただけで五つの村や集落から二十九人。麦は合わせて四十袋近くあります」
「一日では無理ですわね」
「三日か四日はかかります」
「皆様、泊まる準備は?」
「していない者が大半です」
当然だろう。
水車を使えるという噂だけを頼りに来たのだ。利用日も、順番も、今日どれほど混むかも知らない。
「皆様、静かにしてくださいませ!」
イデアは声を張った。
だが、水車の音と人々の話し声にかき消される。
「皆様!」
もう一度声を上げても、何人かが振り返っただけだった。
「私が」
アルゼルが一歩前へ出る。
「何をなさるの?」
「少し、声を通します」
彼は軽く息を吸った。
「――お静かに」
大声ではなかった。
それでも澄んだ声が、水車の音も人々の話し声も越え、周囲へはっきりと響いた。
空気そのものを伝って届いたような、不思議な声だった。
言い争っていた人々が一斉に口を閉じる。
荷車を引いていた馬まで、耳を動かして静かになった。
イデアは思わずアルゼルへ顔を寄せ、声を潜めた。
「……いまの、神性を使いましたの?」
「わずかに」
アルゼルも声を落として答えた。
「魔術のように聞こえたでしょう」
「便利ですわね」
「もう少し評価していただいても」
「あとで」
イデアは人々の前へ進み出た。
「わたくしは、ラズマイト伯爵イデア・ラズマイトです」
ざわめきが起こりかける。
アルゼルが微笑んだまま人差し指を唇へ当てると、不思議なほどすぐに静かになった。
「水車をご利用いただけることは、ありがたく思います。ですが、現在の小ラズマイトでは、一日に挽ける麦は十袋ほどです」
「十袋?」
「俺たちは今日中に帰れないのか?」
すぐに声が上がる。
「順番を決めます」
イデアはきっぱりと言った。
「病人や乳幼児のため、早く粉が必要な方を最初に。その後は到着した順です」
「俺たちは昨夜から待っている!」
「昨夜の何時にいらしたのか、皆様それぞれ証明できますの?」
「それは……」
「一人ずつお話を聞いていたら、麦を挽く時間がなくなりますわ」
イデアはローデンを見る。
「使える木片はございます?」
「木片?」
「順番札を作ります」
倒木の枝から取った薄い板へ、数字を刻む。
一番から三十番まで。
病人や乳幼児のため急ぐ家には、数字の横へ赤い印をつけた。
「今日は十番まで」
イデアは札を配りながら説明する。
「残りの方は明日以降です。小ラズマイトへ留まる場合は、使っていない納屋と廃教会の一部を休む場所として開放します。ただし、火と水については村の決まりに従ってくださいませ」
「帰るなら?」
「札は次の利用日まで有効にします。なくさないで」
「横入りした者は?」
「最後尾です」
「揉めたら?」
「水車を使わせません」
きっぱりと言うと、男たちは互いの顔を見た。
「随分と厳しい伯爵だ」
誰かが呟く。
「壊されたら困りますもの」
「水車が?」
「順番がです」
水車なら、壊れても部品を替えれば直せる。
目に見えない決まりの方が、一度崩れれば直すのに時間がかかる。
不満そうな者もいたが、自分の番号を書いた札を受け取ると、少しずつ列は整っていった。
「領主様」
ダリオが帳面を持って駆けつけてくる。
「記録します」
「助かります。村名、氏名、麦の量、札の番号を」
「使用料も?」
「ええ。正規の升だけを使ってくださいませ」
不正な徴税升を見つけて以来、小ラズマイトでは計量器の扱いにはとりわけ厳しくなっている。
「水車をひとつ動かすだけでも、決めることが多いのですね」
アルゼルが言った。
「人が集まれば、増えますわ」
「災難も?」
「そちらは増えなくて結構です」
◇
水車を待つ者たちは、すぐに暇を持て余した。
朝から三刻も経つ頃には、あちこちで敷物が広げられている。
持参したパンを食べる者。
馬へ水を与える者。
壊れかけた荷車の車輪を直す者。
子供たちは、小ラズマイトの子供たちと一緒になって水路から少し離れたところを走り回っていた。
やがて、一人の女性が籠を地面へ置いた。
「卵と干し玉葱だよ。塩か布と交換してくれる者はいないかい?」
別の荷車から、男が小さな塩袋を取り出す。
「卵ふたつなら、これくらいだ」
「少ないね」
「町まで行けば、道代もかかるぞ」
「ここじゃ取られないだろう?」
その横では、外から持ち込まれた羊毛と古着の交換が始まっていた。
別の者は木製の匙を並べる。
小ラズマイトの村人まで、自分たちで編んだ籠や、直した農具を持ち出してきた。
「いつの間にか、店ができていますわね」
イデアは水車脇の小高い場所から、その様子を見下ろした。
「人が集まれば、物も集まります」
アルゼルが答える。
「水車を待つ時間が、取引の時間へ変わったのでしょう」
「商売を許可した覚えはございませんけれど」
「止めますか?」
イデアは考えた。
酒や刃物を無制限に扱われては困る。
粗悪な品や、偽物が出回る可能性もある。
けれど小ラズマイトには足りない物が多い。
近隣の村にも、売りたい物と買いたい物があるのだ。
「止めません」
「では?」
「場所を決めます」
水車や水路のすぐそばへ店を広げられれば、粉挽きの邪魔になる。人だけでなく馬も増えている以上、通路を塞げば事故にもつながる。
イデアは、倒木を片づけた教会前の空き地を指した。
「売買はあちらで。水車へ続く道を塞がないこと。食べ物には布をかけること。ごみは持ち帰るか、指定した場所へ捨ててくださいませ」
「場所代は?」
オルドが尋ねる。
「今年は取りません」
「また無料か」
「人が集まるかどうかも分からないうちから取れば、誰も来なくなりますわ」
「外から来た者にも?」
「食料、種、生活用品は無料です。ただし酒や高価な装飾品を売る方からは、少額いただきます」
「酒は高く取るのか?」
「酔った方の後始末には、費用も人手もかかりますもの」
オルドは納得したように頷いた。
「その基準なら分かりやすい」
「水車の日だけの、仮の取り決めですわ」
イデアはダリオへ新しい頁を開いてもらった。
「出店する方の名前と、扱う品を記録してくださいませ」
「市ですな」
オルドが言った。
「市?」
「人が集まり、物を売り買いするなら、市でしょう」
「まだ敷物を並べているだけですわ」
「最初の市なんて、どこもそんなものでは?」
イデアは教会前の空き地を見る。
つい先日まで、枯れ草しかなかった場所。
そこへ今は、卵、玉葱、塩、羊毛、木の匙、籠や農具が並んでいる。
規模は小さい。
けれど、小ラズマイトの者たちが外の人間と物を交換している。
「でしたら、仮市と呼びましょう」
「名前をつけるのですね」
アルゼルが尋ねた。
「名前がなければ、帳簿へ書けませんもの」
「情緒より帳簿ですか」
「領主ですので」
◇
仮市が始まって間もなく、アルゼルの周囲にも人が集まり始めた。
正確には、若い女性たちが。
「そちらの方は、どこの貴族様?」
羊毛を売りに来た娘が尋ねる。
「貴族ではありません」
アルゼルは白い衣の胸元へ手を当て、いつもの優雅な微笑みを浮かべた。
「私は――」
「遠縁の研究者です」
少し離れたところから、イデアが先に答えた。
「また私より先に」
「説明が長くなりますもの」
「研究者なの?」
別の娘が興味深そうにアルゼルを見る。
「何を研究しているの?」
「古い宗教や建物、それから少々、魔術に似た現象などを」
「へえ。難しそう」
意味が分かったのかは怪しい。
それでも娘は感心したように頷いた。
すると、もう一人がアルゼルの背後へ視線を向けた。
大きな外套の下には、きつく畳んだ翼が収まっている。そのせいで背中から腰にかけては大きく膨らみ、事情を知らない者には、妙な形の荷物を背負っているようにしか見えない。
「その背中の荷物も、研究に使うの?」
「私にとって、非常に大切なものです」
「高価な研究道具?」
「金銭的な価値だけでは測れませんね」
アルゼルは平然と答えた。
「それに、繊細ですので、あまり触れないでいただけると助かります」
「まあ。そんな大事なものを、自分でずっと背負ってるの?」
「ええ。人へ預けるつもりはありません」
「責任感があるのね」
イデアの羽根ペンが、ぴたりと止まった。
――いまの会話のどこから、そういう評価になりましたの?
「重くない?」
「私には問題ありません」
「力もあるのね」
「当然です」
「すごいわ」
何を言っても評価が上がっていく。
アルゼルの表情も、だんだん満足そうになっていた。
「変わった研究をしているのね」
「私自身、多少特別な存在ではありますので」
「そうでしょうね。普通の人には見えないもの」
「お分かりになりますか」
「こんなに綺麗な人、普通はいないもの」
アルゼルが、目に見えて機嫌をよくした。
「見る目がありますね」
「でしょう?」
会話が成立しているようで、成立していない。
それでも双方が満足しているので、誰も困っていなかった。
「それに、どうしてずっと目を閉じているの?」
別の娘が尋ねる。
「閉じていても不自由はありませんので」
「本当に?」
「ええ」
「歩けるの?」
「問題なく」
「すごいわね」
「私ですから」
「やっぱり特別なのね」
また肯定された。
イデアは無言で帳面へ視線を落とした。
この方々は、アルゼルが何を言っても褒めるのではないか。
「開けてみて」
一人が楽しそうに言った。
「お勧めしません」
「どうして?」
「私の瞳は、人へ与える影響が少々強いので」
「そんなに綺麗なの?」
「ええ」
「見たいわ」
「少しだけでも」
三人の女性が楽しそうにアルゼルを囲む。
アルゼルも、賞賛されること自体は嫌いではない。当然のように機嫌よく応対していた。
少し離れた場所で出店者の品物を書き留めていたイデアの羽根ペンが、紙の上で止まる。
「人気ですね」
仮市の区画を整備するために呼ばれたミラが、隣でそう言った。
「顔だけは整っておりますから」
「顔だけ?」
「それ以外は、実際に付き合ってみなければ分かりませんもの」
「領主様は、よく知ってるんですね」
「毎日一緒におりますので」
「へえ」
ミラの口元が意味ありげに上がった。
「何ですの?」
「何も」
「その顔で何もないとは思えませんわ」
イデアはもう一度、アルゼルの方を見る。
女性の一人が楽しそうに何かを話し、アルゼルが微笑んで応えている。
――別に。
何も問題はない。
以前、アルゼルから、自分が女性に囲まれることを気にしているのかと聞かれたことがある。
その時は、水車の作業が止まるのが心配だと答えた。
単に、それだけなのだ。
それなのに、今日になってわざわざ自分から呼びつけたのでは、まるで本当に気にしているようではないか。
イデアは手元へ視線を戻した。
仮市の区画を分けるための木箱が、少し離れたところに置かれている。中身は順番札や余った縄、炭などで、それほど重くはないが、帳面を抱えたまま運ぶには少々邪魔だった。
「トーマ」
ちょうど近くを通りかかった若者へ声をかける。
「少し手を貸してくださる?」
「いいですよ。何を?」
「この木箱を、あちらまでお願いできます?」
トーマが木箱へ手を伸ばす。
「これくらいなら――」
「私が持ちます」
横から伸びてきた手が、先に木箱を持ち上げた。
イデアが顔を上げる。
「……アルゼル」
「何でしょう」
「女性の方々とお話ししていたのでは?」
「終わりました」
「まだお話し中に見えましたけれど」
「こちらに用事があるようでしたので」
「トーマへお願いしましたわ」
アルゼルは木箱を片手で持ったまま、穏やかに首を傾げる。
「なぜ私ではなくトーマを?」
「近くにいて、手が空いていそうだったからです」
「私は?」
「お忙しそうでしたもの」
「そうですか」
「そうですわ」
二人の間に、妙な間が落ちた。
木箱を持つ役目を奪われたトーマが、イデアとアルゼルを交互に見る。
しばらく黙っていたが、やがて呆れたように口を開いた。
「……あんたたち、面倒くさいな」
イデアとアルゼルが同時に振り返る。
「何ですって?」
「何でもないです」
トーマはさっさと離れていった。
「お待ちなさい、トーマ! いま明らかに何か――」
「機嫌が悪いですね」
アルゼルが言った。
イデアはぴたりと止まった。
「忙しいからです」
「それだけ?」
「それ以外に何がございますの?」
「さあ」
閉じた瞳のまま、アルゼルは楽しそうに笑っている。
腹が立つ。
「随分と楽しそうですわね」
「ええ」
「何がそんなに?」
「あなたが私を呼ばなかった理由を考えていました」
「近くにトーマがおりましたから!」
「そういうことにしておきましょう」
「そういうことですわ!」
アルゼルは木箱を抱え直す。
「どちらへ?」
「教会の壁際です」
「承知しました」
「運び終えたら、あちらの粉袋も手伝ってくださいませ」
「まだあるのですか?」
「無理にとは申しませんわ。先ほどの女性の方々とのお話の方がお大事でしたら、そちらへ戻ってくださって結構です」
「やはり機嫌が悪いですね」
「忙しいだけです!」
「手伝いますよ」
アルゼルは少し笑った。
「あなたが望むなら、喜んで」
「妙な言い方をしないで!」
少し離れた場所で、トーマが聞こえないふりをしながら肩を震わせていた。




