29.あなたにしか、できないこと
水車は順調に回った。
ローデンが麦を少しずつ石臼へ入れる。
水の力で石が一定の速さで動き、挽かれた粉が木箱へ落ちていく。
マーサは腕を組み、厳しい顔で見守っていた。
「速いねえ」
「手回しよりは」
「粉も揃っている」
指先で粉を取り、細かさを確認する。
「これなら町まで運ばなくて済む」
「定期的に来てくださるなら、利用日を決めますわ」
イデアは帳面を開いた。
「小ラズマイトの水車は、畑へ多く水を流す時間には止めます。そのため、外部の方が利用できるのは週に二日ほどです」
「毎日回さないのかい?」
「畑の水が優先です」
「粉挽きの利益より?」
「作物が育たなければ、挽く麦もなくなりますもの」
マーサが少し驚いたようにイデアを見た。
「代官なら、使用料を取るために一日中回すだろうね」
「それで畑を枯らしたら、翌年には使用料そのものがなくなります」
「先の長い話だ」
「領地経営ですので」
「借金があるんだろう?」
イデアは目を瞬いた。
「ご存じなの?」
「隣村まで話は流れてるよ。家を取り戻した日に隕石で屋敷を失った女伯爵が、最後に残った土地へ来たって」
「なぜ、そこまで詳しいのです!?」
「珍しい話だからね」
マーサの後ろで、ハルム村の男たちが気まずそうに視線を逸らす。
どうやら、かなり面白おかしく広まっているらしい。
「隕石令嬢と呼ばれているそうですよ」
アルゼルが楽しそうに教えた。
「ご存じだったの!?」
「先ほど、ハルム村の方々が話していました」
「なぜ止めなかったのです!」
「事実ではあります」
「呼び名の問題ですわ!」
「不幸令嬢よりは具体的です」
「どちらも嫌です!」
マーサが声を上げて笑った。
「噂より元気そうで安心したよ」
「ご心配いただき、ありがとうございます!」
まったく嬉しくなかった。
◇
六袋目の麦を挽いていた時だった。
水車から、それまでとは違う音が聞こえた。
ぎり。
ぎりぎり。
「止めろ!」
ローデンが声を上げる。
だが、水門のそばにいた者が動くより早く、車輪が大きく跳ねた。
「何ですの!?」
「軸がずれている!」
小屋全体が大きく揺れる。
石臼の周囲から粉が噴き出した。
「きゃあっ!」
イデアの視界が真っ白になった。
次の瞬間、強く腕を引かれる。
アルゼルだった。
身体ごと抱き寄せられるようにして、小屋の外へ連れ出される。
イデアは抵抗しなかった。
むしろ、彼の腕が自分を支えていることに気づいた瞬間、驚くほど素直に身体から力が抜けた。
大丈夫だ。
アルゼルがいる。
そう思えば、何かが壊れる音の中でも不思議と安心できた。
胸の鼓動だけは、少しも落ち着かなかったけれど。
ローデンが水門を閉じる。流れが弱まり、車輪もゆっくりと停止した。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
イデアは髪も顔も服も、小麦粉まみれになっている。
「怪我は?」
アルゼルが尋ねた。
「ございませんわ」
「目へ入りましたか?」
「少し」
アルゼルはイデアの顔を両手で挟んだ。
近い。
白檀を思わせる、静かで澄んだ香りがふわりと鼻先へ届く。
「目を開けて」
「あなたは閉じているではありませんか」
「今はあなたの話です」
恥ずかしさを誤魔化すための軽口が、あっさりとかわされる。
アルゼルの瞳は閉じたままだ。
それでも、目元へ触れる指先には迷いがない。粉を払うというより、傷がないか確かめるように、慎重に瞼の周囲へ触れている。
「痛みは?」
「ございません」
「目に傷は?」
「ありませんわ」
「本当に?」
「ええ」
アルゼルが、わずかに息を吐いた。
「では、よかった」
その声を聞いて、イデアもようやく肩の力を抜いた。
自分の災難なのだから。
こういう時にアルゼルへ守ってもらうのは、頼りすぎとは違う。
そもそも彼は、そのために自分へ加護を与えたのだ。
――そう。
これは、アルゼルの領分である。
そう考えることにすれば、胸が落ち着かない理由について考えずに済む。
「アルゼル」
そこで、イデアは気づいた。
「何でしょう」
「あなたも真っ白ですわ」
「私は元から光に満ちていますので」
「そういう白さではありません」
イデアは彼の前髪へ手を伸ばし、指先で粉を払った。
アルゼルがぴたりと動きを止める。
「じっとして」
「……ええ」
珍しく、余計なことを言わなかった。
長い金髪についた粉を払い、頬についた白い跡を指先で落とす。
今度はイデアの方が、アルゼルへ触れている。
先ほどまで胸が騒がしかったはずなのに、アルゼルも粉まみれなのがおかしくなってくる。
「ここにもついておりますわ」
「どこです?」
「鼻先です」
「取っていただけますか?」
「いま取っておりますでしょう」
互いの顔についた粉を落としているうちに、周囲が妙に静かなことに気づいた。
イデアが振り返る。
小ラズマイトの村人も。
ハルム村の者たちも。
揃って二人を見ていた。
「何ですの?」
「いや」
マーサが口元を緩める。
「仲がよさそうだと思ってね」
「普通ですわ!」
「非常に良好です」
「アルゼル!」
「事実でしょう?」
粉にまみれたまま言い争う二人を見て、村人たちの間から笑い声が上がった。
◇
水車の異音の原因は、軸を留めていた木製の栓だった。
外から見える部分は丈夫だったが、内部を虫に食われていたらしい。
「このまま回し続けていたら?」
イデアが尋ねる。
「軸が外れていました」
ローデンは割れた栓を見せた。
「車輪が傾いて、最悪なら軸受けごと壊れたと思います」
「その場合、修理は?」
「数日は必要になったでしょう。新しい材料を買うなら、かなり金もかかる」
「では、今日壊れたのは」
「不幸中の幸いですね」
ローデンが答えた。
「麦を入れる量が増えて負荷がかかったことで、弱い部分だけ先に割れたんです。車輪そのものに被害はありません」
「見返りですね」
アルゼルが、どこか得意そうに言った。
「頭から粉を浴びたことへの?」
「小規模な災難としては、十分な見返りでしょう」
「わたくしの威厳が失われましたわ」
「粉まみれでも皆さんに指示を出していましたから、むしろ評価は上がったのでは?」
「そういう問題ではございません!」
壊れた栓は、倒木の中でも特に硬い部分から作り直された。
今度は内部まで削って確認する。
ほかの留め具も一度すべて外し、虫食いや亀裂がないか調べた。
作業には半日かかった。
だが、大きな故障を未然に防げたと思えば安い。
「使用料は、満額取るのかい?」
修理が終わったあと、マーサが尋ねた。
「作業を中断させてしまいましたので、半分にいたします」
イデアが答えると、マーサは首を横へ振った。
「粉は全部挽いてもらった。水車も壊れなかった」
「ですが」
「こっちだって、最初の客として試させてもらったんだ。決めた分は払う」
マーサは持ってきた麦から、使用料に当たる量を取り分けた。
計量には、小ラズマイトで新たに正しい容量だと確認した升を使う。
麦の小さな山が、木箱へ落ちた。
「これでいいかい?」
クラウスがいないため、計量と記録はダリオが担当していた。
彼は量を確かめ、帳簿へ記入する。
「確かに」
全部で、麦が升二杯と少し。
袋ひとつにも満たない。
巨額の借金と比べれば、あまりにも小さな利益だった。
それでも。
「半分を、水車の維持費と管理する方の分へ」
イデアは麦を分ける。
「残りは、共同倉庫へ入れます」
小ラズマイトが、外から初めて得た食料だった。
税として領民から集めたものではない。
飢えている者から取り上げたものでもない。
仕事を提供し、その対価として受け取った麦だった。
「次は十四日後に来るよ」
マーサが言った。
「村のほかの者も、使いたがるだろう」
「量が多い場合には、事前に知らせてくださいませ」
「ああ」
「それと、水車の利用日以外にも、何か売りたいものがあれば持ってきてください」
「何か買える金が、この村にあるのかい?」
「いまは、ほとんどございません」
「正直だね」
「ですが、交換はできます。木工品や修繕。それから、いずれは薬草や作物も」
「いずれ、か」
マーサは痩せた畑と、崩れた廃教会を見た。
「その頃にも伯爵様がいるなら、持ってくるよ」
「おりますわ」
イデアは即答した。
「五年後にも?」
「ええ」
「屋根が落ちても?」
「直します」
「水車が壊れても?」
「直します」
「また隕石が落ちても?」
「それは少し考えさせてくださいませ!」
マーサが豪快に笑った。
「次も来るよ、隕石伯爵」
「その呼び名はおやめなさい!」
◇
その夜。
イデアは廃教会の小部屋へ置いた仮机で、水車の収支を帳簿へ記していた。
外部利用料。
麦、升二杯と四分の一。
水車管理のための取り分。
維持用の備蓄。
共同倉庫への納入分。
交換した木栓は倒木から取ったため、金銭的な支出はない。
ただし、修理へ半日分の労働がかかった。
「最終的には黒字ですか?」
隣にいたアルゼルが尋ねる。
「ええ」
「大幅な?」
「いいえ」
イデアは帳簿の数字を見る。
ほんのわずかな麦。
これだけでは、村人七十人の一食にも満たない。
「ほんの少しですわ」
「不満ですか?」
「まさか」
イデアは羽根ペンを置いた。
「これは、小ラズマイトが自分たちの仕事で得た、最初の利益ですもの」
これまでにも利益はあった。
災難のあと、偶然役立つものが見つかった。
倒れた木は建材になった。
地下水路も見つかった。
だが、今日の麦は少し違う。
水路を直した。
水車を造った。
使い方を決めた。
規則を整えた。
外から客を呼んだ。
小ラズマイトの者たちが、自分たちの手で生み出した利益だ。
「硬貨ではありませんけれど」
「換算することもできます」
アルゼルが答える。
「いま売れば、麦一升につき――」
「売りません」
「即答ですね」
「食べる方が価値があります」
「では、帳簿上の黒字には?」
「麦のまま記しますわ」
イデアは収入欄へ丁寧に線を引く。
その下へ、最初の利益を書き入れた。
水車使用料。
麦、升二杯と四分の一。
「小さいですね」
「最初は、これでよいのです」
井戸へ戻った最初の水も、細い流れだった。
黒穂麦も、最初に出た芽は一本だけだった。
信頼も、利益も、一日で大きくはならない。
「この麦を、何倍にもいたしますわ」
「随分と自信がありますね」
「五年で借金を返すのですもの。これくらい増やせなければ困ります」
「私の加護があれば」
「それだけでは駄目ですわ」
イデアは、水車のある方角へ顔を向けた。
夜の静けさの中、水車は止まっている。いま流れる水は畑へ回していた。
「アルゼルがいなくても使える水車だからこそ、利益が続くのでしょう?」
アルゼルは答えなかった。
イデアは横を見る。
以前なら、そこまで気にしなかった沈黙だった。
けれど今は分かる。
彼は、自分がいない未来を当然のように語られることを、あまり好んでいない。
初めてその話をした時もそうだった。
そしてイデア自身も、アルゼルが本当にいなくなる未来を考えると、少し胸が痛むようになっている。
だからこそ、今度は言葉を選んだ。
「ですが」
「何です?」
「あなたがいない方がよい、という意味ではございませんわ」
アルゼルの閉じた瞳が、ほんのわずかに動いた。
「では?」
「水車は、村の皆様だけで直せなければ困ります。帳簿も、いつかわたくし以外の者が読めなければ困ります。それと同じです」
「ええ」
「けれど、だからといって、何もかも一人でしなければならないわけではないのでしょう」
自分で口にしてから、イデアは少し驚いた。
数日前までの自分なら、こんなふうには言わなかったかもしれない。
「あなたにしかできないことも、たくさんございます」
「たとえば、あなたを災難から救うこと?」
「それは、かなり重要ですわ」
イデアは即答した。
「今日も助けていただきましたし」
「素直ですね」
「わたくしの災難は、あなたの領分だと考えることにいたしましたの」
「私の領分?」
「ええ。わたくしが毎回、一人で避けようとして被害を大きくしたのでは、あなたも困るでしょう?」
「非常に困ります」
「でしたら、そこはお任せいたします」
アルゼルが少しだけ笑う。
「喜んで」
その言葉に、昼間に小麦粉の中から抱き寄せられた時の感覚を思い出した。
安心した。
確かに、安心したのだ。
同時に、白檀の香りと腕の強さと、近すぎる顔を意識してしまった。
イデアは慌てて次の話へ進む。
「それから、この土地に残る神性を見守ること」
「ほかには?」
「夜番」
「ほかには?」
「明かり」
「便利な道具ばかりですね」
声に不満が混じった。
イデアは少し考える。
もっとあるはずだ。
仕事として役立つことではなく。
アルゼルでなければ駄目なこと。
それを考えた時、最初に浮かんだものを、そのまま口へ出してしまった。
「……一人ではないと、思わせてくださること」
言ってから、自分でも驚いた。
アルゼルも、珍しく何も言わない。
廃教会の中を、夜風が通った。
修繕した屋根の隙間を覆う布が、静かに揺れる。
「それは」
やがて、アルゼルが口を開いた。
「私にしかできませんか?」
イデアはすぐには答えられなかった。
村には人がいる。
オルドがいる。
ローデンやセラ、ダリオ、ミラ。
クラウスも、もうここにはいないが、力を貸してくれた。
これからもっと多くの人と関わっていくだろう。
だから、本当なら。
「一人ではない」と思わせてくれる相手が、アルゼルだけである必要はない。
それでも。
「少なくとも、いまは」
そう答える。
「そうですか」
アルゼルが微笑んだ。
いつもの、自分が美しいことを疑いもしない自信に満ちた笑みではない。
少しだけ安心したような、柔らかな表情だった。
「では、その仕事は誰にも譲りません」
「仕事として受け取りますの?」
「あなたは役割分担がお好きでしょう?」
「そういう意味ではございませんわ」
「報酬は、あなたからの評価で」
「高くつきそうですわね」
「私ですから」
「結局、それなのね」
イデアは自然に笑えた。
帳簿を閉じる。
借金返済まで、残り五年。
食料が尽きるまで、まだ四十日あまり。
返済額は、いまだゼロ。
それでも、その日の小ラズマイトの帳簿には初めて、外から自分たちの仕事で得た利益が記された。
麦、升二杯と四分の一。
あまりにも小さい。だが、確かな最初の黒字だった。
そしてイデアは、その日もうひとつだけ知った。
一人でできることを自分でやることと。
誰の手も借りずに生きることは。
どうやら、同じではないらしい。




