28.水車の使用料は麦でいただきます
水車が回り始めて、三度目の朝。
小ラズマイトでは、日の出前から粉挽き小屋の前に人が集まっていた。
水路のそばに建てられた小さな小屋から、一定の音が響いている。
流れ込む水を受けて車輪が回り、木製の軸を通して石臼へ力を伝えている。
昨日は山羊に畑を荒らされ、旧牧草地を見つけ、十一頭を連れ帰る騒ぎでゆっくり眺める暇もなかった。だが、水車は夜の間に壊れることもなく、今朝もきちんと回っていた。
その前には、それぞれ麦を入れた袋を抱えた村人が並んでいる。
共同倉庫に残る穀物。
各家が大切に取っておいた麦。
本当に水車で挽けるのか確かめるため、ほんの少しだけ持ってきた者までいる。
「次は誰です?」
水車小屋の入口で、ローデンが声を上げた。
「うちだ!」
「いや、先に並んだのはこっちだぞ」
「病気の婆さんがいるんだ。柔らかいパンを食わせたい」
「こっちには乳飲み子がいる!」
列のあちこちから声が上がる。
完成した時には皆で喜んでいた水車も、実際に自分の麦を挽くとなれば話は別らしい。
帳面を抱えたイデアは、水車小屋へ向かおうとして足を止めた。
水路を跨ぐために渡された細い板が、朝露で濡れている。
渡れないほどではない。
いつものイデアなら、そのまま一人で渡っただろう。
けれど昨日、崩れた石垣を一人で越えたあと、なぜかアルゼルの方を振り返ってしまった自分を思い出す。
自分でできることは、自分でする。
その考えを変えるつもりはない。
だが、滑って水路へ落ち、仕事を増やすことまで自立とは呼ばないだろう。
イデアは隣を歩いていたアルゼルを見る。
「アルゼル」
「何でしょう」
「……手を貸してくださる?」
アルゼルが一瞬だけ動きを止めた。
閉じた瞳のまま顔をイデアへ向ける。
「よろしいのですか?」
「この板、濡れておりますもの。転んで余計な仕事を増やす方が非効率ですわ」
それだけ言ってから、少し考えて付け加えた。
「それに、転びそうになるような災難への対処は、もともとあなたの領分でしょう?」
「なるほど」
アルゼルの口元が、明らかに緩んだ。
「何ですの、その顔は」
「非常に合理的な役割分担だと思いまして」
「でしたら笑わないでくださる?」
「笑っていませんよ」
「口元が!」
差し出された手を取る。
大きな手は、当然のようにイデアの指を包んだ。
一歩。
二歩。
板を渡り終える。
たったそれだけだった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
アルゼルはすぐに手を離した。
以前のように、必要以上に支え続けることはない。
それでよい。
そう思う。
――なのに、握られていた指先だけが妙に温かい。
「イデア?」
「何でもございませんわ。とにかく、水車です!」
自分でもよく分からない勢いで言い、イデアはローデンの方へ歩いていった。
「一度にどのくらい挽けますの?」
「休ませながらなら、一日に十袋ほどです」
ローデンが答える。
「全員分を終えるには?」
「今持ち込まれている量だけなら、三日もあれば」
「では、病人や幼い子供のいる家を先にいたしましょう」
イデアが言うと、列の後ろから不満の声が飛んだ。
「先に来た者からじゃないのか?」
「こっちだって朝から待ってるぞ」
「順番を崩したら、また揉める!」
言い分は分かる。
先着順なら、誰にでも同じ規則だ。
けれど、夜明け前からここへ並べる者ばかりではない。
病人を看ている者もいる。
幼い子を抱えている家もある。
「最初に、共同倉庫の麦を挽きます」
イデアは少し考え、列へ向き直った。
「その次に、病人、乳幼児、老人のいる家。それから並んだ順といたします」
「領主様」
中年の男が声を上げた。
「働ける者は後回しということか」
「働ける方なら、今日一日パンがなくとも、麦を粒のまま煮て食べることができます」
「病人だって同じだろう」
「食べられない方もおります」
「それでも、先に並んだのは――」
「でしたら、あなたのお母様が病気になった時にも、列の最後で待っていただきますわ」
男が口を閉じた。
「順番を無視するつもりはございません。ですが、同じ一日が、すべての方に同じ重さとは限りませんもの」
イデアは並んでいる人々を見渡した。
「今日を待てる方には、待っていただきます」
不満が完全に消えたわけではない。
それでも基準がはっきりすれば、人々は少しずつ列を作り直した。
オルドが病人や幼児のいる家を確認し、ダリオが順番を帳面へ書き込んでいく。短くなった方の前腕で板を支え、利き手で羽根ペンを走らせる動きには、もう迷いがなかった。
「領主様」
ダリオが顔を上げる。
「水車を使うたび、これを記録するのですか?」
「ええ。誰が、どれだけの麦を持ち込み、どれほどの粉になったか」
「かなり手間ですよ」
「どこかで麦が消えた時には、手間どころではない騒ぎになりますわ」
かつて小ラズマイトから徴収された麦は、帳簿の上で消えていた。
同じことを繰り返すつもりはない。
「粉挽きの料金は?」
オルドが尋ねた。
村人たちの視線が、一斉にイデアへ集まる。
領主が造らせた水車なのだから、使用料を取られると思っているのだろう。
「小ラズマイトの住民からは、今年は取りません」
ざわめきが広がった。
「無料で?」
「ええ。ただし、水路と水車の維持作業には参加していただきます」
「どれくらいだ?」
「各世帯から、月に半日ほどを考えております。病人や、働ける方のいない家は免除しますわ」
ローデンが頷いた。
「それだけ人手があれば、泥さらいと羽板の点検くらいはできます」
「壊れた部品の材料費は?」
水車小屋の脇で規則を書き留めていたクラウスが尋ねた。
「領地の資金から出しますか?」
「すべてを出し続けるのは難しいですわね」
イデアは回る車輪を見上げた。
水車を使えば、粉挽きにかかる時間は大きく減る。
けれど、使えば傷む。
修理費を考えず、無料だからと回し続ければ、いつか壊れたまま放置される。
「村の者から今年は使用料を取りませんが、将来的には村の外から穀物を持ち込む方も受け入れたいと思っております」
イデアは、回る水車を見上げた。
「その場合は、持ち込んだ穀物の二十分の一を使用料としていただきます」
「村の外から?」
オルドが眉を寄せる。
「こんな場所まで、わざわざ麦を持ってくる者がいるのか」
「……そこですわね」
イデアはクラウスへ顔を向けた。
「近隣の村には、水車が足りておりますの?」
「いいえ」
クラウスは土地台帳を開いた。
「東へ半日ほどの王領に、ハルム村があります。水車は一基ありますが、昨年の増水で水路が壊れ、現在は使用不能と記録されています」
「直していないの?」
「修繕申請は出ています」
「いつ?」
「十か月前です」
イデアは黙った。
「王領では、複数の村から届く修繕申請を順番に処理しますので」
「十か月も、手回しで麦を挽いておりますの?」
「あるいは、一日かけて別の町へ運んでいます」
小ラズマイトなら半日。
多少待たされたとしても、町まで往復するより早い。
「知らせてみましょう」
「伯爵閣下」
クラウスが顔を上げた。
「王領の住民から利益を得るおつもりですか」
「王領の方へ粉挽きの場所を提供し、その対価をいただくだけですわ」
「制度上は問題ありません。ただ、周辺を管理する者が快く思わない可能性はあります」
「十か月も水車を直さなかった方の機嫌まで、わたくしが直す必要はございません」
クラウスの羽根ペンが止まった。
「記録しても?」
「どうぞ」
無表情のまま書き込むクラウスの横で、オルドがかすかに口元を緩めた。
「使用料の麦は、どうする」
「半分を水車の修繕用と、管理する方への報酬へ。もう半分を共同備蓄へ入れます」
「領主の取り分は?」
ローデンが尋ねる。
「共同備蓄へ入る分が、領地の取り分です」
「伯爵様ご自身の借金には?」
「いまは、村が飢えない方が先です」
「それでは、水車から金は入りません」
「食料を外から得られれば、その分だけ、食料を買う金が減ります」
イデアは帳面へ数字を書き込んだ。
「支出が減るのも、利益ですわ」
「なるほど」
ローデンが感心したように頷く。
アルゼルが隣から帳面を覗き込んだ。
「金へ換算しなければ、借金の返済額そのものは増えませんが」
「まず生き延びなければ、返済もございません」
「では当面は、麦で黒字を?」
「麦は食べられますもの。お金より便利な場合もございますわ」
「金は硬くて消化に悪いですからね」
「食べ物として比較しないでくださる?」
◇
クラウスは、その日の午後に小ラズマイトを発つことになった。
管理権の移管が完了したことを、王領監理局へ報告しなければならない。
不正な徴税に使われていた升。
横領の記録。
新しく作った住民帳の写し。
徴税停止と、物資の不当な徴発を禁じた命令書。
持ち帰る書類は、ここへ来た時より大幅に増えていた。
「ハルム村にも立ち寄っていただけますの?」
イデアは、粉挽きの案内を書いた紙をクラウスへ渡した。
「公務の経路から大きく外れませんので、届けることは可能です」
「助かります」
紙には水車の場所、外部から利用できる日、二十分の一という使用料が書かれている。
最後にラズマイト伯爵家の印を押した。
古い印章だ。
緑色の蝋も、王都から持ってきた残りを惜しみながら使っている。
「文章が地味ではありませんか?」
アルゼルが案内を覗き込んだ。
「粉挽きの案内ですもの」
「私の姿絵を添えれば、より人の目を引きます」
「なぜ水車の案内へ、あなたの顔を?」
「この美しい研究者が待っています、と」
「待っておりませんでしょう?」
「利用者が来る日には、待つこともできます」
「女性ばかり集まりそうですわね」
口にしてから、イデアは妙に面白くない気持ちになった。
なぜだろう。
水車を使いに来た者が粉ではなくアルゼルばかり見ていれば、作業の邪魔になる。
そう。
単に、それだけだ。
「心配ですか?」
アルゼルが楽しそうに尋ねた。
「何が?」
「私が、ほかの女性に囲まれることが」
「水車の作業が止まるのが心配です」
「それだけ?」
「それ以外に何がございますの?」
「いいえ」
アルゼルは、なぜか満足そうに微笑んだ。
「あなたがそうおっしゃるなら、それで」
「何ですの、その言い方は」
「別に」
イデアの口調を真似た。
腹が立つ。
「伯爵閣下」
馬へ荷を載せていたクラウスが、二人へ声をかける。
「そろそろ出発いたします」
「道中、気をつけて」
「今度は書類を奪われないようにします」
「盗賊へ襲われたら、書類より命を守ってくださいませ」
「職務上は、そう簡単に申せません」
「命令ですわ」
「私は王領監理局の書記官であり、伯爵閣下の家臣ではありません」
「では、お願いです」
クラウスが一瞬、言葉に詰まった。
「……善処いたします」
「その返事は信用できないと、最近学びましたわ」
「どなたから?」
クラウスの視線がアルゼルへ向く。
「主にイデアからです」
「わたくしの言葉ですわね」
「では、書類も命も守ります」
「最初から、そうおっしゃい」
クラウスは馬へ乗った。
しばらく進んでから、何かを思い出したように手綱を引く。
「伯爵閣下」
「何でしょう?」
「次回の監査は、おそらく三月後です」
「監査?」
「五年間の返済契約がございますので、領地の収支と管理状況を確認します」
「三月後に、どれほど返済できていればよろしいの?」
「月ごとに決められた額はありません。ただし、初年度の目標額は、全債務の五パーセントです」
五パーセント。
数字だけなら、小さく見える。
だが現在、借金は銅貨一枚すら減っていない。
「それから」
クラウスは続ける。
「仮に猶予を求める場合でも、領地そのものが改善していると証明できれば、監理局は考慮します」
「改善」
「人口、水源、食料、産業、道路、収支。すべて記録しておいてください」
「分かりましたわ」
「記録上は、すでに井戸と水路、水車が復旧しています」
クラウスは廃教会の屋根へ目を向けた。
「領主の住居は、まだ大幅な修繕が必要ですが」
「三月後までには、穴を減らしておきます」
「すべて塞ぐとはおっしゃらないのですね」
「現実的な目標ですわ」
クラウスの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「次回、どのような帳簿になっているか、楽しみにしております」
そう言い残して、彼は小ラズマイトを去っていった。
◇
クラウスが案内を届けてから五日後。
水車の使用を希望する最初の客が、小ラズマイトへやって来た。
朝、村の入口に一台の荷車が現れる。
荷台には、麦の袋が八つ。
乗っていたのは、ハルム村の男女五人だった。
先頭に立つのは、灰色の髪を頭の後ろで束ねた五十代ほどの女性。
肩幅が広く、腕も太い。
いかにも長年、重い石臼を回してきた者の腕だった。
「ここに水車があるって話だが」
女性は出迎えたイデアを上から下まで眺めた。
その日のイデアは、作業用の古い服を着ていた。
袖を肘までまくり、腰には帳面と小さな布袋を下げている。髪も王都で暮らしていた頃のようには結わず、後ろでひとつに束ねていた。
「ええ。こちらです」
「粉挽きの娘かい?」
「違いますわ」
「じゃあ、水車大工の嫁?」
「違います!」
女性は後ろにいるローデンを見る。
「この娘が受付か?」
「領主様です」
ローデンが答えた。
女性が黙った。
ハルム村の者たちも黙った。
イデアは胸を張る。
「イデア・ラズマイトです」
「……伯爵様?」
「ええ」
「その格好で?」
「領主が水車の帳簿をつけてはいけませんの?」
「いや……」
女性は困ったように頭を掻いた。
「王領の代官様は、水車どころか村の道にも近づかないからね」
「こちらの領主は、畑も水路も自分で見に行きます」
アルゼルが言った。
「余計な説明は必要ありませんわ!」
ハルム村の者たちの視線がアルゼルへ移る。
長い金髪。
白を基調とした衣服。
瞳を閉じたまま、当然のように微笑んでいる美しい男。
そして、大きな外套の背中だけが妙に膨らんでいる。
女性はそこへ一度視線を止め、それからイデアを見た時以上に露骨に眉を寄せた。
「そっちは?」
「遠縁の研究者です」
「……背中のそれも、研究道具かい?」
イデアの肩がわずかに強張った。
「似たようなものです」
アルゼルは平然と答えた。
「似たようなもの?」
「非常に繊細ですので、触れないでいただければ」
女性はもう一度、外套の膨らみを見る。
何か言いかけたものの、アルゼルの穏やかな微笑みと、隣で黙っているイデアを見比べた。
「……まあ、いい。聞いたら長そうだ」
「賢明なご判断ですわ」
イデアは即答した。
「あんたは目が悪いのかい?」
「悪くありません」
続く問いかけにアルゼルが答える。
「じゃあ、なぜ閉じている」
「私の瞳を見た方は、私へ強い関心を抱きかねませんので」
「……頭が悪いのかい?」
水車小屋の周囲にいた村人たちが、一斉に吹き出した。
アルゼルの微笑みが固まる。
「この私へ向かって、随分な評価ですね」
「研究者とは、そういうものなんですか?」
ローデンが真顔で尋ねた。
「……個人差があります」
「今日は調子が悪いようですわね」
イデアは笑いを堪えながら言った。
「人間の見る目が悪いのです」
「一人や二人ではございませんけれど」
「由々しき問題ですね」
◇
ハルム村から来た女性は、マーサと名乗った。
村で共同の粉挽きを取りまとめているらしい。
「二十分の一が使用料と聞いた」
「ええ」
「ほかに橋代、道代、滞在費は?」
「ございません」
「水車大工への酒代は?」
「必要ありません」
ローデンが横から答える。
「本当かい?」
「ええ」
「あとから、領主への礼だと言って鶏を要求したりは?」
「いたしませんわ」
「代官の誕生日だからと、羊毛を出せとも?」
「申しません」
「代官夫人の犬が子を産んだ祝いは?」
「なぜ村人が祝うの!?」
「去年、取られた」
王領の代官も、以前のラズマイト領へ来ていた徴収人と大差ないらしい。
「使用料以外はいただきません」
イデアは改めて言った。
「水車が壊れた場合も、利用者の故意や重大な不注意がない限り、弁償を求めることはございません」
「書面にできるかい?」
「すでに用意しております」
クラウスが整えてくれた利用規則を差し出す。
マーサは紙を受け取った。
そして、しばらく眺めてから返してきた。
「読めない」
「でしたら、読み上げますわ」
「都合の悪いところを飛ばすんじゃないだろうね」
「ローデンとオルドにも聞いていただきます」
「そこの研究者は?」
「自分の名前へ装飾を加えるので、公文書の確認役には向きません」
「私の文字は芸術的なのです」
「じゃあ、駄目だね」
マーサは即答した。
アルゼルが不満そうに顔を背ける。
イデアは利用規則を一行ずつ読み上げた。
使用料。
利用の順番。
麦の計量方法。
事故が起きた場合。
利用者と水車管理者、それぞれが負う責任。
最後まで聞いたマーサが、ようやく頷く。
「それなら頼むよ」
最初の袋が水車小屋へ運び込まれた。




